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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
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第一章 第五十四話 妹が握る兄の剣

アイリの右手が、黒銀の剣の柄を掴んだ。


 握った瞬間、床に横たわっていた時には分からなかった重さが、手首から腕を伝って右肩の奥までのしかかった。レンがいつも腰に下げ、戦う時には迷いなく振っていた剣は、片手で持ち上げようとすると長い刃そのものが腕を引くように重い。


 右肩の奥へ鈍い痛みが返り、アイリは眉を寄せた。それでも柄から手は離さなかった。


「剣を取らせるな!」


 男の声が広間へ響く。


 アイリから数歩離れた位置にいた男が真っ先に駆け出した。剣を振り上げるのではなく、まだ床にある黒銀の剣を蹴り飛ばそうとしている。


 アイリは座った姿勢のまま、柄を自分の側へ引いた。


 重い刃が石床を擦り、黒銀の切っ先が石柱の根元へ寄る。


 男の足が迫った。


 その進路へ、細い剣先が鋭く差し込まれる。


「そこまでです」


 エリリアだった。


 細剣を一瞬で切り返し、駆け込んできた男の手元から顔へ届く線上へ切っ先を置く。男はそのまま踏み込めず、反射的に足を止めた。


 その隙にアイリは剣を身体の近くまで引き寄せる。


「アイリ、縄!」


 レンの声が飛んだ。


「うん!」


 アイリは右手だけで剣を持ち上げようとはせず、刃を床へ置いたまま身体の向きを変えた。


 右手は抜けたものの、左手首には緩んだ縄がまだ残り、柱へ繋がる部分も切れてはいない。このままでは立ち上がっても自由には動けなかった。


 アイリは縄を石柱の根元へ寄せ、皮膚から離れた部分に張りを作ると、そこへ黒銀の刃を当てた。右肘を身体の近くへ置いたまま、肩へ余計な力を掛けないよう柄をゆっくり引く。


 刃が縄へ食い込んだ。


 毛羽立っていた繊維が裂ける。


 位置を少し変え、もう一度引いた。


 張りつめていた縄が切れ、左手首を囲んでいた輪も大きく緩んだ。アイリはすぐに手を抜き、その左手を黒銀の柄へ添える。


 長く縛られていた指は強張り、両手首には赤い擦り傷が残っていた。それでも両手で支えると、右腕だけで引き受けていた剣の重さが分散した。


 アイリは石柱へ背を添わせながら立ち上がる。


 長く同じ姿勢で座らされていた脚が強張り、膝が一度だけ揺れたが、柱へ肩を触れさせて踏みとどまった。両手で柄を握り、床近くにあった黒銀の切っ先を持ち上げる。


「アイリ!」


 レンが呼んだ。


 彼の手にはもう剣がない。傷ついた右腕を胸元へ寄せ、空いた左手を前へ出しながら、ヴァレクとアイリの間へ少しでも入りやすい位置を取っている。


「振らなくていい!」


「え?」


「両手で持って、切っ先を前に向けて! それだけでいい!」


 アイリは一度だけレンを見た。


「分かった!」


 黒銀の剣を振ろうとせず、右肩だけで重さを支えないよう両手を寄せ、柄を身体の前へ置く。足の運びも剣の扱いも分からないままだったが、切っ先を相手へ向ければ、その長い刃を越えなければ自分には届かない。


 近づこうとしていた男が、それを見て足を止めた。


     ◇


「娘に剣を振らせるな!」


 ヴァレクが命じた。


「正面から付き合う必要はない。左右から詰めろ!」


 二人の男がアイリの側面へ回ろうとする。


 エリリアはその動きを見てすぐ位置を変えた。


 右から近づく一人へ細剣を伸ばし、手首へ届く間合いを作って踏み込みを止める。もう一人がその背後から回ろうとすれば半歩下がり、今度はそちらへ切っ先を向けた。


 相手を倒し切らなくても、アイリへ届く道さえ渡さなければいい。


「お前はこっちだ!」


 別の男がレンへ飛びかかった。


 剣は振らず、両手を伸ばして左腕か服を掴み、そのまま押さえ込もうとしている。


 レンは右腕を庇いながら左足を横へずらし、伸びてきた手を左前腕で短く外へ流した。そのまま相手との間へ石柱が入る位置まで身体を寄せる。


「ちょこまかと……!」


 掴み損ねた男が柱を回ろうとすれば、レンも反対側へ移った。


 踏み替えるたび右脚の奥から重い痛みが返ってくるため、速さでは逃げ切れない。それでも相手の手が届く前に柱の位置を変え続ければ、今は十分だった。


 レンはその合間にアイリを見る。


 妹は両手で黒銀の剣を持ち、石柱の前から一歩だけ離れていた。


 切っ先が微かに震えている。呼吸も速く、武器を持った大人の男を前にした青い目は張りつめていたが、剣だけは下ろしていない。


 一人の男が様子を測るように距離を詰めた。


 剣を持っているものの刃先は低く、アイリがどこまで扱えるのか試しているのがレンにも分かった。


「アイリ、追わなくていい」


「うん」


「来たら、切っ先をそこに置いたまま下がれ」


「分かった」


 男が一歩近づく。


 アイリは剣を振らず、切っ先を胸元へ向けたまま半歩下がった。


 さらに一歩、男が距離を詰める。


 黒銀の剣先との間が縮まったところで、男は自分の剣を横から当て、その長い刃を押し退けようとした。


「力で止めるな!」


 レンの声に、アイリは反射的に込めかけた力を抜いた。


 相手の刃へ押された分だけ黒銀の剣先が横へ流れ、アイリもそれに合わせて身体を一歩ずらす。


 男が空いた場所へ踏み込もうとした。


 アイリは両手で柄を引き戻す。


 黒銀の切っ先が再び男の胸元へ戻った。


「くっ……」


 男は足を止めるしかなかった。


 アイリは追わず、その場所に剣を残した。


「それでいい!」


 レンが言う。


「言われなくても!」


 強く返したものの、アイリの呼吸はさらに速くなっていた。


 赤く擦れた両手首で重い柄を握り続けている。それでも黒銀の剣は、まだ彼女の手の中にあった。


     ◇


 ヴァレクはその様子を見ていた。


 幅広の剣を片手に持ったまま、自分からアイリへ一直線には向かわない。


「剣を持たせても、使えるわけじゃない」


 低い声が広間へ落ちた。


「焦るな。振らせる必要もない。逃げ道を塞げ」


 男たちが正面から黒銀の剣を叩き落とそうとはせず、アイリを囲むように少しずつ左右へ散っていく。


 レンはその動きを見て、すぐエリリアへ目を向けた。


「このままだと囲まれる。左に隙間ある?」


 エリリアが広間の端へ一瞬だけ視線を走らせた。


 古い柱と木箱の間に、細い横道へ続く暗がりがある。


「あります。ただ、二人います」


「動かせる?」


「一人なら」


 レンは残る一人を見てからアイリへ視線を向けた。


 妹も会話を聞いていた。


「私?」


「戦えって意味じゃない。剣先を向けて、そいつを近づけないで」


 アイリは暗がりを塞ぐ男を見る。


 相手もこちらを見ていた。


「……できる」


「無理なら言えよ」


「今それ言う?」


 レンは一瞬だけ口を閉じた。


「言う」


「じゃあ、できる」


 その返事に、レンは小さく頷いた。


「エリリア」


「行きます」


 エリリアが動く。


 左側の暗がりを塞ぐ二人のうち、手前の剣士へ真っ直ぐ踏み込んだ。


 細剣が男の顔へ伸びる。


 剣士が刃を上げた瞬間、切っ先は滑るように手元へ狙いを変えた。男は腕を引き、身体ごと後ろへ下がる。


 エリリアは追い回さず、その空いた位置へ入り込んだ。


 もう一人が横から近づく。


 アイリが黒銀の剣を向けた。


 男の足が止まる。


「邪魔だ!」


 怒鳴り声にアイリの肩が僅かに揺れたが、切っ先の高さは変わらなかった。


「来ないで」


 男が鼻で笑う。


「そんな構えで何ができる」


 アイリは答えない。


 男がさらに一歩入り、黒銀の剣先との距離を縮めた。


 アイリが後ろへ逃げると思ったのか、剣は低いまま、空いた左手が彼女の腕へ伸びる。


「アイリ!」


 レンの声が飛ぶ。


 アイリは大きく剣を振らなかった。


 伸びてくる手から上体を半歩引き、そのまま両手の柄を前へ押し出す。


 黒銀の切っ先が短く進んだ。


 男は咄嗟に腕を引いたものの、刃先が袖を裂き、その下の前腕へ浅い線を残した。


「っ!」


 男が大きく後退する。


 アイリ自身も一瞬だけ目を見開いた。


 黒銀の先に僅かな赤が残っている。


 それでも剣を落とさず、両手で握り直して再び相手へ切っ先を向けた。


「……来ないで」


 先ほどより低い声だった。


 今度は、男もすぐには踏み込まない。


 その数秒でエリリアが手前の剣士をさらに横へ追いやった。


「今です!」


 レンが動く。


 右脚へ負担を掛けすぎない歩幅で暗がりへ向かい、その途中でアイリの側へ寄った。


「行くぞ」


「うん」


 アイリも下がる。


 敵へ背中を向けず、黒銀の剣先を前へ残したまま、一歩ずつレンと同じ方向へ移動する。慣れない姿勢で重い剣を支え続けた腕はすぐに疲れ、右肩にも鈍い痛みが戻ってきたが、両手へ重さを分ければまだ保持できた。


 エリリアが最後に細剣を短く走らせ、追ってくる男の手元を牽制する。


 ようやく三人が同じ位置へ集まった。


 エリリアが前方を押さえ、その後ろでアイリが黒銀の剣を持ち、レンは妹のすぐ横につく。背後には石柱と切れた縄が残り、追手との間には数歩だけ距離が生まれていた。


「アイリ」


 レンが妹の手元を見た。


「手首、平気?」


「痛い」


「剣、持てる?」


「まだ」


「肩は?」


「それも痛い」


 アイリは右肩を僅かに下げ、両手の位置を調整する。


「でも、持てる」


 レンはそれ以上問い重ねなかった。


「じゃあ少しだけ頼む」


「最初からそのつもり」


 エリリアが前を見たまま言う。


「二人とも、話はあとです」


「はい」


「分かってる」


 三人は暗い横道へ向けて動いた。


     ◇


 抜け道に見えた場所は、完全な通路ではなかった。


 広間の端に立つ二本の柱と積み上げられた荷物の間へできた細い空間が、その先の横道へ繋がっている。三人が並んで入れるほどの幅はない。


 エリリアが先へ入り、安全を確かめる。


 レンがその後ろへ続こうとした時、背後から複数の足音が迫ってきた。


「逃がすな!」


「回り込め!」


 アイリが振り返る。


 長い黒銀の剣を両手に持ったままでは、狭い隙間へすぐ身体を滑り込ませることができない。刃を横へ振れば柱へ当たり、慣れない持ち方で急いで向きを変えれば、痛む手首から柄が抜けかねなかった。


「アイリ、先に――」


 レンが言いかけた時、広間を低い声が通った。


「そのまま押せ」


 ヴァレクだった。


 男たちの間から大柄な身体が現れる。


 幅広の剣を低く構えたまま、焦って走ることはせず、一歩ずつ確実に距離を詰めてくる。


「娘は剣に慣れてない。下がらせれば終わる」


 アイリの息が僅かに止まった。


 レンはすぐ彼女の横へ出ようとしたが、右脚へ力を入れた瞬間に深い痛みが返り、身体が一拍遅れた。


「レン」


 横道の内側からエリリアが呼ぶ。


「こちらへ。私が出ます」


 だがエリリアが戻れば、ようやく開けた逃げ道を自分たちで塞ぐことになる。


 レンは暗い横道と、迫る男たちを見比べた。


「アイリ、剣を俺に――」


 途中で言葉が止まる。


 今の左手でヴァレクの重い剣をもう一度受ければ、また握りを崩される可能性が高い。傷ついた右腕でも、黒銀の剣をまともに扱える状態ではなかった。


 アイリもそれに気づいたらしい。


 黒銀の柄を握る両手に、僅かに力が入る。


 ヴァレクが近づく。


 その後ろでは二人の男が左右へ広がり、逃げる方向を削っていた。


 アイリがあと一歩下がれば、そのまま横道へ入れる。レンもエリリアもそこから奥へ進めるはずだった。


 ただ、黒銀の剣を持ったまま狭い場所へ入り、背後から追われながら長い切っ先を保つのは難しい。アイリが背を向けた瞬間、ヴァレクたちは一気に距離を詰めてくるだろう。


 レンは妹の横顔を見た。


 額には汗が滲み、呼吸も速い。擦れた両手首で重い柄を握り続け、右肩を庇うように肘の位置も少し下がっている。


 それでもアイリの青い目は、近づいてくるヴァレクから逸れなかった。


 黒銀の切っ先も、まだ彼へ向いている。


「剣を置け」


 ヴァレクが言った。


「そうすれば、余計な怪我はしなくて済む」


 アイリは答えない。


 背後ではエリリアが待っている。


 すぐ横には、剣を失ったレンがいる。


 目の前からはヴァレクとその部下たちが迫ってくる。


 あと一歩下がれば、横道へ入れる距離だった。


 アイリは両手で黒銀の柄を握ったまま、足元を見ることなく背後の空間を確かめる。


 そして顔を上げると、迫るヴァレクを真っ直ぐ見返した。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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