第一章 第五十二話 生け捕りの命令
「二人とも殺すな。生け捕りにしろ、だ」
石壁の向こうから返ってきた言葉に、レンは息を止めた。
隣にいるエリリアも動かない。細い横道の曲がり角へ身を寄せたまま、二人は声の続きを待った。
「生け捕り?」
「ああ。先に捕まえた娘も含めて、三人そろえろって話らしい」
「面倒な命令だな。武器持って入り込んできた奴までか?」
「俺に聞くなよ。ヴァレク頭領がそう言ってるんだ」
別の男が低く笑った。
「抵抗するなら、動けなくして運ぶしかないだろ」
「勝手なことして頭領に睨まれても知らねえぞ」
話し声が少し遠ざかった。
二人ほどが歩き出したらしく、靴底が石床を擦る音が続く。残った者も別の方向へ向かったのか、やがて会話は通路の反響に紛れて聞こえなくなった。
レンはすぐには動かなかった。
先に捕まえた娘を含め、三人とも生きたまま必要とされている。その事実だけが頭の中で何度も繰り返された。
「少なくとも、今はアイリを生かしておくつもりなんだ」
声にした途端、胸の奥へ張りついていたものが僅かにほどけた。
「ええ。今の命令が守られているなら」
エリリアの返事は慎重だったが、それでもレンには十分だった。
森へ残された足跡や黒い繊維を追い、六十を超える魔物の群れを抜け、天坑の木段を下り、火に崩れた階段から湖へ落ちてもなお、二人は一度もアイリ本人の姿を確かめられていない。
その彼女が、この場所へ連れてこられた。そして今も、生きたまま確保するよう命令されている。
レンは腰の黒銀の剣へ左手を伸ばしかけた。
「待ってください」
エリリアが小さく制する。
「分かってる。今すぐ飛び出したりしない」
「今の顔では少し信用しづらいです」
「そんな顔してる?」
「しています」
レンは息を吐いた。
右上腕へ巻き直した布の内側で、傷が脈打っている。右脚にも深い重さが残り、休ませている左手でさえ薬指と小指の感覚はまだ遠かった。
感情のまま走れば、アイリのところへ辿り着く前に身体の方が止まる。
それくらいは分かっている。
「三人ってことは、俺たちも狙われてた可能性が高いよな」
「ええ」
「アイリを先に連れていったのも、俺たちを追わせるためだったとか?」
エリリアは僅かに首を振った。
「そこまでは分かりません。最初から三人を別々に捕らえるつもりだったのかもしれませんし、アイリさんを先に捕らえたあと、私たちが追ってくることを利用したのかもしれません」
「……そうだな」
分からない部分を想像で埋めても、今は何も変わらない。
確かなのは、ヴァレクという男が三人を生きたまま捕らえるよう命じていることだけだった。
レンは横道の入口から主通路を覗く。
先ほど話していた男たちの姿はもう見えない。
「追う?」
「距離を取って」
「うん」
二人は通路へ戻った。
◇
人の流れを追うこと自体は、それほど難しくなかった。
奥へ進むほど松明の数が増え、床には新しい靴跡が幾重にも重なっている。壁際へ寄せられた木箱や樽も多くなり、途中には水を入れた桶や使いかけの縄をまとめた場所まであった。
レンとエリリアは明るい中央を避け、壁の陰や荷物の裏を使って進んだ。
追手はまだ二人を探している。
遠くでは何度か「見つけたか」と叫ぶ声が響き、そのたび別の場所から否定する返事が返ってきた。入口で二人を取り逃がした者たちも内部へ入っているらしく、人の動きは落ち着かない。
その騒がしさが、かえって二人を助けていた。
誰もが侵入者を探して動き回っているため、足音も物音も多い。普段なら目立つわずかな気配も、今は周囲の雑音へ紛れやすかった。
前方の角へ近づいたところで、エリリアが足を止めた。
レンも一歩手前で止まる。
「人がいます」
「何人?」
「見える範囲では二人。もっと奥にもいます」
エリリアが僅かに身体をずらし、レンもその横から先を覗いた。
通路は十数歩先で広くなり、そこで二人の男が話していた。
「頭領は?」
「奥だ。あの娘のところにいる」
レンの呼吸が浅くなる。
「もう報告は行ってる?」
「湖から上がった奴らが中まで来たってのはな。入口を抜かれたって聞いて機嫌悪そうだったぞ」
「そりゃそうだ」
二人は話しながら、広くなった通路の先へ歩いていく。
レンはエリリアを見た。
彼女も同じ言葉を聞いていた。
「あの先だ」
「ええ。ただ、近づくほど人数が増えます」
「別の道は?」
「探します」
二人は正面の通路を避け、少し戻った場所にあった細い分岐へ入った。
幅は一人が通れる程度しかない。
古い石材と後から置かれた木箱が壁際へ混じって積まれ、その間に人が通れるだけの空間が残されている。通路として造られた場所というより、物置の裏側を抜けるために使われている隙間らしかった。
レンはエリリアの後ろを進んだ。
右脚へ負担を掛けすぎないよう、一歩ずつ足場を選ぶ。濡れた靴底が石へ触れるたび、微かな音が返った。
途中で左手を一度開く。
薬指と小指の感覚は薄いままだが、休ませていた分だけ先ほどより力を入れやすい。短い時間であれば、もう一度剣を持てる。
前を行くエリリアが腰を落とした。
「ここ」
木箱同士の間に細い隙間がある。
その向こうから明かりが漏れていた。
二人は音を立てないよう近づいた。
隙間の先には、これまで通ってきた場所より広い空間が開けていた。
◇
部屋というより、小さな広間に近かった。
高い天井を支える古い柱が何本か残り、その周囲には後から持ち込まれた木箱や樽、武器を置くための簡単な台が並んでいる。複数の松明と油灯が置かれているため、ここまでの通路より明るく、見える範囲だけでも六人ほどの男がいた。
レンは周囲の人数を確かめかけ、その視線を広間の奥で止めた。
太い石柱の近くに、一人の少女が座らされている。
見間違えるはずがなかった。
黒い服は泥で汚れ、裾の一部が裂けている。両手首は身体の前で縄に縛られ、そこから伸びた別の縄が石柱の根元へ回されていた。
けれど顔は上がり、その青い目もしっかりと開いていた。
生きている。
レンは息をすることさえ忘れた。
「……アイリ」
声にはならず、唇だけが動いた。
森で最後に見た時より頬には汚れがあり、手首には縄に擦られた赤い跡が残っている。左膝にも泥がついていたが、座った姿勢に大きな崩れはなく、周囲の男たちの動きを注意深く見ていた。
縛られた両手は石柱の根元近くへ寄せられている。
よく見ると、手首を束ねた縄の一部が毛羽立っていた。
粗い石の角へ何度も擦りつけたのだろう。まだ切れてはいないものの、アイリはここへ連れてこられてから、ただ助けを待っていたわけではない。
レンの胸の奥へ、痛いほどの熱が込み上げた。
今すぐ駆け寄り、縄を切って連れ出したい。
それでも広間の中央には武器を持った男たちがいて、アイリの少し前には他の者よりひと回り大きな男が立っている。
四十前後に見えるその男は、厚い革の上着を身につけ、腰に幅広の剣を下げていた。周囲の男たちが落ち着かず入口や通路へ視線を向ける中、彼だけは石柱の近くに立ったまま、ほとんど位置を変えていない。
一人の部下が広間へ駆け込んできた。
「ヴァレク頭領!」
レンとエリリアの視線が同時に大柄な男へ向いた。
階段で聞いた名前と、目の前の男が初めて繋がる。
「何だ」
ヴァレクは怒鳴らず、低く抑えた声で答えた。それだけで駆け込んできた部下の勢いが僅かに削がれる。
「入口の二人、まだ見つかりません。中へ入ったのは間違いありません」
「人数は増やすな。ばらけすぎれば逆に抜かれる」
「ですが――」
「通路を押さえろ。奥へ来るなら来させればいい」
部下は反論を飲み込んだ。
「分かりました」
「それと、命令をもう一度回せ」
ヴァレクは周囲へ視線を向けた。
「二人とも殺すな。捕らえろ」
「はい」
部下が走り去る。
先ほど盗み聞いた命令が、ヴァレク本人から出たものだと確かめるには十分だった。
その時、アイリの顔が僅かに動いた。
広間の中央ではなく、その外側へ視線を向ける。
木箱の隙間。
レンのいる暗がりへ。
偶然かと思うより早く、アイリの青い目がレンを捉えた。
大きく見開かれる。
レンの胸が強く打った。
叫ばないでくれ。
そう願った直後、アイリは驚きに開きかけた唇を閉じ、長く見つめることさえせず正面へ視線を戻した。
その反応だけで、レンには十分だった。突然兄の姿を見ても、アイリは周囲に悟られれば何が起こるかを考えている。
エリリアがレンの袖を僅かに引いた。
まだ出るな、という合図だった。
レンも小さく頷く。
その直後、背後の細い通路から誰かの足音が近づいてきた。木箱の間でやり過ごせるだけの幅はなく、このまま留まれば背後から見つかる。
エリリアの目がレンへ向いた。
レンも頷いた。
もう隠れてはいられない。
◇
最初に広間へ出たのはエリリアだった。
木箱の陰から静かに抜けると同時に細剣を抜き、その動きへ一番近くの男が気づいた。
「いたぞ!」
広間の視線が一斉に集まる。
レンも続いて外へ出て、左手で黒銀の剣を抜いた。右上腕の傷が動きに合わせて痛みを返したため、右腕は胸の近くへ保ったままにする。
「止まれ!」
「武器を捨てろ!」
男たちが剣や槍を構える。
エリリアはレンより半歩前へ位置を取った。
広間の奥で、アイリがこちらを見ている。
もう存在を隠す意味はない。
「……お兄ちゃん」
その声を聞いた瞬間、レンの胸の奥が強く締めつけられた。
「アイリ」
名前を返すだけで精一杯だった。
アイリの視線がレンの顔から、布を巻かれた右腕と濡れた服、左手に握られた黒銀の剣へ移る。言いたいことはいくつもあるようだったが、彼女も今は口を閉じた。
ヴァレクが二人へ視線を向ける。
「随分しぶといな」
レンは答えなかった。
「あの階段を抜けて、湖へ落ちてもまだ来るか」
ヴァレクはエリリアを一度見てから、再びレンへ視線を戻した。
「ここまで来た執念は認める。だが、そろそろ終わりにしろ。剣を置け」
「断る」
レンは即答した。
「そう言うと思った」
ヴァレクに苛立った様子はない。
周囲の男たちが少しずつ位置を変え、正面から押し込むより先に左右へ広がって退路を塞ぎ始める。
エリリアもそれを見て、細剣の切っ先を僅かに動かした。
「ヴァレク」
レンが呼ぶと、男の眉が少しだけ動いた。
「名前まで聞いたか」
「誰の命令だ」
「何がだ」
「三人を生け捕りにしろって命令だよ。誰が俺たちを欲しがってる」
ヴァレクは僅かに沈黙した。
周囲の部下たちは誰も口を挟まない。
「知らん」
「知らない?」
「俺が受けたのは、三人を生きたまま捕らえろという話だけだ」
「誰から受けた」
「そいつの名までは知らん」
「そんな相手の仕事を受けたのか?」
「俺が必要なことを知っていれば、仕事はできる」
レンはヴァレクを睨んだ。
「何のために三人そろえる」
「知らん」
「アイリを先に攫った理由は?」
「お前に一つずつ説明してやる義理があると思うか?」
ヴァレクの声音は変わらなかった。
嘘をついているのか、本当に知らないのか、レンには判断できない。ただ、自分が知らない部分まで得意げに語ろうとする様子はなかった。
この男が握っているのは、三人を捕らえるという仕事と、そのために必要な範囲の命令だけなのかもしれない。
その向こうにいる者の姿は、まだ見えない。
エリリアが低い声で尋ねた。
「森の魔物については?」
ヴァレクの視線が彼女へ移る。
「何の話だ」
エリリアはそれ以上追わなかった。
答えが本当かどうかを確かめる材料もない。
レンもそこで別の出来事へ無理に結びつけることはしなかった。
ヴァレクが顎を僅かに上げる。
「質問は終わりか」
「アイリを離せ」
「それはできんな」
「なら、俺たちも武器は置かない」
「そうか」
ヴァレクは腰の幅広い剣へ手を添えた。
「一応言っておく。命令は生け捕りだ」
レンは目を細めた。
「だから何だよ」
「無傷で連れてこいとは言われていない」
周囲の男たちが、少しずつ距離を詰め始める。
レンは左手の柄を握り直した。遅れる薬指と小指へ無理に力を集めず、長く踏ん張らなくても動けるよう右脚の重心を浅く置き、傷ついた右腕は胸元へ寄せる。
万全からは程遠い。
それでも、ようやくアイリのところまで辿り着いた。
エリリアが小さく息を吐いた。
「レン」
「ああ」
「前に出すぎないでください」
「分かってる」
「本当に?」
「今回は本当に」
エリリアの口元がほんの僅かに動いた。
広間の奥では、アイリが縛られた両手を膝の近くへ引き寄せている。
動きは小さい。
それでもレンには見えた。
毛羽立った縄を、彼女はもう一度石柱の粗い角へ押し当てている。
アイリもまだ諦めていない。
レンは妹から視線を外し、目の前の男たちへ戻した。
「ヴァレク頭領」
横にいた男が声を掛ける。
「どうします?」
ヴァレクはようやく腰の幅広い剣を抜いた。
鈍い金属音が広間へ響く。
「武器を落とす気はなさそうだ」
エリリアの細剣が僅かに上がり、レンも黒銀の剣を胸の前へ置いた。
ヴァレクは周囲の部下たちを一度見渡した。
「殺すな」
その一言で、男たちの構えが変わる。
「三人とも、生け捕りだ」
命令が広間へ響き、周囲を囲んでいた者たちが一斉に動き始めた。
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