第一章 第三十六話 森へ続く誘い
北へ入るほど、森から音が減っていった。
風は変わらず木々の梢を揺らし、重なった葉の間から細い朝の光が落ちている。それなのに、先ほどまで遠く近くで聞こえていた鳥の声は途絶え、草むらから響いていた虫の鳴き声もほとんど聞こえなくなっていた。
レンは腰の黒銀の剣へ手を添えたまま、前を行くエリリアの背中を追う。
昨夜アイリを連れ去った者たちの痕跡は消えていない。むしろ、森が深くなるにつれて見つけやすくなっていた。
湿った土には複数の靴跡がはっきり残り、低い枝は人が通った方向へ折れ、朝露をまとっていたはずの草は広い範囲で踏み伏せられている。人一人を運びながら急いで進んでいるのなら、多少荒れるのは不自然ではない。
それでも、レンには引っ掛かるものがあった。
「なあ」
「はい」
「さっきより追いやすくなってないか?」
エリリアはすぐには答えず、足元に残る靴跡を見てから、少し先の折れた枝へ視線を移した。
「そうですね」
「相手が疲れてきたとか?」
「人を運び続けているなら、それはあり得ます」
エリリアはしゃがまず、歩きながら周囲を確かめた。
「ただ、それだけで決めない方がいいでしょう」
「また分からない、か」
「分からないものを分かったことにするよりは安全です」
レンは小さく息を吐いた。
「それ、最近よく聞くな」
「必要になることが多いので」
言い返せなかった。
焦って答えを決めたところで、アイリへ近づけるわけではない。
二人は再び歩調を上げた。
右脚の奥には、昨日から続く重い痛みが残っている。歩き始めた時より深くなってはいたが、まだ歩幅を崩すほどではない。斜面で踏ん張る時だけ、傷のあった場所よりさらに奥へ鈍い痛みが響いた。
レンは無意識に左手を荷紐へ掛ける。
親指と人差し指、中指までは普段通り動く。薬指と小指は少し遅れ、冷えたものに触れているような遠い感覚が残っていたが、手そのものが使えないわけではない。
今はそのことばかり気にしている場合ではなかった。前を見て、アイリへ続くものを一つでも見落とさないことに意識を集中させる。
◇
森の中ほどまで進んだところで、エリリアが足を止めた。
「ここを見てください」
地面には柔らかな苔が広がり、その中央を複数人の靴跡が真っ直ぐ横切っていた。踏まれた部分だけ色が濃くなり、ところどころでは土まで露出している。
「普通に通っただけじゃないのか?」
「通ったこと自体は普通です」
エリリアは左右を見る。
少し離れた場所には落ち葉の厚く積もった乾いた地面があり、さらに右側には岩が連なっていた。
「痕跡を減らしたいなら、ここを避けることはできました」
「わざわざ跡が残るところを通った?」
「そうとも言い切れません。急いでいて最短を選んだだけかもしれない」
エリリアは苔の上へ残った足跡を順に追う。
その中に、レンは小さな靴跡を見つけた。
「アイリ」
大人たちの足跡に挟まれて、ほんの数歩だけ小さな跡が残っている。
これまで追ってきたアイリのものと同じ靴底だった。
左脚を引きずった様子はない。ただ歩幅は狭く、すぐ先で再び見えなくなっている。
「ここでも一度歩かせたのか」
「そのようですね」
「じゃあ、まだ……」
生きている。
そう言い切りたくなった。
エリリアはレンの顔を見たが、今度は強く否定しなかった。
「少なくとも、この場所を通った時には自分の足を使えています」
「ああ」
それだけで十分だった。
レンは小さな足跡の先へ視線を移した。そこから先では、再び大人たちの靴跡だけが続いている。
アイリの姿は見えず、声も聞こえない。それでも確実に同じ方向へ進んでいる。
「行こう」
「はい」
二人は苔の上へ残された痕跡を追った。
◇
最初の異変を見つけたのは、さらに森へ入ってからだった。
太い樹木の幹に、三本の深い傷が走っている。レンの胸ほどの高さから斜め下へ伸び、樹皮だけでなく、その下の白い木肌まで抉れていた。
「熊か?」
レンが近づこうとすると、エリリアが手で制した。
「触らないでください」
「新しいのか?」
「古くはありません」
彼女は少し離れたところから傷を見る。
「ただ、何がつけたものかまでは分かりません」
傷の幅は広い。森で何度か見た熊の爪痕にも似ているが、それより間隔が大きく見えた。
レンは周囲を見回した。
「この辺にも岩甲獣みたいなのがいるのか?」
「裂谷の生き物がここまで来るとは限りません。別のものかもしれない」
「嬉しくない答えだな」
「私も嬉しくありません」
エリリアは傷から視線を外し、再び人間の足跡を探した。
それは樹木のすぐ脇を通っていた。
立ち止まった形跡も、引き返した様子もない。
「こいつら、これを見ても進んだのか」
「そう見えます」
「危ないって分からなかったとか?」
「その可能性もあります」
だが、エリリアの声には僅かな引っ掛かりがあった。
レンも同じものを感じていた。
昨夜、自分たちの寝床へ人知れず近づき、アイリ一人を連れ去った者たちだ。少なくとも、森を何も知らずに歩いている集団には見えない。
二人はその場を離れた。
しばらくすると、別の跡が見つかった。
今度は泥の上だった。
人の靴跡から少し外れた場所へ、鳥の足を太くしたような三本指の跡が一つ残っている。ただし、大きさはレンの手のひらを優に超えていた。
「これも同じ奴か?」
「いいえ」
エリリアは首を横へ振った。
「先ほどの爪とは形が合いません」
「じゃあ、別の何か?」
「おそらく」
森の奥から風が吹いた。
湿った土と樹木の匂いに混じり、僅かに獣臭いものが鼻を掠める。
レンは剣の柄を握った。
「一種類じゃないのか」
「そうですね」
エリリアの声が少し低くなる。
「この辺りには、少なくとも違う種類の大型の生き物がいます」
レンは人間たちの足跡を見る。
それでも跡は真っ直ぐ進んでおり、迂回した様子もない。
「こんなところを、アイリを連れて通ってる」
「ええ」
「何考えてるんだ」
「まだ分かりません」
エリリアはそう答えたが、その足取りは先ほどまでより慎重になっていた。
◇
やがて地面が少し下り始めた。
右脚へ掛かる負担が増し、レンは速度を保つために歩幅を僅かに短くした。
すぐ前を歩いていたエリリアが気づく。
「痛みますか?」
「動ける」
「質問への答えになっていません」
「少し重いだけだ」
エリリアは一度だけレンの足元を見る。
「では、このままの速度で」
「落とさなくていい」
「落としていません」
実際、彼女はほとんど速度を変えていなかった。
レンは何も言えず、そのまま後へ続く。
下り切ったところには、獣道のような細い窪みがあった。
複数の人間がそこへ入り、柔らかな土が削れたことで、靴跡は今まで以上にはっきり残っている。
レンは眉を寄せた。
「まただ」
「ええ」
エリリアも足を止める。
「ここなら、別の場所を通れたよな」
左右には木があるものの、人が通れないほど密集してはいない。少し回れば、落ち葉の上を進むこともできた。
それなのに相手は、足跡が最も残りやすい窪みをわざわざ使っている。
「急いで最短を選んでるだけじゃないのか?」
自分で言いながら、レンにもその説明が苦しくなっているのが分かった。
エリリアはしばらく地面を見ていた。
「先ほどまでは、その可能性も高いと思っていました」
「今は?」
「追われることを嫌がっている動きには、少し見えなくなってきました」
レンは彼女を見る。
「どういう意味だ」
「痕跡を消していないだけなら、急いでいると言えます。でも、ここまで何度も追いやすい場所を選ぶ理由は別です」
「俺たちが追ってくるって分かってる?」
「アイリを連れ去った時点で、その可能性は考えているでしょう」
「だったら普通は撒くだろ」
「はい」
エリリアの短い返事が、森の静けさより嫌なものに感じられた。
レンは奥を見る。
人の足跡は相変わらず続いている。逃げる者が残したものというより、こちらへ向けて置かれた道標のようにさえ見え始めていた。
「……わざと残してるのか」
「まだ断定はできません」
エリリアはそう言ったものの、今度の声には先ほどまでの迷いが少なかった。
「でも、そう考えておいた方が安全です」
◇
それから二人は、足跡の真上を追うのをやめた。
痕跡を見失わない距離を保ちながら、少し横へ外れて森の中を進む。
「もし相手が道を見せてるなら、そのまま歩くのはまずいってことか」
「はい。何のために見せているのか分かりませんから」
「でも離れすぎたらアイリを見失う」
「だから完全には外れません」
エリリアは細剣へ手を掛けながら、木々の間を選んで進んだ。
「痕跡を確認する時だけ近づきます。それ以外は少し横を取る」
「分かった」
レンも彼女に従った。
遠回りになるほど大きく逸れることはできない。それでも、足跡の上を真っ直ぐ歩き続けるよりは周囲が見えた。
その判断はすぐに意味を持った。
少し先の低木の向こうで、何かが動いた。
レンが止まり、エリリアも同時に細剣へ手を置いた。
獣ではない。
人だった。
黒っぽい上着を着た男が一人、木々の間に立っている。
距離はかなりあり、顔までは分からない。
だが男はこちらを向いていた。
「……見られてる」
レンが声を落とす。
「ええ」
男は逃げなかった。
慌てて身を隠すこともしない。
ほんの数秒、レンとエリリアのいる方向を確かめるように立ち、それから身体を翻して木の向こうへ消えた。
「待て!」
レンが一歩踏み出す。
「レン」
エリリアの声で止まった。
「あいつ、俺たちに気づいてた」
「はい」
「だったら追えば――」
「今の行動が何だったのか考えてください」
「何って、見張りだろ」
「見張りなら、見つけた瞬間に隠れるか、仲間へ知らせる方が自然です」
「知らせに行ったんじゃないのか」
「それなら、あれほど長くこちらを見る必要はありません」
レンは男が消えた場所を睨んだ。
確かに、あの男は驚いていなかった。
こちらを見つけたというより、来るのを待っていたようにも見えた。
「……俺たちに、どっちへ行くか見せた?」
「その可能性があります」
エリリアは今度こそ、はっきり答えた。
レンの背中に冷たいものが走る。
「最初から、追わせる気だったのか」
「少なくとも今は、私たちを迷わせるつもりがないようです」
レンは前方を見る。
アイリを連れ去り、足跡を残し、追いやすい場所を選び続けた。そして今、自分たちを確認した男が、わざわざ進む方向を見せるように姿を消した。
偶然だけでは繋がらなくなっている。
「誘ってるのか」
その言葉を口にすると、森がさらに静かになったような気がした。
エリリアは一拍置いてから答えた。
「そう考えるべきでしょう」
「目的は?」
「分かりません」
「アイリを餌にしてる?」
「それも分かりません」
エリリアの声が僅かに強くなる。
「分かっているのは、私たちが追うことを相手が嫌がっていないということです。それ以上を今決めるのは危険です」
レンは歯を食いしばった。
「誘われてるとしても、アイリが先にいるなら追う」
「ええ」
意外なほど早く、エリリアは頷いた。
レンが彼女を見る。
「止めないのか」
「止めても行くでしょう」
「まあ……」
「それに、私もアイリを置いて戻るつもりはありません」
エリリアは前方へ目を戻した。
「だから、相手が望んだ通りには進まないようにしましょう」
その言葉に、レンは小さく息を吐いた。
「ああ」
追跡を続けることと、ただ相手の思惑通りに歩くことは違う。その違いだけは忘れないようにした。
◇
そこから先では、森の空気がさらに変わった。
人の痕跡は相変わらず続いているが、それ以外のものも増えていた。
倒木の根元には、泥を深く踏み抜いた大きな跡が残っている。少し離れた場所では低木の葉が広い範囲で千切れ、さらに先では、小型の鹿に似た獣の死骸が木陰に横たわっていた。
レンは足を止める。
完全には食べ尽くされていない。
腹の一部が大きく裂かれ、周囲の土には血が黒く乾いている。
「近づかないで」
エリリアが言った。
「分かってる」
二人は数歩離れたところから死骸を見る。
首には深い噛み跡があるが、腹にはそれとは別に何本もの細長い裂傷が走っていた。
「同じ奴がやったのか?」
「分かりません。ただ……」
エリリアが周囲の地面を見る。
「噛み跡と、あちらの足跡は合わないように見えます」
死骸の少し先には、先ほど見た三本指とも違う、丸みを帯びた深い跡が残っていた。
レンの喉が僅かに乾く。
「やっぱり一種類じゃない」
「ええ」
エリリアはそれ以上数えようとはしなかった。
何が、どれほど、どこに潜んでいるのかは、今ここで確かめられることではなかった。
レンは人間たちの足跡を探す。
それは死骸からさほど離れていない場所を通っているが、走って逃げた様子も、何かと争った痕跡も見つからない。
「こいつら、本当に平気で通ってるな」
「そう見えます」
「この森のことを知ってる?」
「その可能性はあります」
「なら安全な道を知ってるのかもしれない」
「かもしれません」
「逆に、危ない場所を知ってる可能性もある」
エリリアがレンを見る。
「そうですね」
その答えだけで十分だった。
レンは剣の柄へ置いた右手に力を込めた。左手ではまだ同じように強く握り込めないことを思えば、今だけは右腕が問題なく使えることがありがたかった。
◇
進むにつれ、鳥の声は完全に消えた。
虫の音もほとんどない。
時折聞こえるのは、木の上から落ちる雫と、自分たちが枯れ葉を踏む音だけだった。
静かな森は、音を隠してくれない。
レンは自分の呼吸さえ大きく感じた。
「こんなに何も鳴かないことってあるのか」
「あります」
エリリアが小声で答える。
「大きな捕食者が近くにいれば、小さな生き物は声を止めます」
「一匹でも?」
「一匹でも」
彼女は周囲を見回した。
「ただ、今はそれだけだと決めない方がいいでしょう」
レンも木々の間へ目を凝らす。
何かがいるような気がする。
しかし、動く影が見えるわけではなく、視線を感じるというほど確かなものでもない。不安がそう思わせているだけかもしれなかった。
レンは無理に敵の姿を探すのをやめた。
見えないものへ意識を奪われ、足元の痕跡を失う方がまずい。
エリリアも同じ判断をしたらしく、再び前へ進む。
人間の足跡は、まだはっきり残っていた。
ここまで来ると、その分かりやすさ自体が不気味だった。
◇
やがて木々の向こうが明るくなり始めた。
レンは目を細める。
「開けてる?」
「そのようですね」
前方から白い朝の光が差し込んでいる。
森が途切れているのか、少なくとも木の密度が大きく下がっているらしい。
人の足跡も、その方向へ続いていた。
エリリアが速度を落とし、レンも歩調を合わせる。
二人は最後の数十メートルを、足跡からさらに横へ外れながら進んだ。
光が近づく。
太い木の幹の向こうに、開けた地面が僅かに見えた。
レンが前へ出ようとした瞬間、エリリアの手が胸の前へ伸びる。
「待ってください」
「何かいる?」
「まだ分かりません」
エリリアは木陰から前方を確かめ、レンも隣へ寄った。
木々の向こうには、朝の光を受けた広い空間がある。森の中より地面は明るく、反対側にも木々が続いていたが、細かな様子までは今いる位置からでは見えない。
そして人間たちの足跡は、迷うことなくその開けた場所へ向かっていた。
「ここまで真っ直ぐだな」
「ええ」
「さっきの男も、こっちへ行った」
「はい」
レンは周囲を見る。
アイリもこの先にいるはずだ。
少なくとも、人間たちが別方向へ分かれた跡は見つかっていない。
一歩出れば、前方をもっと見渡せる。
そう思った時だった。
背後で、湿った土へ重いものが踏み込む音がした。
レンとエリリアが同時に振り返る。
木々の間には何も見えない。
風もないのに、少し離れた茂みが僅かに揺れた。
レンは剣を抜かないまま、右手を柄へ掛ける。
「今の聞いたよな」
「はい」
エリリアの声も低い。
左側から、今度は枯れ枝が擦れる音がした。
そちらへ視線を向けても、姿は見えない。
さらに右手の奥では、獣が深く息を吐いたような低い音が一度だけ響いた。
どれも近い。
しかし、まだ襲ってはこない。
レンは喉を鳴らした。
「……さっきまで通ってきたところだぞ」
「ええ」
「いたなら、何で今まで出てこなかった」
「分かりません」
エリリアは細剣を抜かなかった。
ただ、いつでも抜けるよう柄を握り、前方の明るい場所と背後の森を交互に見る。
人間たちの足跡は前へ続いている。
その周囲には、今まで見てきたものとは違う気配が少しずつ集まり始めていた。
レンは開けた場所を見た。
「……俺たちがここまで来るのを、待ってたのか」
「少なくとも」
エリリアは声を落とした。
「迷わせるつもりはなかったようですね」
背後で、また土を踏む音がした。
今度は一つではない。
レンは黒銀の剣の柄を握り直す。
「戻る?」
「アイリへ続く痕跡は前です」
「ああ」
「だから、前へ行きます。ただし、ここから先は一歩ずつ確かめます」
「分かった」
二人はまだ木陰から出なかった。
目の前には白い朝の光が広がり、その手前まで人間たちの靴跡が続いている。
背後の森では、何かが姿を見せないまま少しずつ位置を変えていた。
逃げる者が残したはずの痕跡は、最後まで一度も二人を迷わせなかった。
アイリへ続く足跡だけが、静かな森を抜け、前方の明るい地面へまっすぐ伸びていた。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!




