第一章 第四十五話 矢の階段
弦の音が重なった直後、天坑の底から空気を裂く音が迫ってきた。
レンが下へ視線を向けた時には、既に矢は放たれていた。火の明かりを背にした射手たちから飛び出した矢が、斜め上へ伸びる木の階段をなぞるように迫ってくる。左右へ逃げる幅はなく、右には岩壁、左には手摺と、その向こうに天坑の暗い空間がある。上へ戻ろうにも追手が迫り、下へ走れば自分から矢へ近づくことになる。
「壁側へ!」
エリリアの声と同時に、レンは身体を岩へ寄せた。その横で銀色の髪が大きく揺れ、エリリアは細剣を持つ右手を低く構えながら、空いた左手を僅かに開いた。
天坑の内側を流れていた空気へ、横から鋭い風が一瞬だけ重なった。矢を壁のように止めるほどの力ではない。それでも先頭を飛んでいた矢の軸が僅かに傾くと、その後ろに続く矢も同じように揺らぎ、揃っていた軌道が崩れた。
一本がレンの顔の横を抜けて岩壁へ当たり、乾いた音を立てて折れた。別の矢は手摺へ突き刺さり、さらに二本が階段の板へ斜めに食い込む。足元へ向かっていた一本は板の端を削り、そのまま暗い空間へ消えていった。
それでも、全てを逸らせたわけではない。
「伏せて!」
レンは身体を縮め、エリリアも岩壁へ肩を寄せて細剣を身体の内側へ畳んだ。頭上で矢が岩を叩き、木が裂ける。手摺の支柱へ刺さった矢が激しく震え、一本はレンの上着の裾を裂いて後ろへ抜けた。
最後の矢が板へ突き刺さり、やがて周囲から飛来音が消えた。
ほんの数秒の出来事だったが、階段の景色は既に変わっている。何もなかった踏み板や支柱から矢羽が突き出し、岩壁の際には折れた軸が転がっていた。手摺へ深く刺さった一本は、まだ小さく震えている。
レンは息を吐き、すぐ下方へ目を凝らした。
「次、来る?」
エリリアは一度深く呼吸してから答えた。
「すぐには撃てません。ですが……今の広さを何度も同じようには逸らせません」
「分かった」
射手たちは既に次の矢へ手を伸ばしている。その手前では、階段から身を寄せていた男たちがこちらを見上げていた。
止まっていれば、次も同じ場所へ撃ち込まれる。
少し下には階段が大きく折り返す場所が見えていた。岩壁が外へ張り出しており、今いる直線部分よりは射線を切りやすそうだった。
「あそこまで行く」
「次の折り返しですね」
「ああ。撃たれる前に」
「走らないでください」
「走れないのは分かってる」
「なら行きましょう」
二人は矢が止んだ隙を使い、再び下降を始めた。
◇
足元は、先ほどまでより明らかに悪くなっていた。
板へ刺さった矢は踏めば折れ、その破片が足裏を滑らせる。浅く刺さったものは木の振動で傾き、足を置こうとした場所へ突然倒れてくる。レンは右脚へ余計な衝撃を入れないよう、左足で次の板を確かめてから身体を下げた。
数段先では階段に残っていた男が剣を構え直し、その後ろにも別の影が動いている。上からは、先ほど割れた踏み板を越えた者たちの足音が近づいていた。
矢が止んでも、道が空いたわけではない。
「下を開ける」
「上は見ています」
レンは黒銀の剣を前へ出した。
下の男も上がってくる。互いに十分な振り幅は取れず、男は片手剣を横から振ろうとして岩壁へ当てかけると、すぐ軌道を縦へ変えた。
レンはその変更を待っていた。
振り下ろされる刃を正面から受けず、黒銀の剣の腹を添えて手摺側へ流す。男の腕が伸びたところへ一段下り、柄頭を胸元へ打ち込んだ。
息を詰まらせた男が後ろへよろめく。
その隙にレンは左足から一段、さらにもう一段下へ入った。
「来て!」
エリリアが上から迫る男の剣を細剣で牽制しながら、視線を外さずレンの背後まで下がってくる。二人の距離が再び縮まったところで、下方から怒鳴り声が響いた。
「射線を空けろ!」
レンとエリリアが同時に下を見る。
階段にいた男たちは岩壁側へ身を寄せ、ある者は手摺の低い位置へ身体を伏せ始めていた。そのさらに下では射手たちが弓を持ち上げている。
「また来る」
「折り返しまで、あと少しです」
「行くぞ」
「はい」
二人は下り始めた。
急げば右脚が持たず、遅れれば次の矢が来る。レンは左足を先に置き、右足を引き寄せるようにして一段ずつ高さを落とした。刺さった矢を避け、折れた軸を踏まず、板の端へ寄りすぎないよう足場を選ぶ。
背後でエリリアの細剣が一度だけ金属音を響かせた。
「大丈夫?」
「前を見てください」
「分かった」
折り返しまで残り三段となったところで、下から弦を引く音が届いた。レンはさらに二段を下り、最後の一段へ足を掛ける。
「レン!」
岩壁が前へ張り出した場所へ二人が滑り込んだ直後、二度目の弦音が響いた。
今度はエリリアも大きな風を起こさず、二人は張り出した岩と階段の支柱が作る狭い角度へ身体を寄せた。
最初の矢が岩の外側へ当たり、続いて木へ刺さる音が連続する。一本が支柱を削ってささくれを飛ばし、別の矢が折り返しの板へ深く刺さると、そのすぐ横へもう一本が突き立った。
さらに一本が岩壁で跳ね、向きを変えてレンの胸元へ飛んでくる。
エリリアの指先が僅かに動いた。
細い風が矢羽へ触れ、軌道が僅かに外れる。矢はレンの脇を抜けて後ろの支柱へ突き刺さった。
エリリアはそれ以上風を使わなかった。
残りの矢は岩の張り出しへ遮られたり、階段の外側を通って天坑へ消えたりした。飛来音が途切れると、レンは支柱に刺さった矢を見た。
「二回目」
「はい」
「今のは?」
「細かく触っただけです」
「まだ使える?」
エリリアは呼吸を整えてから答えた。
「必要なら。ただし、大きくは無理です」
「じゃあ残しておこう」
「あなたも脚を残してください」
「残してる」
「そう見えるうちは信じます」
「厳しいな」
エリリアは答えず、上へ細剣を向け直した。
追手が来ていた。
◇
折り返しは直線部分より僅かに広かったが、二人が自由に戦えるほどではない。
上からは、傷んだ踏み板を越えた男が一人、剣を構えながら降りてきており、その背後にも別の影が続いていた。下側でも射手たちが次の準備へ移る間に、階段の男たちが再び上がってきている。
矢を避けるために入った場所が、今度は上下から挟まれる場所になった。
「長居できないな」
「最初からそのつもりでしょう?」
「まあな」
レンは折り返しから先を見た。
階段には先ほどの矢が何本も刺さり、段差ごとに並ぶ矢羽が、木から逆向きに生えた細い枝のように見える。通れないわけではないが、一歩を誤れば足を取られる。
右脚の奥には、降り続けてきた重さが残っていた。
レンは息を整えた。
「下を空ける」
「その間、上を止めます」
二人は再び背中を合わせた。
下から来た男は短槍を持っていた。前の戦いで長く扱えば邪魔になると分かったのか、柄を短く持ち、突きだけに使うつもりらしい。
上の男も同時に踏み込む。
背後でエリリアの細剣が鳴り、レンの前では短槍が腹へ伸びた。
避ける幅はない。
レンは黒銀の剣を槍の柄へ添え、角度を外した。
相手はすぐ槍を引き、二撃目を胸へ突き出す。
レンは下がらず、身体を岩壁側へ僅かに捻った。穂先が服の前を掠めたところで槍の柄へ剣の腹を当て、手摺側へ押し込む。
男が踏ん張った。
その足元には、斜めに刺さった一本の矢がある。
レンには見えていたが、相手は気づいていない。
男が前足を引いた瞬間、踵が矢の軸へ触れた。
軸が折れ、足が僅かに滑る。
その小さな崩れだけで十分だった。
レンは剣を振り下ろさず、柄頭を相手の胸へ押し込んだ。男が一段下へ崩れ、その後ろにいた者が受け止めたことで、下側へ一瞬だけ空間が生まれる。
「今!」
レンは左足から二段を続けて下り、エリリアも上を向いたままついてきた。その背後で男が追おうとしたが、細剣の切っ先が目の前へ入り、足を止める。
二人はさらに下降した。
足元の矢は増えている。木へ深く刺さったものは避け、浅いものは必要な時だけ剣先で払う。それでも全てを処理している時間はなかった。
一本を跨ぎ、もう一本を避ける。次の板には二本の矢が並んで刺さっていたため、レンは岩壁寄りの狭い部分へ足を置いた。
右脚の奥から鈍い痛みが返ったが、姿勢は崩さない。
「歩幅を小さく」
後ろからエリリアが言った。
「してる」
「もう少し」
「これ以上だと止まるぞ」
「では、そのまま」
「分かってるって」
下から次の男が上がり、上からも追手の足音が続いている。それでも次の折り返しは、確実に近づいていた。
◇
三度目の射撃は、二度目までと同じにはならなかった。
レンたちが下降した分だけ射手たちも位置を変え、下から狙う角度を調整している。矢をつがえる動きが見えた時、レンは近くの敵ではなく階段そのものを見た。
次の折り返しまで、まだ距離がある。
途中には太い支柱が一本あるものの、二人を隠せるほどではない。
「次はここで受けるしかない」
「ええ」
エリリアも周囲を確認した。
下の男たちが再び射線から退き始める。
しかし、今度は一人が間に合わなかった。
レンへ向かって上がってきていた男が、後ろからの声に気づいて振り返る。
「待て、まだ――」
弦が鳴った。
男が慌てて岩壁へ身体を寄せ、レンも同じように内側へ詰める。エリリアが背後から肩を寄せた直後、矢が階段へ殺到した。
最初の一本は手摺を越え、次が板へ刺さる。三本目はレンの前にいた男の脚へ当たり、男は叫びながら崩れた。
誰が放った矢なのかを考えている余裕はない。
倒れた男が階段を塞ぎ、その後ろから来ていた男も進めなくなる。その上をさらに矢が抜けてきた。
レンは黒銀の剣を上げた。
飛んでくる矢を片端から斬ろうとはせず、目前へ来た一本だけを剣の腹で横へ逸らす。硬い衝撃が右手へ伝わり、矢は岩壁へ当たって折れた。
続く一本は身体を沈めて避け、さらに別の矢が頭上を抜けていく。
エリリアは風を使わず、支柱と岩壁の隙間へ身体を寄せた。数本が外へ抜け、一本が彼女のすぐ横の板へ深く突き刺さる。
やがて弦音が止まり、残ったのは木へ突き立った矢と、二人の荒い呼吸だった。
レンは足元を見る。
脚を射抜かれた男が階段を塞ぎ、矢を抜こうとしながらも痛みで身体を動かせずにいる。その後ろの男も進めない。
レンは剣先を相手へ向けたまま言った。
「退け。そこを空けろ」
男は睨み返したが、返事はない。
レンも近づかなかった。
無理に倒れた身体を越えれば、矢の刺さった板へ足を置くしかなくなる。上から追手も迫っており、時間だけが減っていく。
その時、倒れていた男の後ろから別の男が腕を伸ばし、仲間の服を掴んだ。
「引け!」
負傷した男の身体が一段ずつ下へ引きずられる。
レンはその動きを待ち、一段分の空間が開いた瞬間に足を進めた。
「行く」
「はい」
そこから先の階段は、さらに多くの矢で埋まっていた。
支柱から矢羽が突き出し、手摺には二本が並んで刺さっている。踏み板の中央を貫いた一本は先端が裏へ抜け、別の一本は板を割って斜めに倒れていた。
レンは足を置ける場所を選びながら下った。
右脚を守るためだけではない。
ここでは一度滑れば、そのまま手摺の向こうへ身体を持っていかれる。足元から目を離しすぎれば危険で、前だけを見ていれば矢を踏む。黒銀の剣を使いながら、階段そのものとも戦わなければならなくなっていた。
「すごいな」
レンが低く言った。
「何がです?」
「階段が全部、矢になってる」
「感心している場合ですか?」
「してないよ」
「声が少ししていました」
「気のせいだ」
エリリアは返事をしなかったが、背後から聞こえる呼吸がほんの僅かに軽くなった気がした。
◇
次の折り返しへ着いた頃には、上からの足音が明らかに近づいていた。
先ほど傷んだ踏み板は、もう十分な障害にはなっていない。追手は一人ずつそこを越え、こちらへ降りてきている。
レンは折り返しの角から上を見た。
最初に見えた男は、これまでの相手より明らかに体格が大きかった。肩幅が広く、その巨体のせいで狭い階段そのものがさらに細く見える。
男は長い剣も槍も持たず、両手に一本ずつ、反りの強い短めの湾曲剣を握っていた。この狭い場所なら、長い直剣よりも扱いやすい。
男は急いでいなかった。一段ずつ足場を確かめるように下りながら、背後の者たちを自分より前へ出させない。
さらにその後ろには、短く厚い弓身を両手で構えた別の男がいた。
「エリリア」
「見えています。弩ですね」
「上にも飛び道具か」
「良くないですね」
「良くないな」
下では射手たちが再び動き始めていた。
レンが一度だけそちらを見ると、既に新しい矢をつがえている。すぐに放たれるわけではないが、残された時間は長くない。
「次の折り返しまで行ける?」
エリリアが問う。
レンは下へ続く階段を見た。
そこまではまだ十数段あり、その間にも武装した男がいる。
「行くしかない」
「では、近くに」
「ああ。離れない」
二人は再び下り始めた。
上の大男も動いた。
◇
最初の接触は、レンが想像していたより早かった。
下の男を一段退かせた直後、背後でエリリアの細剣が強く鳴る。大男が既に剣の届く位置まで迫っていた。
「レン、上!」
レンは下へ向けていた剣を戻しかけた。
「前は私が見ます!」
エリリアが一瞬だけ立ち位置を変えた。
完全に役割を入れ替えるのではない。下から来る男を細剣の切っ先で牽制し、レンが上へ身体を向けるための空間を作る。
レンは右脚を軸に急旋回せず、左足を細かく運んで向きを変えた。
大男は二段上にいる。
右手の湾曲剣が先に振り下ろされた。
レンは黒銀の剣で受ける。
刃同士が噛み合い、強い圧力が伝わった。
ただ力任せに押しているのではない。男は湾曲した刃を滑らせ、レンの剣を外へ誘導しようとしていた。
レンはすぐに刃を離し、深追いしない。
大男の左手には、もう一本の刃がある。
次の斬撃が下から上へ走った。
レンは半歩だけ岩壁側へ身体を寄せ、湾曲した刃を上着の前へ通過させる。
男は止まらなかった。
一撃目で剣を動かし、二撃目で生まれた隙を狙う。狭い階段でも、二本の短い刃なら連続して角度を変えられる。
「面倒だな」
レンが漏らしたが、大男は答えず、再び右の刃を落としてきた。
今度は黒銀の剣を押さえ込むような軌道だった。
レンは剣を斜めに立てる。
金属音が響き、二本の刃が互いに滑った。
その向こうで、大男の左手が既に動いている。
レンは身体を引こうとしたが、背後にはエリリアがいる。そのさらに下では別の男が細剣の間合いへ入ろうとしていた。
「レン!」
上の大男の背後で弩が持ち上がった。
張られた弦の前で、短い矢がこちらを向いている。
ほとんど同時に、天坑の底からも複数の弓を引く音が重なった。
下から迫る矢、上に構えられた弩、そして目の前の二本の湾曲剣。三つの方向から、ほとんど同時に圧力が掛かる。
レンは大男の右手の刃を黒銀の剣で外へ押し、身体の中心を岩壁側へ寄せた。弩の射線から胸を外し、下から来る矢へ正面を晒さないための動きだった。
そのため、剣を握る右腕が僅かに外へ出た。
大男は見逃さない。
押さえられていなかった左手の湾曲した刃が、狭い隙間を縫うように走った。
刃先が、レンの右上腕へ迫っていた。
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