第一章 第四十六話 斬られた腕
湾曲した刃が、レンの右上腕を捉えた。
服が裂ける音より先に、肩のすぐ下へ焼けるような痛みが走った。
「っ――!」
身体が反射的に強張る。
大男の左手から振り抜かれた刃は、右上腕の外側を深く切り裂き、血を散らしながら抜けていった。直後から腕の奥へ熱した鉄を押し込まれたような痛みが走り、そのまま肩まで一気に駆け上がる。
右手から力が抜け、黒銀の剣が掌から滑りかけた。落ちると悟った瞬間、レンは左手を伸ばし、親指、人差し指、中指を先に柄へ掛ける。遅れて薬指と小指が閉じ、傾いた剣をどうにか掌の中へ留めた。
同時に、大男の右手の湾曲剣が追ってくる。
今のレンには受け切れない。
だが刃が届く前に、横から銀色の切っ先が割り込んだ。
エリリアの細剣だった。
彼女は大男の剣を力で止めず、手首の内側へ切っ先を滑り込ませる。男が反射的に腕を引いたことで、湾曲剣の軌道がレンの胸元から外れた。
「下がって!」
エリリアが鋭く言う。
レンは返事をせず、右腕を身体へ寄せながら一段下がった。その程度の動きでも傷口が引かれ、肩を僅かに動かしただけで鋭い痛みが上腕を走る。温かい血が腕を伝い、肘の方へ流れていった。
大男はその変化を見逃さなかった。
今度は二本の湾曲剣を同時には使わず、片方を低く構えてレンの左手側へ圧力を掛けてくる。右腕を傷めたことにも、剣を持ち替えたことにも気づいている。
レンは左手で黒銀の剣を構えた。
柄を保持すること自体はできるが、右手で持っていた時とはまるで違う。薬指と小指の反応が遅れ、掌の奥まで均等に締め込めないため、剣先を一定の高さへ保つだけでも前腕がすぐ張った。長い斬撃を振れば、手の中で柄がずれるのも分かる。
大男が一段下りる。
レンも剣先を向けた。
「来ないでください」
エリリアがレンより半歩上へ出た。
細剣の先が大男の顔へ向く。
男は初めて彼女を真正面から見た。それまでレンへ集中していた視線が、僅かに揺れる。
「エリリア」
「今は私が前です」
「でも下も――」
「見えています」
彼女は振り返らなかった。
下側からも男たちの声が近づいている。さらに遠くでは射手たちが動き、再び矢を準備する音が聞こえていた。
上には二本の湾曲剣と、その背後の弩。下には階段を上がってくる者たちと射手がいる。状況は何一つ良くなっておらず、変わったのは、レンが今まで通りには戦えなくなったことだけだった。
◇
大男が先に踏み込んだ。
右の湾曲剣がエリリアの細剣へ向かい、左の刃はその下からレンへ伸びる。
エリリアは最初の一撃を外へ流しながら、身体を完全には開かなかった。男の二本目が彼女の脇を抜けようとしたところで、レンは左手の黒銀の剣を短く動かした。
大きく振らず、刃の根元を相手の湾曲剣へ当てて軌道を僅かに下へ押し下げる。それだけで左前腕が震えたが、刃はレンの腰へ届かず、階段の板へ当たって木片を飛ばした。
「っ……」
レンはすぐ黒銀の剣を身体の近くへ戻した。
左で戦うなら、今までと同じ受け方はできない。相手の力をまともに受ければ握りが先に負けるため、必要なのは止めることではなく、触れて軌道を外すことだった。
大男もその弱さに気づいたらしく、口元が僅かに歪んだ。
だが何か言うより先に、エリリアの切っ先が男の右手へ走る。男は腕を引いたものの、細剣は手の甲を浅く裂き、血が滲んだ。
大男の表情から余裕が消える。
「レン、二段下がれますか?」
「いける」
「ゆっくり」
「ああ」
エリリアは男との距離を保ったまま一段退き、レンもそれに合わせて下がった。右腕を揺らさないよう身体の横へ寄せ、左手だけで剣を構える。下りるたびに右脚の奥へも重い痛みが返るが、今は上腕から肩へ走る痛みの方がはるかに強かった。
さらに一段下がったところで、上から硬い機構音が響いた。
弩だった。
「エリリア!」
彼女も既に気づいている。
大男の肩越しに、弩を構えた男が狙いをつけていた。大男自身も射線の中にいるにもかかわらず、構えを解く様子はない。
大男が舌打ちし、岩壁側へ身体を寄せる。
その一瞬だけ、階段の中央が空いた。
「今です!」
二人は同時に下へ動いた。
レンは左足から段を下り、右脚を引き寄せる。エリリアも細剣を上へ向けたまま後退した。
背後で弩が鳴り、短い矢が二人の間を抜けて手摺の支柱へ突き刺さった。木が激しく震えたが、レンは止まらず次の段へ足を置いた。
右腕から落ちた血が、板の上へ赤い点を残す。
「レン、腕を押さえられますか?」
「左が塞がってる」
「分かりました。今はそのまま」
上から大男が追ってくる。
下からも剣を持った男が一人、階段を上がってきた。
エリリアが下を確認する。
「入れ替わります」
「できる?」
「あなたよりは」
言い終わる前に、彼女は半身になった。
完全に位置を交換する余裕はないため、細剣を下側へ向けながらレンを岩壁側へ寄せる。下から来た男の剣先が伸びると、エリリアは細剣でその手元を突いて踏み込みを止めた。
レンは上を向く。
大男が迫っている。
左手だけで黒銀の剣を構えたところへ、相手の右手の刃が振り下ろされた。
レンは正面から受けず、湾曲剣の内側へ自分の刃を軽く触れさせ、そのまま岩壁側へ滑らせた。相手の刃が石を擦り、すぐさま左手の二本目が続く。
レンは身体を大きく引かず、左足を一段下へ置いて高さを変えた。
湾曲剣が髪の上を通る。
その隙に黒銀の剣を短く突き出した。左手では深く踏み込めないため、胸や喉ではなく、男の前へ出ていた太腿を狙う。
切っ先が服を裂き、浅く入った。
大男が反射的に足を止めたことで、下降するための時間が生まれる。
「下がれる!」
レンが言う。
「こちらも!」
エリリアも下の男を一段退かせ、二人は同時にさらに下へ進んだ。
◇
やがて、下から射手たちの声が響いた。
「まだ階段にいるぞ!」
「射線を開けろ!」
下側の者たちが慌ただしく動き、上の大男もその声を聞いて追撃を止める。弩の男も岩壁へ寄った。
レンが下を見ると、次の折り返しまではあと僅かだった。
「撃たれる」
「先へ!」
二人は速度を上げた。
今のレンには走れなかったが、それでも出せる限界に近い速さで、矢の刺さった木段を下っていく。レンは左手の黒銀の剣を身体の近くへ保ち、右腕を揺らさないよう肩を固めた。傷口から流れる血は止まらず、腕を伝った赤が肘の内側から板へ落ちていく。
右脚の奥には鈍い痛みが残り、左手も剣の重さを支え続けたことで疲労が増していた。それでも足を止めるわけにはいかない。
折り返しの直前で、下から上がってきた男が一人、レンたちの進路へ飛び出した。
エリリアが先に反応し、細剣の切っ先を相手の剣を持つ手へ向ける。男は刃を引いて身体を岩壁へ寄せ、その横へ一人分だけ道が空いた。
「通ります!」
エリリアが身体を滑り込ませ、レンも続いた。
男が背後から剣を振ろうとしたため、レンは振り返らず、左手の黒銀の剣を低く後方へ出した。相手の刃と打ち合わせるのではなく、踏み込めば剣身へ触れる位置に置くだけで足を止める。
その間に二人は折り返しへ入った。
岩壁が大きく張り出し、上からも下からも直接は見えにくい位置だった。
「ここ!」
エリリアがレンの左側から身体を壁際へ導く。
「座らない。まだ動ける」
「座れとは言っていません。腕を見せてください」
「今?」
「今です」
言葉の強さに押され、レンは黒銀の剣を左手に持ったまま壁へ背を預けた。
傷を確かめようと右腕を僅かに身体から離しただけで、上腕の奥から鋭い痛みが走る。
「……っ」
「動かさないで」
「見せろって言ったのそっちだろ」
「自分で上げないでください」
エリリアは細剣を鞘へ戻し、レンの裂けた袖を慎重に広げた。
傷は右肩のすぐ下から上腕の外側へ走り、流れた血で周囲の布まで赤く濡れている。傷口の奥までは見えないが、このまま放置できる状態ではなかった。
エリリアの表情が僅かに強張る。
「深い?」
「浅くはありません」
「それは見れば分かる」
「なら聞かないでください」
彼女は荷物から布を取り出して畳み、傷の上へ当てた。
圧力が掛かった瞬間、レンは歯を食いしばる。
「痛い」
「我慢してください」
「その言い方、アイリみたいだな」
「今その話をする余裕がありますか?」
「少しは」
「ならまだ大丈夫そうですね」
エリリアは当て布を押さえたまま、別の細長い布を上腕へ回した。きつく締めすぎないよう位置を調整しながら、当てた布がずれない程度に固定する。
処置を終えても痛みは残り、血も完全に止まったわけではなかったが、先ほどまでのように腕を伝って流れ続ける量は少し落ち着いた。
レンは右手を一度だけ開閉した。指は動き、軽く握ることもできるものの、力を込めようとすると上腕から肩へ痛みが突き上がり、すぐに緩めざるを得ない。
「剣は無理だな」
「右では」
「左も長くは持たないけど」
レンは左手の柄へ目を落とした。既に薬指と小指の感覚が薄くなり始めていたが、それでも剣を手放すつもりはなかった。
エリリアもその手を見る。
「握り込まないでください。必要な時だけ力を入れて」
「分かった」
「右腕も身体から離さないでください。大きく動かせばまた血が増えます」
「それも分かった」
「本当に?」
「今は冗談言ってる場合じゃないだろ」
「先ほど言っていました」
「……それは忘れてくれ」
エリリアの口元が一瞬だけ緩んだ。
だが、その直後に上から足音が響き、二人ともすぐ表情を戻した。
大男たちが追ってきている。
下からも別の声が聞こえた。
「上へ回れ!」
「ヴァレク頭領に知らせろ! 侵入者がまだ降りてくる!」
レンが僅かに顔を上げた。
「ヴァレク……」
「ここの頭領でしょうか」
「たぶん」
二人が知ったのは名前だけだった。
ヴァレクが何者なのか、なぜアイリを連れ去ったのか、その背後に何があるのかは何一つ分からない。
レンは壁から背を離した。
右腕は胸の近くへ寄せたまま、左手には黒銀の剣を持つ。右脚には鈍い重さが残り、左の指もいつまで剣を支えられるか分からなかったが、自分の足で立ち、まだ下へ進むことはできた。
「行こう」
エリリアが彼を見る。
「腕は?」
「使わなければ動ける」
「脚は?」
「同じ」
「左手は?」
レンは苦笑しかけてやめた。
「全部聞くのか?」
「全部必要です」
「まだ剣は持てる」
エリリアは数秒だけ彼を見つめ、やがて細剣を抜いた。
「では、私が前へ出ます」
「一人でやるなよ」
「あなたも一人でやらないでください」
「……分かった」
「今度は信じます」
上から足音が近づき、下では誰かが怒鳴りながら射手たちの位置を変えている。
二人は折り返しの陰から出た。
無数の矢が突き刺さった木段は、その先も天坑の底へ続いていた。レンは右腕を身体へ寄せ、左手の黒銀の剣を必要以上に握り込まないよう意識しながら、先へ出たエリリアとともに次の一段へ足を下ろした。
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