第一章 第三十三話 生き残った者の村
夜が明ける頃になっても、セレネアの火は消えなかった。
東の岩場へ逃れた者たちは、誰もまともに眠ることができないまま朝を迎えた。空が灰色に変わり始めても森のあちこちから炎が上がり、黒い煙が枝葉のなくなった場所を覆っている。夜の間は赤くしか見えなかった被害が、明るくなるにつれて形を持ち始めた。焼け落ちた家の骨組み、途中から折れた木々、斜面へ逃げてきたまま座り込む人々。そのどれもが、昨日までの森とは繋がらない景色のように見えた。
岩場まで辿り着いていた者を数えると、二十三人しかいなかった。その中には老人も子供もおり、自力では歩けないほど傷ついた者も何人かいた。
数を聞いた瞬間、エリリアは何かの間違いだと思った。昨夜、中央広場にはもっと多くの人がいた。東へ向かった列だけでも、この人数ではなかったはずだった。
「北へ分かれた人たちもいます」
そう言って、エリリアはもう一度立ち上がった。
「別の場所へ逃げた人もいるはずです。探してきます」
斜面を下りようとしたところで、一人の男が前へ出た。昨夜も避難路で村人たちを守っていた男で、額に巻いた布には血が滲んでいる。
「まだ入れない」
「北側なら火が弱いかもしれません」
「木が倒れ続けている。煙も濃い。今戻っても探せない」
「でもフィリスが――」
「分かってる」
「分かってるなら行かせてください」
男は首を横へ振った。
「お前まで戻らなかったら、誰が探す」
エリリアは答えられなかった。
父も母も、フィリスも、ここにはいなかった。それなのに自分だけがここにいることが、何かを間違えた結果のように思えた。
「昼まで待て」
「待っている間に何かあったら?」
「今入れば、お前に何かある」
「それでも――」
「エリリア」
別の声に振り返る。
弓を背負ったミレアが立っていた。
彼女の外套も煤で黒く汚れ、右手の甲には細い裂傷がいくつも走っている。少し離れた場所では、彼女の母が脚を布で固定され、別の女性に水を飲ませてもらっていた。
「火が弱くなるまで待ちましょう」
「あなたまで止めるんですか」
「止めます」
「フィリスが向こうにいるかもしれないんですよ」
「私の家族だって、全員ここにいるわけではありません」
その言葉で、エリリアは口を閉じた。
ミレアは責めるようには言わなかった。
ただ事実として口にした。
辺りを見れば、同じように森を見つめ続けている者が何人もいる。名前を呼び続けて声を枯らした者も、誰かの帰りを待ちながら岩へ座り込んでいる者もいた。
誰も、自分が助かったことだけを喜べる状況ではなかった。
エリリアは再び森を見た。
「……火が弱くなったら行きます」
「その時は私も行きます」
「怪我してるでしょう」
「あなたもです」
昨夜斬られた左肩が、言われてから痛みを主張するように熱を持った。
「これは浅いです」
「私の手も浅いです」
「弓が使いにくいんじゃないですか」
「剣よりは使えます」
「そういう問題では――」
「話せるなら、少しは元気ですね」
ミレアはそれだけ言うと、怪我人たちの方へ戻っていった。
エリリアは言い返せなかった。
◇
昼になっても森へは入れなかった。
風向きが変わるたび煙が岩場まで流れ込み、目と喉を刺した。手当てのできる者たちは傷の深い者から順に処置を続け、動ける者は水と食料を集めた。逃げ出す際に持ち出せたものは少なく、昨夜からほとんど何も口にしていない者もいる。
エリリアも水だけは飲んだ。
食べ物には手を伸ばせなかった。
何かを食べている間にフィリスが戻ってくるかもしれない。母が斜面を上がってくるかもしれない。父が煙の中から現れるかもしれない。
そんな考えに意味がないことは分かっていた。
それでも森から目を離すことができなかった。
「食べてください」
隣から差し出されたのは、小さく割った硬いパンだった。
ミレアだった。
「いりません」
「昨日の朝から何か食べましたか」
「今は食べられません」
「食べたくないかどうかは聞いていません」
「ミレア」
「私も食べます」
彼女は自分の分を半分に割り、その一つへ齧りついた。
エリリアはパンを受け取らない。
「フィリスが見つかってないんです」
「知っています」
「父さんも、母さんも」
「知っています」
「なら――」
「あなた一人だけが残されたわけではありません」
ミレアは静かに言った。
「ここにいる全員が、同じ森から逃げてきたんです」
エリリアの手が強く握られる。
「だから平気だと言うんですか」
「そんなことは言っていません」
ミレアは視線を逸らさなかった。
「平気な人なんていません。でも、ここにいる人の中には、自分で水を取りに行けない人もいます。歩けない人もいます。親が戻っていない子供もいる」
「……分かってます」
「分かっているなら、あなたも倒れないでください」
「私が倒れたって――」
「困ります」
即答だった。
エリリアが顔を上げる。
「私は困ります。母も困るでしょうし、昨日あなたに助けられた人たちも困ります」
「私が助かったことなんて――」
「今、それが良かったかどうかまで決めなくていいです」
ミレアは手にしたパンを見る。
「生き残ってしまった以上、次に何をするかは選ばなければならない。でも、今日全部決める必要もありません」
そしてパンをエリリアの手へ押し込んだ。
「今日は食べる。それだけでいいです」
エリリアは掌の中の硬いパンを見た。
喉を通る気はしなかった。
それでも少しずつ口へ運んだ。
噛むたびに、何をしているのだろうと思った。
それでも全部食べ終えた。
◇
森へ入れるようになったのは、火の勢いがようやく弱まり始めてからだった。
完全に消えたわけではない。
地面の下で燻っている場所もあり、黒くなった木々は少しの風でも軋んだ。捜索へ入る者は少人数に絞られ、危険な場所へ近づかないことを何度も確認させられた。
エリリアは止められても引かなかった。
最終的に、ミレアを含む数人とともに森へ戻ることを許された。
昨日まで道だった場所を歩いているはずなのに、何度も方向が分からなくなりそうになった。
曲がり角の目印にしていた大木は途中から折れ、家々は基礎だけを残して崩れている。落ち葉を踏む柔らかな音はなく、靴の下で炭になった枝が乾いた音を立てた。
最初に向かったのは、西側だった。
そこは、エリリアが父を最後に見た場所だった。
道の形さえ変わっていた。
エリリアは何度も足を止め、焼けた柱や倒木の位置を見ながら記憶を繋ぎ直した。
「この辺りです」
やがて、地面の上に金属の反射が見えた。
エリリアは走った。
瓦礫の間に剣が落ちている。
柄の形を見た瞬間に分かった。
「……父さんの」
アレストの剣だった。
鞘はない。
刃の一部は熱で色を変え、中央近くから僅かに歪んでいる。
周囲には焼けた木材と崩れた石があるだけだった。
「近くを探しましょう」
ミレアが言った。
皆で周囲を探した。
だが、父だと確かめられるものは見つからなかった。
エリリアは剣を拾った。
まだ煤がついている。
重さは、記憶の中で父が持っていた時よりずっと重く感じた。
そこから家のあった場所へ向かった。
屋根は完全に落ち、二階は形を残していなかった。エリリアの部屋も、フィリスを起こしに行った廊下も、食卓を囲んだ居間も区別できない。
母を示すものは見つからなかった。
人の痕跡そのものが少なすぎた。
誰がどこで倒れ、誰が別の道へ逃げたのかを判断できる状態ではない。
フィリスの痕跡もなかった。
「東へ行きたいです」
エリリアが言った。
弟と離れた避難路だった。
◇
倒れた大木はまだ道を塞いでいた。
昨夜より火は弱まっていたが、太い幹の内側では赤い光が燻っている。
「ここで分かれました」
エリリアは木の向こうを見る。
「フィリスは子供たちと先へ行ったんです。その後、北へ避けた人がいるって」
数人が手分けして周囲を調べた。
灰の中からは、焼けた布や壊れた水筒、片方だけになった靴など、誰のものかも分からない品が次々と見つかった。
エリリアは一つずつ確かめた。
その時、少し離れた場所でミレアが屈んだ。
「エリリア」
呼ばれて振り返る。
彼女の手に、小さな冊子があった。
表紙の端は焼け、革紐も途中で切れている。
それでも見間違えるはずがなかった。
「……フィリスの」
エリリアは受け取った。
指が震えた。
弟は昨夜、それを胸元へ入れていた。
冊子がここにある。
しかしフィリスはいない。
「近くを探します」
エリリアはすぐ顔を上げた。
「落としただけかもしれない」
「はい」
ミレアは否定しなかった。
捜索は北側まで続いた。
足跡はほとんど残っていない。
火と避難者の往来で地面は荒れ、途中から岩場へ変わっていた。
フィリスは見つからなかった。
戻る前、エリリアは冊子を開いた。
焼けて読めない頁もあったが、中の大半は残っていた。
そこに書かれていたのは、秘密でも、重要な地図でもなかった。
『今年の姉さんの剣舞は去年より上手かった。父さんは「悪くなかった」と言った。たぶんすごく褒めてる。』
少し先の頁には、『今日、父さんが夕食に間に合った。母さんは蜂蜜を使いすぎてパンを少し焦がした。姉さんの方が僕より大きいのをもらった。不公平。』とある。
さらに後ろには、最近の森について記した頁が残っていた。
『青羽鳥が来ない。虫も少ない。鹿もいつもと違う方へ行った。父さんたちは見回りを増やしてる。姉さんは平気そうな顔してるけど、たぶん少し怖いと思う。僕も怖い。』
エリリアはそこで冊子を閉じた。
フィリスは、大きな歴史を残したいと言っていたわけではなかった。
誰が何を食べたか。
誰が何を言って笑ったか。
そういうことが残っていなければ、その人たちが本当に生きていた感じがしないのだと話していた。
煤で汚れた冊子を胸へ抱く。
父の剣とは違う。
何かが終わった証拠でもない。
これを持っていた弟が、その先でどうなったのかは何も分からなかった。
だからこそ、手放すことができなかった。
◇
セレネアへ留まり続けることはできなかった。
火が弱まった後も煙は何日も残り、焼けた木々は次々に倒れた。食料庫の大半は失われ、水場にも灰が入り込んでいる。助かった者の中には傷が悪化して動けなくなる者もおり、いつ襲撃者が戻ってくるかも分からなかった。
森の外へ残した少数の目印と、戻ってきた者にも分かる印だけを残し、生き残った者たちは移動することを決めた。
エリリアは最後まで反対した。
「フィリスが戻ってきたらどうするんですか」
「印を残します」
年長の男が答えた。
「私たちがどちらへ向かったか分かるようにする」
「見つけられなかったら?」
「ここにいて全員が死んだら、戻ってきても誰も迎えられない」
言葉は正しかった。
それでも正しいから受け入れられるわけではなかった。
出発前、エリリアは銀白花の畑だった場所へ行った。
ほとんど何も残っていない。
白い花は黒く縮れ、茎は灰になっている。
土を掘ると、端の方で焼け切らなかった種がわずかに見つかった。
ほんの数粒だった。
エリリアはそれを小さな布へ包み、フィリスの冊子と一緒に持った。
もう一度育てられるかどうかは分からない。
それでも置いていくことはできなかった。
◇
生き残った者たちは森の北側を避けながら、さらに外へ進んだ。
負傷者は簡単な担架へ乗せられ、歩ける者が交代で運んだ。持ち出せた食料は少なく、雨が降れば火から逃げた身体を今度は冷えから守らなければならなかった。
エリリアは父の剣を荷物の中へ入れていた。
自分の細剣は腰にある。
フィリスの冊子は外套の内側へしまった。
歩いている間も、行く先々で、銀色の髪で小さな冊子を持ち、子供たちと一緒に逃げていた少年を見なかったかと尋ね続けた。
誰も知らなかった。
赤い髪の男についても、一度だけ尋ねた。
炎を剣へまとわせる男を見たことがないか。
返ってくるのは首を横へ振る動きばかりだった。
名前も、どこから来たのかも分からない。
分かったのは、あの男がセレネアを焼いた者の一人だったということだけだった。
旅の途中で、助からない者もいた。
昨夜の傷が深すぎた者や、煙を吸い込みすぎた者の中には、森を出た時には会話ができていたにもかかわらず、数日後には立つことさえできなくなる者もいた。
誰かが倒れるたび、歩みは止まった。
それでも完全に止まり続けることはできなかった。
ミレアは負傷した母のそばにいることが多かったが、歩ける時には弓を持って周囲を警戒した。エリリアも担架を運び、夜は見張りに入り、昼は幼い子供の手を引いた。
「あなた、休んでますか」
ある夜、ミレアに尋ねられた。
「昨日休みました」
「いつです?」
「担架を降ろした時に少し」
「それは休んだと言いません」
「あなたも同じでしょう」
「私は今日、母の隣で一時間寝ました」
「……負けました」
「勝負ではありません」
ミレアは小さく息を吐いた。
すぐ近くでは彼女の母が毛布に包まれて横になっている。
「あなたとこの子は似ているところがありますね」
目を閉じたまま、母親が言った。
エリリアとミレアが同時にそちらを見る。
「どこが?」
ミレアが尋ねた。
「自分のことを最後にするところ」
「私はちゃんと休んでます」
「一時間で威張らないの」
弱い声だったが、僅かに笑っていた。
エリリアも口元を緩める。
笑ったことに気づいた瞬間、胸の奥が痛んだ。
こんな時に笑っていいのかと思った。
それでも、隣のミレアは何も言わなかった。
◇
数日の移動の末、一行は森に囲まれた浅い谷へ辿り着いた。
大きな集落があった場所ではない。
古い狩人小屋が数棟残り、その近くには石組みの井戸があった。屋根の壊れた小屋もあったが、修理すれば雨を凌げそうなものもある。周辺には獣の足跡こそあったものの、最近人が暮らしていた様子はなかった。
水を汲んだ者が確認し、飲めることが分かった。
その日は全員がそこで休んだ。
翌朝、一人の年長者が言った。
「しばらく、ここを使おうと思う」
反対する声は少なかった。
負傷者をこれ以上移動させることは難しい。
水があり、雨風を凌ぐ場所もある。
狩りのできる森も近い。
エリリアだけが黙っていた。
「どうしました?」
ミレアが隣へ来る。
「ここに住むんですか」
「少なくとも、皆が動けるようになるまでは」
「その後は?」
「分かりません」
「私はフィリスを探しに行きます」
「はい」
あまりに簡単に肯定され、エリリアはミレアを見る。
「止めないんですか」
「止める理由がありますか?」
「皆はここへ残るんでしょう」
「だからといって、あなたまで一生ここにいなければならない理由にはならないでしょう」
ミレアは谷の小屋へ目を向けた。
数人が壊れた屋根を調べている。
子供たちは井戸の近くで水を運んでいた。
「ただ、今日すぐ出ていくのは反対します」
「なぜです?」
「あなた自身がまだ傷だらけですし、何を探すにしても食料も道具も必要です」
「それなら準備ができたら――」
「それに」
ミレアが続ける。
「フィリスを見つけた時、連れて戻れる場所くらい、先に作っておきませんか」
エリリアは言葉を失った。
「戻れる場所……」
「セレネアと同じにはできません」
「分かってます」
「でも、屋根があって、水があって、知っている人がいる場所なら作れます」
ミレアはエリリアを見る。
「探しに行くことを止めるつもりはありません。ただ、見つけた時に帰れる場所くらい、先に作っておきませんか」
エリリアは谷を見渡した。
知らない土地だった。
セレネアのように銀白花が広がっているわけでもない。
父との訓練場もない。
母と働いた花畑もない。
フィリスの部屋もない。
それでも、ここには生き残った者たちがいる。
「……少しだけです」
エリリアが言った。
「皆が普通に暮らせるようになるまで」
「はい」
「それができたら、探しに行きます」
「分かりました」
ミレアは笑わなかった。
ただ頷いた。
◇
最初に直したのは屋根だった。
雨を凌げる小屋を増やし、井戸の周囲を整え、獣が近づかないよう簡単な柵を作った。狩りのできる者は森へ入り、動けない者は衣服や道具を直した。
エリリアは剣を持つ時間より、木材を運ぶ時間の方が長かった。
それでも夜になれば見張りに立った。
風の流れを読み、遠くの匂いや音を確かめる。
炎の匂いがした気がするだけで、眠れなくなる夜もあった。
数週間後、銀白花の種を土へ植えた。
谷の中でも陽当たりの良い場所を選び、水の量を調整し、母に教えられた通り毎日土を確かめた。
最初は何も出なかった。
それでも諦めずに待つと、一つだけ小さな芽が出た。
エリリアはその日、誰にも言わず長い時間そこへ座っていた。
「育ちそうですか」
後ろからミレアが聞いた。
「分かりません」
「嬉しそうですね」
「そんな顔してます?」
「少し」
エリリアは小さな芽を見る。
「ここでも育ったら、フィリスが戻ってきた時に見せられます」
「きっと喜びます」
ミレアはそれ以上何も言わなかった。
芽はゆっくり育った。
だがセレネアとは土も風も違った。
最初の冬を越えることができず、春を待つ前に茎は枯れた。
エリリアは乾いた土の前へしゃがみ込み、長い時間動かなかった。
「もう種は?」
ミレアが尋ねる。
「ありません」
「そうですか」
「私、花を育てたかったんです」
「知っています」
「それすら残せなかった」
ミレアは隣へ座った。
「覚えている人がいるなら、全部なくなったわけではありません」
エリリアは首を横へ振った。
「記憶だけじゃ花は咲きません」
「咲きませんね」
否定しなかった。
それが少しだけ救いだった。
「でも、どんな花だったかを知っている人は残っています。いつか似た花を見つけた時、あなたなら銀白花と何が違うか分かる」
エリリアは枯れた茎へ触れた。
フィリスなら、こういうことも書き残しただろうかと思った。
姉が花を枯らした。
すごく落ち込んでいた。
でも水はちゃんとやっていた。
そんな必要のないことを、きっと真面目に記録した。
胸の内側が痛んだ。
それでもその痛みを、以前ほど恐れなくなっていた。
◇
最初は、屋根のある家が皆に行き渡ったら旅へ出るつもりだった。
それが終わる頃には、森の見張りを増やす必要が出てきた。
見張り台が完成したらと思っているうちに最初の冬が迫り、冬を越えたら今度は狩りに出られる者を増やさなければならなくなった。一つの理由がなくなるたび、代わりに別の理由が生まれた。
エリリアが村から一度も離れなかったわけではない。
近隣の集落へ行けるようになると、必ずフィリスのことを尋ねた。
旅人にも聞いた。
火事から逃げてきた者の記録がある場所では名前を探した。
似た話を聞いて遠くまで足を延ばしたこともある。
しかし確かなものには一度も届かなかった。
赤髪の剣士について尋ねても同じだった。
炎を操る男を見たという曖昧な噂がまったくなかったわけではない。しかし場所も時期も一致せず、本人だと確かめられるものは何一つなかった。
だからエリリアは戻った。
次に探すためでもあった。
そして、戻れば必ず誰かがいた。
ミレアがいた。
かつて子供だった者たちが少しずつ成長していた。
新しく生まれた子供もいた。
修理した小屋の隣へ新しい家が建ち、簡素だった柵は少しずつ頑丈になった。
正式な村の名を決めようという話も一度出た。
「何て呼びます?」
誰かに聞かれた時、ミレアは作業の手を止めずに答えた。
「今はなくてもいいでしょう。名前より先に、住める場所にする方が大事です」
結局、長い間これといった正式名称はつかなかった。
外から来る者には森の村と呼ばれ、生き残った者たちの間では、ただ「村」と言えば通じた。
エリリア自身も、いつからそこを帰る場所と考えるようになったのかは分からなかった。
最初はフィリスを連れて戻る場所として作った。
次には、傷ついた人々が冬を越すための場所になった。
やがて、そこで育つ子供たちが安心して眠れる場所になった。
父から教わった剣を若い者へ教えるようにもなった。
細剣だけではない。
敵を見たら一人で飛び出さないこと。
守る相手を自分の後ろへ置くだけでなく、その人が何をできるのかを見ること。
勝つことより、生きて戻ることを優先すべき日があること。
そうしたことを、一つずつ伝えた。
ミレアも弓を教えた。
村を守れる者は増えていった。
エリリアが一人で外周を回らなくてもよい日が少しずつ増えた。
それでも、自分がいなければ何かが起こるのではないかという感覚だけは、なかなか消えなかった。
家が増えれば、そこに住む者を守らなければと思った。
子供が増えれば、その子たちが大人になるまではと思った。
誰かが傷つけば、今離れるわけにはいかないと思った。
少しだけ残るつもりだった時間は、一年になり、二年になり、その先へ積み重なっていった。
フィリスの冊子は、七年の間ずっと大切に保管した。父の傷んだ剣も捨てることはできず、村に自分の居場所ができてからは、旅へ持ち歩くものとは分けて、そこで大切に残した。
どちらも答えをくれるものではない。
父がどこで命を落としたのか、それとも最後に別の道へ抜けたのか。
母が負傷者たちとどこまで逃げられたのか。
フィリスが倒木の先でどこへ向かったのか。
結局、何一つ確かめることはできなかった。
それでもエリリアは七年間、村で暮らした。
そこに縛られているのだと思ったこともある。
自分が離れれば、また何かを失うのではないかと恐れていた時期もあった。
けれど七年の間に、村の人々も変わっていた。
守られるだけだった者が弓を持ち、幼かった子供が見張りに立ち、誰かが倒れれば別の誰かが自然に肩を貸すようになっていた。
村はいつの間にか、エリリア一人が支えなければ崩れる場所ではなくなっていた。
◇
エリリアが口を閉じると、岩陰の小さな火がぱちりと鳴った。
燃え残った枝が崩れ、橙色の火の粉が一瞬だけ上がって消える。
レンは何も言わず、しばらく火を見ていた。
すぐそばでは、アイリが左側を下にしたまま眠っている。掛けた布の端が呼吸に合わせて僅かに上下していた。
「……そうして、私は七年、あの村にいました」
エリリアが静かに言った。
レンは顔を上げる。
「フィリスのことは?」
「分かりません」
答えるまでに少しだけ間があった。
「父も、母も同じです。確かな最期を見たわけではありません。でも、七年間探して、何も見つけられなかった」
「そうか」
「はい」
レンはそれ以上尋ねなかった。
火の向こうで、エリリアの淡い瞳が揺れる炎を映している。
「聞かせてくれて、ありがとう」
レンが言った。
エリリアは少しだけ驚いたように瞬きをした。
「礼を言われるような話ではありません」
「それでも」
彼女はしばらく黙った後、小さく息を吐いた。
「……そういうところは、少しずるいですね」
「何でだよ」
「何でもありません」
エリリアは立ち上がり、岩陰の外へ目を向けた。
「そろそろ交代しましょう。予定より少し長く話してしまいました」
「俺が起きるの早かったからだろ」
「それでもです」
レンも身体を起こした。
右脚の奥に残る鈍い痛みを確かめながら、無理なく姿勢を変える。
「寝られそうか?」
「たぶん」
「火のことは見てる」
「小さく保ってください」
「分かってる」
エリリアはアイリを起こさないよう静かに横になった。
レンは火へ細い枝を一本だけ足し、それ以上大きくならないよう位置を整える。
岩陰の外には暗い森が続いていた。
セレネアとは違う森だった。
風が葉を擦り、遠くでは虫が途切れることなく鳴いている。
レンは腰の黒銀の剣へ軽く触れてから手を離し、夜の気配へ耳を澄ませた。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
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