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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
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第一章 第五十五話 一歩も退かない

アイリは黒銀の剣を両手で握ったまま、近づいてくるヴァレクを見返した。


 背中のすぐ後ろには、柱と荷物の間を抜ける細い横道がある。あと一歩下がれば、その入口へ身体を入れられる距離だった。


「アイリ、下がれ」


 隣からレンの声がした。


「先に入れ」


 アイリは動かなかった。


「アイリ」


「お兄ちゃんが先」


「俺はいいから」


「よくない」


 短く返しても、視線はヴァレクから外さない。


 黒銀の剣は重かった。擦れた両手首で柄を握り続けているせいで指先までじんじんと痛み、右肩の奥にも鈍い重さが溜まっている。切っ先は完全には静まらず、速い呼吸に合わせて微かに揺れていた。


 今、自分が先に横道へ入れば、ヴァレクとの間に残るのは剣を失ったレンだけになる。


 傷ついた右腕を胸元へ寄せ、右脚まで庇いながら立つ兄を横目に捉え、アイリは柄を握り直した。


「剣持ってない人が先」


「そういう問題じゃ――」


「レン」


 横道の内側から、エリリアの声が割って入った。


「入ってください」


「でも」


「今のあなたがそこに残れば、アイリさんも退けません」


 レンが言葉を止める。


 エリリアは細剣を構えたまま、暗い横道の中から広間と二人を見ていた。


「彼女が作っている時間を、あなた自身が潰さないでください」


 レンの表情が歪んだ。


 反論したいのだと、アイリにも分かる。


 だが、その間にもヴァレクは距離を詰めてきた。


「話は終わったか」


 低い声とともに、幅広の剣が僅かに持ち上がる。


 アイリの指が柄へ強く食い込んだ。


 ヴァレクはその手元を見た。


「力を入れすぎだ」


 アイリは答えない。


「そんな持ち方じゃ、こっちが触れただけで腕ごと持っていかれるぞ」


 からかっている様子はなかった。ただ目の前の相手がどう動くかを見て、そのまま口にしている。その冷静さの方が、怒鳴られるより怖かった。


 ヴァレクが一歩入る。


 アイリはレンに教えられた通り、大きく振らずに切っ先を胸元へ向けた。


 黒銀の刃が二人の間へ伸びる。


 ヴァレクは止まらず、幅広の剣を横から軽く当てた。


 金属音が鳴った瞬間、アイリの両腕が外側へ押される。


「っ……!」


 力で戻そうとしかけたところへ、レンの声が飛んだ。


「受けるな、アイリ!」


 アイリは踏ん張る代わりに、押された方向へ黒銀の剣を逃がした。


 ヴァレクの刃に沿うように切っ先が横へ流れ、その分だけ身体も半歩ずれる。


 空いた場所へヴァレクの左手が伸びた。


 アイリは慌てて柄を引き戻す。


 切っ先は一度大きく揺れたものの、どうにか再び二人の間へ戻った。ヴァレクは伸ばしかけた手を止める。


「それでいい!」


 レンの声を聞きながら、アイリは速くなる呼吸を押さえ、剣先を保った。


「……近づかないで」


「そこへ下がれ」


 ヴァレクが言った。


「三人とも武器を捨てれば、それ以上痛い目を見る必要はない」


「捕まるんでしょ」


「そうだ」


「なら同じじゃない」


 ヴァレクの眉が僅かに動いた。


 その間にも、左右へ散っていた男たちが距離を縮めてくる。


「頭領、剣を絡めます」


 一人が床に落ちていた使いかけの縄を拾い、端を両手に持って大きな輪を作った。


 別の男も反対側へ回る。


「正面は頭領に任せろ。娘の手から剣だけ外せ」


 アイリの視線が揺れた。


 一人なら、その胸へ切っ先を向けていられる。だが左右から同時に動かれると、どちらを先に見ればいいのか判断が追いつかない。


「右は見なくていいです」


 エリリアの声がした。


 次の瞬間、横道の入口から細剣が伸び、右へ回り込もうとしていた男の手元へ鋭く走った。男が反射的に腕を引く。


「そちらは私が見ます。アイリさんは前だけを」


「はい!」


 アイリはヴァレクへ視線を戻した。


 縄を持つ男が左側へ寄る。


 レンがそちらへ一歩出た。


「レン!」


「大丈夫。剣には近づかない」


 男が縄を投げる。


 狙われたのはアイリの身体ではなく、黒銀の剣だった。


 広げられた輪が刃へ被さる。


 アイリは反射的に剣を引いた。


 縄が切っ先へ掛かり、横へ引かれる。


「離すな!」


 レンが叫ぶ。


「分かってる!」


 男がさらに力を込め、黒銀の剣を左へ引いた。


 アイリも逆へ引き返そうとして肩を強張らせたが、すぐに力比べでは勝てないことを思い出す。


 相手が強く引いた瞬間、剣先を僅かに下げた。


 張りつめていた縄が刃を滑り、輪が先端から抜ける。男の身体が自分の引く勢いで後ろへ傾いた。


 その瞬間だけ、レンが柱の陰から一歩踏み出して男とアイリの間へ姿を見せた。


「まだこっちにもいるぞ」


「邪魔だ!」


 縄を持った男が、反射的にレンへ手を伸ばす。


「お兄ちゃん!」


「下がる!」


 レンはすぐ柱側へ身体を戻した。


 右脚の動きが僅かに遅れたのを見て、アイリの胸が強く縮む。


「だから先に行って!」


「……分かったよ」


 ようやくレンが折れた。


 悔しそうに息を吐き、横道の入口へ身体を向ける。


 それを見たヴァレクが踏み込んだ。


「逃がすな」


 幅広の剣が再び黒銀の刃へ触れる。


 今度は先ほどより強い。


 アイリの腕が横へ流され、右肩の奥へ鈍い痛みが走った。それでも柄を放さず、押された方向へ身体をずらしながら両手の位置を整え、ヴァレクの前へもう一度切っ先を戻す。


 その間にレンが横道へ一歩入った。


 ヴァレクが再び黒銀の剣を押す。


 アイリは力で止めず、刃を流して身体をずらし、また切っ先を戻した。


 ヴァレクが間合いを詰めるたび、両手首へ痛みが走る。右肩も重くなり、腕の震えは隠せなくなっていた。


「アイリ、もういい!」


 横道へ入ったレンが振り返る。


「まだ!」


 アイリは叫んだ。


 レンの身体はまだ半分しか入口を抜けていない。狭い横道では、傷ついた右腕を石壁へぶつけないよう身体を捻る必要があり、すぐには奥へ下がれなかった。


 ヴァレクの方が速い。


 だからアイリは足を引かず、黒銀の切っ先をもう一度前へ戻した。


「アイリ!」


「早く!」


 レンがさらに奥へ下がる。


 エリリアがその身体を通路の内側へ導き、やがて広間から完全に姿が消えた。


「入りました!」


 その声を聞いた瞬間、アイリは胸の奥へ詰めていた息を吐いた。


「アイリさん、今です!」


 レンが横道の奥へ抜けたことを確かめ、アイリはそこで初めて後ろへ足を引いた。


 ヴァレクがすぐに距離を詰める。


 アイリは黒銀の剣を大きく振らず、切っ先を相手との間へ残したまま横道へ入った。長い刃を柱へ当てないよう斜めに傾け、両手を身体の近くへ寄せながら一歩ずつ下がる。


「追え!」


 広間で男たちの足音が重なった。


 エリリアがアイリの肩へ軽く手を添える。


「こちらへ」


「はい」


「剣先を少し下げて。壁に当たります」


 言われた通り黒銀の刃を低く傾ける。


 狭い横道では、広間のように相手へ真っ直ぐ切っ先を向け続けることさえ難しい。長い剣は壁や積まれた木箱へ触れそうになり、そのたび両手で細かく角度を直さなければならなかった。


 少し先でレンが待っている。


「アイリ」


「何?」


「ありがとう」


 アイリは一瞬だけ目を丸くした。


「今言う?」


「今しかないかもしれないだろ」


「縁起悪いこと言わないで」


「ごめん」


「あとでちゃんと言って」


 レンの口元が僅かに緩んだ。


「分かった」


「二人とも、走れますか」


 エリリアが前を見たまま尋ねる。


「俺は走ると右脚がきつい」


「私はこれ持ったまま走ったら壁にぶつける」


「では急ぎますが、走りません。足元を見て」


 エリリアが先頭へ戻り、三人は細い横道を進み始めた。


     ◇


 十数歩先で通路は少し広くなり、その先で左右へ分かれていた。


 壁には松明を差すための新しい金具が打ち込まれ、床の端には空の木箱が積まれている。古い石造りの中へ、今ここを使っている者たちの生活の痕跡が入り込んでいた。


「左です」


 エリリアが迷わず進路を選ぶ。


「右から足音がします」


 三人が左へ入る。


 後ろからはヴァレクたちの声が近づいてきた。


「別の通路から先へ回れ!」


「逃げ道を塞げ!」


 アイリが振り返る。


「別の道があるの?」


「彼らの方が内部を知っています。止まらないで」


 三人はさらに奥へ進んだ。


 レンはアイリとエリリアの間に入り、傷ついた右腕を胸元へ寄せたまま、身体の向きを変える必要がある時だけ左手を壁へ添えていた。右脚の歩幅は次第に狭くなっている。


「お兄ちゃん、脚」


「まだ動く」


「でも」


「止まる方がまずい」


 アイリはそれ以上言えなかった。


 自分の腕も、もう軽くはない。黒銀の剣を両手で持ち続けるだけで擦れた手首が熱を持ち、指にも疲れが溜まっている。


 それでも背後から迫る足音を聞けば、剣を下げることはできなかった。


「止まって」


 先頭のエリリアが足を止めた。


 三人もすぐ動きを止める。


 前方の曲がり角から、二人分の足音が近づいてきた。


「二人います」


 エリリアが細剣を上げた直後、角から男たちが姿を現した。一人は短剣、もう一人は短槍を持っている。


「いたぞ!」


「こっちだ!」


「後ろも来ます!」


 アイリが振り返りながら言う。


「分かっています」


 エリリアは前へ出た。


 広間より狭いこの場所では、二人の敵が並んで攻め込むことはできない。


 最初に短槍が伸びる。


 エリリアは正面から受けず、細剣で穂先の横へ触れ、壁際へ進路をずらした。石へ当たりそうになった槍使いが反射的に武器を引く。


 その瞬間、短剣の男が前へ入った。


 細剣と短剣が一度だけ触れ、鋭い金属音が通路へ響く。


 エリリアは相手を押し返そうとせず、身体を斜めにして刃の線から外れた。


 男は空いた場所へ踏み込もうとする。


「通しません」


 エリリアの細剣が戻り、男の顔の横へ切っ先が走った。


 踏み込みが止まる。


 その後ろから短槍の柄が横へ押し込まれ、エリリアは半歩だけ下がった。


 レンとの距離が縮まる。


「後ろ!」


 アイリの声とほぼ同時に、後方の角からヴァレクの姿が現れた。


 その前には二人の男がいる。


「追いついたぞ」


 アイリは黒銀の剣を後方へ向ける。


 狭い通路では切っ先を高く上げられないため、腰より少し上の高さへ保ち、両手で柄を身体の近くへ引きつけた。


 先頭の男はすぐには踏み込んでこない。


 広間でのアイリの動きを見ている。


「剣だけ見ろ」


 ヴァレクが後ろから言った。


「娘本人に付き合うな」


 男たちがじりじりと距離を詰める。


 前ではエリリアが二人を止め、後ろではアイリがヴァレクたちを牽制している。その間にいるレンには、どちらへも逃げられるだけの空間がなかった。


「エリリア、抜けられそう?」


「少しだけ時間を」


 細剣が短槍の柄へ触れる。


 槍使いが引いた瞬間、エリリアが前へ出る。


 短剣の男も応じ、二本の刃が狭い通路で交差した。


 レンはエリリアが下がれる場所を作るため、壁際へ身体を寄せた。


 それを見た短剣の男が、急に腰を落とした。


 細剣の間合いから身体をずらし、そのまま壁際のレンへ向かって滑り込んでくる。


「レン!」


 エリリアが振り返る。


 男は短剣を振らず、空いた左手をレンへ伸ばした。


 レンは身体を引く。


 右脚の踏み替えが僅かに遅れたものの、最初の手は服の前を掠めて空を切った。


 だが男も止まらない。


 今度は逃げ道を塞ぐようにレンの右側へ回った。


「捕まえた!」


 伸びた手が、布を巻かれた右上腕を掴んだ。


 肩に近い、深い傷のある場所だった。


 布越しの指が強く食い込んだ瞬間、右上腕の奥で焼けるような痛みが弾けた。


「――っ!」


 レンの喉から息だけが漏れる。


 痛みに反応して上体から力が抜け、左手が咄嗟に壁を探った。疲れ切った右脚も身体を支えきれず、膝が石床へ向かって沈む。


「お兄ちゃん!」


 後ろでアイリが振り向いた。


 黒銀の切っ先が揺れる。


 その向こうでは、ヴァレクが既に距離を詰め始めていた。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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