第一章 第四十二話 立ち上がるまで
岩の通路へ逃げ込んでから、どれほど経ったのか、レンには正確には分からなかった。
壁へ背を預けているうちに荒れていた呼吸は少しずつ落ち着き、耳の奥まで響いていた鼓動もようやく遠ざかり始めている。外の空地から聞こえていた獣たちの唸り声も、先ほどより明らかに少なくなっていた。時折、岩の向こうで爪が石を擦るような音がするものの、それ以上近づいてはこない。入口で倒れた狼型の身体が邪魔になっているのか、狭い岩の間へ入ること自体を避けているのか、それとも別の理由があるのかまでは分からなかった。
レンはそれ以上考えなかった。今は、静かになったという事実だけで十分だった。
右脚を少し伸ばしてみると、ふくらはぎの奥から膝の下へかけて鈍い熱と重さが残っていた。長く走り、何度も急に方向を変え、踏み込みを繰り返した反動が一気に戻ってきたようで、じっとしていれば耐えられるものの、力を入れようとすると深いところから痛みが押し返してくる。
続いて右手を開き、何度か指を曲げる。剣を握り続けていたせいで掌が固く張っていたが、動きそのものに問題はない。次に左手へ目を落とすと、親指、人差し指、中指は問題なく動き、薬指と小指も遅れながらついてきた。ただ、命令を出してから実際に曲がるまでの感覚は僅かに遠く、長い戦いのあとだからか、指先の感覚も朝より鈍く感じられる。レンは無理に握り込まず、一本ずつゆっくり指を開いていった。
「痛みますか?」
隣からエリリアの声がした。
「左?」
「両方です」
「欲張るな」
「聞くだけなら二つでも構わないでしょう」
レンは苦笑した。
「右脚は重い。左は……疲れてる。いつもより指が遅い気はするけど、動いてる」
エリリアは彼の手をじっと見たが、触れようとはしなかった。
「強く握らないでください」
「分かってる」
「本当に?」
「今日は結構ちゃんと聞いてるだろ」
「今日は、ですね」
「そこ強調するなよ」
エリリアの口元が僅かに緩んだが、その表情も長くは続かなかった。彼女自身も疲れている。細剣はすぐ手が届く位置へ置かれているが、右手は柄ではなく膝の上にあり、指先にはまだ微かな震えが残っていた。呼吸は空地にいた時ほど荒くないものの、深く息を吸うたび、胸と肩が普段より大きく動いている。
レンは水筒を手に取った。
「もう少し飲む?」
「少しだけ」
自分が二口飲んでからエリリアへ渡すと、彼女も喉を湿らせる程度に口をつけ、それ以上は飲まずに返した。残りの量は多くなく、アイリへ辿り着くまでどれほど歩くことになるかも分からない。
レンは荷物から硬いパンと、日持ちするよう乾かした肉を少し取り出した。
「食べられる?」
「食べます」
「即答だな」
「今食べなければ、あとで動けなくなります」
「正しい」
「あなたも食べてください」
「分かってるって」
二人は岩壁に背を預けたまま黙って食べた。空腹を満たすためではなく、胃へ何かを入れ、もう少し動くための力を残すための量だった。硬いパンを噛む音が、狭い岩の間では妙に大きく聞こえる。
外にはまだ獣がいて、その先にはアイリを連れていった者たちがいる。急がなければならないという焦りは、休んだからといって消えてくれなかった。むしろ身体が静かになった分だけ、考える余裕が生まれている。
レンは最後の一口を飲み込み、膝へ手を置いた。
「そろそろ行けるかな」
エリリアがすぐに彼を見る。
「試しますか?」
「ああ」
レンは腰の剣には触れず、岩壁へ右手を当てた。まず左脚を身体の近くへ引いて足裏を地面へ置き、右脚は少し前へ残したまま、左脚を中心に身体を持ち上げる。腰が岩から離れるところまでは問題なかったが、右脚へ体重を移した瞬間、ふくらはぎの奥から強い鈍痛が突き上げた。
「っ……」
膝が僅かに沈んだ。
レンは反射的に立ち切ろうとはせず、すぐ左脚へ重心を戻し、そのまま壁へ右手をついてゆっくり腰を下ろした。
エリリアは手を出さず、ただ隣で見ていた。
「まだ早いな」
レンが言うと、少し間があった。
「……自分で戻りましたね」
「何だよ、その顔」
「少し驚いただけです」
「俺を何だと思ってるんだ」
「止めても立とうとする人です」
「否定しにくい」
「でしょう?」
レンは右脚を伸ばし直した。悔しくないわけではない。アイリは今もどこかへ運ばれているかもしれず、自分たちがここで座っている間にも距離は広がっているかもしれない。それでも、立てない身体を無理に立たせたところで早くなるわけではない。
そんな単純なことを理解するまで、随分かかった気がした。
◇
少しして、外から聞こえていた音がさらに遠くなった。唸り声は時折響く程度になり、岩を引っ掻く音も止んでいる。
エリリアは眠ることなく目を閉じ、ゆっくり呼吸を繰り返していた。風の通り方や入口側の音を確かめながら、身体から余計な力を抜いているのだろう。
レンはそんな横顔を見てから、通路の奥へ目を向けた。柔らかな砂の上には大人たちの靴跡が残っているが、少し先で岩が曲がっているため、その向こうまでは見えない。
「なあ」
レンが声を落とした。
エリリアが目を開ける。
「何です?」
「怖いんだ」
言葉にすると、自分でも少し驚いた。
エリリアは口を挟まず、その先を待った。
「ここで休んでる間に、また遠くへ連れていかれるんじゃないかって。追いついた時には、もう何か起きた後なんじゃないかって思う」
レンは足元の靴跡を見たまま続けた。
「だから座ってるのが嫌なんだと思う。走ってる方が、まだ何かしてる気になれるから」
狭い岩の通路へ、彼の声が小さく残った。
エリリアは慰める言葉を探そうとはせず、しばらく黙ったあとで答えた。
「私も怖いです」
レンが横を見る。
エリリアは通路の奥を見ていた。
「アイリさんが今どこにいるのか分かりません。連れていった者たちが何をするつもりなのかも分からない。私たちが追いつくまで無事だという保証もありません」
「……ああ」
「だから急ぎたいです」
エリリアは一度息を吐いた。
「でも、急いだ結果、途中で動けなくなれば追いつけません」
レンは苦く笑った。
「正しいことばっかり言うな」
「今は必要でしょう」
「分かってる」
エリリアは彼を見る。
「怖いままでいいんです」
レンは少し眉を寄せた。
「いいのか?」
「怖くなくなるまで待つ必要はありません。ただ、その怖さに身体の使い方まで決めさせないでください」
レンは黙った。
「追える身体を残します。私も、あなたも」
その声には強さより疲れが混じっていた。だからこそ、レンには素直に入ってきた。
「……分かった」
「はい」
「今度は本当に」
「それはこのあと見ます」
「信用ないな」
「積み重ねの結果です」
レンが小さく笑うと、エリリアも僅かに笑った。
それ以上は話さなかった。怖さが消えたわけではないが、座っている時間を無駄だとは思わなくなった。
◇
次にレンが立とうとした時には、先ほどより長く待った。
右脚の鈍痛は残っているものの、じっとしているだけで脈打っていた熱は少し引き、足首から膝までの動きも確かめやすくなっていた。
「もう一度やる」
「ゆっくり」
「ああ」
レンは右手を岩壁へ添え、今度も左脚から立った。腰を上げ、身体の中心を左へ残したまま右足を地面へ置き、いきなり体重を預けず、足裏の感覚を確かめながら少しずつ重心を移す。
鈍い痛みは返ってきたが、先ほどのように膝が沈むことはなかった。右脚は細かく震えている。それでもレンは数秒そのまま待ち、震えが大きくならないことを確かめてから息を吐いた。
「いけそうだ」
「歩く前に待ってください」
「待ってる」
「珍しいですね」
「今日何回それ言うんだよ」
エリリアは答えず、今度は自分が立ち上がった。細剣を腰へ戻して右手を壁へつき、長時間の追跡と戦闘、それに風を使い続けた疲労が残る身体をゆっくり起こす。立ち上がった直後には僅かに目を閉じ、呼吸を一度整えた。
レンは手を出さず、エリリア自身が足元を確かめるのを待った。しばらくして彼女は壁から手を離す。
「大丈夫?」
「はい。さっきよりずっと」
「風は?」
エリリアは右手を軽く開き、岩の間を流れる空気へ意識を向けるように指先を動かした。
「細かな調整なら使えます。大きなものは、まだ避けます」
「それでいい」
「あなたも走らないでください」
「必要な時だけ」
「覚えていたんですね」
「昨日までの俺みたいに言うな」
エリリアは何も答えなかったが、少しだけ満足そうに見えた。
レンは腰の右寄りにある黒銀の剣の位置を確かめ、左手も一度だけ開閉した。薬指と小指へ強く力を入れないまま動きを確かめる。
「行こう」
「はい」
二人はようやく休んでいた窪みを離れた。
◇
自然の岩の通路は、奥へ進むほど少しずつ形を変えていった。初めは肩幅ほどしかなかった場所も、何度か曲がるうちに二人が並べる程度まで広がる。岩肌には水の通った浅い溝が幾筋も残り、足元には砂と細かな石が長い年月をかけて積もっていた。自然に割れた岩の隙間を、水や風が少しずつ広げてきた場所なのだろう。
大人たちの靴跡は、その砂の上へ途切れず残っていた。幾つもの跡が重なっているため正確な人数までは分からないが、どれも同じ方向へ進んでいる。
レンとエリリアは無理に速度を上げなかった。靴跡を見失わない程度に前を確認し、右脚へ負担の大きい段差ではレンが先に左足を置く。エリリアも風を使わず、自分の足で進んだ。
しばらく歩くと通路の天井が高くなり、岩の隙間から差し込む細い光も次第に広がってきた。
「外が近いな」
「ええ」
湿った土の臭いも混じり始め、やがて岩の通路は二つの大きな岩の間で終わった。その向こうには再び木々が見えている。
レンはすぐ外へ出ず、入口から周囲を確かめた。獣の姿も人の気配も見当たらない。
エリリアも耳を澄ませる。
「追ってきた音は?」
「聞こえません」
「諦めたのかな」
「分かりません」
「だよな」
なぜ追ってこないのかを考えるより、今は追いつかれていないという事実を利用する方がいい。
二人は岩の間から森へ出た。
外の光は沢を渡った頃より明らかに弱くなり、頭上の枝の隙間に残る空の明るさとは対照的に、木々の根元では影が長く伸びていた。
「夕方か」
「かなり日が傾いています」
「今日、長いな」
「まだ終わっていません」
「分かってるよ」
レンは前を見る。
大人たちの靴跡は岩の出口から再び土の上へ続いていた。踏まれた草や柔らかな場所に残る靴底、小枝の折れた向きは、どれも特別な合図ではなく、複数人が通れば自然に残る痕跡だった。
それらを一つずつ拾いながら、二人は森の奥へ進んだ。
◇
日が傾くにつれて、森の雰囲気も少しずつ変わっていった。
木々の種類そのものが変わったわけではない。ただ、地面に現れる岩が増えている。最初は拳ほどの石が土から覗く程度だったものが、やがて腰ほどの高さの岩になり、その間を木の根が縫うように伸びていた。
足元も緩やかに下り始めている。急な坂ではないものの、長く歩いていると、少しずつ低い場所へ向かっていることが分かった。
レンは右脚へ響かないよう歩幅を整えながら、木々の間を見た。
「さっきの通路からずっと下ってるな」
「少しずつですが」
「連れていった連中、どこまで行く気なんだ」
「目的地が近いかどうかも分かりません」
「ここまで来てまだ遠かったら嫌だな」
「嫌でも追うのでしょう?」
「追う」
「なら同じです」
「そうなんだけどさ」
エリリアが僅かに息を吐いた。呆れたようにも、笑ったようにも聞こえた。
しばらく進むと、森の中を流れる空気が変わった。
レンにも分かった。
夕方になって気温が下がっただけではない。前方の低い方から、地面を這うような冷たい空気が流れてきていた。
エリリアが足を止める。
「……風向きが変です」
レンも止まった。
「分かる?」
「ええ。魔法ではなく、普通の風です」
彼女は銀色の髪を押さえながら前を見る。
「前の方で、地形がかなり低くなっているのかもしれません」
レンは耳を澄ませた。
風が葉を擦る音や遠くの鳥の声、自分たちが動いたことで鳴る草の音に混じって、もう一つ低い響きが聞こえる気がした。
「水……?」
エリリアも黙って耳を澄ませる。
「私にも、そう聞こえます」
近くを流れる沢の音ではない。もっと遠く、低い場所から反響してくるような響きだった。
レンは足元を見ると、大人たちの靴跡は変わらず、冷たい空気が流れてくる方向へ、水音が聞こえる方向へ続いていた。
「同じ道だな」
「ええ」
二人はまた歩き始めた。
ここからは地面の傾きが少し強くなり、岩もさらに増えていく。木々はまだ密集しているが、根を張れる場所が限られているのか、少し先では幹と幹の間が広くなっていた。木々の間隔が開くにつれて枝の隙間から見える空も大きくなり、夕方の光が斜めに差し込んで岩の表面を淡く照らしている。
レンは無意識に歩幅を速めかけたが、右脚の奥から重い痛みが返ってくると、その場ですぐ速度を戻した。
エリリアが横を見る。
「何も言ってませんよ」
「言われる前に戻した」
「……本当に学んでいますね」
「何か悔しいな、それ」
「褒めています」
「もうちょっと普通に褒めてくれ」
「今は歩いてください」
「はいはい」
二人は肩を並べた。
木々の間はさらに広くなり、前方から流れてくる冷たい空気も少しずつ強くなっていた。枝葉の向こうに何があるのかは、まだ見えない。ただ、大人たちの靴跡だけは迷うことなく前へ続いている。
エリリアが一度足を止め、風の流れてくる先へ目を凝らした。
「もう少しで、森が切れます」
レンも前を見る。
木々の向こうから夕方の光が差し込み、その先から低く遠い水の音と冷たい空気が絶えず届いていた。
「行こう」
「はい」
二人は速度を変えず、靴跡を追った。
何が待っているのかも知らないまま、薄くなっていく木々の向こうへ進んでいった。
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