第一章 第三十五話 足跡を追って
朝露の残る森を、複数の足跡がさらに奥へ伸びていた。
レンは前を行くエリリアとの距離を詰めたくなる衝動を何度も抑えた。地面が柔らかい場所では靴底の形まで残っているが、木の根が張り出した場所や石の多い斜面へ入れば、それだけで痕跡は薄くなる。目の前に道が見えているのなら走ればいい。だが今追っているのは道ではなく、昨夜アイリを連れ去った者たちが森へ残した僅かな乱れだった。
「もう少し速くできないか」
レンが言うと、エリリアは足を止めずに答えた。
「できます。ただし、見落とす可能性も上がります」
「離される方がまずいだろ」
「ええ。だから急いでいます」
彼女は前方の湿った土を一度だけ確かめ、左側へ進路をずらした。
「でも、この痕跡を失えば、どれだけ速く走れても意味がありません」
言われなくても分かっていた。それでも理解していることと、胸の内で焦りを抑えられることは別だった。
レンは奥歯を噛み、歩幅をエリリアへ合わせる。
右脚の傷そのものは閉じている。平らな道を歩く程度なら、もう大きな問題はない。しかし森の中では木の根を跨ぎ、斜面へ体重を掛け、濡れた石を避けながら進まなければならない。速度を上げるほど、ふくらはぎの奥から膝の下へ鈍い重さが溜まっていった。
まだ十分に動けるからこそ、ここで無理を重ねて、アイリへ辿り着く前に脚を使い切るわけにはいかなかった。
腰の少し右へ寄せた黒銀の剣が、歩くたび僅かに揺れる。左手は荷物の紐を軽く押さえる程度なら問題なく使えたが、薬指と小指の反応はやはり遅かった。感覚を確かめるように何度も握ることはせず、必要な時だけ使う。
エリリアは振り返らなかった。
それでもレンの歩調が僅かに変わったことには気づいているらしく、急な上りへ入る前には少しだけ速度を落とした。
そうした気遣いに礼を言う余裕は、今のレンにはなかった。
◇
しばらく進むと、森の地面が再び柔らかくなった。
黒い湿り気を帯びた土の上に、複数の大きな足跡が並んでいる。
エリリアがしゃがんだ。
「ここで少し変わっています」
「何が?」
レンも横へ寄る。
昨夜から追ってきた大きな靴跡の間に、小さな足跡が現れていた。
見覚えのある大きさだった。
「アイリのか?」
「大きさは一致します」
エリリアは指先で触れず、目だけで跡を追った。
「少なくとも、この辺りでは自分の足で歩かされています」
レンの胸の奥に張り詰めていたものが、僅かに緩んだ。
「歩けるってことは……」
「この時点では、歩かせられる状態だったということです。それ以上は分かりません」
冷静な言い方だったが、否定ではない。
レンは小さな足跡を見た。
左右の歩幅は狭く、普段のアイリよりも明らかに短い。その両側を大きな靴跡が挟んでいる。
「手を縛られてるのか」
「足跡だけでは分かりません。ただ、自由に歩いているようには見えませんね」
アイリの左脚は普通に地面を捉えていた。ふくらはぎの傷が再び開いたような引きずり方もない。
レンはそこにも僅かな安堵を覚えた。
しかし、小さな足跡は数十歩も続かなかった。
地面が傾斜へ差しかかる辺りでアイリの跡だけが再び消え、大人のものと思われる足跡のうち二つが、それまでより深く土へ沈んでいる。
「また持ち上げた?」
「たぶん」
「何で歩かせたり運んだりするんだ」
「速さを優先する場所と、そうでない場所を分けているのかもしれません。あるいは、彼女の体力を残したい理由があるのかもしれない」
エリリアはそこで一度言葉を切った。
「どちらも推測です」
「……分かってる」
理由はまだ分からない。
それでも相手は状況に応じてアイリを歩かせたり運んだりしながら、少なくとも生きたままどこかへ連れていこうとしている。そのことだけは、残された痕跡から少しずつ見えてきていた。
それが安心できる材料なのかどうか、レンには判断できなかった。
◇
森は少しずつ深くなった。
木々の間隔が狭まり、朝の光が地面まで届きにくくなる。昨夜の雨はなかったが、葉に溜まった露が落ち、土の表面を湿らせていた。
追跡には都合がいい。
だが相手にとっても、自分たちが追われていると分かれば痕跡を消しやすい場所だった。
エリリアは地面だけを見続けるのではなく、折れた草や不自然に裏返った葉、人の肩が触れたらしい若木など、小さな乱れを拾いながら進んでいく。
「森の中だと、こんなものまで分かるんだな」
レンが低く言った。
「全部分かるわけではありません」
「でも俺よりは分かってる」
「長く森で暮らしていましたから」
少しだけ間が空いた。
セレネアの話を聞いたばかりだからこそ、その言葉の意味をレンは以前より重く感じた。
「……悪い」
「何がです?」
「いや」
エリリアは振り返らず、そのまま進んだ。
「今はアイリを探しましょう」
「ああ」
それで話は終わった。
しばらくすると、エリリアが突然右手を上げた。
レンは反射的に足を止める。
「何だ?」
「声」
二人とも動かない。
最初は風の音しか聞こえなかったが、やがて木々の向こうから低い男の声が僅かに届いた。言葉までは聞き取れず、別の誰かが短く返した後、枝を踏み折る音と足音が続く。
かなり近い。
エリリアは細剣の柄へ触れたまま、低い茂みの向こうを指した。
二人は姿勢を落とし、太い木の根元へ移動する。
レンの心臓が速くなる。
「見えるか?」
「まだです」
声は前方を横切るように移動していた。
レンは木の幹から僅かに顔を出す。
葉の隙間を一人の男が通り、そのすぐ後ろにも別の男が続いた。どちらも黒や濃い灰色の衣服を着ており、腰には武器がある。さらに先にも人影が見えたが、森の中を縦に長く移動しているらしく、確認できるのは後方の数人だけだった。
レンは目を凝らした。
「アイリは?」
「見えません」
「もっと近づけば――」
身体を動かしかけた瞬間、エリリアの左手がレンの前へ出た。
「まだです」
「今なら後ろの二人くらい――」
「その先に何人いるか分かりません」
「だからって見てるだけかよ」
「アイリがどこにいるかも分かっていません」
声は小さい。
しかし譲る気がないことは分かった。
「ここで後ろの者へ仕掛ければ、前にいる者たちが彼女へ何をするか分かりません」
レンは木々の向こうへ消えていく人影を見た。
ようやく追いつける距離まで来た。剣を抜いて走れば届きそうなのに、肝心のアイリがどこにいるのか分からない。
「くそ……」
「見失わない距離で追います」
「逃げられたら?」
「距離は縮まっています」
「本当に分かるのか」
「先ほどより声が近い。足跡も新しい。少なくとも、離され続けてはいません」
エリリアの言葉に、レンは剣の柄から手を離した。
「……行こう」
「ええ」
二人は相手の姿が完全に見えなくなってから、少し間を置いて進み始めた。
◇
追う側と追われる側の距離が縮まったことで、それまで以上に慎重に進まなければならなくなった。姿を目で追えるほど近づけば気づかれる可能性があり、逆に離れすぎれば再び痕跡だけを頼ることになる。
エリリアは時折足を止め、森の音を聞いた。
レンも呼吸を抑える。
右脚の重さは少しずつ増していたが、歩調が崩れるほどではない。むしろ何度か立ち止まることで、痛みが深くなりすぎずに済んでいた。
問題は気持ちの方だった。
相手が近いと知ってから、一歩一歩がひどく遅く感じる。
木々の向こうにアイリがいるかもしれない。
声を出せば聞こえる距離にいるかもしれない。
それでも呼ぶことすらできない。
そのことが何より堪えた。
しばらくすると、相手の声は再び聞こえなくなった。
代わりに足跡がはっきりと現れる。
大きな靴跡の間には、またアイリの小さな足跡があった。
レンはその跡を追いながら歩く。
しばらくは先ほどと同じ短い歩幅だった。
だが突然、その形が変わった。
「待ってください」
エリリアが足を止める。
レンもすぐ横へ行った。
「どうした」
「ここからです」
アイリの足跡は列の中央から横へ外れ、一歩、二歩と進むうちに、その間隔が急に広がっていた。少し遅れて、大人たちの靴跡もそれまでの進行方向から一斉に横へ向きを変えている。
「走ってる?」
「そう見えます」
レンはその先を見る。
小さな足跡が木々の間へ続いていた。
「逃げたんだ」
「おそらく」
二人は痕跡を追った。
最初の十数歩はアイリだけが先行しており、歩幅もそれまでより大きい。左脚も地面をしっかり蹴っている。
森の中を、本気で逃げようとした跡だった。
その後ろから複数の大人が追っている。
レンの胸が熱くなった。
「やっぱりあいつ……」
「ええ」
エリリアの声にも僅かに力が入る。
「機会を待っていたんでしょう」
アイリの足跡はさらに前へ続いた。
しかし長くは続かない。
二十数メートルほど先で、地面が大きく乱れていた。
草が踏み倒され、若木の根元の土が抉れ、アイリの片足が横へ滑った跡の周囲に複数の大きな靴跡が集中している。
レンは息を止めた。
「ここで追いつかれたのか」
「そう見えます」
エリリアが周囲を確認する。
目立った血はなく、折れた武器も見当たらない。少し先には膝か身体の一部を地面へついたらしい浅い乱れがあるものの、それ以上のことまでは読み取れなかった。
「怪我したか?」
「分かりません」
エリリアは即座に答えた。
「強く抵抗したことは分かります。でも、どう押さえられたのか、どこを掴まれたのかまでは判断できません」
レンの頭に、何かを強く掴まれて倒されたのではないかという想像が浮かんだ。しかし、地面からそこまで分かるはずもない。
今朝、痕跡を前にしてエリリアから言われたことが頭を過ぎ、レンはそこで憶測を止めた。
「その後は?」
二人で周囲を探すと、再び複数人の足跡がまとまって森の奥へ伸びていた。しかし、アイリ自身の足跡はない。
「また運ばれていますね」
「逃げたから、もう歩かせないつもりか」
「可能性はあります」
レンは唇を噛んだ。
逃げ切ることはできなかった。
それでもアイリは逃げようとした。
誰かが助けに来るまで黙って待っていたわけではなく、自分で戻る機会を探していた。
その事実だけで、焦りとは別の熱が胸の奥へ生まれた。
「追いつくぞ」
「ええ」
今度はエリリアも止めなかった。
◇
午前の光が高くなるにつれて、森の中にも少しずつ明るさが増してきた。
相手との距離は再び開いたらしく、しばらく声は聞こえない。
だが痕跡は消えていなかった。
人を運んでいるためか、何人かの足跡は深く、急な斜面では枝へ手を掛けた跡まで残っている。
レンとエリリアは可能な範囲で速度を上げた。
長い上りへ入ったところで、レンの右脚の奥に強い重さが走り、歩幅が僅かに狭くなる。
「レン」
「止まらないぞ」
「止まれとは言っていません」
エリリアは前方を見たまま速度を少し落とした。
「この歩幅で行きます」
「もっと行ける」
「今だけなら」
「だったら――」
「アイリを見つけた後も動けなければ意味がありません」
レンは返事を飲み込んだ。
言っていることは正しい。
こういう時に正しいことばかり言われると、少し腹が立つ。
「エリリアって、結構うるさいよな」
「知っています」
「自覚あるのか」
「最近、少し」
僅かに返された冗談に、レンも短く息を漏らした。
それ以上の会話はせず、エリリアが定めた速度を保って上りを越える。
痛みは残っていた。
それでも脚はまだ十分に動いた。
◇
斜面を下り始めたところで、エリリアがまた足を止めた。
今度は地面ではなく、左手側の低い枝を見ている。
「どうした?」
「これを」
細い枝へ、黒い糸のようなものが巻きついていた。
布切れと呼ぶには小さい。
数本の繊維が束になった程度で、自然に引っ掛かっただけにも見える。
ただ、枝は進行方向から僅かに外れ、腰より低い位置にあった。
レンは手を伸ばしかけて止める。
「アイリの服?」
「色は同じです」
最初に見つけた黒い布と同じ色だった。
「また偶然かな」
「一度だけなら、そう考えました」
エリリアが周囲を見回す。
「でも、二度続くと少し違って見えます」
「やっぱり、あいつが残してる?」
「その可能性は高くなりました」
断言はしなかった。
それでも今回は、最初の布より一歩踏み込んだ答えだった。
レンは枝から黒い繊維を慎重に外した。
指先へ載せれば、風で飛んでしまいそうなほど軽い。
アイリがどうやって残したのかは分からない。
手を縛られている可能性もある。
右肩も万全ではない。
それでも一度は逃げ出し、自分たちが追う方向へ何かを残しているのかもしれない。
「アイリも、こっちへ繋ごうとしてるんだな」
「そうかもしれません」
「だったら、絶対見落とせない」
「はい」
黒い繊維を荷物へしまい、二人は先へ進んだ。
◇
やがて、森の中を細い水音が横切った。
幅は数メートルほどしかない浅い水路で、流れも膝まで届かない。底には丸い石が並び、手前の泥には複数の足跡が集まっていた。
「渡ったな」
レンが言う。
「ええ」
二人も水へ入った。
流れは強くない。
石の位置を確かめながら進めば、レンの右脚にも大きな負担は掛からなかった。
問題は反対岸だった。
砂利と岩が続き、正面には林が広がっているものの、上流側にも下流側にも、すぐそれと分かる通過痕は見当たらない。
「どっちだ」
レンが左右を見る。
エリリアはすぐには答えず、反対岸を十数歩ほど上流へ確認した。
いったん戻り、今度は下流へ進む。
「エリリア」
「少し待ってください」
レンも反対側を探した。
胸の奥に焦りが広がる。
ここで痕跡を消されたのかもしれない。
水の中を長く歩かれていたら、どこから上がったのか見つけるだけでも時間が掛かる。
「ありました」
エリリアの声がした。
レンはすぐ向かった。
下流へ二十メートルほど進んだ場所で、水辺の草がまとめて倒れている。その先には濡れた靴跡がいくつも残り、再び森の中へ続いていた。
「水路を少し歩いたのか」
「はい。痕跡を分かりにくくするためかもしれません」
「俺たちを撒こうとしてる?」
「そうとも限りません。単に水場を使った可能性もあります」
エリリアは少し考えた後、首を横へ振った。
「今の段階では分かりません」
レンはそれ以上聞かなかった。
まだ追跡を続けられるのなら、今はそれで十分だった。
二人は再び森へ入った。
◇
水路を越えた後、少しずつ地形が変わり始めた。
これまで歩いてきた森の中には、人や獣が何度も使ったらしい細い道が時折残っていた。完全な街道ではないものの、木々の間隔が広く、足元も比較的歩きやすい。
やがて、その古い道が二つに分かれた。
一方は東へ緩やかに続き、もう一方は北寄りへ曲がって木々の密集した暗い森へ入っている。
エリリアが立ち止まった。
レンも足跡を確認する。
迷う余地はなかった。
複数の靴跡は北側へ曲がっている。
「こっちだな」
「はい」
レンは東側の道へ目を向けた。
地面は平らで、低い枝も少ない。
明らかに歩きやすい。
それに比べ、北側は根が張り出し、低木も増えており、誰かを運びながら進むには面倒そうだった。
「何でわざわざこっちへ行くんだ」
エリリアはすぐには答えず、東へ続く歩きやすい道と、北へ折れていく足跡、その先の密生した木々を順に見比べた。
「逃げるだけなら、東の方が楽に見えます」
「だよな」
「でも、私たちはこの辺りの地図を持っていません。この先に彼らが使いたい道や場所がある可能性もあります」
「分からない?」
「分かりません」
エリリアは細剣の柄へ一度触れた。
「だから、気をつけて進みます」
レンは北側の森を見た。
朝はもう十分に明るいはずなのに、枝葉が重なったその先だけは薄暗かった。
「行こう」
「はい」
二人は足跡に従い、北へ入った。
最初のうちは、それまでと大きく変わらなかった。
風が枝を揺らし、足元では小さな虫が動く。
しかし数百歩も進まないうちに、レンは周囲から何かが足りなくなっていることに気づいた。
「エリリア」
「はい」
「静かじゃないか」
彼女も既に気づいていたらしく、歩みを少し遅くした。
風の音はある。
葉も擦れている。
それなのに、先ほどまで時折聞こえていた鳥の声がない。虫の鳴き声も、進むほど少なくなっていた。
レンは無意識に腰の剣へ手を置いた。
エリリアは立ち止まらず、前方へ視線を向けたまま言う。
「痕跡はまだ続いています」
「ああ」
足跡は確かに消えていない。
複数の者がアイリを連れたまま、さらに暗い森の奥へ進んでいる。
レンとエリリアもその後を追った。
背後には歩きやすい東の道が残され、前方では木々が次第に密度を増していく。
その奥で、一度だけ枝の折れる音がした。
二人は同時に足を止めた。
耳を澄ませる。
風が葉を擦る音だけが続き、先ほどの物音に応える鳥も獣もいなかった。
エリリアは森の奥を見つめた。
「進みます。ただし、ここからは今まで以上に周囲を見てください」
「分かった」
レンは黒銀の剣を腰に残したまま柄へ手を添え、再び歩き出した。
アイリへ続く足跡は、静かな森のさらに奥へ伸びていた。
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