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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
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第一章 第四十七話 血塗れの木段

折り返しを出たエリリアが、レンより一段先へ足を下ろした。


 それまでの二人とは、位置が逆になっている。


 エリリアは細剣を前へ向け、下から上がってくる者たちと階段の先を同時に見ていた。レンはその背後を追い、黒銀の剣を左手に持ったまま、傷ついた右腕を胸の近くへ寄せている。


 当て布を巻いた上腕には、動くたび鈍い熱が戻った。肩を大きく揺らさないよう歩いていても、階段を一段下りるたび身体へ伝わる衝撃が傷の奥へ響く。右脚には長時間の移動と戦闘で溜まった重さが残り、剣を持つ左手も、薬指と小指の感覚が少しずつ遠くなっていた。それでも足は動き、エリリアの背中を見失わない距離であれば、まだ下へ進める。


「足元、気をつけてください」


「ああ」


 レンは視線を下げた。


 木段には無数の矢が刺さっている。折れた矢柄が板の隙間へ入り込み、何本かは踏まれて短く砕けていた。その間には乾き始めた血とまだ湿った血が重なるように残り、矢に削られた木や踏み荒らされた板の上へ、靴底で引き延ばされた赤が広がっている。


 敵のものだけではない。


 レン自身の上腕から落ちた血も、その中に混じっていた。応急処置をしたことで流れる量はかなり減ったものの、完全に止まったわけではない。当て布の端には新しい赤が滲み、時折一滴ずつ木へ落ちている。


 階段の元の色が分からない場所も増えていた。夕暮れの薄暗さの中では、傷んだ木材と折れた矢、そこへ重なった血が一つに混ざり、天坑の底へ続く木段全体を黒ずんだ赤へ染めているように見える。


 エリリアは振り返らずに言った。


「見すぎないでください」


「何を?」


「足元です」


「見ないと転ぶだろ」


「血の方です」


 レンは僅かに間を置いた。


「……見てないよ」


「ならいいです」


 その声音が、信じているのかどうかまでは分からなかった。


 数段下で人影が動いた。


 剣を持った男が一人、階段の折り返しから上がってくる。その後ろにも別の影があり、エリリアはすぐ足を止めた。


 男もこちらを認めると、細い階段の中央で剣を構えた。


「下へ行かせるな!」


 エリリアは答えない。


 相手が踏み込んだ瞬間、細剣の切っ先を真っ直ぐ前へ伸ばした。


 男は剣で払おうとしたが、エリリアは刃をぶつけず、狙いを手首へ変える。男が反射的に腕を引いたため踏み込みが止まり、その隙に彼女は一段下へ入った。


 男が再び剣を振る。


 今度は岩壁側から押し込むような軌道だった。


 エリリアは半身になって刃を外へ流し、空いた脇へ細剣を差し込む。切っ先が服を浅く裂くと、男は息を詰まらせて一段退いた。


 その後ろから別の男が押し上がろうとしたが、前の一人が邪魔になって出られない。


 エリリアは深追いしなかった。


「レン、二段」


「分かった」


 彼女が相手を牽制している間に、レンは一段、さらにもう一段下りる。


 右脚へ重さが返り、身体の傾きを直そうとした瞬間には右上腕にも鋭い痛みが走った。レンは傷側の肩へ負担を掛けず、左側の背中を一瞬だけ岩へ触れさせて姿勢を整える。


 エリリアが後退してきて、二人の距離が再び縮まった。


 今はそれでいい。


 敵を倒し切る必要はない。下へ進めれば、それでよかった。


     ◇


 次の直線部分へ入ると、階段の幅が少しだけ狭くなった。


 手摺の一部は矢に削られ、一本の支柱には大きな亀裂が入っている。足元には折れた矢と血が残り、その上を何人もの靴が通ったため、板の表面も滑りやすくなっていた。


 エリリアは歩幅を抑え、レンも同じ速度に合わせた。


 上から追ってくる足音は消えていない。先ほどレンの右腕を斬った大男も、弩を持った男も、まだ階段のどこかにいるはずだった。


 下からは、先ほどより近くなった人の声が聞こえる。


「頭領はまだか!」


「呼びに行ってる!」


「ここで止めろ!」


 ヴァレクという名前までは聞こえなかったが、下の者たちが誰かの判断を待っているらしいことだけは分かった。


 レンはそれ以上考えず、エリリアの背後へ視線を戻した。


 階段の下から今度は二人の男が上がってきており、先頭は剣、その後ろの男は短い槍を構えていた。


 エリリアが足を止める。


「二人」


「見えてる」


「後ろは?」


 レンは上を確認した。


 追手が曲がり角へ姿を見せている。


「来てる」


「では、前を開けます」


「無理するなよ」


「今それを言うのですか?」


「今だから言ってる」


 エリリアは返事の代わりに僅かに息を吐いた。


 下の剣士が上がってくる。


 エリリアが細剣を構えると、槍の男はその背後から穂先だけを出し、彼女の身体の横を狙った。一人を相手にすれば、もう一人の武器が届く。狭い階段だからこそ、完全に安全な間合いはなかった。


 剣士が踏み込む。


 エリリアは細剣で手元を制しながら身体を岩壁側へ寄せた。


 その隙を狙って槍が伸び、彼女の脇を越えた穂先が後ろのレンへ向かう。


 レンは左手の黒銀の剣を横へ置いた。


 振り払うのではなく、槍の進路へ剣身を置いて、穂先が胸へ届く前に角度だけを外す。金属が擦れ、左手の薬指と小指が遅れたことで柄が掌の中で僅かにずれた。


 レンはすぐ剣を引いた。


 押し合えば、相手の力より先に自分の握りが崩れる。


 槍の男も、その不安定さを見逃さなかった。


「そいつ、右腕をやられてるぞ!」


 声を聞いた剣士の視線が、一瞬だけレンへ移る。


 エリリアがその隙を逃さず、細剣の切っ先を男の肩口へ走らせた。男は慌てて身体を引き、前が空く。


「今です」


 エリリアが一段下り、レンも続いた。


 だが槍の男が、剣士の横から無理に身体を入れようとする。狙っているのはエリリアではなく、傷ついたレンだった。


 レンは右腕を身体へ寄せたまま、左手の剣を低く構えた。


 槍の穂先が迫る。


 今の左手で強く払い落とす余裕はない。


 レンは黒銀の剣を階段へ斜めに構え、切っ先を相手へ向けたまま狭い通路そのものを塞いだ。槍の男が踏み込めば、レンの剣先へ自分から身体を近づけなければならない。


 男は足を止めた。


 レンはそこから攻め込まず、切っ先との距離を保ったまま一段だけ下がる。


 相手が進もうとすれば、また黒銀の剣が行く手を塞いだ。


「くそ……」


 男が苛立つ。


「レン」


「ああ」


 エリリアも剣士を押し返していた。


 二人はそのまま下へ移る。


 レンは一度も大きく剣を振らなかった。


 それでも道は開いた。


     ◇


 さらに下ると、階段へ飛んでくる矢は少しずつ減っていった。


 射手たちからの角度が悪くなっているのか、上方の階段や支柱が邪魔になっているのかまでは分からない。ただ、一斉射撃はなくなり、飛んでくるのは時折放たれる単発の矢だけになっていた。


 一本が手摺へ刺さり、別の一本が岩壁へ当たる。


 エリリアは風を使わず、飛来音を聞いて身体を寄せるだけで避けた。レンも同じように、最初から岩壁側へ位置を取り、突然大きく身体を捻らなくても済むように進んでいる。


 底は確実に近くなっていた。


 湖の水面は、もう遥か下というほど遠くない。古い石造物も輪郭だけではなく、崩れた柱の高さや壁の隙間、火の近くに積まれた木箱まで分かるようになっている。


 何人もの人影が、その間を動いていた。


 それでもアイリがどこにいるのかは分からない。


 どの建物へ連れていかれたのかも、本当にこの底にいるのかも、まだ確かめられていなかった。痕跡がここまで続いていた以上、可能性は高い。それでも実際に見つけるまでは何も確定しない。


 レンは石造物へ目を向けたまま言った。


「近いな」


「ええ」


「ここまで来た」


「まだです」


「分かってる」


 エリリアはそれ以上何も言わなかった。


 次の折り返しへ入ると、壁際に一人の男が倒れていた。


 先ほどまでの戦いで傷ついたらしく、片脚を押さえている。こちらに気づくと剣へ手を伸ばしたが、エリリアが細剣の切っ先を向けただけで動きを止めた。


「動かないでください」


 男は睨み返したものの、剣を抜かなかった。


 二人はその横を通る。


 レンは目を合わせなかった。


 足元へ広がる血には、その男の傷から流れたものも混じっている。


 木段を染める赤はさらに増えていた。


 だが血を残すために戦っているわけではない。下へ行くために押し通ってきた結果だけが、ここへ残っていた。


     ◇


 上から大きな足音が響いた。


 レンが振り返ると、二本の湾曲剣を持つ大男が数段上へ姿を現していた。その後ろには弩の男も続いている。


「追いつかれた」


「分かっています」


 エリリアはすぐ下を確認した。


 前方にも二人の男がいる。


 再び上下から挟まれた形だが、今のレンは下側を一人で押し開けられる状態ではなく、エリリアも両方を長く相手にし続けられるほど余力が残ってはいない。さらに長い戦闘と矢を受け続けた階段そのものも、所々で傷み始めていた。


 エリリアの視線が、少し上にある手摺へ向く。


 矢を受けた支柱の一本には深い亀裂が入り、そこから続く横棒も接合部が半ば裂けていた。


「レン、下へ二段」


「何する?」


「上を少し遅らせます」


 レンは彼女の視線を追い、傷んだ手摺を見た。


「階段ごとは壊すなよ」


「壊しません」


 エリリアが二段下がり、レンもその後ろへ続く。


 上から大男が踏み込んだ。


 彼自身は階段の中央を進み、弱った手摺には触れない。その後ろから続く男が、狭い外側へ身体を寄せながら下りてきた。


 エリリアはその足運びを見ていた。


 男が体勢を保つため、亀裂の入った横棒へ手を伸ばす。


 その瞬間、エリリアの指先が僅かに動いた。


 階段に沿って細い風が走り、男の上体をほんの僅かに外側へずらす。


 大きく吹き飛ばすほどの力ではない。


 だが男は反射的に、目の前の手摺へ強く体重を預けた。


 傷んでいた横棒が乾いた音を立てて折れる。


「うわっ!」


 男は咄嗟に岩壁側へ身体を戻し、大男の背中へぶつかった。


 二人分の足が止まる。


 壊れたのは既に傷んでいた手摺の一部だけで、踏み板も主な支柱も残っている。それでも、狭い場所で追手の動きを止めるには十分だった。


「今です」


 二人はすぐ下降を再開した。


 大男の怒鳴り声が背後から響く。


「追え!」


 返事は聞こえたが、足音は先ほどより遠ざかった。


     ◇


 次の長い直線へ入ったところで、レンは一度深く息を吸った。


 右上腕の当て布が重く感じる。血が少しずつ滲み、走ったわけでも剣を振り回したわけでもないのに、階段を下り続けるだけで身体全体へ疲労が積み重なっていた。


 左手の感覚も悪くなっている。


 黒銀の剣を持つ親指、人差し指、中指はまだ働いているが、薬指と小指は握っているつもりでも僅かに遅れてついてくる。


 レンは無意識に右手を剣へ伸ばしかけた。


 肘が少し動いただけで、上腕の傷から痛みが走る。


 手が止まった。


 エリリアは見逃さなかった。


「何をしようとしました?」


「何も」


「右手を動かしました」


「癖だよ」


「なら直してください」


「簡単に言うな」


「簡単ではありません。でも、今は必要です」


 レンは左手の中にある黒銀の剣を見た。


「前、代わろうか?」


 エリリアの足が止まり、彼女が振り返る。


「何を言っているんです?」


「ずっと前は疲れるだろ」


「疲れています」


「なら――」


「だからといって、今のあなたと交代する理由にはなりません」


 レンは黙った。


「左手だけで、何人相手にできますか?」


「……一人なら」


「長く?」


「それは」


「右腕を使えますか?」


「使わない」


「右脚は?」


「動く」


「聞き方を変えます。無理に前へ出て、今より速く進めますか?」


 レンは答えられなかった。


 エリリアもそれ以上問い詰めない。


「今は私が前です」


 レンはしばらく彼女を見たが、今度は反論しなかった。


「……分かった」


「はい」


「でも、本当に危なかったら代わるからな」


「その時は言います」


「ちゃんと言えよ」


「あなたもです」


 エリリアは前へ向き直った。


 レンはその背中を追った。


 誰かの後ろを歩くことが、以前ほど苦しくは感じなかった。


     ◇


 さらに下へ進むにつれて、前方にいた者たちの動きが変わり始めた。


 これまではレンとエリリアが近づけば、剣や槍を持った者が階段を上がってきた。ところが今は、最後の長い区間にいた男たちが次々と下へ退いていく。


 レンは足を止めた。


「何だ?」


 エリリアも止まる。


 男たちは逃げているわけではなかった。何人かは階段の下部に残り、こちらを見上げている。ただ、誰も上がってこない。


 最後の大きな折り返しの先には、天坑の底がかなり近く見えていた。


 湖の岸。


 石造物。


 焚き火。


 そして木段の下部へ集まり、何かを運んでいる複数の人影。


「また矢か?」


「……違います」


 エリリアの声が低くなった。


 レンもすぐに理由へ気づく。


 血や焚き火の煙とは違う、重く油っぽい臭いが鼻の奥へ残った。


「油……?」


「たぶん」


 木段の下部で男が容器を傾けている。


 暗くて中身までは見えないが、その直後、板の表面が濡れたように光った。別の男も同じ動きを繰り返し、階段の支柱や踏み板、手摺の根元へ液体を撒いている。


「自分たちの階段だぞ」


 レンが呟く。


「それでも止めるつもりなのでしょう」


「俺たちごと?」


「ここを通れなくすれば、少なくとも下へは来られません」


 背後から追手の足音が再び近づいてくる。


 上へ戻る道には敵がいて、下では木段へ油らしき液体が撒かれている。


 レンは唇を噛んだ。


「ヴァレクの命令か?」


「分かりません」


「だよな」


 下から怒鳴り声が響いた。


「もっと掛けろ!」


「支柱にもだ!」


 その声に応じて別の男が走ってくる。


 手には、赤い炎を揺らす松明が握られていた。


 エリリアが細剣を構え直す。


「レン」


「見えてる」


「走れますか?」


 レンは右脚へ僅かに力を入れた。


 深いところから鈍い痛みが返る。右腕も揺らせず、左手には黒銀の剣がある。それでも今ここで普段通りの速度を守っていれば、火を入れられる方が早い。


「長くは無理」


「今だけでいいです」


「分かった」


 二人は同時に前へ重心を移した。


 下では松明を持った男が腕を上げ、その少し離れた場所では別の射手が一本の矢へ火を移している。矢尻近くへ巻かれた布に炎が広がると、射手はそのまま弓を持ち上げた。


「エリリア」


「はい」


 弦が引き絞られる。


 二人は同時に階段を駆け下り始めた。


 次の瞬間、燃える矢が放たれた。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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