第一章 第三十八話 止まらない突撃
六十を超える影が動いた瞬間、空地を満たしていた静けさは消し飛んだ。
最初に届いたのは地鳴りだった。
四方の森から獣たちが一斉に飛び出し、湿った土を蹴り、低い草を押し潰して二人へ迫る。唸り声と足音が重なり、少し遅れて枝の折れる音が頭上から降ってきた。
「前へ!」
レンが叫ぶ。
「はい!」
二人はその場で迎え撃たなかった。
アイリへ続く痕跡が伸びる反対側の森へ向かい、空地を斜めに切るように走り出す。
最初に距離を詰めたのは、狼に似た四足の獣だった。
一頭が真正面から跳ぶ。
レンは右脚で強く踏ん張らず、身体を半歩だけ横へ逃がした。開かれた顎の外側へ黒銀の剣を滑らせ、首筋を浅く切る。致命傷を狙って立ち止まることはせず、そのまま獣の脇を抜けた。
別の一頭が左から迫る。
レンが向き直るより早く、横から風が叩きつけた。
獣の身体そのものを吹き飛ばすほど強い風ではない。ただ前脚が地面へ触れる寸前、その進行方向を僅かにずらした。
爪が土を掻き、獣は狙った位置から半身分外れる。
レンはすれ違いざまに肩口へ剣を入れた。
「止まらないで!」
「分かってる!」
二人は倒れた獣を確認しなかった。
数歩進んだ先へすぐ別の影が入り込み、右から二頭、正面から一頭が迫る。その後ろでは、低い身体を硬い背で覆った六脚の獣が重い足音を響かせていた。
「左へ三歩!」
エリリアの声に、レンは反射的に進路を変えた。
「そっちは跡から外れる!」
「三歩だけです!」
迷ったのは一瞬だった。
レンは指示通り左へ寄る。
直後、それまで彼の正面だった場所を狼型の獣が駆け抜け、そのすぐ後ろから別の一頭が飛び込んできた。二頭は互いに避けようともせず、肩をぶつけて体勢を崩す。
エリリアはその間へ踏み込んだ。
細剣が短く閃き、起き上がろうとした一頭の前脚の付け根を正確に裂く。
もう一頭が彼女へ牙を向ける。
足元の枯れ葉が跳ねた。
細い風が獣の顔を斜めから打ち、目を閉じさせる。
エリリアは深追いせず、すぐレンの横へ戻った。
「戻します!」
「ああ!」
二人は数歩右へ寄り、再びアイリの痕跡へ近づいた。
まだ空地の半分にも届いていない。
それなのに、背後からはもう次の足音が迫っていた。
◇
一つの隙間を作るたび、別の身体がそこへ入り込んだ。
レンが一頭を退かせれば、その後ろから二頭が来る。エリリアが風で突進の角度を変えれば、空いた場所へ別の獣が飛び込んでくる。六十という数を見た時には大きすぎて実感できなかったが、戦い始めてようやく、その意味が身体で分かった。
目の前の一体をどうにかしても、それで敵が減ったという感覚がまるでない。
「上!」
エリリアが叫んだ。
レンは考えるより先に身体を低くした。
頭上の枝から長い腕を持つ獣が落ちてくる。
その爪がレンの髪を掠め、空を切った。
着地した瞬間、異様に長い腕が横薙ぎに振るわれる。
レンは後ろへ跳ばなかった。
右脚へ余計な負担を掛ければ、次の一歩が遅れる。
代わりに一歩だけ懐へ入り、腕が十分な速さに乗る前に剣の腹で軌道を外した。
左手を柄へ添えようとした時、薬指と小指の反応が一瞬遅れる。力任せに握り込むのをやめ、右手だけで刃を返すと、剣先が獣の脇を浅く切った。
「レン、離れて!」
エリリアの声と同時に風が走る。
今度は獣を吹き飛ばすのではなく、レンと怪物の間へ空気の塊を滑り込ませるような短い一撃だった。
獣の上体が僅かに後ろへ反る。
レンはその一瞬で横へ抜けた。
「助かった!」
「次、正面!」
礼を言い終える暇もない。
狼型の二頭が迫っていた。
レンは一頭目の牙を剣で正面から受けず、半歩ずれて刃を口元へ添え、噛みつこうとする力そのものを横へ逃がした。獣の頭が流れたところで身体をかわし、後ろ脚の外側へ刃を走らせる。
獣が転ぶ。
二頭目はその身体を飛び越えてきた。
レンが間に合わない。
エリリアの風が横から入り、跳躍中の身体が傾く。
獣はレンではなく地面へ肩から落ち、草を巻き上げながら転がった。
二人はその横を走り抜ける。
「今ので何体だ?」
「数えていません!」
「俺も!」
「なら聞かないでください!」
「ちょっとくらい余裕あるかと思った!」
「ありません!」
エリリアの返事がいつもより速い。
レンは苦しい呼吸の中で僅かに口元を歪めたが、すぐ前へ意識を戻した。
まだ進めるものの、右脚の奥に溜まっていた重さは明らかに増していた。走り続けているわけではなくても、急な停止や方向転換を繰り返すたび、ふくらはぎの深い場所へ鈍い痛みが響く。傷が開いた感覚はなく、足もまだ動いている。だからこそ、残っている力を使い切る前に前へ出なければならなかった。
◇
草の中で何かが走った。
レンは咄嗟に足元を見る。
「下!」
細長い身体が地面すれすれを滑るように近づいていた。
蛇に似ているが、胴の左右には短い脚が並んでいる。
顎が足首へ向けて開く。
レンは右脚を大きく跳ね上げず、左へ半歩ずれて避けた。
その動きだけで右脚の奥が重く脈打つ。
長い獣が進路を変える。
エリリアが細剣の切っ先を下げた。
風が草を地面へ押し伏せ、隠れていた身体を一瞬だけ露出させると同時に、その進行方向も明らかになる。
「右へ!」
レンは小さく踏み込み、頭の後ろへ剣を振り下ろした。
硬い感触が返り、一撃では完全に止まらなかったものの、長い身体が大きく捩れて進路を外れた。
「それでいいです!」
エリリアが言う。
「分かってる!」
倒す必要はない。
道を塞げなくすればいい。
レンは剣を引き、そのまま前へ出た。
エリリアも続く。
そこへ右側から、長い腕の獣が低く飛び込んできた。
今度は枝からではない。
両腕を広げ、二人まとめて押し倒すような軌道だった。
エリリアが細剣を構える。
しかし彼女の呼吸が、それまでより僅かに荒い。
「俺がやる!」
レンは獣へ向かわず、進行方向の外側へ身体をずらした。
長い腕が目の前を掠める。
上着の肩口が爪の先に引っ掛かり、布が裂けたが、皮膚までは届いていない。
レンは立ち止まらず、獣の腕の内側へ剣を滑らせた。深く追わず、相手が腕を引いた隙にその横を抜ける。
「怪我は?」
「服だけ!」
「なら前へ!」
二人はさらに進んだ。
◇
空地の中央近くまで来ると、足元に倒れた獣が増え始めた。
自分たちが傷つけたものだけではない。突進の勢いを殺し切れず、別の怪物とぶつかって転倒したものもいる。
獣たちは互いを狙ってはいない。
それでも六十を超える身体が同じ場所へ押し寄せれば、完全に避け合うことなどできなかった。
レンは横倒しになった狼型の身体を回り込む。
その直後、別の一頭が死角から飛び出した。
「右!」
エリリアの風が獣の顔へ砂と乾いた草を叩きつける。
ほんの一瞬だけ視線が外れた。
レンは首ではなく前脚を狙う。
刃が入り、獣の身体が前へ崩れた。
その背を飛び越えることはせず、右脚へ余計な衝撃を入れないよう横から回る。多少遠回りになっても、一歩を失うことより脚そのものを使えなくする方が致命的だった。
エリリアが並ぶ。
彼女の額には汗が浮いていた。
「風、平気か?」
「まだ使えます」
「無理してないだろうな」
「あなたにだけは言われたくありません」
「今の俺、ちゃんと抑えてるだろ」
「そこは認めます」
息を整える暇もないまま、エリリアは続けた。
「大きく動かすのは減らします。細かく崩す方が長く持ちます」
「それでいい。俺が届くところまでずらしてくれれば十分だ」
「全部あなたに渡すつもりもありません」
「知ってる」
彼女の細剣が動く。
横から飛び込んできた狼型の喉元を、風で僅かに持ち上がった瞬間に切り裂いた。
獣が倒れるより先に、二人はその横を抜ける。
前方の森はまだ遠いものの、確実に近づいていた。
「あとどれくらいだ?」
「今測る余裕がありますか?」
「ない!」
「なら前を見てください!」
その直後、地面が揺れた。
◇
重い六脚の獣が三体、ほとんど横一列になって迫っていた。
低く硬い背と太い脚を持つ巨体は、一頭だけでも正面から受ければ押し潰されかねない。しかも三体の間には、人一人が抜けられるほどの隙間もなかった。
「避ける!」
レンが右へ向こうとする。
「待って!」
エリリアが叫んだ。
右側では狼型の獣たちが回り込み、左でも長い身体が草を割って近づいている。
大きく逃げれば、そこで足を止められる。
「エリリア!」
「見ています!」
三頭は二十メートル、十五メートルと一気に距離を詰め、地面を踏むたび空地の土を震わせた。
エリリアは怪物そのものではなく、先頭の一頭の足元を見ている。
進行方向の左側には、朽ちた枝と柔らかい土が集まった場所があった。
「レン、私の後ろへ!」
「何する気だ!」
「倒しません!」
距離がさらに詰まる。
エリリアが細剣を斜めへ振った。
空気が一気に流れる。
これまで使っていた短い風より明らかに強い。
だが狙ったのは、巨大な身体全体ではなかった。
先頭を走る六脚獣が左前脚を地面へ置く、その瞬間だけを狙って横風をぶつけた。
重い身体は吹き飛ばない。
前脚が僅かに外へ流れただけだった。
それで十分だった。
勢いのついた巨体が柔らかな土へ斜めに踏み込み、朽ちた枝をまとめて踏み砕く。身体が左へ傾き、その肩が隣を走っていた二頭目へ激突した。
鈍い衝撃音が響く。
二頭目の進路がずれる。
三頭目が避けようとして外へ膨らむ。
三体の間に、一瞬だけ細い道が開いた。
「今!」
レンとエリリアは同時に走った。
先頭の獣が立て直そうとする。
レンは斬りかからず、その鼻先を避けて開いた隙間へ身体を滑り込ませた。
横では二頭目の硬い背が迫る。
エリリアが短い風を入れ、レンの上着が強く揺れると同時に身体が半歩前へ押し出された。
「助かった!」
「止まらないで!」
エリリア自身も細剣を身体へ寄せ、怪物の脚と脚の間を抜けた。
三頭目の前脚が地面を叩き、すぐ背後で土が爆ぜる。
二人は振り返らず、十歩、十二歩と走れるだけ距離を稼いだ。
その先でレンの右脚の奥に強い鈍痛が走り、踏み出した瞬間に膝が僅かに沈んだが、転倒する前に左脚へ重心を移して歩幅を短くする。
「レン!」
「平気!」
エリリアもすぐ速度を合わせた。
後ろでは六脚の獣たちが立て直し始め、その周囲を別の怪物が回り込んでくる。せっかく開いた穴は、もう閉じかけていた。
「本当に止まらないな!」
「止まってくれると思っていたんですか!」
「少しくらい休めよ!」
「向こうに言ってください!」
「聞くと思うか!」
「思いません!」
息の上がった声が重なる。
それでも二人は前へ進んだ。
◇
空地の反対側まで、残る距離は三十メートルもなかった。
森の木々がはっきり見える。
その間へ続く人間たちの痕跡も、まだ完全には消えていない。
アイリはあちらへ連れていかれた。
レンは剣を握り直した。
右手の指に疲れが溜まっている。
左手を添えれば多少楽になるが、強く握り込ませることはしない。使える三本の指を中心に軽く柄へ触れ、姿勢を整える程度に留めた。
「正面、二!」
エリリアの声が飛ぶ。
狼型の二頭が迫り、その間には長い腕を持つ獣が一頭いた。
「真ん中をずらせるか!」
「少しだけ!」
風が走る。
長い腕の獣が踏み込む瞬間、上体が横へ傾いた。
完全には崩れない。
それでも片側の狼型との間に、人一人分の隙間が生まれる。
「行く!」
レンはそこへ入った。
狼型の牙が右から迫る。
黒銀の剣を立てて顎を止めるのではなく、刃の腹を鼻先へ滑らせて横へ逃がす。
獣の頭が逸れた。
レンはその身体へ攻撃せず、前へ抜ける。
エリリアも続いた。
長い腕が背後から伸びる。
彼女は振り返りざまに細剣で爪を受け流し、そのまま風を短く叩きつけて距離を作った。
二人が三歩進む間に、後ろの隙間はもう別の獣で埋まる。
前へ進んでも、後ろには怪物が残る。
倒しても、回り込んでも、次が来る。
それでも森の入口までの距離は二十五メートル、二十メートルと確実に縮まっていた。
「見えてきた!」
レンが言う。
「まだ気を抜かないで!」
「分かってる!」
その瞬間、足元の草が大きく割れた。
長い身体を持つ獣が二人の間へ飛び込む。
レンは右へ、エリリアは左へ分かれた。
「エリリア!」
「大丈夫です!」
獣が身体を捩り、レンの足元へ回る。
右脚で強く蹴りつけることはしない。
レンは左足を軸に身体を回し、剣先で頭の向きを外へ押しやった。
長い身体がそのまま横へ流れる。
エリリアの細剣が脇から入り、首元の柔らかい部分を切った。
「戻るぞ!」
「はい!」
二人はすぐ互いの距離を詰め直した。
離れたまま戦えば、各個に囲まれる。
それだけは避けなければならない。
正面の森までは、もう十五メートルほどしかない。
その向こうへ入れば安全だという保証はなく、むしろさらに何かが待っている可能性もある。それでも、アイリへ続く道はそこにあった。
「あと少しだ」
レンが息の間から言う。
「ええ」
エリリアの呼吸も荒い。
風を使う回数が増えるにつれ、声にも僅かな重さが混じり始めていたが、細剣の先は下がっていない。
「大きい風、あと何回いける?」
「数え方によります」
「さっきみたいなの」
「何度もは無理です」
「じゃあ温存しろ」
「言われなくても」
右後ろから狼型が迫る。
エリリアは強い風を使わなかった。
足元の草と土埃だけを巻き上げて獣の視界を一瞬奪い、レンがその前脚へ短く刃を入れる。
獣が崩れる。
二人はまた前へ出た。
森の入口まで十二メートル、さらに十メートルと距離が縮まり、木々の間が手を伸ばせば届きそうなほど近く感じられた。
レンの胸に初めて、抜けられるという感覚が生まれる。
このままなら行ける。
全部倒さなくてもいい。
最後の数体をずらせば、森へ入れる。
「エリリア、左から――」
言葉の途中で、地面が揺れた。
今までとは違う。
六脚の獣が走った時よりも深く、重い。
足元の土そのものが下から押されたように震え、レンの言葉が止まった。
エリリアも前方を見る。
森の入口にいた獣たちが、二人へ向かうのではなく左右へ退き始めた。
初めて、自分たちから道を空けるように。
「……何だ?」
木々の奥で太い枝が立て続けに折れ、何かに押された幹が軋んだ。
やがて低い唸りが森の奥から響く。
これまで聞いたどの獣の声よりも深く、空気だけでなく胸の内側まで震わせるような音だった。
レンは剣を構え直した。
「エリリア」
「見えています」
暗い木々の間から、巨大な輪郭がゆっくり姿を現した。
熊に似た厚い肩と胴体を持つ巨体の左右から太い腕が伸び、その下にはさらにもう一対の腕がある。四本の腕を持つ怪物が枝を押し退けながら森から踏み出すたび、周囲の獣たちはその進路だけを避けていった。
レンとエリリアの背後では、なお大群が止まることなく迫っている。
前方では、アイリへ続く道を塞ぐように四本腕の巨体が立った。
あと僅かだった森の入口が、その影だけで見えなくなった。
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