第一章 第四十四話 上と下の敵
最初に動いたのは下側だった。
先ほどレンたちを見つけた男が長柄の武器を構え、階段を駆け上がってくる。その後ろからも複数の足音が続き、上では天坑の縁に現れた武装した者たちが階段の入口へ向かっていた。
レンは一度だけ上下を見た。
「俺が下をやる」
「では、上は私が」
エリリアが即座に答える。
二人はほとんど背中を合わせる位置へ移った。
狭い木の階段では、横に並んで剣を振る余裕はない。右には岩壁が迫り、左の簡素な手摺の向こうには暗い天坑が開いている。一人が大きく身体を動かせば、それだけでもう一人の邪魔になる。
レンは下へ向き、左足を一段低い位置へ置いた。疲労の溜まった右脚で身体を受け止め続けないよう、下降方向の荷重をできるだけ左へ預け、黒銀の剣を持つ右手を前へ出す。左手は柄へ強く添えず、身体の近くに留めた。
エリリアは上を向いたまま細剣を構える。
「離れすぎないでください」
「三段以上は行かない」
「二段にしてください」
「厳しいな」
「場所を見て言っています」
その直後、下から長柄の穂先が突き上がった。
レンは身体を大きく退かず、黒銀の剣を斜めに当てて、穂先そのものではなく柄の向きを外へ逃がした。長い武器は狭い階段では横へ振り直しにくい。男の穂先が手摺側へ流れた瞬間、レンは半歩だけ下り、剣先を相手の前腕へ走らせた。
男が呻いて手を引く。
後ろの男が押し上がろうとするが、前の一人が退かない限り進めない。
階段の狭さが、人数の差を一時的に消していた。
上では別の金属音が響いた。
レンが振り返らなくても、エリリアの細剣だと分かる。
上から降りてきた男が片手剣を振り下ろしたが、狭い足場では十分な距離を取れない。エリリアは刃そのものを受け止めず、細剣の先で相手の手首近くを牽制し、腕が伸び切る前に軌道を外へ追いやった。
剣が岩壁を擦る。
男が体勢を戻そうとしたところへ、エリリアの切っ先が喉元へ真っ直ぐ向いた。
「下がってください」
「っ……!」
一瞬の躊躇が生まれた。
エリリアは深追いせず、相手が一段退いた分だけ自分もレンの背中へ近づいた。
「上、二人来ます」
「下も増えた」
「嬉しくない一致ですね」
「まったくだ」
下の男が再び長柄の武器を構えた。今度はその後ろから短い剣を持つ男が続き、上でも最初の男の背後へ別の影が重なっている。
立ち止まっていれば、いずれ押し潰される。
レンは下へ続く階段を見た。
次の折り返しまで、まだ数段ある。
「ここで粘るのはまずい」
「同感です」
「二段ずつ下がる。俺が空けたら来て」
「あなたが急に走らないなら」
「走らない」
「信じます」
その短い言葉に、レンは余計な返事をしなかった。
下の男が突く。
レンは穂先を剣の腹で外へ流し、左足を一段下へ置いた。相手が武器を戻すより先に、もう一段分だけ身体を下げる。
生まれた空間へエリリアが後退した。
彼女は上を向いたまま、視線を敵から外さず、一段ずつ足場を確かめて下りてくる。
二人は上下を向いたまま、少しずつ天坑の底へ近づき始めた。
◇
下から二人目の男が前へ出た。
最初の長柄を持つ男は傷ついた腕を庇って後方へ下がり、代わりに短い槍を両手で握った男が上がってくる。階段の幅では大きく振り回せないと分かっているらしく、狙いは最初から突きだけだった。
レンの腹へ穂先が伸びる。
右へ避ければ岩壁、左へ避ければ手摺の向こうで、後ろへ下がればエリリアとぶつかる。
レンは身体ではなく剣だけを動かした。
穂先の横へ刃を添え、外側へ押す。
だが相手も今度は簡単に流されず、柄へ力を込めて戻そうとする。
レンは腕力で槍を押し返そうとはせず、刃を滑らせながら角度を変えた。長く押し合えば足場まで崩されるため、疲労の溜まった右脚へ余計な負担を掛けないうちに勝負を外す。
その瞬間、槍の穂先が僅かに跳ねた。
レンの動きではない。
短い風だった。
槍先が手摺の木へ当たり、硬い音を立てる。
男が驚いて視線を逸らした。
レンはすぐ踏み込み、右脚ではなく左脚から身体を送り、剣の柄頭を相手の手元へ打ち込んだ。
槍が手から外れる。
レンは落ちた槍を左足で手摺側へ押しやり、そのまま一段下へ場所を取った。
「今の助かった」
「一度だけです」
「分かった」
背後ではエリリアの細剣が鋭い金属音を響かせている。
上から来た男が階段の高低差を利用して剣を振り下ろすたび、彼女はまともに受けず、手首や肘の近くへ切っ先を置いて攻撃そのものを小さくさせていた。
細剣はこの狭さによく合っている。大きく振る必要がなく、相手が一歩踏み込みさえすれば、その切っ先はすぐ届く。
男が苛立ったように強く踏み込んだ。
エリリアは半歩だけ岩壁側へ身体を寄せ、相手の剣を外へ流す。腕が伸び切ったところへ細剣が入り、男の上腕を浅く裂いた。
血が板へ落ちる。
男は反射的に一段退いた。
「レン、下がれます」
「こっちも空いた」
二人はさらに二段下へ移った。
立ち止まって戦うのではなく、数段ごとに場所を奪う。レンが下の一人を退かせれば、エリリアがその空間へ下がり、上の敵を押し返したら、レンが次の一段を取る。
歩みは遅い。
それでも確実に底へ近づいていた。
◇
次の折り返しへ着いた時、レンの右脚の奥に鈍い痛みが強く返った。
下り続けているせいで、左脚だけでは受け止め切れない瞬間が増えている。
レンは歩幅をさらに小さくした。
「脚」
背後からエリリアが言う。
「動いてる」
「それは見れば分かります」
「じゃあ何を聞いてるんだよ」
「無理を増やしていないかです」
「増やしてない」
「ならそのままで」
「ああ」
折り返しの板は他より少し広く、そこで一瞬だけ二人の距離を詰め直す。
上から来ている者たちも、狭い階段で自由には動けない。先頭の一人が止まれば、その後ろも詰まる。
レンは上へ視線を向けかけたところで、エリリアの足元に違和感を見つけた。
折り返しの一段上に並んだ二枚の踏み板のうち、外側の一枚が大きく割れている。古い亀裂が端まで伸び、片側は支えから浮きかけていた。
「エリリア、足元」
彼女は一瞬だけ下を見る。
「見えました」
「使える?」
「壊す必要はありません」
上から男が降りてくる。
エリリアは割れた板の内側だけを踏んで一段下がった。
男はそれを追い、武器を構えたまま勢いよく足を置いたため、外側の割れた板へ体重が掛かる。
木が大きく軋んだ。
片端が支えから外れ、男の足が板と板の間へ落ち込んで膝下まで挟まる。
「くそっ!」
男が身体を引こうとするが、狭い場所では後ろの者が邪魔になる。
エリリアは攻撃せず、そのまま二段下へ退いた。
外れかけた板が斜めに残ったことで、上から来る者たちは安全な内側の細い部分しか使えなくなった。
「これで少しは遅れます」
「直せる?」
「時間があれば」
「ないな」
「ええ」
二人はさらに下へ進んだ。
上の追手が完全に止まったわけではないが、一度に来られる人数はさらに減った。
今はそれで十分だった。
◇
下側の抵抗は、降りるほど強くなった。
階段の下で警告が伝わったのだろう。
次の長い直線部分では、片手剣を持つ男が先頭に立ち、その後ろに短槍を構えた男が控えていた。さらに下にも複数の人影が見える。
レンは数えなかった。
ここで見える相手だけでも十分に厄介だった。
「一気には来られない」
レンが低く言う。
「こちらも一気には行けません」
「一人ずつ退かせる」
「はい」
先頭の男が上がってきた。
剣を右から振ろうとするが、すぐ横には岩壁がある。十分な軌道を作れず、斜め上から押し込むような攻撃になる。
レンは黒銀の剣で刃を受け止めず、相手の剣の根元近くへ自分の刃を当てて壁側へ流した。
金属が岩を擦る。
男の右肩が開いた。
レンは喉を狙わず、剣先を相手の太腿の外側へ走らせる。
男の脚が崩れ、一段下へ膝をついた。
その後ろにいた短槍の男が前へ出ようとするが、倒れた仲間が邪魔になる。
「下がれ!」
誰かが叫んだ。
傷ついた男が手摺へ掴まりながら横へ身体を寄せる。
レンはその横を無理に越えようとはしなかった。階段の外側へ身体を出せば、右脚が耐えたとしても戻れる保証はないため、相手が自分で場所を空けるまで足場を守る。
やがて一段分の空間ができたところで、レンは左足から下りた。
すぐに短槍が伸びる。
レンは剣で柄を流し、穂先が岩壁へ向いた瞬間に身体を内側へ寄せ、その横を一段だけ抜けた。
相手も慌てて向きを変える。
狭い階段で槍が手摺へ当たった。
レンは剣の腹を男の手首へ打ちつける。
槍が落ちた。
その時、下側で体勢を崩していた最初の男が階段の外側へよろめいた。
手摺へ腕を伸ばし、指先が一度は木を掴む。
しかし身体の重さを支え切れず、足が板から離れた。
「っ!」
男は落ちる寸前、咄嗟に目の前にあったレンの上着を掴んだ。
腰の近くを強く引かれ、レンの身体が左へ傾く。
手摺の向こうに暗い空間が広がった。
反射的に左手を伸ばしかけたものの、握力の弱い二本の指まで使って細い手摺へ体重を預けるのは危険だった。レンは掴まず、左足を板へ残して身体を岩壁側へ戻そうとする。
それでも落ちかけた男の体重が上着を引き続けた。
「レン!」
背中側から身体を強く引かれた。
エリリアがレンの上着の背を片手で掴み、身体を岩壁側へ寄せていた。片足を内側の支柱へ当て、落ちる方向へ引かれないよう踏ん張っている。
レンは右手の剣を振り回さず、柄頭を落ちかけた男の手首へ短く打ち込んだ。
男の指は緩まない。
もう一度、今度は手の甲へ打ち込むと、上着を掴んでいた指が外れた。
男の身体が暗い空間へ消える。
叫び声が岩壁へ反響しながら遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
エリリアに引かれたレンは岩壁側へ重心を戻し、足場を確かめてから呼吸を整えた。
「大丈夫ですか?」
「……大丈夫」
「今のは本当に危なかったです」
「それは認める」
「なら前を見てください」
「ああ」
下では短槍を失った男が一歩退いている。
二人はその空間を逃さず、また一段下へ進んだ。
◇
戦いながら降り続けるうちに、底の火がかなり近くなっていた。
まだ簡単に届く距離ではないが、石造物の形は先ほどよりはっきりし、火の周囲を動く者たちの姿も見分けやすくなっている。
階段の上では、割れた踏み板の部分を越えようとする音が続いていた。完全には止められていないものの、上の追手が一人ずつしか進めなくなったことで、エリリアには僅かな余裕が生まれている。
彼女はその余裕を攻撃へ使わず、レンとの距離を保つために使っていた。
レンが下を二段取れば、エリリアがそこへ下がる。上から一人来れば、細剣で手首や武器を牽制して足を止める。
その繰り返しで、二人は少しずつ下降を続けた。
「あと少し下れば、次の折り返しです」
エリリアが言う。
「あそこまで行く」
「はい」
レンは下を見た。
先ほどまで正面にいた者たちが、急に動きを変えている。
一人が後ろへ下がり、もう一人も岩壁側へ身体を寄せた。
逃げたわけではない。
階段の中央から身を外し、何かのために射線を開けようとしているように見えた。
レンは足を止める。
「何だ?」
そのさらに下、石造物の手前で複数の人影が横へ広がっていた。
エリリアも気づく。
「レン」
「見えてる」
男たちが手にしているのは、剣でも槍でもなかった。
弓だった。
火の明かりを背に、複数の射手が階段へ向けて位置を取っている。
レンの背筋が冷えた。
狭い階段では右を岩壁に塞がれ、左には天坑の暗い空間が開いている。上下へ動くことはできても、横へ大きく矢を避ける余地はない。
下にいた男たちもそれを理解しているらしく、急いで岩壁側や階段の折り返しの陰へ身を寄せていく。
「伏せる場所は?」
レンが問う。
「ここにはありません」
エリリアが短く答えた。
上からも足音が続いているため、戻る余裕もない。
射手たちが一斉に弓を持ち上げた。
弦を引く音が、天坑の底から細く重なって届く。
レンは黒銀の剣を握り直し、エリリアも細剣を構えた。
だが、剣でどうにかできる数ではないことは二人とも分かっていた。
「エリリア」
「はい」
「来るぞ」
次の瞬間、張り詰めていた弦が一斉に鳴った。
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