第一章 第五十三話 名も知らぬ依頼主
ヴァレクの命令が広間へ響いた瞬間、周囲を囲んでいた男たちが一斉に距離を詰めた。
「殺すな。三人とも、生け捕りだ」
最初に動いた二人は、刃をレンたちの身体へ真っ直ぐ振り下ろしてはこなかった。
一人が槍を横へ寝かせるように構え、レンとエリリアの間へ押し込もうとする。その反対側では剣を持った男が回り込み、刃先だけでなく肩や柄まで使ってエリリアの動きを狭めようとしていた。
武器を奪い、二人を引き離して囲むつもりなのだと分かった。
レンは黒銀の剣を左手の中で僅かに持ち直した。
「エリリア、右!」
「見えています!」
横から入ってきた槍へ、エリリアの細剣が穂先ではなく柄に近い部分で触れ、その進路を外へ流す。槍使いが力任せに押し戻そうとしたところへ半歩だけ内側へ入り、細剣の切っ先を男の手首へ向けると、相手はそれを嫌って腕を引いた。
その隙にエリリアは位置を変え、レンとの間へ誰も入れない角度を取り直した。
別の男がレンへ迫る。
剣は低く構えられ、狙っているのは胴ではなく黒銀の剣を持つ左手だった。
レンは右脚へ深く体重を掛けず、身体を僅かに引く。
相手の剣が黒銀の剣へ絡もうとした瞬間、左手首を大きく返さずに切っ先だけを下げた。男の刃が空を滑り、その横へ黒銀の切っ先が残る。
追えばそのまま剣先の間合いへ入るため、男は足を止めた。
レンも深追いせず、相手が下がった分だけ石柱の近くへ位置を変える。
その向こうには、アイリがいる。
広間の奥で、彼女は縛られた両手を膝の近くへ寄せ、粗い石の角へ縄を押し当てていた。
周囲の男たちの意識がレンとエリリアへ集中している間も、アイリは手を止めていない。大きく動けば気づかれるため、剣と槍がぶつかる音に紛れて手首を少しずつ動かし、毛羽立った縄を石へ擦りつけている。
誰かがレンへ踏み込んだ時に一度。
エリリアの細剣が金属音を立てた時に、もう一度。
レンはその動きを視界の端で捉えたが、妹へ目を向け続けることはしなかった。
「囲め!」
男の一人が叫ぶ。
「二人を離せ!」
三人目が左側から回り込もうとした。
エリリアはすぐに位置を変え、崩れかけた木箱と石柱の間へ身体を寄せる。
「レン、こっちへ」
「ああ」
二人が広間の中央から外れたことで、敵が同時に踏み込める幅が狭くなった。一人が剣を振れば、その後ろにいる男は前へ出にくくなり、槍を伸ばそうとしても柱と木箱が柄の動きを妨げる。
エリリアはその狭さを利用した。
剣士が手元を狙ってくれば、細剣を短く走らせて指先を牽制する。男が武器を引けば一歩だけ間合いを詰め、後ろの者が入ろうとすればすぐ元の位置へ戻る。
相手を倒し切ろうとせず、切っ先と足運びだけで近づける場所を削っていく。
レンも同じ狭い空間へ黒銀の剣を置いた。
左手の薬指と小指は、既に最初より反応が遅い。剣身へ衝撃が伝わるたび、二本の指が握りについてくるまで僅かなずれが生じ、柄の位置が掌の中で動いた。
それでも親指、人差し指、中指を軸に握りを整えれば、切っ先を相手の進路へ残すことはできる。
「いつまで持つかな」
ヴァレクの声がした。
彼はまだ広間の奥に立っていた。
幅広の剣は抜いているものの、部下たちの間へ無理に入ろうとはしていない。
レンは目の前の剣士から視線を外さずに答えた。
「試してみれば?」
「そのつもりだ」
ヴァレクが片手を上げる。
「前へ出すぎるな。剣を狙え。女の方を先に離せ」
男たちの動きが変わった。
二人がエリリアへ集中し、残った者たちがレンの左右へ広がろうとする。
エリリアは細剣を構えたまま僅かに後退した。
「私を離したいみたいですね」
「離れるなよ」
「あなたこそ」
「分かってる」
返事をした直後、右側から槍が入った。
レンは黒銀の剣を斜めに置き、穂先が胸へ届く前に壁側へ流す。相手はすぐ槍を引き、今度は柄を横へ振って左手を打とうとした。
レンは右脚を軸に身体を大きく回さず、左足を一歩後ろへ置いて避けた。
その動きだけでも、酷使してきた右脚の奥から重い痛みが上がってくる。
踏み止まり続ければ脚が先に限界へ近づき、下がりすぎればアイリとの距離が開く。レンは石柱の位置を意識しながら、必要な分だけ足場を変え続けた。
◇
広間に剣と槍の擦れる音が重なった。
男たちは刃が外れてもそのまま距離を詰め、肩を押しつけたり、腕や衣服へ手を伸ばしたりして二人の動きを止めようとしてくる。
エリリアへ二人が同時に近づいた。
一人が剣で細剣の進路を塞ぎ、その横からもう一人が腕を掴もうとする。
エリリアは剣士と力を競わず、刃を外して身体を半歩沈めた。
伸びた手が空を切る。
その腕の下へ細剣の柄を差し込み、肘を外側へ押すように進路を変えると、男の身体が隣の剣士へぶつかった。
二人の動きが重なった隙に、エリリアはレンの側へ戻る。
「まだ動けますか?」
「ああ。そっちは?」
「同じです」
それだけ確かめると、二人はすぐ目の前の相手へ意識を戻した。
広間の奥では、アイリがなおも縄を石へ擦りつけている。
手首の皮膚は既に赤くなり、動かすたび痛みがあるはずだった。それでも彼女は止めず、毛羽立っていた箇所を少しずつ細くしていた。
レンの視線が一瞬だけそこへ向く。
ヴァレクは、その一瞬を見逃さなかった。
「娘の方ばかり見てる余裕があるのか」
レンが視線を戻した時には、ヴァレクが歩き出していた。
部下たちが自然に道を空ける。
大柄な身体が前へ出るだけで、先ほどまでとは間合いの圧が変わった。
片手で持った幅広の剣は重そうな形をしているが、切っ先はほとんど揺れていない。
エリリアがレンより前へ出ようとする。
「私が――」
「いや」
レンはすぐに制した。
周囲に残る男たちは、エリリアがヴァレクへ意識を向ける瞬間を待っている。彼女までアイリから離れれば、別の者が石柱へ回り込める。
「そっちを止めて」
エリリアも一瞬で理解した。
「長く相手をしないでください」
「する気はない」
ヴァレクが近づいてくる。
「話しながらでもいいぞ」
レンが言った。
「まだ聞きたいことがある」
「随分余裕だな」
「名前も知らない相手のために、ここまでやってるあんたほどじゃない」
ヴァレクの足が僅かに緩んだ。
「依頼主の顔も知らないんだろ」
「言ったはずだ。名前は知らん」
「じゃあ、どうやって仕事を受けた」
ヴァレクは剣をゆっくり上げながら答えた。
「話を持ってきた奴がいた。それだけだ」
「そいつが依頼主?」
「違う」
レンは目を細めた。
「直接会ってないのか」
「会う必要があるか?」
「三人を生きたまま攫えって仕事だぞ」
「条件を聞いて、受けると決めたのは俺だ。それ以上は関係ない」
言葉が終わるのとほぼ同時に、幅広の剣が右上から斜めに下りてきた。
レンは真正面から受けず、左足を外へずらしながら黒銀の剣を相手の刃の側面へ短く触れさせる。軌道を僅かに変えた幅広の刃が身体の横を抜け、石床へ重い金属音を響かせた。
衝撃は黒銀の剣を通じて左手まで返ってきた。
薬指と小指の握りが遅れ、柄が僅かにずれる。
レンはすぐに距離を取った。
ヴァレクも追う。
「重い剣は苦手か」
「今はね」
「正直だな」
次の一撃は横から来た。
レンは黒銀の剣を合わせず、石柱の反対側へ一歩移る。
幅広の刃は柱へ触れる寸前で引かれ、ヴァレクはそのまま次の間合いを取り直した。
「逃げるだけか?」
「捕まえる側が困ってるなら、十分だろ」
ヴァレクが僅かに笑う。
その背後では、エリリアが二人の男を相手にしていた。
細剣の切っ先と細かな足運びで、手首や指先、踏み込もうとする足の前へ危険な間合いを作り、二人を石柱から遠ざけている。
そこへ別の男がアイリへ向かおうとした。
「娘を押さえろ!」
声に反応し、エリリアが即座にその進路へ入った。
男の前へ細剣が伸びる。
「そこは通しません」
「どけ!」
男が剣を振る。
エリリアは刃を外へ流し、そのまま一歩前へ出た。切っ先が胸元へ向いたため、男は反射的に後退する。
その数秒の間にも、アイリは縄を石へ押しつけていた。
擦り切れかけた繊維が、また一本切れた。
◇
ヴァレクが三度目の間合いへ入る。
今度は剣を先に出さず、大柄な身体そのものを近づけてレンの逃げ道を削ってきた。
レンは右脚を大きく引かず、左足を横へ送る。
低い位置から幅広の剣が上がった。
狙われたのは身体ではなく、黒銀の剣だった。
レンが左手を引く。
二本の刃が先端に近い位置で短く触れた。
重さの差が、そのまま衝撃になって掌へ返る。
薬指と小指が握りへ十分についてこず、柄が手の中でずれた。レンは親指、人差し指、中指を軸に、遅れて力の加わる二本も含めて握りを整えながら後退した。
ヴァレクはその動きを見ていた。
「左手も悪いのか」
レンは答えない。
「右腕をやられて、左もそれじゃ長くは持たんな」
再び剣が迫る。
レンは石柱を間に入れた。
ヴァレクは柱へ触れる前に刃を引き、すぐ次の位置へ踏み替える。
その僅かな間にレンは一歩だけ前へ出て、黒銀の剣の切っ先を相手の胸へ向けた。
ヴァレクが半歩距離を戻す。
レンはそれ以上追わなかった。
右脚へ余計な負担を掛けず、左手の握りも残しながら時間を稼ぐ。アイリが縄を外し、エリリアが逃げるための道を作るまで持ちこたえればいい。
「さっきの男は誰だ」
レンが聞いた。
「何?」
「依頼を持ってきた奴」
「知らん」
「名前も?」
「聞く必要がなかった」
「顔は覚えてるだろ」
ヴァレクの表情から、僅かに残っていた笑いが消えた。
「喋らせたいなら、まず俺を倒せ」
「それができたら聞くよ」
「できると思うか?」
「倒さなくても、アイリを連れて出られれば俺たちの勝ちだ」
ヴァレクの目が細くなる。
「それができると思っているのか」
「やってみる」
正面からヴァレクへ勝つことより、アイリを連れてこの広間を離れることの方が重要だった。
ヴァレクがまた距離を詰める。
今度は速い。
右から振られた幅広の剣を、レンは身体を引いて避けた。
刃が服の前を抜ける。
続けてヴァレクの左手が伸び、黒銀の剣を持つレンの腕を掴もうとした。
レンは一歩下がる。
右脚の奥へ深い痛みが返ったが、膝を落とさず、左足を石柱の近くへ置いて身体の向きを変えた。
ヴァレクの手が空を掴む。
「逃げ方は悪くない」
「褒められても嬉しくない」
「なら捕まれ」
「もっと嫌だよ」
レンの返事を聞いたアイリの口元が、広間の端でほんの僅かに動いた。
すぐに彼女は手首へ力を戻す。
石の角へ押しつけられた縄が強く張り、細くなった繊維がさらに裂けていった。手首を抜けるだけの余裕が生まれるまで、もう長くは掛からない。
◇
「頭領!」
エリリアと向き合っていた男の一人が叫んだ。
「女の方が抜けます!」
ヴァレクの視線が一瞬だけ動く。
エリリアは既に二人の間を抜け、アイリへ続く側へ位置を変えていた。誰かが柱へ近づこうとすれば、彼女の細剣の間合いへ入らなければならない。
「人数を掛けろ」
ヴァレクが命じる。
「殺すなよ!」
二人の男がエリリアへ向かい、それまでレンを囲んでいた者の一人もそちらへ離れた。
その分だけ、レンの前に空間が生まれる。
アイリまでは十歩もない。
距離を見た瞬間、レンの身体は先へ出ようとしたが、右脚の奥から返った痛みが無理な加速を止めた。
ここで駆けて崩れるわけにはいかない。
レンは歯を食いしばり、歩幅を乱さないまま石柱へ距離を詰める。
「行かせると思うか」
ヴァレクが進路へ入った。
幅広の剣が、レンとアイリの間を塞ぐ。
「どいて」
「剣を置け」
「嫌だ」
「なら、ここまでだ」
ヴァレクが踏み込んだ。
最初の一撃は上からではなく、レンの黒銀の剣を外側へ押し出すような短い横薙ぎだった。
レンは刃を正面から止めず、黒銀の剣を斜めにして衝撃を逃がす。
それでも伝わる力は大きかった。
柄が掌の中で滑り、遅れて締まる薬指と小指では位置を十分に保てない。レンは三本の指を軸に握りを立て直した。
ヴァレクは間を与えなかった。
幅広の剣を引き戻すと、今度は逆方向から黒銀の剣そのものを狙ってくる。
身体へ届かせるためではなく、武器を手から外すための一撃だった。
レンは剣を逃がそうとした。
だが踏み替えた右脚が僅かに遅れる。
黒銀の剣を完全には引ききれない。
斜めにした剣身へ、幅広の刃が強く当たった。
金属音が広間全体へ響く。
衝撃が左手を貫き、疲労の溜まった指から一斉に力が抜けた。
黒銀の剣がレンの手を離れた。
「レン!」
エリリアの声が飛ぶ。
剣は石床へ落ちて一度大きく跳ね、松明の光を黒銀の刃へ走らせながら床を滑った。
ヴァレクの視線がその行方を追う。
レンも振り返る。
剣が滑っていく先には、太い石柱があった。
その根元にアイリがいる。
ほとんど同じ瞬間、彼女の手元から乾いた音がした。
何度も石へ擦りつけられていた縄の繊維が耐えきれずに切れ、手首を束ねていた輪が大きく緩んだ。
アイリは息を呑み、痛みに顔を歪めながら右手を引く。
赤く擦れた手首が、緩んだ縄から抜けた。
黒銀の剣は石床を滑り切り、彼女のすぐ前で止まった。
アイリの青い目が剣へ落ちる。
次にレンを見る。
レンも妹を見ていた。
広間の中央では、ヴァレクが既に幅広の剣を構え直している。
自由になったアイリの右手が、目の前にある黒銀の柄へ伸びていった。
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