↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
38/112

第一章 第三十八話 止まらない突撃

六十を超える影が動いた瞬間、空地を満たしていた静けさは消し飛んだ。


 最初に届いたのは地鳴りだった。


 四方の森から獣たちが一斉に飛び出し、湿った土を蹴り、低い草を押し潰して二人へ迫る。唸り声と足音が重なり、少し遅れて枝の折れる音が頭上から降ってきた。


「前へ!」


 レンが叫ぶ。


「はい!」


 二人はその場で迎え撃たなかった。


 アイリへ続く痕跡が伸びる反対側の森へ向かい、空地を斜めに切るように走り出す。


 最初に距離を詰めたのは、狼に似た四足の獣だった。


 一頭が真正面から跳ぶ。


 レンは右脚で強く踏ん張らず、身体を半歩だけ横へ逃がした。開かれた顎の外側へ黒銀の剣を滑らせ、首筋を浅く切る。致命傷を狙って立ち止まることはせず、そのまま獣の脇を抜けた。


 別の一頭が左から迫る。


 レンが向き直るより早く、横から風が叩きつけた。


 獣の身体そのものを吹き飛ばすほど強い風ではない。ただ前脚が地面へ触れる寸前、その進行方向を僅かにずらした。


 爪が土を掻き、獣は狙った位置から半身分外れる。


 レンはすれ違いざまに肩口へ剣を入れた。


「止まらないで!」


「分かってる!」


 二人は倒れた獣を確認しなかった。


 数歩進んだ先へすぐ別の影が入り込み、右から二頭、正面から一頭が迫る。その後ろでは、低い身体を硬い背で覆った六脚の獣が重い足音を響かせていた。


「左へ三歩!」


 エリリアの声に、レンは反射的に進路を変えた。


「そっちは跡から外れる!」


「三歩だけです!」


 迷ったのは一瞬だった。


 レンは指示通り左へ寄る。


 直後、それまで彼の正面だった場所を狼型の獣が駆け抜け、そのすぐ後ろから別の一頭が飛び込んできた。二頭は互いに避けようともせず、肩をぶつけて体勢を崩す。


 エリリアはその間へ踏み込んだ。


 細剣が短く閃き、起き上がろうとした一頭の前脚の付け根を正確に裂く。


 もう一頭が彼女へ牙を向ける。


 足元の枯れ葉が跳ねた。


 細い風が獣の顔を斜めから打ち、目を閉じさせる。


 エリリアは深追いせず、すぐレンの横へ戻った。


「戻します!」


「ああ!」


 二人は数歩右へ寄り、再びアイリの痕跡へ近づいた。


 まだ空地の半分にも届いていない。


 それなのに、背後からはもう次の足音が迫っていた。


     ◇


 一つの隙間を作るたび、別の身体がそこへ入り込んだ。


 レンが一頭を退かせれば、その後ろから二頭が来る。エリリアが風で突進の角度を変えれば、空いた場所へ別の獣が飛び込んでくる。六十という数を見た時には大きすぎて実感できなかったが、戦い始めてようやく、その意味が身体で分かった。


 目の前の一体をどうにかしても、それで敵が減ったという感覚がまるでない。


「上!」


 エリリアが叫んだ。


 レンは考えるより先に身体を低くした。


 頭上の枝から長い腕を持つ獣が落ちてくる。


 その爪がレンの髪を掠め、空を切った。


 着地した瞬間、異様に長い腕が横薙ぎに振るわれる。


 レンは後ろへ跳ばなかった。


 右脚へ余計な負担を掛ければ、次の一歩が遅れる。


 代わりに一歩だけ懐へ入り、腕が十分な速さに乗る前に剣の腹で軌道を外した。


 左手を柄へ添えようとした時、薬指と小指の反応が一瞬遅れる。力任せに握り込むのをやめ、右手だけで刃を返すと、剣先が獣の脇を浅く切った。


「レン、離れて!」


 エリリアの声と同時に風が走る。


 今度は獣を吹き飛ばすのではなく、レンと怪物の間へ空気の塊を滑り込ませるような短い一撃だった。


 獣の上体が僅かに後ろへ反る。


 レンはその一瞬で横へ抜けた。


「助かった!」


「次、正面!」


 礼を言い終える暇もない。


 狼型の二頭が迫っていた。


 レンは一頭目の牙を剣で正面から受けず、半歩ずれて刃を口元へ添え、噛みつこうとする力そのものを横へ逃がした。獣の頭が流れたところで身体をかわし、後ろ脚の外側へ刃を走らせる。


 獣が転ぶ。


 二頭目はその身体を飛び越えてきた。


 レンが間に合わない。


 エリリアの風が横から入り、跳躍中の身体が傾く。


 獣はレンではなく地面へ肩から落ち、草を巻き上げながら転がった。


 二人はその横を走り抜ける。


「今ので何体だ?」


「数えていません!」


「俺も!」


「なら聞かないでください!」


「ちょっとくらい余裕あるかと思った!」


「ありません!」


 エリリアの返事がいつもより速い。


 レンは苦しい呼吸の中で僅かに口元を歪めたが、すぐ前へ意識を戻した。


 まだ進めるものの、右脚の奥に溜まっていた重さは明らかに増していた。走り続けているわけではなくても、急な停止や方向転換を繰り返すたび、ふくらはぎの深い場所へ鈍い痛みが響く。傷が開いた感覚はなく、足もまだ動いている。だからこそ、残っている力を使い切る前に前へ出なければならなかった。


     ◇


 草の中で何かが走った。


 レンは咄嗟に足元を見る。


「下!」


 細長い身体が地面すれすれを滑るように近づいていた。


 蛇に似ているが、胴の左右には短い脚が並んでいる。


 顎が足首へ向けて開く。


 レンは右脚を大きく跳ね上げず、左へ半歩ずれて避けた。


 その動きだけで右脚の奥が重く脈打つ。


 長い獣が進路を変える。


 エリリアが細剣の切っ先を下げた。


 風が草を地面へ押し伏せ、隠れていた身体を一瞬だけ露出させると同時に、その進行方向も明らかになる。


「右へ!」


 レンは小さく踏み込み、頭の後ろへ剣を振り下ろした。


 硬い感触が返り、一撃では完全に止まらなかったものの、長い身体が大きく捩れて進路を外れた。


「それでいいです!」


 エリリアが言う。


「分かってる!」


 倒す必要はない。


 道を塞げなくすればいい。


 レンは剣を引き、そのまま前へ出た。


 エリリアも続く。


 そこへ右側から、長い腕の獣が低く飛び込んできた。


 今度は枝からではない。


 両腕を広げ、二人まとめて押し倒すような軌道だった。


 エリリアが細剣を構える。


 しかし彼女の呼吸が、それまでより僅かに荒い。


「俺がやる!」


 レンは獣へ向かわず、進行方向の外側へ身体をずらした。


 長い腕が目の前を掠める。


 上着の肩口が爪の先に引っ掛かり、布が裂けたが、皮膚までは届いていない。


 レンは立ち止まらず、獣の腕の内側へ剣を滑らせた。深く追わず、相手が腕を引いた隙にその横を抜ける。


「怪我は?」


「服だけ!」


「なら前へ!」


 二人はさらに進んだ。


     ◇


 空地の中央近くまで来ると、足元に倒れた獣が増え始めた。


 自分たちが傷つけたものだけではない。突進の勢いを殺し切れず、別の怪物とぶつかって転倒したものもいる。


 獣たちは互いを狙ってはいない。


 それでも六十を超える身体が同じ場所へ押し寄せれば、完全に避け合うことなどできなかった。


 レンは横倒しになった狼型の身体を回り込む。


 その直後、別の一頭が死角から飛び出した。


「右!」


 エリリアの風が獣の顔へ砂と乾いた草を叩きつける。


 ほんの一瞬だけ視線が外れた。


 レンは首ではなく前脚を狙う。


 刃が入り、獣の身体が前へ崩れた。


 その背を飛び越えることはせず、右脚へ余計な衝撃を入れないよう横から回る。多少遠回りになっても、一歩を失うことより脚そのものを使えなくする方が致命的だった。


 エリリアが並ぶ。


 彼女の額には汗が浮いていた。


「風、平気か?」


「まだ使えます」


「無理してないだろうな」


「あなたにだけは言われたくありません」


「今の俺、ちゃんと抑えてるだろ」


「そこは認めます」


 息を整える暇もないまま、エリリアは続けた。


「大きく動かすのは減らします。細かく崩す方が長く持ちます」


「それでいい。俺が届くところまでずらしてくれれば十分だ」


「全部あなたに渡すつもりもありません」


「知ってる」


 彼女の細剣が動く。


 横から飛び込んできた狼型の喉元を、風で僅かに持ち上がった瞬間に切り裂いた。


 獣が倒れるより先に、二人はその横を抜ける。


 前方の森はまだ遠いものの、確実に近づいていた。


「あとどれくらいだ?」


「今測る余裕がありますか?」


「ない!」


「なら前を見てください!」


 その直後、地面が揺れた。


     ◇


 重い六脚の獣が三体、ほとんど横一列になって迫っていた。


 低く硬い背と太い脚を持つ巨体は、一頭だけでも正面から受ければ押し潰されかねない。しかも三体の間には、人一人が抜けられるほどの隙間もなかった。


「避ける!」


 レンが右へ向こうとする。


「待って!」


 エリリアが叫んだ。


 右側では狼型の獣たちが回り込み、左でも長い身体が草を割って近づいている。


 大きく逃げれば、そこで足を止められる。


「エリリア!」


「見ています!」


 三頭は二十メートル、十五メートルと一気に距離を詰め、地面を踏むたび空地の土を震わせた。


 エリリアは怪物そのものではなく、先頭の一頭の足元を見ている。


 進行方向の左側には、朽ちた枝と柔らかい土が集まった場所があった。


「レン、私の後ろへ!」


「何する気だ!」


「倒しません!」


 距離がさらに詰まる。


 エリリアが細剣を斜めへ振った。


 空気が一気に流れる。


 これまで使っていた短い風より明らかに強い。


 だが狙ったのは、巨大な身体全体ではなかった。


 先頭を走る六脚獣が左前脚を地面へ置く、その瞬間だけを狙って横風をぶつけた。


 重い身体は吹き飛ばない。


 前脚が僅かに外へ流れただけだった。


 それで十分だった。


 勢いのついた巨体が柔らかな土へ斜めに踏み込み、朽ちた枝をまとめて踏み砕く。身体が左へ傾き、その肩が隣を走っていた二頭目へ激突した。


 鈍い衝撃音が響く。


 二頭目の進路がずれる。


 三頭目が避けようとして外へ膨らむ。


 三体の間に、一瞬だけ細い道が開いた。


「今!」


 レンとエリリアは同時に走った。


 先頭の獣が立て直そうとする。


 レンは斬りかからず、その鼻先を避けて開いた隙間へ身体を滑り込ませた。


 横では二頭目の硬い背が迫る。


 エリリアが短い風を入れ、レンの上着が強く揺れると同時に身体が半歩前へ押し出された。


「助かった!」


「止まらないで!」


 エリリア自身も細剣を身体へ寄せ、怪物の脚と脚の間を抜けた。


 三頭目の前脚が地面を叩き、すぐ背後で土が爆ぜる。


 二人は振り返らず、十歩、十二歩と走れるだけ距離を稼いだ。


 その先でレンの右脚の奥に強い鈍痛が走り、踏み出した瞬間に膝が僅かに沈んだが、転倒する前に左脚へ重心を移して歩幅を短くする。


「レン!」


「平気!」


 エリリアもすぐ速度を合わせた。


 後ろでは六脚の獣たちが立て直し始め、その周囲を別の怪物が回り込んでくる。せっかく開いた穴は、もう閉じかけていた。


「本当に止まらないな!」


「止まってくれると思っていたんですか!」


「少しくらい休めよ!」


「向こうに言ってください!」


「聞くと思うか!」


「思いません!」


 息の上がった声が重なる。


 それでも二人は前へ進んだ。


     ◇


 空地の反対側まで、残る距離は三十メートルもなかった。


 森の木々がはっきり見える。


 その間へ続く人間たちの痕跡も、まだ完全には消えていない。


 アイリはあちらへ連れていかれた。


 レンは剣を握り直した。


 右手の指に疲れが溜まっている。


 左手を添えれば多少楽になるが、強く握り込ませることはしない。使える三本の指を中心に軽く柄へ触れ、姿勢を整える程度に留めた。


「正面、二!」


 エリリアの声が飛ぶ。


 狼型の二頭が迫り、その間には長い腕を持つ獣が一頭いた。


「真ん中をずらせるか!」


「少しだけ!」


 風が走る。


 長い腕の獣が踏み込む瞬間、上体が横へ傾いた。


 完全には崩れない。


 それでも片側の狼型との間に、人一人分の隙間が生まれる。


「行く!」


 レンはそこへ入った。


 狼型の牙が右から迫る。


 黒銀の剣を立てて顎を止めるのではなく、刃の腹を鼻先へ滑らせて横へ逃がす。


 獣の頭が逸れた。


 レンはその身体へ攻撃せず、前へ抜ける。


 エリリアも続いた。


 長い腕が背後から伸びる。


 彼女は振り返りざまに細剣で爪を受け流し、そのまま風を短く叩きつけて距離を作った。


 二人が三歩進む間に、後ろの隙間はもう別の獣で埋まる。


 前へ進んでも、後ろには怪物が残る。


 倒しても、回り込んでも、次が来る。


 それでも森の入口までの距離は二十五メートル、二十メートルと確実に縮まっていた。


「見えてきた!」


 レンが言う。


「まだ気を抜かないで!」


「分かってる!」


 その瞬間、足元の草が大きく割れた。


 長い身体を持つ獣が二人の間へ飛び込む。


 レンは右へ、エリリアは左へ分かれた。


「エリリア!」


「大丈夫です!」


 獣が身体を捩り、レンの足元へ回る。


 右脚で強く蹴りつけることはしない。


 レンは左足を軸に身体を回し、剣先で頭の向きを外へ押しやった。


 長い身体がそのまま横へ流れる。


 エリリアの細剣が脇から入り、首元の柔らかい部分を切った。


「戻るぞ!」


「はい!」


 二人はすぐ互いの距離を詰め直した。


 離れたまま戦えば、各個に囲まれる。


 それだけは避けなければならない。


 正面の森までは、もう十五メートルほどしかない。


 その向こうへ入れば安全だという保証はなく、むしろさらに何かが待っている可能性もある。それでも、アイリへ続く道はそこにあった。


「あと少しだ」


 レンが息の間から言う。


「ええ」


 エリリアの呼吸も荒い。


 風を使う回数が増えるにつれ、声にも僅かな重さが混じり始めていたが、細剣の先は下がっていない。


「大きい風、あと何回いける?」


「数え方によります」


「さっきみたいなの」


「何度もは無理です」


「じゃあ温存しろ」


「言われなくても」


 右後ろから狼型が迫る。


 エリリアは強い風を使わなかった。


 足元の草と土埃だけを巻き上げて獣の視界を一瞬奪い、レンがその前脚へ短く刃を入れる。


 獣が崩れる。


 二人はまた前へ出た。


 森の入口まで十二メートル、さらに十メートルと距離が縮まり、木々の間が手を伸ばせば届きそうなほど近く感じられた。


 レンの胸に初めて、抜けられるという感覚が生まれる。


 このままなら行ける。


 全部倒さなくてもいい。


 最後の数体をずらせば、森へ入れる。


「エリリア、左から――」


 言葉の途中で、地面が揺れた。


 今までとは違う。


 六脚の獣が走った時よりも深く、重い。


 足元の土そのものが下から押されたように震え、レンの言葉が止まった。


 エリリアも前方を見る。


 森の入口にいた獣たちが、二人へ向かうのではなく左右へ退き始めた。


 初めて、自分たちから道を空けるように。


「……何だ?」


 木々の奥で太い枝が立て続けに折れ、何かに押された幹が軋んだ。


 やがて低い唸りが森の奥から響く。


 これまで聞いたどの獣の声よりも深く、空気だけでなく胸の内側まで震わせるような音だった。


 レンは剣を構え直した。


「エリリア」


「見えています」


 暗い木々の間から、巨大な輪郭がゆっくり姿を現した。


 熊に似た厚い肩と胴体を持つ巨体の左右から太い腕が伸び、その下にはさらにもう一対の腕がある。四本の腕を持つ怪物が枝を押し退けながら森から踏み出すたび、周囲の獣たちはその進路だけを避けていった。


 レンとエリリアの背後では、なお大群が止まることなく迫っている。


 前方では、アイリへ続く道を塞ぐように四本腕の巨体が立った。


 あと僅かだった森の入口が、その影だけで見えなくなった。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。