第一章 第五十一話 遺跡前の屍
石段の脇へ倒れた男は、ぴくりとも動かなかった。
レンとエリリアは低い壁の陰に身を寄せたまま、すぐには近づかなかった。
大きな石造りの入口までは、もう遠くない。左右に残る太い壁と、その上へ渡された横石の向こうには暗い空間が続き、入口の周囲に立てられた松明が古い石床へ橙色の光を落としている。
その光の端に一人目の男が倒れ、さらに奥、入口近くの柱の陰にも別の人影が横たわっていた。どちらも動かないが、周囲から人の気配が消えたわけではない。
少し離れた木箱の向こうを槍を持った男が横切り、さらに奥からは二人分の話し声が聞こえてくる。湖側からも捜索を続ける怒鳴り声が時折届いていた。
エリリアは細剣の切っ先を低く保ちながら周囲を見た。
「今なら、最初の一人までは行けます」
「罠じゃない?」
「その可能性はあります」
レンは倒れている男へ視線を戻した。黒っぽい服に革の腰帯を身につけ、伸びた右手の先には短剣が落ちている。この天坑で何度も見てきた者たちと、装備に大きな違いはなさそうだった。
「近くまで行って、すぐ戻れる位置を取ろう」
「ええ」
エリリアが先に動いた。
低い壁から倒れた柱の陰へ移り、そこで一度止まる。レンもその後ろへ続いた。
右脚の奥には重い痛みが残っているため、急に速度を上げず、左脚から安定した場所へ入る。右上腕は先ほど巻き直したことで揺れが減っていたものの、身体を捻るたび傷の奥から鋭い痛みが返った。
レンは右腕を胸の近くへ置き、左手を腰の黒銀の剣から離さないまま柱の陰へ入った。
そこまで来ると、倒れている男の顔が見えた。
大人の男だった。
それを理解した瞬間、レンは自分が何を恐れていたのかをようやく自覚した。胸の奥を塞いでいた息が僅かに抜ける。
「アイリじゃない」
ほとんど息に近い声だった。
エリリアはレンを見ず、男から目を離さないまま答えた。
「ええ」
二人はさらに数歩近づいた。
男は仰向けに近い姿勢で倒れている。胸元の服は大きく裂け、その下には黒く乾き始めた血が広がっていた。右手は身体の横へ伸び、短剣は指先から僅かに離れた石床へ落ちている。
エリリアは屈み込まず、立った位置から男の装備を確認した。
「同じ連中ですね」
「ああ」
腰帯には、この場所で見てきたものと似た革袋が下がっている。厚い靴底も、森から追ってきた者たちが残していた足跡とよく似ていた。
胸元の衣服には鋭い刃で裂かれたような跡がある。しかし、それだけで誰に斬られたのかまでは分からない。
「ここで戦ったのかな」
「少なくとも、この近くで傷を受けたのでしょう」
エリリアが石床へ視線を落とした。
男の身体の下から伸びた血の跡が、入口側へ数歩ほど擦れるように続き、そこで途切れている。
「もう一人も見ます」
「分かった」
二人は最初の男を跨がず、柱の外側を回って二人目が見える角度へ移った。
入口に近い場所で横向きに倒れているのも、大人の男だった。片手にはまだ剣が残り、刃先を石床へ触れさせた腕が前へ伸びている。肩から背中にかけて衣服が裂け、その周囲に血が滲んでいた。
レンは二人の装備を見比べた。
「同じ側みたいだな」
「装備を見る限りは」
「誰とやったんだろ」
「分かりません」
エリリアは周囲にも視線を配りながら続けた。
「ここにいる者同士で争ったのか、別の誰かと戦ったのか、今見えているものだけでは決められません」
「……そうだな」
レンは二人の亡骸から、その先の入口へ視線を移した。
周囲の者たちはこの一帯を捨てていない。それどころか、湖から逃げ込んだレンたちを探す声は今も近づいている。入口のすぐ前で仲間らしい者が二人死んでいるにもかかわらず、人の出入りそのものは続いていた。
ここで何があったのかは分からない。
それでも、先へ進むなら目の前の入口を避けては通れなかった。
「行くしかないな」
「ええ。ただ、正面をそのまま横切れば見つかります」
エリリアは石段までの道を見渡した。
入口との間には広い石床があり、崩れた柱や低い壁が点々と残っている。外側の遺構より身を隠せる場所は少なく、松明の光も届いていた。
右手側には三つ積まれた木箱があり、その先には半ば崩れた石柱が立っている。左手側にも倒れた壁の残骸が低く続いているが、入口までは届いていない。
「右から行きます」
「木箱の裏まで?」
「そこから柱へ。入口の右側なら正面より影があります」
「分かった」
レンは一度左手を開いた。
薬指と小指の感覚は薄いが、まだ剣を抜く必要はない。今は速さよりも、気づかれずに入口へ近づくことの方が重要だった。
◇
二人は周囲の動きを見計らい、最初の木箱の陰へ移った。
身を寄せた直後、遠くで男の声が響く。
「見つかったか!」
「まだだ!」
「入口の周りも見ろ!」
声は近づいてこない。
エリリアが次の石柱へ視線を向け、レンもその先を確認した。
十数歩先の柱までには松明の光が一部落ちている。ちょうどその向こうを剣を持った男が一人横切ったため、二人は箱の陰で動きを止めた。
男は湖側へ顔を向けたまま歩き、こちらへ気づかない。その姿が別の壁の向こうへ消えるまで待ってから、エリリアが小さく合図した。
「今です」
彼女が先に木箱の陰を出て、レンがその後を追った。
右脚へ無理な力を入れない範囲で歩幅を広げ、松明に照らされた場所をできるだけ短く横切る。
柱の陰へ入ったところで、右上腕へ鋭い痛みが返った。
レンは一瞬息を詰めたが、声は出さなかった。
エリリアが横目でこちらを見る。
「腕?」
「平気。行ける」
彼女もそれ以上は聞かなかった。
入口はすぐ近くまで迫っている。
数段だけの石段の先に大きな開口部があり、その左右には後から置かれた松明台が立っていた。足元には縄の束や木箱が積まれ、石床には新しい靴跡が何重にも残っている。
レンは入口の奥へ目を凝らしたが、松明の光は途中までしか届かず、その先は濃い影に沈んでいた。
エリリアが小さく息を吐く。
「次で入ります」
「ああ」
その時、入口の内側から二人の男が現れた。
先頭は剣を持ち、その後ろには短い槍を構えた男が続いている。
剣士が石段を下りかけ、柱の陰にいるエリリアへ顔を向けた。
目が合った。
「いたぞ!」
エリリアが細剣を上げる。
「入ります!」
「分かった!」
男たちが下りてくるより早く、エリリアが前へ出た。
剣士が振り下ろした刃を正面から受けず、半歩横へ外れながら細剣の切っ先を相手の手元へ寄せる。剣士が反射的に腕を引いた隙に、レンも柱の陰から出た。
左手で腰の黒銀の剣を抜き、右脚へ無理を掛けない歩幅のまま石段へ距離を詰める。
槍の男がエリリアの横から穂先を伸ばした。
狙われたのはレンだった。
レンは黒銀の剣を胸の前へ置き、穂先へ力をぶつける代わりに剣身を斜めに触れさせた。槍の軌道が僅かに外れ、衝撃で左手の中の柄が揺れる。
押し返そうとはせず、そのまま石段側へ一歩だけ位置を変えた。
槍の男が追って踏み込む。
だが入口では、エリリアと剣士が一方を塞いでいる。長い槍を自由に扱える幅はなかった。
レンが切っ先を男の胸元へ向けると、相手の足が止まった。
「こいつ、右腕を――」
男の声が途切れる。
エリリアの細剣が剣士の手元へ走り、刃同士が短く擦れたことで、剣士が身体を引いたからだ。
「レン、上!」
レンは石段へ一段上がった。
右脚へ重さが返るため、左脚から次の段へ入る。
横から槍が突き出される。
レンは剣身を短く合わせて穂先を石壁側へ流した。槍先が壁に触れて乾いた音を立て、その隙にさらに一段上がる。
エリリアも剣士を牽制しながら石段へ後退した。
追ってきた男の手首近くを細剣が浅く掠める。
「っ!」
剣士が怯んだ。
二人はそこで相手を倒し切ろうとはしなかった。
「中へ!」
エリリアの声に、レンはそのまま入口を越えた。
彼女もすぐ後ろへ続く。
槍の男が追おうとしたため、レンは左手の黒銀の剣を通路へ斜めに構え、入口側へ切っ先を向けた。勢いのまま入れば剣先へ身体を近づけることになるため、男は足を止める。
その間にエリリアがレンの横へ戻った。
二人はさらに数歩、内部へ入る。
「追え!」
「頭領へ知らせろ!」
背後で怒鳴り声が響いたが、二人は立ち止まらなかった。
◇
入口を抜けると、空気の感触が変わった。
外から流れ込んでいた煙の臭いが薄れ、代わりに冷えた石と湿気の匂いが強くなる。足音も壁と高い天井へ反射し、実際より近く聞こえた。
通路は数人が並んで歩けるほど広く、左右には大きな石が隙間なく積み上げられている。入口から届く橙色の光は奥まで届かないが、壁の窪みには後から差し込まれた松明があり、その下には油を入れた小さな容器が置かれていた。
片側には木箱や革袋、縄がまとめられ、床には外から持ち込まれた泥の靴跡が何重にも残っている。古い石造りの中へ、今ここを使っている者たちの生活が重なっていた。
レンは走らず、右脚が保てる速度でエリリアの後ろを進んだ。
「左へ」
少し先で通路が二つに分かれていた。
右側は松明が多く、人の声も聞こえる。左側は暗く、壁際に荷物が積まれていた。
二人は左へ入った。
すぐに背後から複数の足音が入口を越えてくる。
「中だ!」
「二手に分かれろ!」
レンは進みながら、左手に持つ剣の感覚を確かめた。
薬指と小指の反応がまた遅れている。長く握り続ければ、次に必要になった時の方が危うい。
「もう少し先で隠れます」
エリリアが低い声で言った。
「ああ」
通路の左側に、扉のない小さな空間が見えた。
中には空の木箱や壊れた椅子らしいものが置かれている。
二人はそこへ入り、通路から直接見えない壁際へ身を寄せた。
数秒後、男たちの足音がすぐ外を通り過ぎる。
「左は?」
「奥まで見ろ!」
「お前は右へ回れ!」
声と足音が遠ざかるまで待ち、レンは黒銀の剣を鞘へ戻した。
左手を開くと、薬指と小指の感覚はかなり遠くなっている。今のうちに休ませておけば、必要な時にはまだ握れるはずだった。
エリリアも細剣を下げ、静かに息を整える。
「追手、増えてきたな」
「入口を抜けたのが知られましたから」
「戻れないか」
「戻る理由もありません」
「そうだな」
レンは部屋の外へ視線を向けた。
通路の奥へ新しい靴跡が続いている。外側のように無秩序に散ってはおらず、分岐を挟みながらも人の流れはさらに奥へ向かっていた。
「どっちへ行く?」
「人の動きが多い方を追いましょう。この先で通路同士が繋がっているかもしれません」
レンは頷いた。
森から追ってきた痕跡は、この入口まで途切れず続いていた。さらに内部へ向かう人の流れがある以上、少なくともここで追跡をやめる理由はない。
二人は再び通路へ出た。
◇
内部へ進むほど、外の音は遠くなった。
代わりに、人がここで生活している気配が濃くなる。
壁際には毛布がまとめられ、半分ほど水の残った桶や空になった食器、武器の手入れに使ったらしい布が置かれていた。長い年月を経た石壁には欠けや擦れた跡が残り、その上へ松明の煤と新しい泥汚れが重なっている。
レンはエリリアの後ろを進みながら周囲を見た。
どれほど奥まで続くのかは分からない。
ただ、外から見た以上に広い場所であることだけは確かだった。
前方から声が聞こえ、二人は同時に歩みを止めた。
角の向こうに複数の人間がいる。
「湖の方はどうなった!」
「階段は駄目だ! 火がまだ残ってる!」
「侵入者は?」
「中へ入った。二人だ!」
別の声が重なる。
「入口の連中は何してた!」
「抜かれたんだよ! 頭領へ知らせに行った奴もいる!」
エリリアがレンへ視線を向ける。
二人は角の手前で壁へ寄った。
声の主たちは近く、少なくとも三人以上いる。正面から進めばすぐ見つかるため、レンは周囲を確認した。
右側の壁には浅い窪みがあるものの、置かれた木箱二つだけでは身を隠しきれない。左側には細い横道が伸びていた。
エリリアがその奥を確認する。
「少し入れます」
「行こう」
二人は横道へ入り、数歩先の曲がり角まで進んだ。
石壁を一枚隔てたことで姿は隠れたが、向こうの会話は先ほどよりはっきり聞こえる。
「それで、どうするんだ?」
「何がだ」
「侵入者だよ。二人とも武器持ちだろ」
「知らねえよ。勝手に決められるか」
「頭領の指示は?」
短い沈黙が落ちた。
レンは呼吸を浅くし、エリリアも身動きせず声の続きを待った。
向こうで誰かが足を踏み替える。
「さっき伝令が戻った。頭領からの命令は――」
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