第一章 第四十一話 血に沈む空地
浅い沢を離れてからも、大人たちの靴跡は森の奥へ途切れず続いていた。
レンとエリリアは、必要な場所だけ足を速めながらその跡を追った。先ほどまで背後に響いていた獣たちの声は遠ざかっているものの、完全に消えたわけではない。時折、木々の向こうで枝が折れ、低い唸り声が風に混じる。
斜面で稼いだのは僅かな時間にすぎず、追跡を諦めたとは考えない方がいい。
レンは右脚へ負担を集中させない歩幅を保ち、根の多い場所では左脚から進路を作った。休んだ時間は短かったが、沢を渡る前より呼吸は整っている。ただ、右のふくらはぎから膝の下へ残る鈍い重さは消えず、使い続けるほど深い場所から熱を持っていくようだった。
隣を進むエリリアも、細剣を鞘へ収めたまま普段より口数を減らしていた。先ほどの空地で四本腕の怪物を転倒させるために大きな風を使い、その後も斜面で細かな制御を重ねている。足取りは崩れていないが、呼吸を完全に戻すにはまだ時間が足りていなかった。
「音、減ったな」
レンが声を落として言った。
「減りました。ただ、いなくなったわけではありません」
「分かってる」
「ならいいです」
「最近、そればっかりだな」
「あなたが最近ようやく聞くようになったからです」
レンは何か返そうとしてやめた。
今は言い返すより、前を見る方がいい。
大人たちの靴跡は一本の太い木を回り込み、その先で僅かに間隔を広げていた。地面の傾斜が緩くなり、木々の間隔も少しずつ開いている。
エリリアが先に速度を落とした。
「待ってください」
レンも止まる。
二人の前で森が途切れていた。
木々の隙間から見えるのは、幅三十メートルほどの浅い空地だった。完全に開けているわけではなく、周囲には岩と古い木が不規則に残っている。反対側には灰色の岩壁が低く張り出し、その中央近くに二人が並んでは通れないほどの細い割れ目があった。
大人たちの靴跡は、その空地へ続いている。
レンは木の陰から地面を見た。
「……ずいぶん汚れてるな」
「ええ」
草の一部が黒ずみ、まだ湿って見える場所もあった。最初は泥かと思ったが、その近くには白く乾いた骨が幾つか転がり、倒れた草の間には古い毛皮の一部が残されている。大型の獣が何かを食い荒らした跡なのか、それともここで何度も争いが起きているのかまでは分からない。
風が抜けると、鉄を思わせる古い臭いが僅かに鼻へ残った。
「昔から使われている場所なのか」
「何に、とは言えません」
エリリアは空地全体へ視線を走らせた。
「少なくとも、長居したい場所ではありません」
「向こうの岩の間、足跡が入ってる」
「見えます」
草の薄い場所には大きな靴跡がいくつも残り、空地を横切って反対側の細い岩の割れ目へ続いていた。
アイリを連れた者たちの進路は、間違っていない。
レンは背後を見る。
森の奥で何かが動いた。
まだ姿は見えないが、枝を踏む音は一つではなかった。
「戻る方が危ないな」
「私もそう思います」
「走り切れるか?」
エリリアは空地の距離を測るように目を細めた。
「最初から全速力にしなければ」
「俺も同じだ」
「途中で脚が止まりそうなら、先に言ってください」
「止まる前にな」
「それでお願いします」
二人は同時に息を整えた。
レンは腰の右寄りに収めていた黒銀の剣へ手を掛けたが、まだ抜かずに空地の先を見た。踏み込んだ瞬間から戦うつもりになれば、それだけ余計な力を使う。
「風は?」
「必要な時だけ使います。ここからは使った回数も数えます」
「そこまで節約するのか」
「今は必要です」
「分かった」
「行きましょう」
「ああ」
二人は木の陰を離れた。
◇
空地へ踏み込んでも、すぐに何かが襲ってくることはなかった。
レンとエリリアは大人たちの靴跡から大きく外れない範囲で、比較的草の短い場所を選んで進んだ。
足元には古く乾いた血の跡が幾つも残っていた。その上へ新しい草が伸びた場所もあれば、土そのものが黒く染まっている場所もある。転がった骨の多くは既に土と泥に汚れ、何の獣のものか判別できなかった。
レンは前だけを見るようにした。
反対側の岩壁までは、まだ二十メートル以上ある。右脚は重いものの動いており、この距離なら今の歩幅でも届くはずだった。
背後で草が鳴った。
「来ました」
エリリアの声が低くなる。
レンは振り返りながら剣を抜いた。
森から最初に現れたのは狼型の獣だった。一頭目の肩には乾ききっていない血が付着し、片側の毛が泥で固まっている。空地で四本腕の怪物に巻き込まれた個体なのか、それ以前に傷を負っていたのかは分からない。
その後ろからもう一頭が現れ、さらに木の幹へ長い指を掛けながら、腕の異様に長い獣が姿を見せた。
「三体」
「まだいます」
エリリアが森の右側を見る。
低い草が一直線に揺れ、細長い身体を持つ四体目の獣が地面すれすれを滑るように空地へ入ってきた。それ以上の音も聞こえるが、すぐ近くまでは来ていない。
「向こうまで行く」
レンは岩の割れ目を示した。
「倒せるものだけ倒す、じゃない。邪魔なものだけどかす」
「はい」
「風は?」
「必要な時だけ」
「それでいい」
二人は再び前へ向いた。
背後から狼型が走り出す。
レンとエリリアも速度を上げた。
右脚へ一気に力を掛けず、最初の数歩では無理に距離を稼がない。身体が動き始めてから少しずつ歩幅を広げると、十歩ほど進んだところで右脚の奥に重い痛みが走った。それでも膝が沈むほどではなく、レンは歩幅を一段だけ狭めて進み続けた。
「左から!」
エリリアが叫ぶ。
一頭目の狼型が斜めから距離を詰めていた。
正面へ回り込もうとしているわけではない。ただレンへ最短で飛びかかろうとした結果、進路が重なっている。
レンは立ち止まらず、剣を身体の右側へ寄せて獣が跳ぶ直前まで待った。
大きく開いた顎が迫る。
レンは左脚を軸に半歩だけ身体を外へずらし、黒銀の刃を獣の頬から首の外側へ滑らせた。深追いはせず、その勢いを利用して脇を抜ける。
獣は着地したものの、勢いを殺せず数歩先へ流れた。
「前!」
エリリアが先へ出る。
レンも追う。
ここで倒し切る必要はなく、二人は岩の割れ目まで残る十五メートルほどを詰めることだけに集中した。
◇
細長い獣が草の中から進路を変えた。
地面に近い分、姿を見失いやすい。
レンが気づいた時には、右前方から足元へ回り込んでいた。
「来る!」
エリリアの細剣が鞘を離れた。
彼女は獣そのものへ風をぶつけず、切っ先を低く向けた。細い流れが地面を這い、獣の前方に積もっていた乾いた草と黒ずんだ土を巻き上げる。
視界を遮られた細長い獣が一瞬だけ頭を振った。
その隙にレンは左へ寄り、エリリアも同じ方向へ動く。
二人の間を狙っていた獣は何もない場所へ飛び出し、そのまま進路を修正しようとして身体を捩った。
「一回」
エリリアが小さく息を吐いた。
レンは横目で彼女を見る。
「本当に数えるんだな」
「今日は数えます」
「分かった」
無駄遣いをさせないための数字だと分かっていたので、それ以上は何も言わなかった。
後方では先ほどの狼型が向きを変え、二頭目と並ぶように追っている。長い腕を持つ獣は地面へ降りず、空地の端に残る木を使って移動していた。
反対側の岩壁までは、あと十メートルほどだった。
レンは呼吸を整える。
ここまでは抜けられると思った、その時だった。
岩壁の前に横倒しになっていた古い幹の陰から、別の狼型が立ち上がった。五頭目の獣は低く唸り、細い岩の割れ目と二人の間を塞ぐように身を沈めた。
「……まだいたのか」
エリリアも足を止めかける。
いつからそこにいたのかは分からない。血の臭いに寄っていたのかもしれないし、ただ草陰で身を伏せていただけかもしれなかった。
背後からも足音が近づく。
「左を抜けます」
エリリアが言った。
横倒しの幹と岩壁の間には、人一人が走れるほどの空間がある。
ただし地面には古い骨と崩れた石が散っていた。
「俺が先に行く」
「脚は?」
「短い距離ならまだ動く」
「無理ならすぐ変わってください」
「ああ」
レンは進んだ。
前の狼型が身体を低くする。
後ろからも二頭が迫っている。
立ち止まって斬り合う時間はない。
レンは正面の獣へ剣先を置いたまま、横倒しの幹の方へ寄った。
狼型が飛ぶ。
レンは大きく後ろへ逃げず、幹と獣の間に生まれる狭い角度へ身体を滑らせた。
牙が目前まで迫る。
黒銀の剣を顎へ正面から噛ませることはせず、刃の腹を鼻先から頬へ沿わせて頭の向きを岩壁側へ押し流す。
獣の前脚が幹へ当たった。
着地点が狭く、身体が半分横を向く。
レンはそのまま抜けようとした。
右脚へ痛みが走り、歩幅が僅かに詰まる。
その一瞬で狼型が前脚を戻し、爪がレンの上着へ迫った。
「レン!」
細剣が横から入った。
エリリアは獣の首を無理に断とうとはせず、前脚の付け根へ鋭く刃を差し込んだ。
狼型が吠えて身体を反らす。
レンはその隙に一歩抜けた。
「助かった」
「まだです!」
後ろから二頭目が跳ぶ。
エリリアは振り返った。
風が走る。
大きな力ではなく、跳躍した獣の前脚が幹を越える瞬間だけ横から細い流れを入れた。
着地点がずれ、狼型は横倒しの幹へ腹からぶつかって、その向こう側へ転がった。
エリリアの呼吸が大きく乱れる。
「二回」
彼女が言った。
「もういい。あとは使うな」
「必要なら使います」
「必要にしない」
レンは正面にいた狼型へ目を戻した。
エリリアの細剣で傷ついた前脚を庇いながら、それでも岩の割れ目を塞いでいる。
後ろからは別の獣たちが迫る。
ここで時間を使えば囲まれる。
レンは剣を右手で握り直した。左手は柄へ強く添えない。薬指と小指の反応が遅れる今、無理に両手へ頼るより、右手を中心に正確に動かす方がいい。
「エリリア、俺が頭を外す」
「脚を狙います」
「分かった」
二人は同時に前へ出た。
◇
狼型がレンへ噛みつく。
レンは半歩だけ左へずれ、刃を口の外側へ沿わせて頭を流した。
その瞬間、エリリアの細剣が低く閃く。
先ほど傷つけた前脚ではなく、体重を支えていた反対側の脚へ刃が走り、狼型の身体が沈んだ。
レンは首を狙わず、倒れた獣の横へ身体を滑らせて岩壁との隙間へ入る。
「来い!」
エリリアも続いた。
後方から狼型が一頭追いつき、横倒しの幹を飛び越えようとする。そのさらに後ろでは、細長い獣も距離を詰めていた。
レンは岩の割れ目の入口まで走った。
幅が狭く、二人が並んで戦うことはできない。だが今は、その狭さが助けになる。
「先に入って!」
エリリアが叫ぶ。
「お前が先だ!」
「今言い争っている場合ですか!」
「だから入れ!」
エリリアが一瞬だけ睨んだ。
その間にも狼型が近づく。
「……三秒だけです!」
彼女は岩の割れ目へ身体を滑り込ませた。
レンは入口へ残る。
ここなら、一度に飛び込めるのは一頭だけだった。
狼型が幹を越えて迫る。
レンは真正面から受け止めず、入口の岩を右側に使った。
獣が牙を開いた瞬間、自分の身体を岩壁へ寄せる。
狼型の肩が岩へ擦れ、狭さのせいで頭を十分に振れない。
レンは剣を短く動かして首の横へ刃を入れた。今度は深く入り、獣の勢いが急激に崩れる。
レンは刃を抜きながらさらに内側へ下がった。
狼型は入口で倒れ、流れた血が岩の間を伝って、既に黒ずんでいた空地の土へ新しい赤を広げていく。
その身体を越えようとした細長い獣も進路を変えざるを得ず、後ろから来たもう一頭も速度を落とした。
「レン!」
「今行く!」
レンは岩の奥へ下がった。
剣はまだ抜いたままにしている。
二人が十歩ほど奥へ入ると通路は緩やかに曲がり、外の空地が直接見えなくなった。それでも獣の唸り声や、倒れた身体を押し退けようとする音は後ろから追ってくる。
「ここで止まりません」
エリリアが言った。
「ああ」
二人はさらに奥へ進んだ。
通路の幅は場所によって変わり、狭いところでは肩が岩へ触れそうになる。足元には砂利が多く、時折、雨水が流れた細い溝が横切っていた。
誰かが整えた道には見えない。岩が自然に割れ、その隙間を長い年月をかけて水が削っただけの場所だった。
大人たちの靴跡も残っている。
柔らかな砂の上に、複数の靴底が同じ方向へ続いていた。
「こっちで合ってる」
「ええ」
エリリアが答えた直後、レンの右脚に強い重さが戻った。
戦っている間は意識の外へ押し込めていた痛みが一気に身体へ戻り、歩幅が縮む。
エリリアも気づいた。
「もう少しだけ奥へ」
「分かってる」
外から一直線に飛び込めない場所まで行けばいい。
曲がり角をもう一つ越えると通路が僅かに広くなり、三人ほどなら壁へ身体を寄せて座れる程度の窪みが現れた。足元にも大きな石は少ない。
レンはそこでようやく速度を落とした。
◇
「ここなら、一度に来られても一頭です」
エリリアが入口側へ耳を澄ませた。
獣の声はまだ聞こえるが、こちらへ近づいている様子はない。空地で倒れた狼型が邪魔になっているのか、それとも狭い岩の間へ入ることを警戒しているのかは分からなかった。
レンは黒銀の剣に付いた血を布で拭い、鞘へ戻した。
その動作を終えた途端、身体から張り詰めていた力が抜け、右脚が細かく震え始める。
レンは壁へ背を預け、そのままゆっくり腰を下ろした。剣には頼らず、岩へ肩と背を当て、左脚を先に曲げてから身体を落とす。
エリリアが隣を見る。
「脚は?」
「重い。さっきよりは」
「痛みは?」
「ある。でも、それだけだ」
彼女はそれ以上問い詰めなかった。
レンの右脚がまだ動いていることも、ここまで自分の足で来たことも見ている。今必要なのは、痛みの名前を増やすことではなかった。
エリリアも壁へ手をついた。
その指先が僅かに震えている。
レンが気づく。
「座れよ」
「見張りを」
「今すぐ来てない」
「でも――」
「さっき俺に休めって言っただろ」
エリリアは黙った。
「大きい風、今使える?」
「……使いたくありません」
「なら座れ」
「命令ですか?」
「お願い」
エリリアは小さく息を吐いた。
「そう言われると断りにくいですね」
彼女もレンから少し離れた場所へ腰を下ろした。
細剣はすぐ抜ける位置に置き、背を完全には壁へ預けない。それでも立っている時より明らかに肩の力が抜けた。
しばらく二人とも話さなかった。
外の空地から届く獣の唸り声と、岩の隙間を抜ける細い風、自分たちの荒い呼吸だけが狭い通路に残っていた。
レンは水を取り出した。
飲みすぎないよう一口だけ含み、エリリアへ渡す。
彼女も同じように口を湿らせた。
「最後の風」
レンが言った。
「何です?」
「二回目のやつ。無理しただろ」
「無理というほどではありません」
「じゃあ、今すぐもう一回できる?」
エリリアは答えなかった。
レンが横を見る。
「できないなら、それでいい」
「……細い風なら使えます」
「大きいのは?」
「今は難しいです」
「分かった」
「怒らないんですね」
「何で怒るんだよ」
「以前なら、自分がもっと早く動けば使わせずに済んだ、と言っていた気がします」
レンは壁へ頭を預けた。
「言いそうだな」
「言います」
「でも今それ言ったら、お前に怒られるだろ」
「怒ります」
「だから言わない」
「理由が少し違う気もします」
「半分は本当に分かってるよ」
エリリアの口元がほんの僅かに緩んだ。
それだけで会話は終わった。
二人とも、長く話せるほど余裕が残っていなかった。
レンは足元を見る。
柔らかな砂の上には、大人たちの靴跡が奥へ続いている。
ここへ入った者たちは、この先へ進んだ。
その中にアイリがいるという確証は、沢に残された一つの足跡から先にはない。それでも別の道は見つかっておらず、追う理由としては十分だった。
レンは通路の奥へ目を向ける。
岩の隙間は少し先で再び曲がり、そこから先は見えなかった。灯りも人の声もなく、まだ目的地とは思えない。ただ、大人たちの靴跡と道だけはさらに奥へ続いている。
「エリリア」
「はい」
「少し休んだら行こう」
彼女はしばらく黙ってから頷いた。
「ええ。立てるようになったら」
レンはその言葉に何も返さなかった。
アイリが先にいる以上、急ぐ必要はある。外にはまだ獣が残っている。それでも今すぐ無理に立ち、ここまで酷使した脚やエリリアの力を使い切れば、追跡そのものを続けられなくなる。
二人は細い岩の通路で呼吸を整えながら、その先へ続く靴跡を見つめていた。
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