第一章 第三十九話 肉と骨の雨
四本腕の巨体が森から踏み出した直後、右上の腕が持ち上がった。
レンには、それが攻撃だと理解するだけで精一杯だった。
「離れて!」
エリリアの声と同時に、二人は左右へ散った。
巨大な拳が地面へ叩きつけられる。
空地そのものが跳ねたような衝撃が足元を走り、湿った土と草が一斉に舞い上がった。レンは揺れた右脚で踏ん張ろうとせず、左へ二歩ずれて体勢を保つ。そのすぐ後ろでは、追いついてきた狼型の獣が跳躍していた。
巨体の拳が地面を抉った余波で、狼型の身体が横へ弾かれる。
さらに、振り下ろされた腕そのものが二頭目を巻き込んだ。
鈍い音とともに獣の身体が地面へ叩きつけられ、そのまま動かなくなる。
レンは目を見開いた。
「あいつ、周りを見てないぞ!」
「そのようですね!」
四本腕の怪物は、自分が潰した獣へ一度も目を向けなかった。
視線はレンとエリリアだけを追っている。
背後から押し寄せる怪物たちも、その巨体を避けて止まるわけではない。二人へ届こうと前へ出続け、その結果、巨大な腕の軌道へ自ら入り込んでいた。
左側の二本の腕が大きく振られる。
「伏せて!」
レンは身体を低くした。
頭上を風圧が通り過ぎた直後、背後から迫っていた長い腕の獣が横殴りに巻き込まれ、空中へ弾き飛ばされた。身体は数メートル先へ落ち、別の狼型を押し潰すように転がっていく。
エリリアが巨体と周囲の獣を交互に見た。
「避けるだけではなく、あれの前へ他の獣を入れます」
「できるのか?」
「少しずらすだけなら」
答える間にも、巨大な下腕の一本がレンへ伸びる。
掴もうとしているのか、払い飛ばそうとしているのかまでは分からない。
分かる必要もなかった。
レンは右脚へ大きな踏み込みを入れず、腕が来る方向へ半歩近づいてから外側へ抜けた。遠くへ逃げるより、振り切られる前の内側を通る方が移動は短い。
太い腕が背後を通過する。
その先には、一頭の狼型がいた。
獣はレンへ飛びかかろうとしていたが、横から来た巨大な前腕を避け切れない。身体ごと弾かれ、地面へ何度も跳ねながら転がった。
「使えるな」
「喜んでいる場合ではありません!」
「分かってる!」
巨体の足元へ近づきすぎれば踏まれ、離れれば四本の腕が描く長い軌道へ入る。さらに背後からは残った怪物たちが途切れることなく迫り、安全な場所などなかった。
それでも、進める場所なら作れるかもしれない。
「右へ寄せる!」
レンが叫んだ。
「そちらは腕が二本来ます!」
「だから近づく! 後ろの連中を巻き込ませる!」
エリリアが一瞬だけ彼を見た。
「……三歩以上離れないでください!」
「ああ!」
二人は巨体の右側へ向けて走った。
◇
四本腕の怪物が身体ごと向きを変えた。
動きそのものは狼型ほど速くない。
だが一歩が大きく、腕の届く範囲も広い。
上側の二本がレンを追い、下側の一本がエリリアへ伸びる。
彼女は後ろへ逃げなかった。
細剣を身体の近くへ寄せ、腕の進行方向を見極める。
爪のように太い指先が迫った瞬間、足元の草が強く倒れた。
短い風がエリリア自身の身体を横へ押す。
ほんの半歩だった。
それだけで巨大な指先は彼女の服を掠めるだけに終わった。
その直後、エリリアの後方から狼型が一頭飛び込んでくる。
彼女は振り返らず、細剣を小さく横へ払った。
風が獣の跳躍を僅かに内側へずらす。
本来ならエリリアの肩へ届いていたはずの狼型は、戻ってきた巨体の下腕の前へ入り込んだ。
凄まじい音とともに獣が吹き飛ぶ。
「一頭!」
「数えなくていいです!」
「さっき俺が聞いた時もそう言ってたな!」
「今も同じです!」
言葉を交わしている間にも、空地の状況は変わり続けていた。
四本腕の怪物が振り回す腕を避けようとして小型の獣たちが散り、その隙間へ別の群れが押し寄せる。互いを狙ってはいないのに、身体がぶつかり、足を踏まれ、倒れたものの上へさらに別の獣が乗り上げていた。
巨体はそれらを気にしない。
レンだけを追って上腕を振り下ろす。
レンは直線には逃げなかった。
右脚の奥では、戦いが長引くほど鈍い痛みが重くなっている。大きく跳び続ければ、アイリへ辿り着く前に脚が動かなくなる。
だから一歩で避け、それで足りなければ二歩だけ動く。できる限り短い動きで、攻撃の軌道から外れた。
巨大な拳がレンの横へ落ちた。
土が弾ける。
身体へ直接当たってはいないのに、衝撃で肩が押された。
レンは左手を地面につくのを避け、右肘と左脚を使って崩れかけた体勢を支え、そのまま身体を起こした。
「レン!」
「転んでない!」
「今のはほとんど転んでいました!」
「立ってるからいい!」
巨体がもう一歩出る。
その足元へ、背の硬い六脚獣が突っ込んできた。
狙いは巨体ではない。
その向こうにいるレンだ。
「エリリア、あれ!」
「見えています!」
六脚獣が加速する。
四本腕の怪物もレンへ向かって上体を傾けた。
二つの巨体の進路が重なる。
エリリアの細剣が六脚獣へ向いた。
小さな横風が、その前脚へ入る。
空地の中央で使ったものより弱い。
だが、既に全力で走っている相手の足を半歩外へ流すには十分だった。
六脚獣の身体が斜めへずれる。
直後、四本腕の怪物の脚へ肩から激突した。
巨体が初めて大きく揺れた。
「今の効いたぞ!」
「倒れるほどではありません!」
「でも揺れる!」
レンはその瞬間を覚えた。
巨大だから動かないわけではない。
重ければ重いほど、崩れ始めた時に自分の身体を止めるのも難しい。
◇
四本腕の怪物が吠えた。
六脚獣との衝突で大きな傷を負った様子はない。それでも苛立ったように上体を起こし、四本の腕を大きく広げる。
「来る!」
レンとエリリアが距離を取った。
巨体は上の二本を高い位置へ振り抜き、ほとんど間を置かず下の二本で地面近くを薙いだ。
周囲へ押し寄せていた獣たちが次々と巻き込まれる。
長い腕を持つ獣が一頭、胸からまともに打たれて宙へ浮いた。その身体が別の獣へぶつかり、二体まとめて地面へ落ちる。
狼型の一頭は下腕に掬い上げられ、血を散らしながら倒木の向こうへ消えた。
低い装甲を持つ獣は最初の一撃には耐えたものの、続いた別の腕に横から押され、脚をもつれさせて転倒する。そこへ後続の群れが突っ込み、硬い背の上を踏み越えようとして次々と崩れた。
レンとエリリアは、その混乱の外縁を走る。
「前が空く!」
「まだです。右から来ます!」
草を割って細長い獣が迫った。
レンは剣を振り下ろさず、刃の腹で頭を外へ押しやる。
身体が流れた先へ、四本腕の怪物の下腕が来た。
長い獣が途中で折れるように跳ね上がる。
その直後、巨大な拳が地面へ落ちた。
衝撃とともに、既に倒れていた獣の身体が土や草と一緒に跳ね上がった。
血が霧のように広がり、毛と砕けた殻の破片、その中に混じった白い骨片が宙へ舞う。
レンは反射的に顔を腕で庇った。
何か硬いものが上着へ当たって地面へ落ちたが、確かめることはしなかった。空地の上からは、血と泥にまみれた肉片や骨の欠片が雨のように降ってくる。
エリリアの銀色の髪にも赤い飛沫が散った。
彼女は目を細めながら細剣を上げる。
風が二人の顔の前だけを短く横切り、飛んできた細かな泥と破片を僅かに逸らした。
「……ひどいですね」
「言い方が冷静すぎるだろ」
「他に何と言えばいいんです?」
「俺に聞くな!」
地面へ落ちた血が草を濡らし、獣たちの足がそれを踏んで泥と赤を混ぜていく。
それでも群れは止まらなかった。
倒れた仲間を避けるものもいれば、そのまま踏み越えるものもいる。四本腕の怪物も、自分が何体巻き込んだのかなど気にしていない。
巨体の視線は変わらず二人を追っていた。
「こいつ、本当に俺たちしか見てないな」
「理由は後です!」
「ああ!」
答えを考えている場合ではなかった。
今は、その異常さすら利用するしかない。
◇
巨体の動きには、少しずつ癖が見えてきた。
右上の腕を大きく振る時には左脚へ体重が寄り、下側の二本を前へ伸ばす時には上体が沈み、後ろ脚が深く地面を掴む。そして四本すべてを大きく使った直後だけ、ほんの僅かに姿勢を戻す時間があった。
レンは怪物の脚を見る。
太い脚へ正面から剣を入れたところで、骨まで届くとは思えない。それでも膝の内側、関節が曲がる部分だけは毛が薄く、他より柔らかそうだった。
「エリリア」
「何です?」
「あいつ、右の腕を大きく使う時、左に乗る」
「見ています」
「逆も同じだ」
「ええ」
「脚の内側なら刃が入りそうだ」
エリリアがレンを見る。
「深く入ろうとしないでください」
「一回だけだ」
「その一回で戻れなければ意味がありません」
「分かってる」
レンは自分の右脚へ意識を向けた。
奥には、深いところへ鉛を入れられたような痛みと重さがある。それでもまだ動き、一度だけなら必要な踏み込みに耐えられる。
「次に右を振ったら行く」
「戻る時に風を入れます」
「強いのは使うな」
「押し出すだけなら必要ありません」
エリリアの呼吸は既に浅くなっている。
風を重ねるたび、額だけでなく首筋にも汗が滲んでいた。
レンもそれ以上は言わなかった。
二人は巨体を挟むほど離れず、互いの位置が見える範囲で僅かに角度だけを変えた。
怪物がレンを追う。
右上の腕が持ち上がった。
「来ます!」
「ああ!」
巨体が腕を振る。
レンは外へ避けず、逆に一歩だけ内側へ入った。
腕が頭上を通過する。
予想通り、怪物の重心が左脚へ寄った。
レンは右脚で大きく蹴り込まず、左脚から身体を送り出し、残る距離だけを右脚で支えた。
痛みが奥へ走る。
それでも止まらない。
怪物の左膝の裏側へ回り込み、黒銀の剣を両手で握り込むことなく、右手を中心に刃を引いた。
膝の内側へ斜めに一閃する。
厚い毛の下で肉を裂く手応えはあったものの、傷は浅く、脚を断つどころか立てなくするほどでもない。それでも、今必要なのはそれで十分だった。
「レン、戻って!」
怪物が振り返る。
下腕が伸びた。
レンは右脚で地面を強く蹴ろうとして、奥の痛みに動きが遅れる。
風が背中へ当たった。
身体を持ち上げるほどではなく、退く一歩を後押しするだけの短い風だった。
太い指先がレンの背後を掠める。
レンは左脚から着地し、そのまま体勢を整えた。
「助かった」
「一回だけと言いましたね」
「ああ。もう行かない」
「ならいいです」
四本腕の怪物が左脚を引く。
傷を確かめるような動きではない。
だがその脚へ体重を戻した瞬間、膝が僅かに揺れた。
レンはそれを見逃さなかった。
「効いてる」
「少しです」
「少しでいい」
倒す必要はない。
崩れやすくなれば、それでいい。
◇
怪物は怒ったように咆哮し、前へ出た。
傷を庇って動かなくなるどころか、さらに荒々しく四本の腕を振り始める。
そのたび周囲の獣が巻き込まれた。
レンとエリリアは巨体の正面へ長く留まらず、周囲を回りながら、迫る怪物を腕の軌道へ押し込んでいく。
「左から狼!」
「そのまま!」
レンは狼型を斬らず、相手が避ける方向を限定するように刃を右側へ置いた。
獣は左へ回る。
そこへ巨体の拳が降った。
地面が震える。
「次、後ろ!」
長い腕を持つ獣がエリリアへ跳ぶ。
彼女は小さな風を下から当て、跳躍の高さをほんの少し変えた。
獣はエリリアを越えて前へ落ちる。
そこへ四本腕の怪物が身体を回した。
巨大な肘が横からぶつかり、獣の姿が視界から消える。
二人は巨体を倒そうとしているのではない。
その周囲に空間を作らせていた。
結果として巨体の足元には、血で濡れた草や深い足跡、折れた枝、横倒しになった獣の身体が重なり、地面はもう平らではなくなっていた。
エリリアがその足元を見る。
「レン」
「ああ」
二人とも同じことに気づいていた。
怪物の左脚が再び地面へ着く。
先ほどレンが切った場所を庇っているのか、足の置き方が僅かに外へずれた。
その先には、倒れた六脚獣の硬い身体と、拳で抉られた柔らかな土が重なっている。
「次にあそこへ乗れば」
「崩れるかもしれません」
「でも足を置かせるには――」
レンが言い終える前に、背後から重い足音が迫った。
別の六脚獣だった。
巨体へ向かっているのではなく、一直線にレンへ突進している。
エリリアが振り返り、その目を一瞬だけ細めた。
「使えます」
「何を?」
「あれを」
レンも理解した。
「俺が寄せる」
「無茶はしないでください」
「しない」
「その言葉、信用していいんでしょうね」
「今はしてくれ!」
レンは四本腕の怪物と六脚獣の間へ直接入らず、二つの進路が交差する位置へ移った。全力で走るのではなく、二つの巨体を重ねるために必要な距離と角度だけを取る。
右脚の奥が悲鳴を上げるように重くなった。
それでも動きを止めない。
六脚獣がレンを追って向きを変える。
四本腕の怪物も彼へ上体を向けた。
二つの巨体が近づく。
「今、右へ!」
エリリアの声に、レンはすぐ従った。
右へ二歩ずれる。
それ以上は踏み込まない。
六脚獣は急には曲がれず、そのまま前へ進んだ。
四本腕の怪物が下腕を振る。
六脚獣の硬い背へ拳が当たった。
完全には吹き飛ばない。
だが進路が大きくずれ、その肩が四本腕の怪物の左脚へ激突する。
巨体が揺れた。
傷ついた膝が外へ折れかける。
「エリリア!」
「まだです!」
怪物は倒れない。
右脚で地面を踏み、身体を立て直そうとする。
上側の二本の腕が広がり、周囲の木々さえ掴めそうな姿勢になった。
エリリアは右手で細剣の柄を固定し、左手を僅かに前へ出す。
足元の草が大きく伏せた。
レンは彼女を見る。
「大丈夫か?」
「これで決めます」
声に余裕はない。
それでも視線は巨体から離れなかった。
◇
四本腕の怪物が、傷ついた左脚をもう一度地面へ置いた。
足の半分は拳で抉られた柔らかな土へ入り、もう半分は倒れた六脚獣の硬い背へ乗る。
巨体が僅かに傾いたものの、圧倒的な筋力で姿勢を戻そうとしていた。
「今です!」
エリリアの細剣が振られた。
風が空地を横切る。
これまでの細かな流れとは違い、地面の血と土埃をまとめて巻き上げ、レンの服まで強く引っ張るほどの風だった。
それでも四本腕の怪物の巨体が宙へ浮くことはない。
必要もなかった。
既に左へ傾き始めた上半身へ、さらに横から力が加わる。
怪物が右脚を踏み直そうとしたが、足元には自分が倒した獣の身体が重なっている。
踵が滑った。
傷ついた左膝が沈み、四本の腕が一斉に空を掻く。
巨体が大きく傾いた。
「離れろ!」
レンは叫ぶと同時に、怪物が倒れる方向から外へ走った。
エリリアもすぐに反応し、細剣を身体へ寄せながら並んで退く。
四本腕の怪物が吠えた。
巨体の下では、逃げようとする獣も、なおレンたちへ向かおうとする獣も、転倒した仲間に阻まれて動けない獣も入り乱れていた。
その全てをまとめて覆うように、四本腕の怪物が倒れ込んだ。
地面を叩く音が空地全体を揺らした。
次の瞬間、土と血が噴き上がる。
押し潰された身体から赤い飛沫が広がり、砕けた硬い殻や白い骨の欠片が泥と一緒に空へ舞った。倒れた巨体の腕が最後に大きく跳ね、その先にいた何頭かをさらに薙ぎ払う。
レンは顔を庇いながら姿勢を低くした。
エリリアも細剣を身体へ寄せて身を守る。
血と土、毛、骨の欠片が空地へ降り注いだ。
ほんの数秒のことだったが、レンにはひどく長く感じられた。
やがて大きな破片が落ちる音が減っていく。
二人はゆっくり顔を上げた。
四本腕の怪物は横倒しになっていた。
二本の腕が地面へ投げ出され、もう一本は身体の下へ巻き込まれている。残った一本だけが一度大きく動き、土を掻いた。
巨体は起き上がろうとしていた。
傷ついた左脚が地面を探す。
だが下半身の周囲には倒れた獣と抉れた土が重なり、身体を持ち上げるだけの足場を作れない。
「まだ生きてる」
レンが息を切らしながら言った。
「でも、すぐには立てません」
エリリアの声も荒い。
彼女は一歩動いたところで僅かによろめきかけたが、すぐ姿勢を戻した。
レンが横を見る。
「風、使いすぎたか」
「少し……重いだけです」
「その言い方、俺の真似か?」
「今は言い返さなくていいです」
「言えるなら平気だな」
「レン」
「分かった」
エリリアは短く息を吐いた。
疲労は明らかだったが、立っている。
細剣も手放していない。
レン自身の右脚も、もう軽くはなかった。止まっているだけで奥の鈍痛が脈打ち、次に長く走れば同じ歩幅を保てる保証はない。
それでも、目の前の状況はさっきまでとは違っていた。
◇
倒れた四本腕の巨体が、空地を大きく分断していた。
その周囲には巻き込まれた獣たちが重なり、生き残った怪物たちもすぐには真っ直ぐ二人へ来られない。巨体を回り込もうとするもの、倒れた仲間を踏み越えるもの、突然塞がれた進路の前で押し合うものが混ざり、初めて群れの圧力が途切れていた。
静かになったわけではない。
唸り声は続き、木々の間にもまだ多くの影がいる。
それでも、これまで一瞬で埋められていた隙間とは違った。
反対側の森まで、一本の細い空間が開いている。
レンは息を飲んだ。
「道が……」
「開きました」
エリリアも見ている。
倒れた巨体の右側、踏み荒らされた草の先に、アイリを連れ去った者たちの痕跡が再び森の中へ続いていた。
レンは黒銀の剣を握り直す。
「行ける」
「長くは持ちません」
既に一頭の狼型が巨体の腕を越えようとしており、その後ろから別の獣も回り込み始めている。倒れている四本腕の怪物自身も地面へ爪を立て、身体を起こそうとしていた。
猶予はほとんどない。
「十分だ」
レンは右脚へ無理に力を込めず、最初の一歩を出した。
「行くぞ」
「はい」
エリリアが隣へ並ぶ。
二人は血と泥に濡れた空地を蹴った。
背後では怪物たちが再び動き始めている。
それでも今だけは、アイリへ続く道を塞ぐものがなかった。
二人は閉じ始めるその隙間へ向かって走り出した。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
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