第一章 第四十八話 炎に崩れる道
燃える矢は弧を描いて階段の下部へ落ち、油に濡れた踏み板へ突き刺さった。
矢尻の近くで燃えていた布から火が移ると、炎は油を伝って一気に走った。一本の板から隣の板へ、さらに手摺の根元へと赤い筋が伸び、支柱へ巻かれた縄からも黒い煙が上がり始める。
「行きます!」
「ああ!」
エリリアが先に駆け下り、レンもその背中を追った。
右脚へ強く踏み込むたび、奥に溜まっていた痛みが返ってくる。胸の近くへ寄せた右腕にも上下の揺れが伝わり、当て布の下で傷が脈打った。それでも今だけは速度を落とせない。
下にいた男たちも炎が広がるのを見るなり、階段から離れ始めた。
「下がれ!」
「石の方へ行け!」
怒鳴り声が重なり、武器を持った者たちは次々と天坑の底へ退いていく。レンたちを迎え撃とうとする者がいなくなったことで、彼らが木段を守るよりも、燃やして通れなくすることを選んだのだと分かった。
背後で火に炙られた木が弾けた。
レンは振り返らない。
「どこまで行けばいい?」
「下の折り返しです! その先なら岩壁が少し張り出しています!」
「分かった!」
二人は矢の刺さった踏み板を飛ばさず、一段ずつ速く下った。レンは右脚へ体重を預けすぎないよう左足から次の段へ入り、身体を引き寄せるようにして下降する。普段なら意識もしない動きが、今は一歩ごとに脚と右上腕へ負担を返してきた。
後ろから熱が追い、岩壁に沿って立ち上った煙が風に巻かれて階段へ戻ってくる。
「エリリア!」
「大丈夫です!」
返事はすぐに届いたが、彼女の呼吸にも余裕はない。
レンは左手に握った黒銀の剣へ目を落とした。
階段がさらに傷めば、剣で左手まで塞がっていること自体が危険になる。それでも手放すという選択肢はなかった。
次の折り返しへ先に入ったエリリアが振り返る。
「レン、ここ!」
レンも岩壁が張り出した小さな踊り場へ入った。
背後では炎が階段の外側を這い、支柱へ巻かれた縄の一本が煙を上げながら黒く縮んでいる。
「少しだけ時間ある?」
「何を――」
「剣を戻す」
エリリアはすぐに意図を理解した。
「急いで」
「ああ」
レンは右腕を胸元へ寄せたまま、左手だけで黒銀の剣を腰の鞘へ運んだ。
いつもなら身体が覚えている動作なのに、左手では剣先の向きが安定しない。薬指と小指へ十分な力が入らず、刃が鞘口の脇へ触れかけたため、レンは一度動きを止めた。
焦れば余計に遅くなる。
親指と人差し指で柄の角度を整え、腰を僅かに動かして鞘口を剣先へ合わせる。刃先が中へ入ったところで慎重に押し込み、黒銀の剣を最後まで収めた。
「よし」
「行きます」
「ああ」
二人はすぐ踊り場を離れた。
◇
油が撒かれていた場所は一か所だけではなかった。
後方から広がってきた炎は、支柱や横木を伝って別の濡れた部分へ移り、階段の外側を赤く染めていく。乾いた手摺は特に火の回りが早く、表面が黒く焦げた直後には木目に沿って細い炎が伸び始めた。
縄も熱に晒され続け、煙を出しながら少しずつ繊維を失っている。
やがて階段全体が低く軋んだ。
レンの足が僅かに止まる。
「今の……」
「止まらないで!」
エリリアの声に押され、レンはすぐ前へ進んだ。
踏み板はまだ足元にある。それでも先ほどまで人が乗るたびに鳴っていた軋みとは違い、階段全体の重さが別の支えへ移っていくような低い音が岩壁へ伝わっていた。
少し下では、油を撒いていた男たちが既に石造物の方へ退いている。階段の根元近くにいた者まで木から距離を取り始めているのを見て、レンは唇を噛んだ。
「本気で落とす気か」
「少なくとも、燃えている部分はもう使うつもりがないのでしょう」
「下まであとどれくらい?」
「遠くはありません」
その言葉とほぼ同時に、前方の視界が開けた。
湖が近い。
天坑の縁から見下ろした時には黒い面にしか見えなかった水が、今では風に細かく揺れているのまで分かる。岸へ水が触れる音も、燃える木の音の合間からはっきり届いていた。
階段は湖の近くまで下りている。
まだ地面には届かないが、あの水面なら現実の距離として見える。
「もう少しだ!」
「はい!」
二人がさらに下った直後、後方から乾いた破裂音が響いた。
続けて木材同士が強く擦れ、足元が僅かに沈む。
「っ!」
階段が外側へ傾いた。
レンは右腕を支えに使わず、身体の中心を岩壁側へ寄せた。左の掌と前腕を岩や太い支柱へ短く当て、足裏が板から外れないよう姿勢を整える。
エリリアも前方の支柱へ手を添え、すぐに重心を戻した。
上方で支えの一部が外れたらしく、燃えている区間の外側が下へ沈んでいる。踏み板にも傾きが生じ、足を置けば身体が天坑側へ流れようとした。
「まだ進める!」
「岩側を!」
二人は傾いた木段を下った。
レンは左手を必要な時だけ壁や太い支柱へ触れさせ、握り込まずに身体の向きを修正する。黒銀の剣を鞘へ戻したことで、少なくとも左手を足場の確認へ使う余地はあった。
エリリアも一段ずつ確かめながら先へ進む。
背後では火が縄の束へ回り、焼けた繊維が千切れる小さな音が連続していた。
◇
次の折り返しへ入った時、その先の階段にも油が撒かれているのが見えた。
表面が濡れた木段の向こうで、下に退いていた男の一人が松明を振り上げる。
「ここもか」
「下へ抜けます!」
男が燃える布を階段の根元近くへ投げ込んだ。
火が油を拾い、今度は前方からも赤い炎が伸び始めた。
後ろから追ってくる火と、下から迫る火。その間に残された数十段だけが、まだ二人の足場として使える。
「挟まれた」
「抜けるしかありません!」
「ああ!」
レンは再び速度を上げた。
右脚の深いところから痛みが突き上がり、一瞬だけ膝が不安定になる。それでも左足を次の段へ置いて身体を引き寄せ、転倒を避けた。
右腕は胸元へ寄せたまま揺らさない。
先を走るエリリアが、燃え始めた区間へ入る。
炎はまだ板の表面を舐めながら広がっている段階で、木そのものが崩れる前なら通り抜けられる。
「早く!」
レンも続いた。
靴底へ熱が伝わり、油の燃える臭いと木の煙が混ざって喉を刺す。
二段、三段と一気に下ったところで、木段が先ほどより激しく揺れた。
岩壁へ固定されていた横木の一つが外れ、階段の外側が大きく沈む。
エリリアの身体が傾いた。
「エリリア!」
レンは右腕を伸ばさず、左の掌と前腕を岩壁へ強く当てて自分の姿勢を保った。
エリリアも膝を落として身体の重心を低くし、傾いた板の上で足場を取り戻す。
「大丈夫!」
「そのまま!」
しかし揺れは収まらなかった。
前後から火が近づき、木材の奥で長い軋みが続いている。エリリアが足元と岩壁の接合部を見比べ、顔を上げた。
「レン。この区間、外れます」
レンにも分かった。
踏み板を支える木材が岩壁から少しずつ離れ、金具の一つが固定部から浮き始めている。
「前へ行ける?」
下を見れば、炎は既に数段先まで広がっていた。その向こうにはさらに階段が続いているものの、燃える区間を抜け切る前に今いる足場が持たなくなる。
背後で縄が切れ、階段がもう一段外側へ沈んだ。
二人の足裏が滑る。
レンは左前腕を岩へ押し当て、足で踏み板を捉え直した。左手の指だけへ体重を預けず、板が残っている間に身体を岩側へ保つ。
エリリアも傾いた木段へ片膝をつきながら姿勢を維持していた。
「エリリア!」
「岩から離れます!」
「何?」
「落ちるなら、湖側へ出ます。風で向きを変えます」
レンは天坑の底を見た。
炎を映した水面が揺れている。
高さは残っているが、木段に巻き込まれて岩壁沿いへ落ちるより、開けた水面へ出られれば生き残れる可能性はある。
「できる?」
エリリアは荒い呼吸を一度整えた。
「二人を湖側へ押します」
レンは頷いた。
「分かった」
エリリアは細剣を鞘へ戻し、片手を岩側へ向けた。
銀色の髪が、火の熱で乱れていた空気とは別の流れに持ち上がる。
風は二人と岩壁の間へ集まり、天坑の中央、湖のある方向へ抜け始めた。
その時、足元で太い木材が折れた。
◇
岩壁側に残っていた固定部を軸に、木段の一角が外側へ大きく傾いた。
燃えた支柱が岩を擦りながら滑り、衝撃に耐えられなくなった接合部が続けて外れていく。板そのものが二人の足元から逃げるように傾き、レンは岩へ当てていた左腕ごと押し出された。
足場が消えた。
エリリアもほぼ同時に宙へ投げ出される。
目の前を岩壁が流れた。
「今!」
エリリアの声と同時に、二人と岩壁の間へ集められていた風が湖側へ一気に抜けた。
レンの身体が壁から離れる。
少し前を落ちていたエリリアも同じ方向へ押し出された。
背後では燃えた木段の一部が岩壁へぶつかりながら落ち、火の粉と細かな木片を撒き散らしている。二人の軌道はその中心から外れ、徐々に開けた水面の上へ移っていった。
風が弱まると、身体は再び真下へ引かれた。
レンはエリリアを見る。
手を伸ばして届く距離ではないが、互いの姿を見失うほど離れてもいない。
「エリリア!」
彼女もこちらを見た。
レンは右腕を胸へ寄せ、左腕も身体の近くへ戻した。空中で大きく姿勢を変えず、下に広がる湖へ視線を向ける。
炎を映した黒い水が急速に近づいてきた。
小さな燃えた木片が横を落ちていく。大きな支柱は二人より岩壁寄りへ離れた場所を落下しており、エリリアの風で作られた距離はまだ保たれている。
レンは息を吸い、右脚を突っ張らせないよう身体をできるだけ真っ直ぐにした。
湖面が一気に視界を満たした。
◇
水へ入った衝撃が全身を貫き、レンの身体は冷たい湖の中へ深く沈んだ。
火の爆ぜる音も、崩れる木材の音も、人の怒鳴り声も、水面を境に遠ざかる。耳の奥には重い水音だけが残り、上下の感覚さえ一瞬失われた。
冷水が服の中へ入り込み、右上腕へ巻いた当て布まで一気に濡らした。傷口へ冷たさが届いた瞬間、鋭い痛みが上腕から肩へ走る。
レンは反射的に右腕へ力を入れかけ、すぐ身体の近くへ戻した。
左手で水を掻き、右脚も動かす。疲労の溜まった脚は重かったが、蹴ることはできた。
水の中は暗い。
それでも頭上には、燃える階段の光を映した赤と金の揺らぎが見えていた。
あそこが水面だ。
レンが身体の向きを変えた時、視界の端を白銀のものが流れた。
水中へ広がる長い髪だった。
少し離れたところに、エリリアの身体が見える。
彼女が自分で泳いでいるのかは、まだ分からない。
レンは肺に残った空気を失わないよう口を閉じ、左手で水を掻いた。右腕は身体へ寄せたまま、重い右脚でも水を蹴る。
目指したのは頭上の光ではなかった。
レンは暗い湖の中で身体の向きを変え、揺れる銀色の髪へ向かって泳ぎ始めた。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!




