↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
50/109

第一章 第五十話 傷だらけの二人

燃える木段の光を背に、レンとエリリアは崩れた石造物の奥へ進んだ。


 湖から離れるにつれて水音は遠ざかっていったが、追手の声は消えない。石壁に挟まれた細い隙間の向こうから複数の足音が響き、別の方向では誰かが仲間を呼んでいる。天坑の底に散らばっていた者たちが、二人の逃げ込んだ範囲を少しずつ狭めているのだろう。


 レンは黒銀の剣を左手に持ったまま、エリリアの後ろを歩いた。


 濡れた服が身体へ張りつき、一歩ごとに重さを増しているように感じる。右上腕へ巻かれた当て布も湖水を吸いきっており、外側へ滲んだ赤が袖まで広がっていた。血が勢いよく流れている感覚はないものの、布が濡れたままでは圧迫も安定しない。


 右脚には湖を泳いだ疲労まで加わり、平らな場所を歩くだけでも奥に鈍い熱が残った。剣を握る左手も、親指から中指まではまだ働いているが、薬指と小指の反応が少しずつ遅れている。


 前を歩くエリリアも普段の足取りではなかった。細剣を下げることなく周囲への警戒を続けているものの、濡れた銀髪が背中へ張りつき、呼吸はまだ深い。階段から落ちる直前に使った風と、そこから湖を泳いで抜けた負担が身体へ残っているのだと分かる。


「このままじゃ腕がまずいですね」


 エリリアが小声で言った。


「分かってる」


「分かっている人は、もう少し顔に出さないものです」


「そんなに出てる?」


「かなり」


 レンは何か返そうとしたが、前を行くエリリアが急に片手を上げたため口を閉じた。


 二人は動きを止める。


 右前方から足音が近づいていた。


「二人いたはずだ!」


「湖側を見ろ! こっちは奥まで確認する!」


 声はまだ一枚向こうの壁の裏から聞こえる。


 エリリアは周囲を見回し、左手側にある半ば崩れた石壁と倒れた柱の間へ視線を止めた。そこには二人で入れば余裕がほとんどなくなる程度の窪みがあり、少なくとも外から直接見通される場所ではない。


「こっち」


 二人は音を立てないよう窪みへ入った。


 エリリアが先に身を寄せ、レンも続く。石壁の外を二人分の足音が通過し、武器か防具の金属が石へ触れる微かな音まで聞こえた。


「向こうだ。まだ濡れてる足跡がある」


「頭領にも知らせろ。湖から上がった二人が中へ入ったってな」


 声が遠ざかっていく。


 レンは息を吐いた。


「濡れたままだと隠れにくいな」


「その前に腕です」


「今?」


「今です。次にいつ止まれるか分かりません」


 エリリアは細剣を鞘へ戻した。


 レンも黒銀の剣へ目を落とす。


「それも戻してください」


「分かった」


 右腕を身体へ寄せたまま、レンは左手で剣先を腰の鞘へ運んだ。湖へ落ちる前より左手はさらに疲れており、剣先が僅かに揺れる。レンは腰を動かして鞘口へ角度を合わせ、刃を慎重に収めた。


 エリリアはそれを確認すると、右上腕へ巻かれた布へ手を伸ばした。


「外側だけ替えます。傷に当ててある布は動かしません」


「ああ」


「痛かったら言ってください」


「言っても止めないだろ」


「必要なら止めます」


「必要じゃなかったら?」


「続けます」


「だと思った」


 エリリアは濡れた外側の布を少しずつ緩めた。


 圧が弱まった瞬間、傷の奥で脈打つような痛みが強くなる。


 レンは歯を噛み合わせた。


「痛い?」


「少し」


「それは少しの顔ではありません」


「じゃあ、結構」


「分かりました」


 内側の当て布には赤が残っていたが、エリリアはそこへ不用意に触れず、手のひらで上から一定の圧を掛けた。


「押さえます」


「うん」


 レンは壁へ左肩を預けた。


 窪みの奥には誰かが使っていたらしい木箱と破れた麻袋が置かれている。エリリアは手の届く範囲を見回し、木箱の上に重ねられた麻布へ目を止めた。


「これを使います」


「大丈夫か?」


「傷には直接触れさせません。外から固定するだけです」


 彼女は比較的汚れの少ない部分を選び、細長く裂いた。


 レンの上腕を胸元に近い位置へ保ったまま、濡れた巻き布の代わりに新しい麻布を重ねていく。締めつけすぎないよう指を差し入れて何度か確かめ、最後に結び目を傷から外れた位置へ置いた。


「右手の指、動かしてください」


 レンは右手を僅かに前へ出した。


 五本の指を順番に曲げてみると、どれも動いた。軽く握る程度ならできる。ただ、そこから腕へ力を伝えようとした途端、上腕から肩へ鋭い痛みが走った。


 レンはすぐ指を緩める。


「動く。軽くなら握れる」


「それ以上は試さなくていいです」


「分かってる」


「本当に?」


「……たぶん」


 エリリアは小さく息を吐いた。


 巻き直された右腕を胸の近くへ戻すと、濡れた布がずれていた時よりは安定した。痛みが消えたわけではなく、肩へ力を入れればすぐ傷の奥から鋭い感覚が返ってくる。それでも、腕を揺らさず歩くには先ほどよりましだった。


「ありがとう」


「まだ礼を言うところではありません」


「どうして?」


「外へ出られてから言ってください」


「それ、かなり先じゃない?」


「なら忘れないでください」


 レンは僅かに笑った。


 その程度の動きでも、自分がどれほど疲れているのか分かる。


 目の前のエリリアも似たようなものだった。湖水を吸った黒い服には泥と裂け目が残り、煤に汚れた銀髪と深い疲労が、ここまでの道のりをそのまま身体へ刻んでいるように見える。


 レン自身も濡れた服と血の滲んだ包帯をまとい、まともな状態からは程遠かった。それでも二人はまだ自分の足で立っている。それだけあれば、今は先へ進めた。


     ◇


 追手の声が再び近づく前に、二人は窪みを出た。


 石造物の間へ進むにつれて、この場所が単なる崩れた遺構ではなく、今も人の手で使われていることがはっきりしてきた。


 古い石壁の内側には後から打ち込まれた木の杭があり、そこへ外套や革袋が掛けられている。崩れた部屋の一角には粗末な寝具が並び、その近くには食べかけの干し肉や空の器が残されていた。別の壁際には槍や弓を立てるための簡単な木枠が置かれ、刃を研ぐための石まで転がっている。


 作られた時代も本来の用途も分からない石造物へ、今の住人が自分たちに必要なものだけを持ち込んでいる。


 レンは足元を見た。


 土と砂の薄く積もった床には、無数の靴跡が重なっている。


「こっちの方が多い」


「ええ」


 エリリアも歩みを止めずに確認した。


 湖側から来る足跡だけではない。外側の簡易な寝床や荷物置き場から、さらに奥へ向かう靴跡が集中している。


 その先には崩れた壁の切れ目があった。


 二人はそちらへ進んだ。


 途中、レンの右足が大きめの石へ乗った。


 体重を移した瞬間、膝の奥に鈍い痛みが走り、歩幅が反射的に短くなる。


 エリリアが振り返った。


「脚?」


「大丈夫。ちょっと重いだけ」


「速度を落とします」


「いや、今のままでいい」


「走る気ではないでしょうね」


「走らない」


 答えながらも、レンの視線は前へ向いたままだった。


 この場所へ入ってから初めて、ばらばらだった痕跡が一つの方向へ集まり始めている。


 アイリを連れ去った者たちは、この天坑まで来た。


 そして今、ここには人が住みつき、その生活の流れがさらに奥へ続いている。


 一刻も早く確かめたいという気持ちに押されて歩幅を上げれば、右脚の痛みがすぐそれを止める。ここで動けなくなれば、確かめるべき場所へ辿り着くことさえできない。


 レンは自分で歩調を整えた。


 止まらず、焦って速度を上げもしない。今の身体で維持できる速さを崩さず、エリリアの後ろを進む。


 壁の切れ目を越えたところで、彼女が突然しゃがんだ。


「レン」


「何?」


 エリリアが足元を指す。


 粗い石の角に、細い黒い糸が引っ掛かっていた。


 レンは息を詰めた。


 ほんの僅かな繊維だった。


 それだけなら、この場所にいる誰の服から落ちたものでもおかしくない。だが森でアイリを追っていた途中にも、似た色の繊維を見ている。


 レンは指を伸ばしかけ、途中で止めた。


「アイリの……?」


「断定はできません」


「分かってる」


 エリリアも糸には触れなかった。


「でも、この方向を確かめる理由にはなります」


「ああ」


 レンは立ち上がった。


 先へ踏み出そうとした右足が僅かに速くなり、膝の奥から重い痛みが返る。


 レンはそこで自分から歩幅を抑えた。


 エリリアは何も言わず、ただ先へ向き直る。


 二人は黒い繊維をその場に残し、さらに奥へ進んだ。


     ◇


 石壁の並びが変わった。


 外側では崩れた部屋が不規則に連なっていたが、この辺りには通路らしい幅が残っている。左右の壁も高くなり、所々に置かれた松明が濡れた石床へ光を落としていた。明かりの数と人の声が増え、壁際へ寄せられた荷物や床から片づけられた瓦礫を見ても、人が頻繁に行き来していることが分かる。


 レンとエリリアは松明の明かりを避け、壁沿いの暗い側を進んだ。


 前方から声がする。


「湖側は?」


「見失った。中へ入ったらしい」


「なら分かれて探せ」


「入口の方にも伝えろ。抜けられたら面倒だ」


 エリリアが足を止めた。


 レンも壁際へ寄る。


 声は近く、二つの足音がこちらへ向かってくる。さらに後方からも別の足音が聞こえ始めた。


 レンは周囲を見た。


 右側には崩れた壁があり、左側には開いた小部屋があるものの、奥は行き止まりに見える。正面から来る二人が通り過ぎるまで身を隠せる場所へ移るには、もう距離が足りなかった。


「避けられないな」


 レンが囁く。


「短く済ませます」


 エリリアは細剣を抜いた。


 レンも左手を腰へ伸ばし、黒銀の剣をゆっくり引き抜いた。


 柄を握った瞬間、薬指と小指の反応が僅かに遅れる。親指から中指までで位置を安定させ、切っ先を低く前へ向けた。


 二人の男が角を曲がった。


 先頭は剣を持ち、その後ろには片手斧を構えた男が続いている。


 剣士がエリリアを見て目を見開いた。


「いた――」


 声が最後まで続く前に、エリリアが踏み込んだ。


 細剣が男の顔ではなく、剣を持つ手元へ走る。


 男は反射的に武器を引き、後ろの斧使いが前へ出ようとした。


 狭い通路では二人が並べない。


 エリリアは一歩だけ下がり、先頭の剣士が追ってきたところで身体を半歩横へずらす。男の剣が石壁へ寄った瞬間、細剣がその内側へ入り、手首の近くを浅く裂いた。


「っ!」


 剣士が腕を引く。


 その身体へ、後ろから出ようとしていた斧使いがぶつかった。


 二人の動きが一瞬重なる。


「今」


 エリリアが言った。


 レンは彼女の横を無理に抜けず、壁の切れ目へ身体を寄せた。


 そこには崩れた柱と壁の間に、人一人が通れるほどの隙間がある。暗がりに紛れて先ほどまでは見えなかった場所だった。


 エリリアが剣士を牽制しながら、レンへ道を作っている。


 レンが隙間へ入ろうとした時、後方の足音が近づいた。


「後ろ!」


 振り返ると、槍を持った男が一人、通路へ姿を現している。


「逃がすか!」


 槍の穂先が前へ出た。


 レンは隙間の入口へ立ち、自分から距離を詰める代わりに、狭い通路へ黒銀の剣の切っ先を置いた。槍の男が追うには、先にその間合いへ身体を入れなければならない。


 男は足を止める。


「その腕で何ができる!」


 レンは答えず、切っ先だけを僅かに上げた。


 槍が伸びる。


 レンは力で払い返さず、剣身を斜めに添えて穂先の向きを壁側へ変えた。


 金属が擦れる。


 衝撃で左手の中の柄が僅かに動いたため、レンは押し返そうとせず、槍が逸れた隙に一歩後ろへ下がった。


「レン!」


 エリリアは既に隙間へ入っている。


「ああ!」


 レンも続いた。


 槍の男が追おうとしたが、狭い入口では長い武器が壁へ当たる。


 前方にいた剣士と斧使いも態勢を立て直したらしく、怒鳴り声が響いた。


「裏へ回れ!」


「頭領に知らせろ! 奥へ抜けるぞ!」


 二人は振り返らなかった。


     ◇


 柱と壁の隙間を抜けると、その先は斜めに下る狭い通路へ続いていた。


 整えられた道ではなく、崩落した石材の間を人が通るうちに踏み固められたような場所だった。


 レンは剣を左手に持ったまま、エリリアの後ろを進む。


 下り坂では右脚へ負担が戻り、足を置くたび重さが増していく。左手の握りも長く続けるほど不安定になっていたが、追手の声はまだすぐ背後までは来ていない。先ほど抜けた狭い隙間が、長い武器を持つ者たちの足を少しだけ遅らせていた。


「一度、剣を戻した方がいいです」


 エリリアが前を向いたまま言う。


「まだ来るかもしれない」


「だからです。握れなくなる前に戻してください」


 レンは左手の感覚を確かめた。


 薬指と小指が、確かに先ほどより遅い。


「……分かった」


 通路が少し広がった場所で足を止め、黒銀の剣を鞘へ戻した。


 今ここで無理に握り続けるより、次に本当に必要になった時へ残しておく方がいい。


 レンは左手を一度開き、薄くなった薬指と小指の感覚を確かめてから前を見る。


「行こう」


「はい」


 二人は歩き出した。


 通路の先では、これまでより多くの松明が揺れ、人の声も重なっている。


 壁の隙間から覗くと、前方には外側の崩れた建物より大きな空間が広がっていた。石床の上には木箱や樽が集められ、その間を武器を持った男たちが行き来している。


 さらに奥には、これまで見てきたものより明らかに大きな石造りの入口があった。


 左右には太い石壁が残り、その上を一本の大きな横石が渡っている。長い年月を経て角は欠けているが、入口そのものは形を保ち、松明の光が届かない奥には黒い空間が口を開けていた。


 レンは息を詰めた。


「あれ……」


「ええ」


 エリリアも暗い入口を見ている。


 何のために作られた場所なのかは分からない。


 ただ、人の出入りは多い。


 石床に残る新しい靴跡も、外側の建物へ散るものより入口の方向へ集中していた。


 レンは周囲を確認する。


「ここを通るしかない?」


「今のところは」


「さっきの糸も、この方向だった」


「ええ。ただし、アイリがあの中にいるとはまだ決められません」


「分かってる」


 そう答えても、レンは入口から視線を外せなかった。


 森から追ってきた痕跡が天坑へ入り、人の使う木段を経て、この場所まで続いている。そして今、足元の新しい靴跡もさらに奥へ向かっていた。どれか一つだけなら決め手にはならないが、追ってきた方向そのものはまだ途切れていない。


「行こう」


 レンが言った。


 エリリアはすぐには動かず、周囲の人影と入口までの距離を見た。


「正面からは無理です」


「右は?」


「見てみます」


 二人は入口へ直接続く石床を避け、壁沿いに移動した。


 追手が後ろから来る前に進まなければならない一方、走れば周囲の男たちから丸見えになる。レンは右脚の痛みに任せて無理に速度を上げず、エリリアの動きへ合わせながら、低い壁や倒れた柱、積み上げられた木箱の陰を順番に渡って距離を詰めた。


 最後の低い壁へ身を隠す。


 そこから入口までは、もう遠くない。


 レンは次に進める場所を探し、暗がりへ目を凝らした。


 最初は、石段の脇へ外套が落ちているのだと思った。


 だが輪郭がおかしい。


 布の端から靴が出ている。


「エリリア」


 レンの声が低くなる。


「見えています」


 二人は数歩だけ近づいた。


 暗がりの中で輪郭がはっきりしていく。


 黒っぽい服を着た男が、石段の脇へ倒れていた。


 ぴくりとも動かない。


 レンがさらに奥へ目を向けると、入口近くの柱の陰にも、もう一つ人の形をしたものが横たわっていた。


 エリリアの細剣が静かに上がる。


 レンも腰の黒銀の剣へ左手を添えた。


 二人は倒れている者たちへ近づきすぎず、その向こうで暗く開く大きな石の入口を見つめた。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。