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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
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第一章 第三十四話 消えた妹

火がほとんど熾火だけになった頃、レンは眠っているアイリの右肩へ触れないよう、左側から小さく声を掛けた。


「アイリ。交代だ」


「……ん」


 返事はしたが、目は開かない。


「アイリ」


「起きてる……」


 その言い方に、少し前までエリリアから聞いていたフィリスの寝起きが頭を過ぎ、レンは思わず口元を緩めた。


「何で笑ってるの……」


「笑ってない」


「今、絶対笑った」


「いいから起きろ。最後の見張りだぞ」


「分かってるってば……」


 アイリは左腕で身体を支えながらゆっくり起き上がった。右肩は十二日間の休養で随分動くようになっているものの、急に後ろへ引いたり、頭より高い位置まで腕を上げたり、強い力を掛けたりすればまだ痛みが出る。寝起きに固まった肩を無理に回さないよう姿勢を整え、それから上着の前を左手で直した。


「肩、大丈夫か?」


「普通にしてる分にはね」


「変だったらすぐ起こせよ」


「レンも脚が痛いならちゃんと寝て」


「今は平気だ」


「本当に?」


 少し前、自分がアイリへ向けたのと同じ問いをそのまま返され、レンは一瞬だけ黙った。


 アイリが小さく笑う。


「ほら」


「……分かった。寝る」


「よろしい」


 岩陰の外では、森が夜の音を取り戻していた。風が葉の間を抜け、遠くでは虫が絶えず鳴いている。裂谷で聞いた怪物たちの声も、今のところ近くにはなかった。


 レンは火の状態を確かめた。


「薪はもう足さなくていい。完全に消えそうなら細いのを一本だけ。何か聞こえても、確かめに行く前に起こせ」


「はいはい」


「返事が軽い」


「じゃあ、はい」


「余計軽くなっただろ」


「早く寝て」


 アイリに追い払うように左手を振られ、レンは諦めて横になった。


 黒銀の剣はこれまで通り腰にあり、身体を横へ向けても左腕や右脚を圧迫しないよう位置を少し調整する。左手を一度だけ軽く開閉すると、薬指と小指だけが他の指より僅かに遅れ、触覚もまだ薄く感じられた。それ以上確かめることはせず、手を腹の上へ置く。


「おやすみ」


 岩陰の入口からアイリの声がした。


「ああ。頼む」


 目を閉じる直前、レンには小さな背中が見えていた。


 熾火の赤い光を背にして、アイリは岩陰の外へ顔を向けていた。


     ◇


 次に目を覚ました時、空はまだ暗かった。


 ただ、完全な夜ではない。木々の向こうが僅かに青み始め、朝が遠くないことだけは分かる。


 レンはしばらく、何が自分を起こしたのか分からなかった。前日から岩場を歩き続けた疲れのせいか、右脚の奥には骨の近くへ重いものを押し込まれたような鈍い痛みが残っている。傷が開いた感覚も強い熱もなく、眠りの浅いところまで痛みだけが浮かんできたらしい。


 身体を起こす。


 火はほとんど消え、灰の下に淡い赤だけが残っていた。


「アイリ」


 返事がなかった。


 レンは岩陰の入口を見る。


 誰もいない。


 最初は、少し離れた場所へ用を足しに行っているのだと思った。


「アイリ?」


 もう一度呼ぶ。


 やはり返事がない。


 眠気が一気に消えた。


 レンは立ち上がった。急に体重を掛けた右脚の奥が痛んだが、そのまま岩陰の外へ出る。


「アイリ!」


 抑える余裕もなく声を上げる。


 木々の間へ響いた呼び声に返ったのは、驚いて飛び立った鳥の羽音だけだった。


「……レン?」


 後ろからエリリアの声がした。


 彼女も目を覚まし、細剣へ手を掛けながら身体を起こしている。


「どうしました?」


「アイリがいない」


 その一言で、エリリアの表情から眠気が消えた。


「いつからです?」


「分からない。俺が起きた時にはもういなかった」


「最後の見張りは?」


「アイリだ。俺が起こした。ちゃんと話もした」


 二人は岩陰へ戻った。


 アイリの荷物は残っている。食料も水袋も、夜のうちに置いた場所からほとんど動いておらず、眠る時に使っていた布もそのままだった。


「自分から遠くへ行くつもりではなかったようですね」


 エリリアが低く言った。


「ああ。何かあって、ちょっと見に行ったとか……」


「可能性はあります」


 エリリアはすぐに岩陰の外へ戻った。


「まず周囲を確認します。レン、走らないでください」


「今そんなこと――」


「足跡を踏み潰したら、もっと時間を失います」


 レンは歯を食いしばった。


 その通りだった。


 エリリアは地面へ視線を落とす。


 岩陰そのものは硬い石が多いが、入口から少し離れると土と枯れ葉が混じり、夜露で湿った場所には踏まれた跡が僅かに残っている。


「ここです」


 エリリアが屈んだ。


 レンも横から見る。


 岩陰の入口近くには三人が何度も歩いた跡が重なっていたが、その中から森へ向かって続く比較的新しい足跡が伸びている。


「アイリのものだと思います」


「分かるのか?」


「大きさと靴底が一致します。それに、この時間に新しく外へ出たのは彼女だけです」


 左右の歩幅に大きな乱れはなく、左脚を引きずった様子もなかった。治りかけていたふくらはぎは、少なくとも普通に歩く分には問題なく使えていたらしい。


「どこまで行ってる?」


「まだ近いです」


 二人は痕跡を踏まないよう少し横へ外れながら進んだ。


 十数歩ほどで、アイリの足跡が森の奥ではなく、岩陰から見える範囲の端へ向きを変えている。


「ここで止まってる」


 レンが言った。


 片方の踵が、他の足跡より少し深く土へ沈んでいた。


 その先の枯れ葉も乱れている。


 エリリアが顔を上げた。


「レン」


「ああ」


 二人とも同じものを見つけていた。


 アイリのものより明らかに大きな靴跡が、湿った土の上に複数重なっている。完全な形を残しているものは少ないが、少なくとも彼女以外の何人かがこの場所へ入ったことは分かった。


 レンの右手が剣の柄へ動いた。


「最初から、ここに潜んでたのか」


「そこまでは分かりません。ただ、複数人がここにいたのは確かです」


 エリリアは周囲を見回した。


 木の陰や低い茂み、岩陰からでは見えにくい窪みがいくつもある。昨夜、自分たちが眠っている間にそこまで接近されていたのだとすれば、背筋が冷えた。


「アイリ!」


 レンが森へ向かって叫ぼうとしたところで、エリリアが腕を伸ばす。


「待ってください」


「何だよ!」


「ここを見て」


 アイリの足跡が途切れる直前、地面が大きく荒れていた。横へ滑った靴跡の隣には別の足跡が深く沈み、膝か手をついたように枯れ葉が押し潰され、低い枝も途中から一本折れている。


 偶然何人かが同じ場所を通っただけではできない乱れ方だった。


「ここで揉み合っています」


 エリリアの声が硬くなる。


 レンは周囲へ目を走らせた。


 木の幹には細い擦り跡があり、人が横へ強く踏ん張ったような痕跡も土に残っている。アイリは何もせず連れていかれたのではなく、右肩に強い力を掛けられない状態でも抵抗していたらしい。


 レンの喉が詰まった。


「何で起こさなかったんだよ……」


「遠くへ行くつもりではなかったのかもしれません」


「でも俺、言ったんだ。何かあったら起こせって」


「ほんの数歩、確認するだけだと思った可能性があります。あるいは、そう思わせる何かがあったのかもしれません」


 それ以上は推測だった。


 今必要なのは理由を決めることではなく、どこへ連れていかれたのかを確かめることだった。


 レンはさらに先へ視線を送る。


 土の上に暗い赤が見えた。


 屈んで確かめる。


 落ちていたのは、ほんの数滴の血だった。


 その色を見た瞬間、燃える家と煙、その向こうに倒れていたエレナの身体、手に残った血の色が一度に蘇り、目の前の森と重なった。


「レン」


 エリリアの声が遠く聞こえる。


 呼吸が浅くなる。


「レン、こちらを見てください」


 肩へ手を置かれ、レンは顔を上げた。


 淡い瞳が正面にある。


「今はここです」


 低く、はっきりした声だった。


「……分かってる」


「いいえ。今、一瞬分かっていませんでした」


 言い返せなかった。


 エリリアは地面の血へ目を戻す。


「量は少ないです。それに、これがアイリの血だとも限りません」


「でも血がある」


「あります。だから慎重に見ます」


「慎重にしてる間に遠くへ行くだろ!」


「だからこそ、見落とさないでください」


 エリリアの声が少しだけ強くなった。


「ここで痕跡を失えば、追うことすらできません」


 レンは拳を握りかけ、左手の薬指と小指が遅れる感覚に気づいて力を緩めた。


「……分かった」


「見つけます。そのために、今ここで間違えないでください」


「ああ」


 二人は再び地面へ視線を戻した。


     ◇


 争った跡の先では、アイリ自身の足跡が不規則になっていた。


 何歩かは残っているものの、それまでの自然な歩幅ではなく、間隔が短いうえに横へずれている。誰かに腕か身体を押さえられながら動かされた可能性が高かった。


 さらに少し進むと、アイリの足跡は完全に消え、代わりに複数の大きな靴跡だけが森の奥へ続いていた。


「ここから持ち上げたのか」


 レンが低く言う。


「可能性は高いです」


「何人だ?」


「重なりすぎていて正確には分かりません。ただ、一人や二人ではありません」


 レンは奥へ伸びる跡を見た。


「アイリ一人を連れていくために……?」


「そう見えます」


「だったら、何で……」


 殺さなかった。


 その言葉を口にすることさえ怖かった。


 エリリアも同じことを考えたらしい。


「ここで命を奪うことが目的だったなら、わざわざ連れていく必要はありません」


「生かして連れていったってことか?」


「少なくとも、ここで殺した形には見えません」


 断言ではない。


 だが、その違いだけでも今のレンには大きかった。


「じゃあ追える。今すぐ行く」


 歩き出そうとしたレンを、エリリアが止めた。


「先に荷物を取ります」


「そんな暇――」


「水も食料も持たずに追えば、途中で動けなくなります」


「でも」


「数分です」


 レンは森の奥と岩陰を見比べた。


 右脚の奥では、急に動き回ったせいか鈍い痛みが少しずつ強くなっている。ここからどれだけ追うことになるかは分からない。感情のまま走れば、本当に途中で足を止めることになる。


「……分かった」


 二人は一度、岩陰へ戻った。


     ◇


 準備に時間は掛けなかった。


 水袋と残っている硬いパン、干し肉、最低限の包帯と薬、それにロープだけをまとめ、熾火には水と土を掛けて完全に消した。


 レンは荷物を右脚の動きを妨げないよう背負い直し、黒銀の剣がいつも通り腰の少し右へ来るよう剣帯を確かめる。


 左手で荷紐を締めようとすると、薬指と小指が思うようについてこない。苛立って右手だけで乱暴に結び直そうとしたところで、エリリアが横から声を掛けた。


「急ぐことと雑にすることは違います」


「分かってる」


「今の顔は分かっていない顔です」


「エリリア」


「途中で紐が解けて転んだら、もっと遅れます」


 レンは息を吐いた。


 左手の使える指で紐を押さえ、右手で確実に結び直す。


「これでいいか」


「はい」


 エリリア自身は細剣を腰に残したまま、両手の擦り傷を覆う布がずれていないことだけを確かめた。足取りにも問題はなく、今の二人のうち長い距離を最も安定して動けるのは彼女だった。


「行きましょう」


「ああ」


 二人は再び森へ入った。


     ◇


 朝の光が少しずつ木々の間へ差し込み始めていた。


 暗い間より地面は見やすくなったものの、人が通った跡が常に明確に残るわけではない。石の多い場所では靴跡が消え、落ち葉の上では誰かが踏んだことしか分からない。


 それでも、折れた草や押し潰された湿った苔、木の根の脇へ残った泥など、複数人が急いで通った痕跡を拾いながら進むことはできた。


 エリリアが先に立ち、レンは少し後ろから周囲を警戒する。


 走りたい気持ちは消えるどころか、一歩進むごとに強くなった。


 だが右脚へ力を掛けすぎれば、奥の鈍痛が重く響く。平地なら問題なく歩けても、根や石の多い森では同じ速度を維持するだけで負担が増えた。


「速すぎるなら言ってください」


 エリリアが前を向いたまま言う。


「平気だ」


「本当に?」


「その言い方、流行ってるのか?」


「アイリから聞きました」


 胸の奥が痛んだ。


 つい数時間前なら、本人がすぐ横から何か言い返していたはずだった。


 レンは何も返さず歩いた。


 しばらくすると、エリリアが足を止めた。


「ここから地面が硬くなります」


 前方には浅く岩が露出した一帯がある。


 そこを越えれば、足跡はほとんど残らない。


「消えるのか?」


「一度は」


 エリリアは周囲を見回した。


「でも、急いで人を運んでいるなら何かは残るはずです」


 二人は岩の縁や木の根元、低い枝まで順に確かめながら痕跡を探した。


 レンの胸の鼓動だけが速い。


「くそ……」


「焦らないで」


「分かってる」


「なら地面だけではなく、周りも見てください」


 レンは視線を上げた。


 その時、少し先の低木に黒いものが揺れているのが見えた。


「エリリア」


 彼女もすぐに気づいた。


 二人は近づく。


 棘のある低い枝に、指二本分ほどの細い黒布が引っ掛かっていた。


 レンは触れる前に裂け目を見る。


 新しい。


 色もアイリの服と同じだった。


「これ……」


「はい」


 エリリアは布だけでなく周囲も確認した。


 ここには争った跡がない。


 枝の位置も、ただ通り過ぎただけで服が引っ掛かるには少し道の内側へ入り込んでいる。


「アイリが残したのか?」


「可能性はあります。ただ、まだ断定はできません」


 エリリアが前方へ目を向ける。


 岩場を越えた先の柔らかな土には、先ほどと同じ方向へ続く複数の靴跡が再び現れていた。


「少なくとも、この布がある場所と彼らの進んだ方向は一致しています」


 レンは慎重に黒い布を枝から外した。


 掌へ乗せてもほとんど重さを感じない、小さな布切れだった。


 それでも、アイリが意識を保ち、自分たちが追ってくると考えて残したものなのだと、レンは思いたかった。


「アイリなら、やる」


 レンが言う。


「そうですね」


 エリリアは否定しなかった。


「自分にできることがあるなら、何もしない子ではありません」


 レンは布を握り潰さないよう指を緩く閉じ、荷物の内側へしまった。


「行こう」


「はい」


 誰がアイリを連れ去ったのかも、何のためなのかも、まだ何一つ分からない。


 確かなのは、彼女が自分から荷物を置いて旅へ出たのではなく、複数の者に襲われ、抵抗した末に森の奥へ連れていかれたことだった。


 そして、追える痕跡はまだ残っている。


 エリリアがその先へ一歩踏み出した。


「消える前に追います」


「ああ」


 レンも続く。


 朝露の残る森の中を、複数の足跡がさらに奥へ伸びていた。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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