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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
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第一章 第三十七話 六十の影

背後の森で、湿った土を踏む音がもう一度響いた。


 今度は一つではなく、少し間を置いて別の場所からも重い足音が続いた。


 レンは木陰から動かず、右手を黒銀の剣の柄へ置いたまま耳を澄ませた。正面には朝の光を受けた開けた地面が広がり、その向こう側にも森が続いている。昨夜アイリを連れ去った者たちの痕跡は、二人が身を隠している木々の手前からそのまま開けた場所へ入り、反対側へ向かって伸びていた。


 背後だけではない。左側の茂みでも枝が擦れ、右手の奥からは獣が深く息を吐くような低い音が聞こえる。それでも、木々に遮られて姿までは見えなかった。


「このままここにいる方が危なくないか」


 レンが声を落とすと、エリリアも前方と左右を見比べた。


「そうですね。木が多すぎます」


「前なら見える」


「少なくとも、何かが近づけば気づけます」


 ただし、開けた場所へ出ること自体が相手の望みである可能性は高い。


 二人とも、そのことを忘れてはいなかった。


「横から回れるか?」


「確認してみます」


 エリリアが右側へ数歩移動し、レンも足跡から離れた位置を保ちながら続いた。


 開けた場所へ直接出ず、その縁に沿って移動できれば、相手が用意したらしい進路から外れられる。アイリの痕跡を完全に見失わない範囲であれば、試す価値はあった。


 しかし十数歩も進まないうちに、前方の茂みが大きく揺れた。


 二人は同時に足を止める。


 枝の隙間から黒褐色の大きな背が一瞬だけ見えた。四本の脚で低く歩いているらしく、濡れた葉が身体へ擦れる音がする。小型の獣ではないことだけは、その背の高さからも分かった。


 その姿が完全に隠れるより先に、さらに奥で別の枝がしなった。


 今度は地面ではなく、人の頭より遥かに高い位置だった。


 レンは視線を上げる。


 枝葉の間を、細長い何かが移動していった。


「上にもいる」


「ええ」


 エリリアは細剣の柄へ手を置いたまま、静かに後退した。


「戻ります。こちらを抜けるのは危険です」


 二人は元の位置まで戻り、今度は左側を確認した。


 だが結果は似たようなものだった。少し先の地面には大きな窪みがあり、その脇の草がつい先ほど押し倒されたように揺れている。姿こそ見えないものの、湿った土には人間のものではない深い足跡が残っていた。


「囲まれてるのか?」


「まだ分かりません。ただ、左右へ抜けるのは勧められません」


 背後から再び重い足音が聞こえた。


 先ほどより僅かに近い。


 レンは舌打ちを飲み込んだ。


 深い森の中で姿の見えない獣に近づかれれば、襲われる方向すら分からない。しかも右脚は長い追跡で既に重くなっている。木の根や湿った斜面の中で何度も急な方向転換を強いられれば、傷が開かなくても脚そのものが持たなくなる。


 開けた場所なら、少なくとも相手の姿を見ることができる。


 そして何より、アイリへ続く痕跡はそこを横切っていた。


「前へ出る」


 レンが言った。


 エリリアはすぐには頷かない。


「中央まで行く必要はありません」


「ああ。見えるところまでだ」


「何かいたら、すぐに動ける距離を保ちます」


「分かった」


 二人は互いの位置を確認し、木陰から慎重に足を踏み出した。


     ◇


 開けた場所は、森の中から見た印象より広かった。


 長い年月のうちに何本もの大木が倒れ、その周囲だけ新しい木が十分に育たなかったために生まれた、自然な空地らしい。低い草と柔らかな土が広がり、ところどころに古い切り株や朽ちた倒木が残っている。


 しかし、その静けさは普通ではなかった。


 二人が木陰から数歩離れても鳥は鳴かず、虫の羽音さえ聞こえない。耳に届くのは、自分たちの足が草を踏む音と、周囲の木々の向こうで時折生まれる重い物音だけだった。


「痕跡は?」


 レンが訊く。


「続いています」


 エリリアが地面へ視線を向けた。


 複数人が通った跡は草の乱れとなって空地を横切り、反対側の森へ向かっている。ところどころでは土が露出し、靴底の跡も残っていた。


 誰かがここで争った形跡も、急に方向を変えた痕跡もない。ただ真っ直ぐに通り抜けている。


「こいつら、普通に向こうまで行ったのか」


「そう見えます」


「さっきから化け物の跡だらけなのに?」


「ええ」


「襲われた跡もない」


「今のところは」


 エリリアは断定を避けた。


 どうやって通ったのか。なぜ襲われなかったのか。そもそも、周囲にいるものが彼らの通過時にも同じ場所にいたのか。それらを確かめる材料は、今の二人にはなかった。


 ただ、アイリを連れた者たちがこの場所を知った上で進んでいる可能性は、さらに高くなっていた。


「やっぱり、ここへ連れてくるためだったのか」


「可能性は高くなりました」


「俺たちを?」


「それ以上はまだ――」


 エリリアの言葉が途中で止まった。


 彼女の視線が、レンの肩越しへ向いている。


「どうした」


「動かないで」


 低い声だった。


 レンは剣を抜かず、視線だけを右へ向ける。


 空地の縁に立つ木々の間から、大きな影がこちらを見ていた。


 狼に似た四足の獣だったが、レンが村の近くで遭遇したものより明らかに大きい。肩の位置が高く、黒ずんだ毛の間から太い前脚が覗いている。僅かに開いた口元には長い牙が見えた。


 獣は唸りもせず、ただ二人を見ていた。


「一匹……」


「レン、左も」


 言われて反対側を見る。


 そこにも別の影がある。


 今度は狼型ではなく、背を丸めた獣が低い枝の下に立っていた。前脚だけが異様に長く、地面へ届きそうな腕の先には太い爪がある。その奥でも葉が動き、さらに別の影が続いて姿を見せた。


「増えてる」


「最初からいたものが、見える位置へ出てきているのかもしれません」


「嬉しくないな」


「同感です」


 背後へ視線を向けると、先ほどまで音だけが聞こえていた方向にも一頭の獣が姿を現していた。背中を硬い板のようなものに覆われ、低い身体を複数の脚で支えている。一歩進むたびに、その重さで湿った土が沈んだ。


 レンは眉を寄せる。


「全然違う奴だぞ」


「ええ」


「なのに……」


 言いかけたところで、レンは異様さに気づいた。


 狼型の獣は、長い腕を持つ獣を見ようともしない。硬い背を持つ獣も、近くにいる別の生き物へ威嚇する様子がなかった。


 本来なら同じ場所へ集まっただけでも争いが起きそうな組み合わせなのに、どれも互いではなく、空地へ出たレンとエリリアへ意識を向けている。


「何で、こいつら同士で襲い合わない?」


「分かりません」


 エリリアの返事はすぐだった。


「普通じゃないのは?」


「ええ。ですが、理由を考えるのは後です」


 彼女の右手が細剣の柄を握る。


「今は数と位置を見ます」


     ◇


 レンはゆっくり身体の向きを変えた。


 最初に見えた狼型の獣の後ろでは、さらに二つの影が動いている。左側の長い腕を持つ獣の周囲にも別の姿が増え、地面だけでなく高い枝の間にも何かが潜んでいた。先ほど見た細長い影が木から木へ移動すると、その少し後ろでも枝が重みに耐えるように沈んだ。


「上に二……いや、三」


「その奥にもいます」


 エリリアが言う。


 空地の反対側では低い草が線を引くように揺れ、何かが地面すれすれを這っていた。長い身体が一瞬だけ光を受けて草の中へ隠れ、そのさらに奥では別の大きな獣がゆっくり位置を変える。


 一体を見つけるたび、その後ろにもう一体いる。


 最初は木々の影としか見えなかったものが、目が慣れるにつれて次々と輪郭を持ち始めた。右にも左にも数体ずつ見え、背後だけでなく前方の森にも影が増えている。しかも、同じ種類ばかりではなかった。


「十じゃ足りないな」


 レンが呟く。


「ええ」


 エリリアは空地の中央へ背を向けないよう注意しながら、ゆっくり周囲へ視線を巡らせた。


 二人は少しだけ前へ移動する。


 森へ近すぎれば木陰の奥が見えない。かといって中央まで出れば、どの方向から襲われても遮るものがなくなる。


 そこで二人は朽ちた倒木の近くまで進み、それを一方向の障害物として使える位置で止まった。


 レンの右脚の奥が鈍く疼く。


 まだ戦ってもいない。


 それでも長時間の追跡で、脚は既に万全ではなかった。


 エリリアが小声で言う。


「脚は?」


「まだ動く」


「今度は質問に答えていますね」


「褒めるところじゃないだろ」


「確認です」


 レンは周囲から目を離さなかった。


「走るなら短くする。無駄には使わない」


 エリリアが一瞬だけレンを見る。


「……分かりました」


 以前なら、何も考えず前へ飛び出していたかもしれない。


 だが今は、アイリへ辿り着くためにも、自分の脚を途中で使い切るわけにはいかなかった。


 左手も同じだった。


 剣は右手で扱える。左手も補助には使えるが、薬指と小指の反応は遅く、感覚もまだ遠い。無理に握り込み、必要な瞬間に力が抜ける方が危険だった。


 今ある身体でどう進むのかを考えるしかない。


「エリリア」


「はい」


「向こう側の跡、まだ見えるか?」


 エリリアは空地の反対側へ目を向けた。


「見えます」


 人間たちが踏み荒らした草は、そのまま北寄りの森へ続いている。


 その先にアイリがいる。


「じゃあ、抜けるならあっちだ」


「ええ」


「こいつら全部を倒す必要はない」


 レンは周囲の獣から視線を外さずに続けた。


「向こうまで行ける道だけ作る」


 エリリアが静かに息を吐いた。


「同じことを考えていました」


「珍しいな」


「何がです?」


「止められると思った」


「全部相手にする、と言ったら止めていました」


「さすがに言わない」


「少し安心しました」


 レンは口元を僅かに歪めた。


 笑っていられる状況ではない。


 それでも、恐怖だけに飲まれずには済んだ。


     ◇


 木々の間から、さらに影が現れた。


 それまで後ろに隠れていたものが前へ出たことで、周囲の数が一気に増える。


 レンは思わず息を止めた。


「まだいたのかよ」


 エリリアは答えず、視線を左右へ動かしていた。


 一体ずつ正確に数えるのではなく、重なって見える個体や森の奥に残る影を確認しながら、見えている群れの規模を測っている。


「どれくらいだ」


「待ってください」


 森の縁でまた草が揺れた。


 狼型の獣が二頭並んで姿を見せ、その後ろにも別の影が残っている。高い枝には長い尾を持つ細身の生き物が複数留まり、こちらを見下ろしていた。反対側では、低い装甲を背負った獣が何体も並んでいる。


「……見えているだけで四十は超えています」


 エリリアが言った。


 レンの喉が乾く。


「四十?」


「木の奥にいるものは入れていません」


 その言葉を聞いた直後、背後の森から新たに数体の影が現れ、そのさらに奥でも木々の間に動くものが見えた。右側からも別の群れが枝葉を押し分け、空地を囲む輪郭が次第に途切れなくなっていく。


「五十はいます」


 エリリアの声が小さくなる。


 レンは彼女を見る余裕もなかった。


 前方の森にも新たな影が並び、アイリへ続く道の左右を埋めるように大型の獣が次々と姿を見せる。


 それでも互いに争わない。


 唸り声を漏らすものも、牙を剥くものもいるが、その威嚇は隣にいる怪物へではなく、すべて空地の中に立つ二人へ向けられていた。


「エリリア」


「……はい」


「まだ増えてるぞ」


「分かっています」


 彼女はもう一度周囲を見渡した。


 そして、ほんの僅かに息を飲む。


「六十は超えています」


 レンはすぐには返事ができなかった。


 六十という数字だけなら、頭の中ではただの数にすぎない。


 だが目の前にいるものには、一体ごとに牙があり、爪があり、大人一人を容易に押し倒せそうな身体がある。それが六十を超え、しかも全てが互いではなく、自分たちを見ている。


 右脚の痛みが突然強くなったわけではない。


 左手が急に使えなくなったわけでもない。


 それでも、自分の身体に残る一つ一つの弱さが、今までよりはっきり意識された。


「……これを二人で抜けるのか」


 レンが言う。


「抜けます」


 エリリアの返事は早かった。


 レンが横を見る。


 彼女の顔にも余裕はない。


 それでも、視線は逸れていなかった。


「言い切るんだな」


「全部倒すとは言っていません」


「同じか」


「あなたが言ったのでしょう。必要なのは向こうまでの道だけです」


 レンは短く息を吐く。


「ああ」


「それに」


 エリリアは前方へ視線を戻した。


「アイリへ続く跡は、その先です」


 反対側の森。


 怪物たちの向こう。


 そこへ人間の痕跡が続いている。


 戻るつもりはなかった。


 ただし、何も考えずに突っ込むつもりもない。


「俺が前を開く」


「一人では無理です」


「分かってる。近いやつを剣で止める。速いやつとか、横から来るのは頼む」


「風で崩せるものは崩します。ただし、全部を止められると思わないでください」


「思ってない」


「右脚で無理に踏ん張らないこと。転ばされた時に左手だけで身体を支えようともしないでください」


「注文多いな」


「六十以上いるので」


「それ言われると何も返せないな」


 エリリアの口元がほんの僅かに動き、すぐ元へ戻った。


 二人とも、もう森の縁から目を離さなかった。


     ◇


 レンは右手で黒銀の剣を抜いた。


 鞘から滑り出した刀身が朝の光を受け、エレナが残した剣の重みが右手へ伝わった。それで十分だった。


 腰の鞘が左腕や右脚の動きを邪魔しない位置にあることを確かめ、重心を僅かに下げる。ただし、右脚へ体重を預けすぎない。


 隣では、エリリアも細剣を抜いた。


 細い刀身が静かに前へ向く。


 その足元で草の先が僅かに揺れ、数枚の乾いた葉が地面から浮き上がった。大きな風を起こしているわけではない。必要になった瞬間に流れを作れるよう、周囲の空気を確かめているだけだった。


「最初から使いすぎるなよ」


 レンが言う。


「あなたに言われるとは思いませんでした」


「俺も今ちょっと思った」


「では、お互い様ですね」


「ああ」


 二人の会話が止まった。


 周囲の空気が変わる。


 狼型の一頭が身体を低くし、長い腕を持つ獣が枝へ爪を立てた。草の中を這っていた細長い影も頭を持ち上げ、離れた場所では硬い背を持つ獣が地面を掻いて土を後ろへ飛ばしている。


 六十を超える生き物が、まるで同じ瞬間を待っていたかのように、次々と姿勢を変えていった。


 レンは剣を構える。


「エリリア」


「はい」


「向こうまで行くぞ」


「ええ」


 森の縁から低い唸りが広がった。


 一頭の声ではない。


 右から左へ伝わるように幾つもの声が重なり、空地の空気そのものを震わせる。


 レンは右脚を半歩後ろへ置き、最初の衝撃を正面から受け止めない姿勢を取った。


 エリリアの細剣の周囲では、浮かんでいた葉が少しずつ速度を増していく。


 それでも怪物たちは、ほんの一瞬だけ動かなかった。


 空地を囲む全ての影が息を潜めたように静止する。


 そして次の瞬間、森を縁取っていた六十を超える影が、一斉に二人へ向かって動き出した。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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