第一章 第四十三話 天坑の底の遺跡
木々の間隔がさらに広がり、前方から届く冷たい空気が強くなった。
レンは大人たちの靴跡を追いながら、足元へ注意を向けて進んだ。地面には岩が増え、木の根も浅い土を掴むように複雑に張り出している。右脚の奥には休んでも消え切らなかった鈍い重さが残っていたが、歩幅を抑えている限り動きは崩れていない。
隣を歩くエリリアも、先ほどまでより呼吸を整えていた。腰には細剣があり、銀色の髪が前方から流れてくる冷気に揺れている。大きな風を使えるほど回復したわけではないが、足取りに先ほどの危うさはなかった。
大人たちの靴跡は、木々が薄くなる方へ真っ直ぐ続いていた。
「もう少しですね」
「ああ」
木々の向こうから差し込む夕方の光が、一歩進むごとに大きくなっていく。
レンは最後の低木を回り込んだ。
次の一歩を出しかけた足が、その場で止まった。
「……エリリア」
声が自然に低くなる。
「止まって」
彼女も異変に気づき、すぐ隣まで出た。
二人の前から、地面が消えていた。
森を丸ごと抉り取ったような巨大な陥没地が、夕暮れの中に口を開けている。
レンは息を呑んだ。
左右へ視線を動かしても、岩壁は大きく弧を描きながら遠くまで続き、向こう側の縁は夕方の霞の中に薄く見えるだけだった。切り立った壁はほとんど垂直に近く、所々に木や低木がしがみつくように生えているものの、容易に降りられる斜面には見えない。
さらに遠い底には、まだ夕日の残る縁とは違って濃い影が溜まっていた。その中央寄りには黒い水面が広がり、森の中で聞いていた水の音が岩壁に反響しながら低く響いている。
「こんなものが……」
レンは言葉を探したが、それ以上続かなかった。
エリリアもすぐには答えない。
森の中からでは想像できなかった規模だった。何度も岩場を歩き、裂谷を越えてきた。それでも目の前の地形は、谷と呼ぶにはあまりに深く、崖と呼ぶにはあまりに広い。
天坑の内側を通ってきた冷たい空気が、二人の頬を撫でた。
レンは崖際へ近づきすぎない位置から、底へ目を凝らした。
「……あれ、建物か?」
エリリアも同じ方向を見る。
「ええ。そう見えます」
湖の近く、岩壁の影へ半ば埋もれるように、複数の石造物が立っていた。
遠いため細部までは分からない。それでも自然の岩とは明らかに形が違う。真っ直ぐに並んだ柱らしきものや、崩れた壁、途中で欠けた屋根のような輪郭が、夕暮れの薄い光の中に重なっている。一部は岩壁そのものへ寄り添うように建ち、奥へ続く暗い開口部らしきものも見えた。
「遺跡……なのか」
「少なくとも、誰かが作ったものです」
エリリアの声も普段より小さい。
レンは湖と石造物の周囲を見渡した。
完全に捨てられた場所ではなかった。
古い石の建物から少し離れた場所には幾つか小さな火が見え、細い煙も上がっている。粗末な天幕か板張りの小屋のようなものが岩陰へ寄せられ、箱や樽らしい四角い影がいくつも置かれていた。その間では人影が動き、時折、火を受けた金属が鈍く光った。
「誰かいる」
「武装していますね」
「何人いるか分かる?」
「ここからでは無理です。建物の陰にもいるかもしれません」
レンは無意識に剣の柄へ右手を近づけたが、握らなかった。
ここから底までは遠すぎる。今すぐ戦う距離ではなく、まずどうやって下りるかを考えなければならない。
足元へ視線を戻すと、大人たちの靴跡は崖の縁で途切れず、そのまま右へ折れていた。
「こっちだ」
二人は縁から十分な距離を取りながら、靴跡を追った。
◇
崖沿いを数十歩進むと、靴跡の先に木材が見えた。
最初は倒木かと思ったが、近づくにつれて、それが崖へ沿って組まれた人工物だと分かる。
「階段……?」
レンが足を止めた。
太い木材を岩壁へ固定し、その上へ板を渡した階段が、天坑の内側へ向かって下っている。
底に見える古い石造物とは、明らかに作りが違った。木は雨と風に晒されて灰色へ変色し、場所によっては新しい板へ交換されている。支柱には太い縄が何重にも巻かれ、岩へ打ち込まれた金具や杭で補強された部分もあった。
一度作って放置されたものではなく、何度も直しながら使われてきたのだろう。
階段は岩壁へ寄り添うように左右へ折れながら続き、途中から崖の陰へ消えていた。外側には簡素な手摺がある場所もあれば、それすらない区間も見える。
入口の板には、森から追ってきたものと同じような泥の靴跡が複数残り、どれも階段の下へ向かっていた。
「ここを降りた」
「そう考えるのが自然ですね」
レンは底へ目を向けた。
石造物の周囲には火と武装した人影がある。そのどこかにアイリがいるという証拠はまだないが、彼女を連れ去った者たちの痕跡はここまで続いている。
「降りる」
レンが言った。
「その前に、他の道がないかだけ見ます」
反射的に反論しかけて、レンは口を閉じた。
階段を見て、底を見て、それからエリリアへ視線を戻す。
「……どれくらい?」
「数分でいいです。近くにもっと安全な下り道があるなら、それを使うべきです」
「分かった」
エリリアの目が僅かに動いた。
「何だよ」
「いえ」
「また珍しいって言う気だろ」
「言っていません」
「顔に出てる」
「なら、早く確認しましょう」
二人は階段を残し、崖の縁に沿って周囲を調べた。
レンの右脚へ無理をさせない速さで移動しながら、降りられそうな斜面や岩棚がないかを探す。しかし少し進んでも状況は変わらず、岩壁は深く切れ込み、足場になりそうな場所があっても途中で途切れていた。木の根を使えば数メートルは下りられそうな場所もあったが、その先は滑らかな岩壁が続いている。
反対側も同じだった。
夕暮れはさらに濃くなり、底に見える火は先ほどよりはっきりしている。
「他はなさそうだな」
「少なくとも、今見える範囲には」
「夜になってから崖を探す方が危ない」
「ええ」
レンは階段へ目を戻した。
「なら、あれを使う」
「そうしましょう」
二人は入口まで戻った。
◇
レンは最初の板へ足を置く前に、左足で軽く体重を掛けて強度を確かめた。
木が低く軋んだが、大きく沈みはしない。
「一人ずつの方がいいか?」
エリリアが支柱を見る。
「完全に離れる必要はありません。ただ、同じ板へ同時に乗るのは避けましょう」
「了解」
レンが先に下り始めた。
黒銀の剣は腰の右寄りに収めたまま、支柱や岩壁へ触れる必要がある時には右手を使う。左手は無理に支えへ使わず、身体の近くへ置いていた。
右脚への負担も無視できない。下りでは一歩ごとに身体を支えなければならず、平地を歩く時より深い鈍痛が返ってくるため、レンは歩幅を小さくして慎重に足を置いた。
エリリアも一段か二段空けて続いている。
「脚は?」
「まだ大丈夫」
「まだ、ですか」
「誤魔化してない。今は本当に大丈夫」
「なら続けます」
十数段ほど下ったところで階段が左へ折れ、曲がり角からは先ほどまで木々に隠れていた天坑の全体がさらに大きく見えた。
森の縁が上へ遠ざかり、底の湖は少しずつ形を持ち始める。暗い水面の端には岩が突き出し、その近くへ古い石造物が集まっていた。崩れた柱の間には火の明かりが揺れ、板や布で作られた粗末な設備が寄せられている。
そこを行き来する人影も先ほどより見やすくなっていた。荷物を運ぶ者や火の近くに立つ者、武器らしき長い物を肩へ掛けて歩く者がいるが、まだ顔までは判別できず、石造物の陰まで含めれば人数も把握できない。
レンは足を止めすぎないよう短く観察し、再び下へ向いた。
「結構いるな」
「ええ」
「全員がアイリを連れていった連中かは分からないけど」
「決めつけない方がいいでしょう」
「分かってる」
それでも、無関係だと考える理由もなかった。
靴跡はこの階段へ続き、その先には武装した者たちのいる場所がある。
レンは右手を剣から離したまま、さらに下った。
階段の一部には比較的新しい板が使われ、古い部分より色が薄かった。縄も場所によって結び直されている。板の隙間から一度だけ下へ視線を落とすと、足元には何もなく、遠い岩と暗い水だけが見えた。
レンはすぐ前へ視線を戻した。
「下、見るなよ」
「あなたが先に見たのでしょう」
「見てから言ってる」
「説得力がありません」
「正論やめてくれない?」
後ろからエリリアの小さな吐息が聞こえた。笑ったのかどうかまでは分からない。
それでも二人の声は自然に小さくなっていた。
下の者たちに気づかれたくない。階段そのものが軋む以上、完全に音を消すことはできないが、余計な声や足音を増やす必要はなかった。
さらに一段下りたところで、エリリアがレンの肩へ軽く指を触れた。
レンはすぐ止まる。
「何?」
彼女は声をさらに落とした。
「下です」
レンは岩壁側へ身体を寄せ、ゆっくり視線を向けた。
階段のかなり下、別の折り返しの近くには一人の人影があり、槍か長柄の武器を壁へ立て掛け、木箱のようなものへ腰を下ろしていた。見張りなのか、休んでいるだけなのかは分からないが、まだこちらを見てはいない。
「通れる?」
レンが囁く。
「このまま下りれば、いずれ見えます」
「風で誤魔化すのは?」
「音を消すほど使えば、逆に気づかれるかもしれません」
「だよな」
二人は立ち止まったまま周囲を見た。
戻るには既にかなりの距離を登らなければならず、下へ進めば見張りらしき人影がいる。
レンは短く考えた。
「もう少しだけ下りる。向こうが立ったら止まる」
「分かりました」
二人はさらに慎重に進んだ。
◇
階段がもう一度折れた。
レンは岩壁に近い板を選び、一歩ずつ下る。
下の人影との距離は少しずつ縮まり、やがて相手が男だと分かる程度まで姿が見えるようになった。暗い色の服を着ており、腰には短い武器がある。長柄の武器も、すぐ手の届く位置へ置かれていた。
そのさらに下では、石造物の間を別の人影が横切った。
レンは息を浅くする。
あと少し下りれば、階段の陰から岩の張り出しへ移れそうな場所がある。そこまで行けば、下の様子をもう少し確認できる。
レンが次の板へ足を置いた。
木が、それまでより少し大きく軋んだ。
下の男が顔を上げる。
レンは動きを止めた。
男の視線が階段の上へ向き、一瞬だけ目が合ったように感じた。
「誰だ!」
声が天坑へ響いた。
「見つかった!」
エリリアが細剣へ手を掛ける。
男は長柄の武器を掴んで立ち上がり、その叫びを聞いた者たちが下の石造物の周囲で一斉に動き始めた。火の近くにいた人影が振り返り、別の者たちが階段の下へ走ってくる。何人いるのかまでは分からないが、一人や二人ではない。
「上へ戻る?」
エリリアが問う。
レンは振り返りかけたところで、上から別の音が近づいていることに気づいた。
「……待って」
階段の軋みではない。
天坑の縁側で、複数の足が岩混じりの地面を踏んでいる。
二人は黙って耳を澄ませた。
足音は確実に近づいてくる。
やがて天坑の縁に数人の武装した人影が現れた。森側から戻ってきたのか、それとも別の場所を見回っていたのかは分からない。彼らも階段の途中にいるレンとエリリアへ気づき、すぐに武器へ手を伸ばした。
「下にもいるな」
レンが言った。
「ええ」
エリリアは細剣を抜く。
レンも黒銀の剣を鞘から引き抜いた。
右には切り立った岩壁が迫り、左には天坑の底まで続く暗い空間が口を開けている。狭い木の階段では自由に横へ逃げることもできず、下からは武装した者たちが上がり始め、上からも別の足音が近づいていた。
逃げ道だったはずの細い階段は、二人を上下から挟む一本道へ変わっていた。
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