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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
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第一章 第四十九話 湖からの生還

暗い水の中で揺れる銀色の髪へ向かい、レンは左手で水を掻いた。


 右腕は胸元へ寄せたまま大きく動かさない。右脚は蹴るたびに重さを返してくるが、力そのものは残っていた。左脚と合わせて水を押し、少しずつエリリアとの距離を詰めていく。


 水面から届く赤い光が、彼女の白い横顔を僅かに照らした。


 目は閉じているものの、身体は沈み続けてはいなかった。片腕が水の中で僅かに動き、沈んだ勢いを止めようとしている。


 レンはさらに近づき、左手で彼女の袖を掴んだ。強く引く余裕はなく、自分にも、もう一人を抱えて泳げるだけの力は残っていない。


 袖を二度短く引くと、エリリアの目が開いた。


 最初は焦点が合っていなかったが、目の前にいるレンを認識すると、彼女の表情が僅かに変わる。


 レンは赤い光が揺れている頭上を指した。


 エリリアも視線を上げ、すぐに小さく頷く。


 レンは袖から手を離した。


 二人は互いの姿を確認できる距離を保ちながら、水面へ向かって泳ぎ始めた。


 エリリアは自分の力で腕を動かしている。動きは普段より鈍く、先ほど風を使った疲労が全身に残っているのが水中でも分かったが、浮上する方向を見失ってはいない。


 レンも左手で水を掻き、脚で身体を押し上げる。


 肺が苦しくなっていた。


 右上腕へ巻かれた布は完全に水を吸い、傷の周囲へ重く張りついている。冷たさの奥から痛みが脈打ち、身体を伸ばすたび肩まで響いた。


 それでも頭上の光は近づき、エリリアもすぐ横を上がってくる。


 レンは最後に一度だけ強く水を蹴った。


 頭が水面を破った。


     ◇


「っ、は……!」


 肺へ空気が入った瞬間、レンは激しく咳き込んだ。


 水面には煙と灰の臭いが漂っている。


 背後では燃えた木段の一部がまだ岩壁に引っ掛かり、炎を上げながら崩れていた。火の粉が天坑の暗い空気へ舞い、落ちた木片が湖へ触れるたび、短い蒸気と水飛沫が上がる。


「エリリア!」


 レンは水を蹴りながら周囲を見る。


 すぐ右手側で水面が揺れた。


「……います」


 銀色の髪が水面から現れる。


 エリリアも息を吸い込んだ直後に咳き込んだが、自分で顔を水の上へ保っていた。


「大丈夫?」


「今は……話すより、泳いだ方がいいです」


「賛成」


 二人は短く互いの顔を確認した。少なくとも今は、どちらも生きていて、自分の力で動くことができる。それだけ分かれば十分だった。


 レンは周囲を見渡した。


 落下した場所から最も近い岸は階段の根元に近いが、そこには既に複数の人影が集まり始めている。炎から退避していた者たちが湖へ視線を向け、崩落の跡を確認していた。


 やがて一人が水面を指差した。


「いたぞ!」


 声が湖へ響く。


「生きてる!」


「岸へ回れ!」


 レンは舌打ちした。


「見つかった」


「正面の岸は駄目です」


 エリリアも呼吸を整えながら湖岸を見る。


 階段から少し離れた左手側には、崩れた石壁が水際まで伸びている場所があった。古い石造物の一部なのか、積まれていた大きな石が崩れたのかまでは分からないが、岸が複雑に入り組み、湖側へ突き出した岩が陸からの視線を遮っている。


「あそこ」


 レンが言う。


「ええ。正面よりは見えにくいです」


「行ける?」


 エリリアは一度だけ深く息を吸った。


「行きます」


 レンは頷き、二人は崩れた石壁の方へ向きを変えた。


 泳ぎ始めると、身体の状態が改めてはっきりした。


 右腕を泳ぎに使えば傷を大きく動かすため、レンは左腕を中心に水を掻いた。右腕を胸元へ寄せた姿勢では身体が僅かに傾くので、その分だけ脚で方向を直さなければならない。


 長時間酷使してきた右脚にも、強く蹴るたびふくらはぎの奥から鈍い痛みが返ってくる。レンは左脚を中心に水を押し、右脚は身体の向きと浮力を保つ程度に使った。


 速度は出なかったが、崩れた石壁との距離は少しずつ縮まっていた。


 隣ではエリリアも自分の力で泳いでいる。動きはレンより整っているものの、息継ぎをするたび普段より大きく肩が上下していた。階段から落ちる直前に使った風の負担が、まだ身体へ重く残っているのだろう。


 レンは彼女へ近づきすぎず、数回水を掻くごとに横を見る。


 助けようとして互いの動きを妨げれば、二人とも沈みかねない。


 エリリアも同じようにこちらを確認していた。


 湖岸から怒鳴り声が続く。


「左へ行ったぞ!」


「回り込め!」


 水面へ矢が刺さり、レンの少し前で小さな水柱が上がった。


「矢!」


「止まらないで!」


 続いてもう一本が飛んできたが、今度は二人から離れた水面へ落ちた。


 岸から水面近くの相手を狙う角度は浅く、煙も視界を横切っている。階段の火を避けるため射手たち自身も位置を変えているらしく、連続した射撃にはなっていなかった。


 レンは大きく進路を変えず、崩れた石壁へ向かう角度を維持した。エリリアも残った力を魔法へ回さず、自分の手足だけで水を進んでいく。


 その時、背後から轟音が響いた。


 燃えていた階段の大きな一部が岩壁から外れ、かなり離れた水面へ落下した。湖全体が揺れるほどの水音とともに波が背中から押し寄せ、レンの身体を一度持ち上げてから落とす。


 右腕の傷へ振動が響き、レンは歯を食いしばった。


 だが、その水飛沫と煙が一瞬だけ湖岸から二人の姿を隠した。


「今のうちに!」


「ああ!」


 レンとエリリアは残った力を使い、石壁へ距離を詰めた。


     ◇


 崩れた石壁の近くまで来ると、湖底が浅くなっているのが分かった。


 レンの足先が一度、石へ触れる。


「足、つく」


「こちらもです」


 二人は泳ぐのをやめ、慎重に身体を起こした。


 水はまだ胸の辺りまであり、足元には大小の石が沈んでいる。苔のついたものも多く、速く歩ける場所ではなかったが、泳ぎ続けるよりは身体を支えやすい。


 レンは左手を水から出し、腰を確認した。


 黒銀の剣は鞘に収まったままで、剣帯も外れていない。それを確かめると手を前へ戻し、まず陸へ上がることに集中した。


「そこから上がれそうです」


 エリリアが示したのは、水際へ斜めに崩れた石の列だった。


 かつて壁だったのか、岸を固めるためのものだったのかは分からない。大きな石の間には土が溜まり、その上へ草が僅かに生えている。


 エリリアが先に近づき、水中の石へ足を置いて身体を持ち上げた。一度だけ足が滑ったものの、すぐ別の場所へ置き直す。


 レンは下から見ていた。


「いける?」


「上がれます」


 エリリアは自分の力で石の上へ出た。


 そこで振り返る。


 レンも続いた。


 大きな石へ左の掌と前腕を当て、左脚を高い足場へ置いて身体を押し上げる。右脚へ力を掛けすぎないよう、最後は左膝を石の上へ乗せた。


 濡れた服は重く、腰の剣と水を吸った鞘も普段以上に身体へまとわりつく。


 レンは足場を一つずつ確かめながら高さを上げ、最後の段差を越えたところで左膝を地面についた。


 身体が前へ傾きかけたため、左の掌を地面へ当てて数秒呼吸を整える。


「レン」


「大丈夫。立てる」


 エリリアは手を出さず、彼が自分で姿勢を戻すのを待った。


 レンは左脚から立ち上がり、右脚にもゆっくり体重を移した。深い重さは残っているが、自分の体重を支えることはできる。


 湖から上がり、足元が動かなくなっただけでも身体の感覚は大きく変わった。水に引かれることも、呼吸のたびに口へ水が入ることもない。


 だが休んでいる時間はなかった。


「来ます」


 エリリアが言う。


 石壁の向こうから足音が近づいていた。


     ◇


 二人は崩れた石の陰へ移った。


 レンはそこで初めて腰の黒銀の剣へ左手を伸ばし、濡れた鞘から慎重に引き抜いた。親指、人差し指、中指を中心に柄を支え、薬指と小指へ無理に力を入れないよう構える。


 水を吸った服の袖が腕へ張りつき、右上腕の当て布も完全に濡れて、外側まで赤い色が広がっていた。


 エリリアが一瞬そこを見る。


「あとで巻き直します」


「あとで、だな」


「今は来ます」


「ああ」


 彼女も細剣を抜き、濡れた銀髪を頬へ張りつかせたまま石壁の切れ目へ切っ先を向けた。


 最初に現れたのは一人だった。


 剣を持った男が、湖沿いの石を回り込んでくる。


「いたぞ!」


 声を上げた直後、エリリアが一歩前へ出た。


 男も剣を構え、濡れた石の上を勢いのまま踏み込んでくる。


 エリリアは正面から受けず、細剣の先で剣を持つ手を牽制した。


 男が切っ先を避けようとして身体を横へずらした瞬間、足が苔のついた石へ乗る。


 靴底が滑り、身体が傾いた。


 エリリアは倒れた相手へ追撃せず、その横を抜ける。


「レン!」


「行く!」


 二人が石壁の奥へ入ろうとしたところで、別の男が正面から現れた。


 短い槍を持っている。


 エリリアは先ほどの男を避けた直後で、すぐには正面へ戻れない。


 槍の男はそれを見て、彼女ではなく後ろのレンへ穂先を向けた。


 レンは左手の黒銀の剣を持ち上げ、槍の穂先が届く位置へ切っ先を置いた。


 男が一度動きを止める。


「そいつ、右腕をやられてるぞ! 押せ!」


 後ろから声が飛んだ。


 レンは返さない。


 今の左手で力比べをすれば押し負けるため、自分から踏み込まず、黒銀の剣の切っ先を槍の男の胸元へ向けたまま崩れた石壁を背に立つ。


 相手が距離を詰めれば、先に剣の間合いへ入る。


 それを嫌った男が槍を突き出した。


 レンは穂先を強く払わず、剣身を斜めに触れさせて石壁側へ流した。


 左手の中で柄が僅かにずれたため、すぐ身体の近くへ引き戻す。


 その瞬間、エリリアが戻ってきた。


 細剣の切っ先が槍の男の手元へ走り、男は武器を引かざるを得なくなる。


「行けます」


「ああ」


 二人は再び奥へ動いた。


 背後では最初の男が起き上がり、さらに湖岸から別の足音も近づいている。三人目の人影が石壁の向こうへ現れたが、レンとエリリアは立ち止まらず、古い石の残骸の間へ進んだ。


 その時、湖側から大きな音が響いた。


 燃えながら残っていた木材が再び水へ落ち、水飛沫と蒸気が上がる。石壁の外側へ白い煙が流れ込み、追ってきた男たちの声が乱れた。


「見えないぞ!」


「回れ!」


 レンは煙へ振り返らなかった。


 その数秒を使い、エリリアとともに崩れた壁の奥へ入った。


     ◇


 石壁の裏側には、崩れた壁と岩の間にできた細い隙間が続いていた。人が一人ずつなら通れる程度の幅で、湖側から直接姿を捉えるのは難しい。


 レンとエリリアは十数歩ほど進み、外から姿が隠れる場所でようやく足を止めた。


 レンは岩壁へ左側の背を預け、荒い呼吸を整えた。湖から上がったばかりなのに喉は乾いているように感じ、服や髪からは絶えず水が滴っている。右上腕の当て布からも、薄く赤い水が流れていた。


 エリリアも呼吸を整えながら細剣を持っているが、右手は普段より僅かに下がっていた。


「大丈夫?」


 レンが聞く。


「あなたに聞かれると困ります」


「俺は聞かれてばっかりだったから」


「なら答えてください。腕は?」


 レンは濡れた布を見る。


「血は増えてると思う。でも、さっきみたいには流れてない」


「脚は?」


「重い。でも歩ける」


「左手は?」


 レンは柄を少し緩めた。


「長く握ってると遅くなる。今はまだ持てる」


 エリリアは頷いた。


「あなたは?」


 レンが聞き返す。


 彼女は一度目を閉じ、呼吸を整えてから答えた。


「泳げました。歩けます。剣も持てます」


「風は?」


「今は使いたくありません」


「使わなくていい」


「ええ」


 互いに今必要なことだけを確かめ、それ以上は続けなかった。


 湖側から男たちの声が聞こえてくる。


「こっちだ!」


「石壁の裏を探せ!」


「逃がすな!」


 捜索が広がっていた。


 レンは壁の隙間から先を見る。


 崩れた石の向こうには、さらに古い建物の影が重なっていた。欠けた柱や壁、暗い入口の間には、後から持ち込まれた木箱や布も置かれ、この一帯が今も使われていることが分かる。


 だがアイリの姿は見えない。


 どこへ連れていかれたのかも、まだ分からなかった。


 レンは左手の黒銀の剣を握り直した。


「湖からは出た」


「ええ」


 エリリアも細剣を上げる。


「でも、まだ終わっていません」


「ああ」


 燃える階段の光が、崩れた石壁の向こうで揺れていた。


 二人はその光へ背を向け、アイリを連れ去った者たちのいる石造物の奥へ進んだ。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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