第一章 第五十六話 傷口の向こう
布を巻かれた右上腕を掴まれた瞬間、レンの身体から力が抜けた。
肩に近い傷へ指が食い込み、焼けるような痛みが右腕の奥から胸まで突き抜ける。咄嗟についた左手が石壁を滑り、疲れ切っていた右脚も体重を支えきれず、膝が石床へ沈んだ。
「お兄ちゃん!」
後ろでアイリが振り向き、黒銀の切っ先がヴァレクから外れた。
レンは息を吸おうとしたが、痛みに喉が詰まった。それでも前へ向きかけた妹と、その向こうから距離を詰めるヴァレクの姿は見えた。
「アイリ……前!」
「でも!」
「前、見ろ!」
レンの声に押されるように、アイリが向き直る。
ヴァレクは既に数歩先まで来ていた。
アイリは慌てて黒銀の剣を戻した。擦れた両手首と疲れた右肩では切っ先をすぐに安定させられず、大きく揺れながらも、どうにか長い刃を二人の間へ差し戻す。
ヴァレクは正面から踏み込まず、幅広の剣を黒銀の刃へ触れさせた。
「後ろを気にしてる場合か」
低い声とともに押された剣が横へ流れる。
アイリは力で止めず、身体ごと半歩ずれてから柄を引き戻した。乱れた切っ先が再びヴァレクの胸元へ向く。
「……そこから来ないで」
「それを決めるのはお前じゃない」
ヴァレクの背後では、二人の男もゆっくり距離を詰めていた。
アイリはもうレンの方を見なかった。背後から聞こえる荒い呼吸と衣擦れだけを耳に残し、目の前のヴァレクへ黒銀の剣を向け続ける。
「ここか」
レンを掴んでいる男が呟いた。
右上腕へ食い込む指がさらに強くなる。
「――っ!」
痛みで視界が白く霞んだ。
レンの反応を見て、男は掴んだ場所が弱点だと悟ったらしい。短剣を持つ右手は使わず、左手だけで傷の上を押さえ込み、起き上がろうとする身体を壁際へ戻そうとした。
「大人しくしろ。動くほど痛いぞ」
レンは歯を食いしばった。
胸元へ寄せた右手の指が反射的に服を掴む。指先には力が入るのに、肩を引いて男の手を振りほどこうとした途端、上腕の深いところから鋭い痛みが返り、それ以上の力を通せなかった。
左手まで相手へ向ければ、今度は壁に支えている身体が落ちる。
「レン!」
エリリアの声が近づいた。
前方では短槍を持った男が、彼女を通さないよう穂先を左右へ振っている。
「動かないでください!」
エリリアが半歩踏み込む。
短槍が胸元へ伸びた。
細剣を穂先の側面へ触れさせて石壁側へ僅かに逸らし、槍使いが引き戻そうとした瞬間に身体の向きだけを変える。返した細剣の切っ先が、そのままレンを掴む男の左手へ走った。
「っ!」
刃先が手の甲を浅く掠め、男が反射的に腕を引く。
圧力が消えた瞬間、レンは右腕を胸元へ抱え込むように寄せ、左手を石壁へ強くついた。
「立てますか!」
「……立つ」
呼吸を整える暇はなかった。
エリリアがレンを助けるために身体を返した分、前方の短槍が一歩近づいている。
男がもう一度槍を突き出すと、エリリアは細剣で穂先を流しながら半歩下がった。
「今です。前へ!」
レンは左手で壁を押した。
右脚へ体重を移した途端、深い重さが足の奥へ返ったが、歯を食いしばって膝を伸ばす。上体が起きると、右上腕に巻かれた布が傷へ擦れ、脈打つような痛みとともに一部がずれた。
右腕を身体へ寄せたまま、左手を壁から離して一歩進む。
「アイリ!」
「聞こえてる!」
後ろでは、ヴァレクの剣が再び黒銀の刃へ触れていた。
アイリは押された分だけ剣を流し、両手で柄を戻す。ヴァレクへ打ち込む余裕などなく、距離を詰めさせないことだけで精一杯だったが、切っ先はまだ彼の前に残っている。
「下がります!」
エリリアの声が通路へ響いた。
「レン、私の後ろへ。アイリさん、そのまま少しずつ!」
「はい!」
三人が同時に動いた。
エリリアは短槍の穂先を壁側へ追いやり、前へ入り直そうとした男の手元へ細剣を走らせる。槍使いが武器を引いたことで、その脇にいた男も身動きが取りにくくなり、人一人が抜けられるだけの隙間が生まれた。
エリリアが先にそこへ入る。
レンも続いた。
右脚を無理に蹴り出さず、歩幅だけを少し広げる。傷ついた右腕が身体から離れないよう肩を固め、必要なところでは左手を壁へ添えながら曲がり角を抜けた。
最後尾のアイリは後ろ向きに下がってくる。
ヴァレクが一歩進めば、黒銀の剣先を胸元へ戻す。幅広の剣で押されれば、力を受け止めずに刃を流し、その分だけ自分も下がった。
勝とうとしているのではない。ただ、追いつかれる距離まで詰めさせないために必死で剣を置き続けている。
「アイリさん、今!」
エリリアが呼んだ。
アイリは黒銀の切っ先を大きく下げず、身体だけを横へ滑らせて次の角へ入る。
三人が前方の通路へ抜けたところで、ヴァレクたちとの間に石壁が挟まった。
「急いで」
エリリアが先頭へ戻る。
レンも足を止めなかった。
掴まれていた時間は短かったはずなのに、右上腕の周囲には熱が籠もり、肩が歩調に合わせて僅かに揺れるだけでも傷の奥が疼く。ずれた布の下から滲んだ湿り気が、右肘へ向かってゆっくり伸びていた。
◇
通路は次第に下り坂になった。
これまで通ってきた場所より壁の補修が少なく、松明の間隔も広い。足元には古い石板が続き、その隙間へ湿った土や砂が薄く溜まっていた。
「前に人は?」
レンが聞く。
「今のところ見えません」
エリリアは足を止めず答えた。
後方からはヴァレクたちの声が反響してくる。
「そっちだ!」
「先に回れ!」
占拠している者たちの方が内部の道を知っている。曲がり角へ入るたび、エリリアは正面だけでなく左右の暗がりへも目を走らせた。
「もう少し広い場所へ出たいです」
「広い方が囲まれない?」
「この幅では、アイリさんの剣がほとんど使えません。それに、あなたが避ける場所もありません」
「……確かに」
「お兄ちゃん、腕」
後ろからアイリが言った。
「何?」
「血、出てる」
レンは歩きながら右腕へ視線を落とした。
湖から上がった後に巻き直した布は、先ほど強く掴まれた場所から僅かにずれている。そこから細い赤が滲み出し、布を伝って右肘の方へゆっくり伸びていた。
「止まって巻き直す?」
「今は無理」
「でも」
「まだ動ける」
アイリの表情が険しくなる。
「そう言って倒れるの禁止だからね」
「さっきは倒れてない」
「膝ついてた」
「あれは……」
「膝ついてた」
「はい」
エリリアが小さく息を吐いた。
「その話は後でしてください。広い場所が見えます」
三人の前で、通路の暗がりが途切れた。
◇
その先には、横長の石室が広がっていた。
天井はこれまでより高く、何本かの太い柱が等間隔に並んでいる。長い年月を経た柱は角が丸くなり、床には大きな石板がほとんど隙間なく敷き詰められていた。
現在ここを使っている者たちの痕跡は少なく、壁際に空の木箱が三つと、燃え尽きた松明が何本か置かれているだけだった。
部屋の中央付近では、床を構成する石板の形が少し変わっている。大きな一枚石が何枚か組み合わされ、その表面には浅い継ぎ目のような線が何本も走っていた。直線だけでなく緩く曲がる部分もあるものの、摩耗と汚れでところどころ途切れ、何のためのものかまでは分からない。
レンは床へ意味を探すより先に出口を探した。
「向こう」
正面の奥に別の通路がある。
「行ける?」
「確認します」
エリリアが先へ出たが、数歩で速度を落とした。
通路の向こうから足音が聞こえる。
「来ます」
直後、二人の男が姿を現した。
「いた!」
「こっちへ来たぞ!」
声が石室へ響く。
レンが振り返ると、入ってきた通路の奥からも足音が近づいていた。
アイリが黒銀の剣を後方へ向ける。
「挟まれた」
「まだです」
エリリアは正面の二人へ細剣を向けた。
「どちらかを抜けばいい」
「簡単に言うね」
「簡単とは言っていません」
正面の男たちは剣と短槍を構え、互いの間隔を保ちながら距離を詰めてくる。
背後の通路からは、先ほどの男たちに続いてヴァレクが姿を現した。
「そこまでだ」
幅広の剣を下げたまま石室へ入ってくる。
アイリは黒銀の剣を両手で構え、エリリアも正面から視線を外さない。
二人の間にいるレンだけが、武器を持っていなかった。
ヴァレクはその状態を一目見て言った。
「男から押さえろ。剣を持ってる二人に付き合う必要はない。あいつを押さえれば、残りも動きづらくなる」
レンの顔が強張る。
「お兄ちゃんに近づかないで」
アイリが言った。
「それを止めたいなら、剣を捨てろ」
「嫌」
「なら守ってみろ」
ヴァレクの合図で、後ろの男たちが左右へ分かれた。
アイリもすぐに動き、黒銀の剣を振らずに右側から来る男へ切っ先を向ける。
左から回ろうとした男は、そのままレンを狙っていた。
「左!」
レンが声を上げる。
アイリが反応しかけたところへ、エリリアの声が飛んだ。
「そっちは見なくていい!」
細剣が石室の中央へ走る。
正面の二人を完全に捨てるわけにはいかないため、エリリアは一歩だけ横へ位置を変え、前方の敵を切っ先の間合いへ残したまま、レンへ回ろうとした男の進路にも身体を置いた。
短槍がエリリアへ伸びる。
細剣が穂先を外へ流した。
その隙へ左側の男が入ろうとすると、エリリアは肩を振り回さず足だけを引き、切っ先の線を変えて踏み込みを止める。
「レン、柱の方へ!」
レンは近くの柱へ向かった。
右脚へ長い距離を踏ませず、傷ついた右腕も胸元へ寄せたまま、左手を柱へ添えて身体の位置を変える。
その動きで布が傷へ擦れ、右肘の内側へ温かいものが伝った。
「無理しないで!」
アイリの声が飛ぶ。
「今それ言われても!」
「じゃあ捕まらないで!」
「努力してる!」
アイリが返す前に、ヴァレクの剣が黒銀の刃へ触れた。
強く打ち込まず、切っ先を外へ押し退ける。
アイリは両手を固めず、押された方向へ剣を逃がした。それでも腕の疲労が増しているのか、戻る切っ先は先ほどより遅い。
ヴァレクがそこへ一歩入る。
アイリは距離を取るため、石室の中央へ下がった。
「無理に戻すな!」
レンが言う。
「距離だけ取れ!」
「分かってる!」
アイリは黒銀の剣を身体の前へ引き、ヴァレクから離れながら切っ先を戻した。
その進路にレンがいる。
「こっち来ないで!」
「俺の方に下がってるのそっちだよ!」
「今それ言わないで!」
ヴァレクの後ろから一人が回り込んだ。
レンは柱の反対側へ身体をずらし、伸びてくる手より先に位置を変える。
だが踏み替えるたび、右脚の奥へ鈍い痛みが残った。さらに右上腕を揺らさないよう動きを小さくすると、その分だけ相手との距離を稼げなくなる。
男もそれに気づき、じわじわと間を詰めた。
「もう逃げられねえぞ」
レンは答えなかった。
視界の端では、アイリが黒銀の剣を両手で握り、ヴァレクに押されながらも何度も切っ先を戻している。反対側ではエリリアが正面の二人を抑えながら、こちらへ回る者まで止めようとしていた。
ここで自分が押さえられれば、二人の動きまで縛られる。
右腕の痛みで息が浅くなっても、それだけは見失わなかった。
レンは柱から左手を離し、もう一歩だけ横へ動く。
男の手が服を掠めた。
「ちっ!」
わずかに逃れた直後、右肘まで伝っていた血が一滴、石床へ落ちた。
灰色の石板に、小さな赤い跡が残る。
レンはそれを見る余裕もなく、次に伸びてくる手へ意識を戻した。
◇
石室の中で、三人が使える場所は少しずつ狭くなっていった。
エリリアが正面の二人を何度退かせても、通路を完全に開けるところまでは届かない。アイリもヴァレクとの距離を保とうとするたび石室の中央へ押し戻され、レンはその間を縫って掴みに来る男から逃れ続けていた。
ヴァレクたちは無理に刃を通そうとはせず、逃げる場所を削りながら三人の疲れを待っている。
「もう終わりにしろ」
ヴァレクが言った。
アイリの黒銀の剣を外へ押しながら、さらに一歩進む。
「このまま続けても、お前らが先に動けなくなる」
エリリアの呼吸は深くなり、アイリの両腕もはっきり震えていた。レンの右脚も、もう何度も素早く踏み替えられる状態ではない。
誰にも、ヴァレクの言葉をただの脅しだと笑える余裕はなかった。
「だから何」
アイリが息を切らしながら答える。
「捕まるくらいなら、まだやる」
「勇ましいな」
「褒めてないで下がって」
「それは無理だ」
幅広の剣が黒銀の刃をもう一度押した。
アイリの足が滑り、半歩後ろへ動く。
レンは妹の肩へぶつからないよう身体を横へ逃がした。
その動きで右脚へ体重が集まり、膝が大きく揺れる。
「レン!」
エリリアの顔が僅かにこちらへ向きかけた。
「前!」
レンが叫ぶ。
正面から短槍が伸びている。
エリリアはすぐ視線を戻し、細剣で穂先を外へ流した。
その間にレンの身体がさらに傾く。
倒れないよう左手を近くの低い石柱へつき、右腕を胸元へ抱えたまま姿勢を立て直した。
上体を起こした時、布から滲んだ血が右肘を伝い、二滴続けて灰色の石床へ落ちた。
そのすぐ近くを、古い石板に残る浅い継ぎ目が走っている。
ヴァレクがアイリを押し込みながら、レンへ視線を向けた。
「立ってるのも限界だろ」
レンは左手を柱から離した。
「まだ立ってる」
「なら次で押さえる」
ヴァレクが顎を上げる。
左右の男たちが、今度は同時にレンへ向かって動き出した。
エリリアは正面を塞がれ、アイリの前にはヴァレクがいる。
レンは傷ついた右腕を身体へ寄せたまま、迫ってくる二人を見た。
もう逃げられる場所はほとんど残っていない。
右肘の先から離れた新たな一滴が石床へ落ち、古い石板を走る浅い継ぎ目の縁で小さく弾けた。
ヴァレクが幅広の剣を持ち上げる。
「終わりだ」
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