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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
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第一章 第四十話 倒れても進む者

倒れた四本腕の巨体が作った隙間へ、レンとエリリアは迷わず飛び込んだ。


 踏み荒らされた草の向こうに森が迫る。


 背後では、横倒しになった巨体がなお地面を掻いていた。低い咆哮に重なって複数の獣の声が響き、倒れた身体を踏み越える音や、巨体を回り込もうとする足音が次々と近づいてくる。


 稼げたのは勝利ではない。


 ほんの僅かな時間だけだった。


「右です!」


 エリリアの声に、レンは森の入口で進路を変えた。


 木々の間に残る人間の足跡は、踏み荒らされた空地ほど鮮明ではない。それでも湿った土には靴底の跡が続き、折れた下草にも複数人が急いで通った痕跡が残っている。


 アイリを連れ去った者たちは、ここを通った。


 それだけを見失わないように、二人は森へ入った。


 枝葉が頭上を覆った途端、空地の明るさが遠ざかる。


 レンは黒銀の剣を右手に持ったまま、根の張り出した地面を進んだ。右脚の奥には重い鈍痛が溜まり、踏み込むたびにふくらはぎから膝の下へ熱を持った張りが広がっていく。平坦な道ならまだ歩幅を保てるが、今は木の根や窪みを避けるたびに身体の重心を細かく変えなければならなかった。


 背後で枝が折れた。


「来ています」


「ああ」


 振り返らなくても分かる。


 四本腕の怪物に巻き込まれなかった獣たちが、もう森へ入っている。


 レンは速度を上げようとした。


「レン」


「分かってる」


「まだ何も言っていません」


「速くしすぎるな、だろ」


「分かっているなら、そうしてください」


 エリリア自身の呼吸も軽くはなかった。


 空地で最後に使った強い風の影響が残っているのだろう。走りながらも息は浅く、普段ならほとんど乱れない足運びにも僅かな重さがあった。


 それでも彼女はレンより半歩先へ出ようとはしない。


 二人の速度を合わせたまま、足跡と周囲の木々を同時に見ている。


「止まったら追いつかれる」


 レンが言った。


「ええ」


「でも、ここで潰れたらアイリまで行けない」


 エリリアが一瞬だけ横を見る。


「ようやく分かりましたか」


「ずっと分かってる。できるかどうかは別だ」


「それを分かっているとは言いません」


「厳しいな」


「今まで何度言わせたと思っているんです」


「……反省はしてる」


「本当でしょうね」


 言いながらも、エリリアの声に責める強さはなかった。


 レンは歩幅を僅かに縮めた。


 速度を落としすぎない範囲で、右脚へ大きな衝撃を入れない。枝を避ける時も急に方向を変えず、左脚を先に使って身体の向きを作る。


 空地で覚えた動きと同じだった。


 今必要なのは、速さそのものではない。


 次の一歩を残しながら進むことだった。


     ◇


 森へ入ってしばらくすると、人間の足跡は緩やかな下り坂へ続いた。


 太い木々の間を縫うように地面が傾き、落ち葉の下には湿った土が見えている。


「足元、気をつけてください」


「そっちもな」


「私はあなたほど脚を痛めていません」


「風でふらついてただろ」


「ふらついてはいません」


「一歩ずれた」


「見ていたんですか?」


「隣にいたからな」


 エリリアは答えず、前を向いた。


 耳の先が僅かに動いたように見えたが、レンが何か言うより先に背後から唸り声が響いた。


 今度は近い。


 二人は同時に振り返った。


 木々の間を、狼型の獣が二頭走ってくる。そのさらに後ろでは、枝を揺らしながら長い腕を持つ獣の影が移動していた。


「三体はいます」


「もっと来るか?」


「音だけでは分かりません」


「なら三体のつもりで行く」


「数が増えたら?」


「その時考える」


「それは計画とは言いません」


「走りながら完璧な計画を作れるほど頭よくないんだよ」


「知っています」


「即答するなよ」


 レンが言い返した直後、右足が落ち葉の下に隠れていた根へ乗った。


 足首を捻るほどではない。


 だが疲労の溜まった脚には、それだけで十分だった。


 膝が力を失い、身体が前へ沈む。


 レンは咄嗟に右手の剣を地面へ突こうとはせず、刃を外へ逃がしながら左脚を前へ出した。それでも体勢を戻し切れず、左膝が湿った土へ落ちる。


「レン!」


「止まるな、後ろ見てろ!」


 エリリアは手を伸ばしかけ、その言葉で向きを変えた。


 細剣を抜く。


 狼型の一頭が木々の間から飛び出した。


 エリリアは踏み込まず、相手が跳ぶ瞬間だけを待った。


 風が地面の落ち葉を巻き上げる。


 強くはない。


 顔へまともに当てるのではなく、跳躍した獣の前脚を横から押すだけの細い流れだった。


 着地点が半歩ずれる。


 狼型はエリリアの正面ではなく木の幹へ肩をぶつけ、爪で樹皮を削りながら地面へ落ちた。


 その隙にレンは立ち上がった。


 右脚へ一気に力を入れず、まず左脚を立てる。近くの木へ左の手のひらを軽く触れ、薬指と小指に強い負担を掛けないまま身体を起こした。


「動けますか?」


「動ける」


「走れますか?」


「走り続けるのはきつい」


「なら走り続けません」


 二頭目の狼型が迫る。


 レンは剣を構えた。


「十秒でも距離を取るぞ」


「はい」


 最初の獣が起き上がる前に、二人は再び坂を下った。


 今度はレンが無理に速度を上げることはなかった。


 追いつかれそうになった時だけ短く走り、木々の配置が変われば歩幅を落とす。


 エリリアも同じだった。


 風を使えば一時的に距離を作れる。


 だが空地で大きな力を使った直後の彼女には、それを繰り返す余裕がない。


 だから二人とも、今ある身体だけで距離を稼いだ。


     ◇


 坂は次第に急になった。


 表面の落ち葉が減り、雨で削られた土が露出している。斜面には木の根が何本も浮き出し、その下を細い水の跡が走っていた。


 レンは一度速度を落とした。


「この先、あいつらも来るよな」


「おそらく」


 エリリアは斜面の下を見る。


 人間の足跡は、右側へ折れながら細い平場を通っていた。


 幅は二人が並べるほどもない。


 左は木々の立つ斜面。


 右は深くはないものの、数メートル下まで一気に落ちる急傾斜だった。


「連れていった連中も、ここを通っています」


 エリリアが低く言った。


「アイリも?」


「足跡は重なっています。今は分けられません」


 レンは頷いた。


 無理に探して時間を失う場面ではない。


 背後から再び枝の折れる音がした。


 狼型が追いついている。


 二人は細い平場へ入った。


 土は柔らかく、何度も雨を吸った跡がある。斜面の上側では根の下から土が抜け、拳ほどの石がいくつも半分浮いた状態で残っていた。


 エリリアが足を止めかける。


「……ここ」


「何かある?」


「上を見てください」


 レンも見る。


 古い木の根が斜面を横切っている。


 太い根そのものはまだ生きているが、その下にあった土の一部が流され、石と枯れ枝が浅く積もっていた。


「崩せるのか?」


「崩す、というほどではありません」


 エリリアは周囲を見回す。


「元々、少しずつ落ちています。あそこだけ動けば、道の半分くらいは埋まるかもしれません」


「風で?」


「強い風は使いません」


 その言葉の直後、エリリアが僅かに眉を寄せた。


 レンは見逃さなかった。


「使えないのか?」


「使えます」


「エリリア」


「……大きいものは、今は避けたいです」


「なら避けよう」


「でも、これなら」


 彼女は斜面を指す。


「石を動かすほどの風ではなく、既に浮いている土を押すだけです」


 レンは上を見て、それから追ってくる音を聞いた。


「失敗したら?」


「そのまま走ります」


「成功しても?」


「走ります」


「分かりやすい」


「今はそれで十分です」


 二人は先に細い平場を渡り始めた。


 レンは剣を鞘へ戻した。


 この幅で抜き身のまま転べば、自分かエリリアを傷つける。黒銀の剣を腰の右寄りへ収め、空いた右手で必要な時だけ木の幹や露出した根へ触れた。


 左手は強く握らない。


 右脚には無理な踏ん張りを入れない。


 一歩ずつ、足を置く場所を確かめながら進む。


 平場の半分を過ぎたところで、背後に狼型が姿を見せた。


 一頭目が斜面へ飛び込む。


 その後ろから二頭目。


 さらに木の上では、長い腕を持つ獣が枝から枝へ移っていた。


「急げるか?」


「少しなら」


 二人は残る距離だけ速度を上げた。


 レンの右脚に鈍い痛みが走る。


 歩幅は崩さない。


 最後の数歩を抜け、少し広い地面へ出る。


「レン、もう少し下がってください」


 エリリアが振り返った。


「一人でやるなよ」


「立って見ていてください」


「それ一人でやるって意味じゃないか?」


「なら、後ろから来るものを見ていてください」


「分かったよ」


 レンは腰の剣へ右手を置きながら、木々の間を見る。


 最初の狼型が細い平場へ入った。


 足場の悪さを警戒する様子はない。


 ただ二人を追っている。


 二頭目も続く。


 長い腕の獣は斜面の上を回り込もうとしていた。


「今だ」


「はい」


 エリリアが細剣を抜き、斜面の上へ切っ先を向けた。


 風が走る。


 空地で巨体を傾けた時とは比べるまでもないほど細い流れだった。


 根の下に溜まっていた乾いた葉が浮く。


 その下の細かな土がさらさらと滑った。


 最初はそれだけだった。


 狼型が平場の中央へ入る。


 エリリアがもう一度だけ刃先を動かす。


 風が露出した石の周囲を抜けた。


 半分浮いていた小石が一つ転がり、それが下の石へ当たってさらに二つを動かす。根の下から土が抜け、枯れ枝が滑った。


 大きな崩落にはならない。


 だが斜面の表面が幅数メートルほどまとめてずれ、石と湿った土、折れた枝が細い平場へ流れ込んだ。


 先頭の狼型が足を止める。


 止まり切れなかった二頭目が後ろからぶつかった。


 二頭とも斜面から落ちるほどではないが、足元を失って土の中でもつれ合う。


 上を回っていた長い腕の獣も、突然動いた地面を避けて枝へ戻った。


「行きます!」


 エリリアは結果を確認し続けなかった。


 細剣を下げ、そのまま前へ走る。


 レンも続いた。


 背後で獣の唸り声が響く。


 土を掻く音も聞こえる。


 道を完全に塞いだわけではない。


 少し時間を奪っただけだ。


 それで十分だった。


     ◇


 再び森の奥へ入ると、二人はしばらく言葉を交わさなかった。


 走れるところだけ短く走り、それ以外は速足で進む。


 レンの右脚は、さっきより明らかに重くなっていた。古い傷跡の周囲からふくらはぎへかけて張りが強くなり、下り坂で身体を支えるたびに鈍痛が深く響く。


 それでも動き方は崩れていない。


 エリリアの方も、先ほどの風を使ってから呼吸がさらに速くなっていた。


 細剣は既に鞘へ戻している。


 片手で木へ触れながら坂を上がったところで、彼女の歩幅が一度だけ短くなった。


 レンが気づいて速度を落とす。


「止まるか?」


「まだです」


「俺に無理するなって言っただろ」


「無理はしていません」


「さっき俺もそれ言った気がする」


 エリリアが横目で見る。


「……少しだけ、息を整えます」


「そうしよう」


 二人は太い木の陰へ入った。


 座り込まない。


 レンは幹へ肩を預け、エリリアは片手を木へ置く。


 ほんの短い時間だけ呼吸を整える。


 背後の森へ耳を澄ませると、追っていた獣たちの声はまだ聞こえた。


 だが近くはない。


 先ほど崩した斜面を越えるか、別の道を探しているのだろう。


 レンは水を一口だけ飲み、エリリアへ渡した。


 彼女も少量を口にする。


「風は?」


「細かいものならまだ使えます」


「大きいのは?」


「今は使いたくありません」


「分かった」


「止めないんですね」


「何を?」


「無理をしてでも使うと言ったら」


 レンは少し考えた。


「必要なら止める」


「以前なら、自分が代わりに全部やると言っていたでしょう」


「今も言いたいけど」


「けど?」


「今の脚で言っても説得力ないからな」


 エリリアの口元が僅かに緩んだ。


「少しは学んだようですね」


「少しだけかよ」


「十分です。今は」


 レンも木から身体を離した。


「行ける?」


「はい」


「俺も」


 二人は再び歩き出した。


     ◇


 人間の足跡は、少し先で浅い沢へ降りていた。


 水量は多くない。


 石の間を細い水が流れ、岸には柔らかな泥が残っている。


 ここで複数の足跡が重なった。


 大きな靴跡が幾つも沢へ入り、そのまま反対側へ抜けている。


 レンとエリリアは立ち止まった。


「流れを使って痕跡を消したのか?」


「可能性はあります。ただ、水が浅すぎます」


 エリリアが沢の下流を見る。


「長く歩けば別ですが、この幅なら反対側に出た跡が残るはずです」


 二人は数メートルだけ左右へ分かれた。


 レンは反対岸の泥を見る。


 大きな足跡。


 少し崩れたもの。


 石へ乗って消えたもの。


 そして、その脇に小さな靴跡が一つだけ残っていた。


「エリリア」


 声を抑えて呼ぶ。


 彼女がすぐ横へ来た。


 レンは泥を指す。


 二人とも、しばらく何も言わなかった。


 これまで何度も追ってきた、大人たちより明らかに小さな足跡だった。


 踵からつま先までが泥へ深く入り、その次の一歩はない。


 歩かされたのか。


 一度だけ地面へ下ろされたのか。


 あるいは、自分から残したのか。


 そこまでは分からない。


 だが、レンには見覚えがあった。


「アイリだ」


「ええ」


 エリリアは断言するまでに一呼吸置いたが、否定はしなかった。


 レンは足跡の先を見る。


 大きな靴跡は森の奥へ続いている。


「まだ先だ」


「はい」


「追える」


「追えます」


 レンは立ち上がった。


 その瞬間、右脚の奥から鈍い痛みが返ってきた。


 顔をしかめる。


 エリリアが見る。


「走りますか?」


 レンは少しだけ迷った。


 以前なら、迷わず頷いていた。


 だが今は違う。


「必要なところだけ」


 エリリアの目が僅かに細くなる。


「それでいいです」


 二人は沢を渡った。


 森の奥では、まだ誰の姿も見えない。


 アイリの声も聞こえない。


 背後の獣たちが完全に諦めたという保証もない。


 それでも、泥に残った小さな足跡はアイリがここを通ったことを示し、その先では大人たちの靴跡が森の奥へ続いていた。


 レンは右脚へ負担を集中させない歩幅に整え、エリリアもその隣で速度を合わせた。


 二人は大人たちの足跡が続く森の奥へ、再び進み始めた。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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