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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
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第一章 第三十二話 赤髪の炎

最初に見えたのは、森の西側で瞬いた赤い光だった。


 窓辺に立っていたエリリアは、それが何なのかすぐには理解できなかった。月明かりの下で黒く重なっていた木々の向こうが一瞬だけ明るくなり、遅れて低い破裂音が届く。隣にいたフィリスが身を強張らせ、母が居間の奥から窓へ近づいた時には、さらに北側でも橙色の光が上がっていた。


「母さん……」


 フィリスの声が震えた。


 次の瞬間、夜の森を切り裂くように警鐘が鳴った。村の外周から中央へ危険を知らせる鐘が、間を置かず何度も打ち鳴らされる。


 母の表情が変わった。


「二人とも、靴を履いて。エリリアは剣を」


「父さんは?」


「外にいるわ」


 それだけ答えると、母は家の奥から外套と最低限の荷物を引き寄せた。


 窓の外で、また赤い光が走った。今度は木材が激しく燃え上がる音まで聞こえ、風に乗って焦げた匂いが家の中へ入り始める。


 エリリアは壁際に置かれていた細剣を腰へ差した。指が僅かに震えていることに気づいたが、柄へ触れると、父との訓練で何度も繰り返してきた感覚が戻ってくる。


「フィリス」


「分かってる」


 弟は寝間着の上から急いで服を着込み、机の上に置いてあった小さな冊子を胸元へ押し込んだ。


 その時、外から叫び声がした。


「開けて! お願い、開けて!」


 母が扉へ近づく。


「誰?」


「リセです! 母さんが怪我して――!」


 聞き覚えのある少女の声だった。


 母が戸を開けると、十歳にもならない少女が泣きながら立っており、その後ろでは一人の女性が別の村人に肩を借りていた。腕から血を流し、服の一部が黒く焼け焦げている。


「中へ」


 母は迷わず女性を支えた。


「何があったの?」


「外から人が……森に火を……」


 女性は息を切らしながら言葉を繋いだ。


「西だけじゃない。南からも入ってきてる。中央へ集まれって、守りの人たちが……」


「父さんを見ませんでしたか?」


 エリリアが尋ねる。


「アレストさんなら西へ……何人か連れて……」


 その先は大きな衝撃音に掻き消された。


 家の窓が震える。


 フィリスが反射的に耳を塞いだ。


 外へ目を向けると、先ほどまで暗かった森の一角から炎が大きく立ち上がっていた。一本の木だけではない。地面近くから複数の火が広がり、乾いた枝を伝って周囲へ移っている。


 何日も前から鳥や獣たちが森を離れていった理由を、エリリアはその光景を見た瞬間に理解した。


「ここにはいられない」


 母が傷ついた女性の腕へ布を巻きながら言った。


「中央へ向かうわ。そこから東側へ抜ける」


「父さんを待たなくていいの?」


 フィリスが聞く。


「お父さんは、自分で戻れる人よ」


「でも――」


 母は息子の肩へ手を置いた。


「今は、私たちが動かないと」


 フィリスは唇を噛んだものの、やがて頷いた。


 エリリアも腰の細剣を確かめる。


 家に残るという選択肢は、もうなかった。


     ◇


 外へ出た瞬間、夜の空気が変わった。


 風そのものは冷たいのに、森の向こうから熱が押し寄せてくる。煙が木々の間を低く流れ、火の粉が夜空へ細く舞い上がっていた。


 村の道には人が溢れている。子供を抱えて走る者、老人の手を引く者、負傷者を両側から支える者が中央へ向かい、その流れに逆らうように、剣や弓を持った村の守り手たちが外周へ駆けていた。


「エリリア!」


 顔見知りの若い男が走ってきた。左の頬から血が流れている。


「中央へ行け! 西側はもう駄目だ!」


「父を見ませんでしたか?」


「外周で戦ってる! 北へ回った連中もいる。ここも長くは――」


 言葉の途中で矢が飛んできた。


 男がエリリアの肩を押す。


「伏せろ!」


 矢は背後の家の柱へ突き刺さった。


 エリリアが振り返ると、木々の間から黒い服を着た男たちが現れていた。顔の下半分を布で覆い、弓や短剣、剣を持っている。耳の形を見れば、エルフではない。


 見える範囲の人数は多くないものの、誰一人として動きに迷いがなかった。二人が弓を構える間に、別の一人が火のついた容器を家の屋根へ投げる。容器が砕けた瞬間、粘りつく炎が木材の上へ広がった。


「走って!」


 エリリアが叫んだ。


 母たちが負傷者を支えながら中央へ向かい、フィリスも少女の手を掴んだ。


「こっち! 離れないで!」


 普段の眠たげな弟からは想像できないほど強い声だった。


 弓兵が次の矢を放つ。


 エリリアは細剣を抜き、刃先を横へ払った。


 短い風が矢の横腹へぶつかる。吹き飛ばすほどの力はなくても、飛翔中の軌道を僅かにずらすには十分で、矢は母たちの前ではなく道端の土へ突き刺さった。


 弓兵がすぐ二射目へ移る。


「早く!」


 エリリア自身も後退しながら、追ってくる男との距離を測った。


 一人が剣を抜いて走り込んでくる。


 体格では明らかに相手が上だった。


 正面から力で受ければ押し負ける。


 父との訓練で繰り返し聞かされた言葉が頭を過ぎった。


 相手が望んだ場所にいてくれると思うな。


 男の剣が振り下ろされる。


 エリリアは半歩だけ外へずれ、細剣の腹を相手の刃へ添えて、受け止めるのではなく横へ流した。相手の剣先が地面へ逸れた瞬間、細剣を返して手首へ浅く刃を走らせる。


 男が呻いた。


 エリリアは倒し切ろうとはせず、母たちが逃げる時間を稼ぐためだけに距離を取った。


「エリリア!」


 母の声が遠ざかる。


「今行く!」


 エリリアは燃え始めた屋根から落ちてくる火の粉を風で道の反対側へ流し、それから追手へ背を向けて家族の後を走った。


     ◇


 中央広場へ近づくほど、人の数が増えていった。


 村人たちは東へ続く道へ誘導され、負傷者と子供を先へ送りながら、戦える者だけが後方へ残って追手を防いでいる。


 広場へ着くと、母は支えてきた女性を手当てのできる者へ預けた。


「フィリス、子供たちから離れないで」


「うん」


 弟は少女の手を握ったまま周囲を見渡した。


「この子のお母さんは?」


「さっき一緒に来た人です」


 エリリアが答える。


「じゃあ大丈夫。一緒に逃げてるよ」


 フィリスは少女の顔を覗き込んだ。


 別の子供が泣きながら誰かの名前を呼んでいるのに気づくと、今度はそちらへ近づいた。


「誰を探してるの?」


「お兄ちゃん……」


「名前は?」


「ロア……」


「ロア。分かった。僕が覚えておく」


「見つけてくれる?」


 フィリスは一瞬だけ困った顔をした。


 それでも、できない約束はしなかった。


「見つけた人がすぐ分かるようにする。だから今はみんなと一緒に行こう」


 胸元から冊子を取り出し、震える手で名前を書き込む。


 エリリアはその姿を見てから弟の肩へ手を置いた。


「フィリス。その子たちをお願い」


「何?」


「私は父さんを探しに行きます」


 弟の顔から血の気が引いた。


「駄目だよ」


「すぐ戻れるようにします」


「それ、父さんも言った」


 エリリアは言葉を失った。


 フィリスは冊子を強く握っている。


「父さんもまだ戻ってきてない」


「だから探しに行くんです」


「僕も行く」


「駄目です」


「何で!」


「子供たちを置いていくんですか?」


 フィリスが振り返る。


 自分より幼い子供たちが何人もいた。泣いている者も、親とはぐれた者もいる。


 弟は唇を強く噛んだ。


 エリリアはその肩へもう一度触れた。


「あなたが必要です。ここに誰がいるのか覚えて、離れた人がいたら周りの大人に伝えてください」


「……僕が?」


「あなたならできます」


「姉さんは戻る?」


 父はまだ戻っていない。


 村のあちこちで炎が上がっている。


 エリリアには絶対などと言えなかった。


「戻れるようにします」


 フィリスは不安そうな顔のまま、それでも小さく頷いた。


「……分かった」


 エリリアは弟から手を離し、燃える西側へ向き直った。


     ◇


 父を探して避難の流れへ逆らうほど、煙は濃くなっていった。


 道の片側では既に家が燃えている。屋根が崩れるたびに火の粉が舞い、乾いた枝や木柵へ新しい炎が移っていく。


 エリリアは口元を袖で覆った。


 目が痛む。


 喉へ煙が入り、何度も咳が出る。


 それでも足を止めなかった。


 途中で負傷した村人を見つければ立たせ、中央へ向かうよう伝える。小さな炎が道を塞いでいる場所では、風で火を僅かに押し退け、数秒だけ通れる幅を作ることはできても、消し止めることまではできなかった。


「エリリア!」


 聞き覚えのある声に振り返る。


 母が別の負傷者を肩で支えながらこちらへ来ていた。


「母さん! どうして!」


「南側にも怪我人が残っていたの。あなたこそ何をしてるの!」


「父さんを探してる」


「エリリア」


「まだ戻ってない!」


 母は一瞬だけ言葉を止めた。


 支えていた負傷者を近くの村人へ預け、娘へ近づく。


「お父さんは西側へ行ったのね」


「うん」


「私はこの人たちを中央へ送る。あなたも――」


「父さんのところへ行く」


 母は娘を見つめた。


 止めようとしているのだと分かった。


 その時、少し先から鋭い怒鳴り声が響いた。


「下がれ!」


 剣がぶつかる音が続く。


 黒衣の男たちが村の守り手へ襲いかかっていた。


 その向こうに、エリリアは父の姿を見つけた。


「父さん!」


 アレストは数人の村人とともに道を塞いでいた。


 左腕の服が裂け、血が流れている。


 それでも右手の剣は下がらず、足取りも崩れていない。


「エリリア?」


 娘を見つけた瞬間、父の顔に明確な怒りが浮かんだ。


「なぜ来た!」


「戻ってこないから!」


「中央へ行け!」


「父さんも!」


 黒衣の男が踏み込む。


 アレストは会話を切り、横から来た剣を流した。返す刃で相手の肩口を斬り、すぐ次の敵へ向き直る。


 エリリアも細剣を抜いた。


「母さんは避難を――」


「エリリア!」


 父の声が強くなる。


「フィリスはどこだ」


「中央です。子供たちと一緒にいる」


「なら戻れ」


「でも――」


「お前が連れて行け」


 アレストはもう娘を見ていなかった。


 前方の森へ視線を向けている。


 エリリアも、その先を見た。


 炎の向こうから、一人の男が歩いてきた。


     ◇


 最初に目へ入ったのは髪だった。


 燃える木々とは違う、鮮やかな赤。


 長い髪を無造作に後ろへ流した男が、炎に照らされた道の中央をゆっくり歩いてくる。


 周囲の黒衣の者たちとは明らかに違っていた。


 顔を隠していない。


 急いでもいない。


 右手には幅広の剣があり、その刃の周囲を薄い炎が這っている。


 松明から燃え移ったような火ではなかった。男が剣を傾けるたび、炎そのものが刃へ従うように形を変えている。


 アレストの表情が硬くなった。


「下がれ」


 今度の言葉は娘だけでなく、周囲の村人たちにも向けられていた。


 赤髪の男が足を止める。


 その背後で、燃えていた家の屋根が崩れた。


 男は周囲へ一度だけ目を向ける。


「まだ残っていたか」


 静かな声だった。


 村が燃えているというのに、大声を出す必要すら感じていないような話し方だった。


 アレストが剣を構える。


「何のために森を焼く」


 男の口元が僅かに動いた。


「理由を聞けば、納得するのか?」


「しない」


「なら、聞く意味もないだろう」


 その軽さに、エリリアの背筋が冷えた。


 家が燃え、人が傷つき、森そのものが失われようとしているのに、この男だけが何も失っていないような顔をしている。


 アレストが低く言う。


「エリリア、行け」


「父さん」


「フィリスを連れて行け」


 エリリアは動かなかった。


 赤髪の男がこちらへ視線を向ける。


 炎を映した瞳が、ほんの一瞬だけエリリアを捉えた。


 興味を持ったようには見えない。ただ、そこにいるものを確認しただけの視線だった。


 その無関心さが、かえって恐ろしかった。


 アレストが一歩前へ出る。


「行け!」


 赤髪の男の剣から炎が膨らんだ。


 エリリアは反射的に風を起こした。


 押し寄せた熱気に呼吸が詰まる。炎そのものを消すことはできなくても、自分と母へ広がろうとした火の端を横へ押し、僅かな空間を作ることはできた。


「エリリア!」


 母が腕を掴む。


「行くわよ!」


「でも父さんが!」


 アレストが赤髪の男へ踏み込んだ。


 剣同士がぶつかる。


 次の瞬間、炎が大きく弾けた。


 エリリアは腕で顔を庇った。


 熱が露出した肌を刺す。


 風で火の粉を押し流してから前を見ると、父はまだ立っていた。


 袖は焦げている。


 それでも剣は下がっていない。


 アレストが一瞬だけ娘を見た。


「エリリア」


 その声は、不思議なほど落ち着いていた。


「剣だけになるな」


 エリリアの呼吸が止まった。


 花を育てたいと言った朝、父は好きな道を選べと言ってくれた。それでも、守りたいものを守れる力まで捨てる必要はないと教えた。


「父さん――」


「行け」


 母がエリリアの腕を引いた。


 今度は抗えなかった。


 二人は走り始める。


 後ろでは再び剣が激しくぶつかり、その直後に炎が爆ぜる音が重なった。


 エリリアは何度も振り返ろうとしたが、濃い煙が道を覆い、父の姿はすぐに見えなくなった。


     ◇


 中央へ戻る途中、銀白花の畑の近くを通った。


 昼間なら白い花が一面に広がり、祭りの夜には青白い光を纏って家族と並んで眺めた場所だった。


 その畑へ燃えた枝が落ちている。


 乾いた花弁へ炎が移り、一輪から隣の一輪へと驚くほど速く広がった。


「……花が」


 エリリアは足を止めかけた。


 母が腕を掴む。


「エリリア。今は行くの」


 風を使えば、目の前の炎を少し押し返せるかもしれない。数本なら燃えるまでの時間を延ばせるかもしれない。


 しかし畑の向こうでは家が燃え、さらに奥の木々まで赤く染まっている。どこへ風を送ればいいのか分からないほど、火は既に広がっていた。


 エリリアは細剣の柄を強く握り、母とともに走り出した。


 背後から、焼けた花と湿った土が混じる匂いが追ってきた。


     ◇


 中央広場へ戻ると、避難は既に進み始めていた。


「フィリス!」


 エリリアが叫ぶ。


 人の声が多すぎて、すぐには返事が聞こえない。泣き声や指示、咳、負傷者の呻きが重なり、広場そのものが揺れているようだった。


「フィリス!」


「姉さん!」


 右側から声が返る。


 弟が数人の子供たちと一緒に走ってきた。


 胸元には冊子が残っている。


「父さんは?」


 エリリアは答えられなかった。


 フィリスの表情が強張る。


「姉さん」


「行きます」


「でも父さん――」


「今は行くんです」


 思っていたより強い声が出た。


 弟が怯んだ。


 エリリア自身も胸が痛んだが、言い直している時間はない。


 母が周囲の子供たちを確認する。


「東へ移動するわ。走れる子は手を繋いで。怪我をしている人を先に通して」


 フィリスが冊子を取り出した。


「ロアのお兄ちゃん、まだ見つかってない」


「名前は覚えてる?」


 母が尋ねる。


「うん」


「なら忘れないで。向こうへ着いたら、まだ探している人がいるって伝えましょう」


 フィリスは冊子を見てから頷いた。


 エリリアは弟の肩を軽く押す。


「子供たちの真ん中へ」


「姉さんは?」


「後ろにいます」


「離れないでよ」


「できるだけ近くにいます」


 今回も、絶対という言葉は使わなかった。


 避難の列が東へ動き始める。


     ◇


 東へ続く道も安全ではなかった。


 火は森の外周からだけ広がっているわけではなく、投げ込まれた炎が屋根や木柵へ移り、風に煽られて新しい道を塞いでいる。


 エリリアは列の後方に近い位置を歩き、細剣を右手に持ったまま追手を警戒した。


 母は負傷者たちの間を動いている。


 フィリスは子供たちと一緒だ。


 横道から黒衣の男が二人現れた。


「前へ!」


 エリリアが叫ぶ。


 一人が剣を構えて走り、もう一人が弓へ矢を番える。


 エリリアは先に弓兵を見た。


 細剣を払う。


 地面の灰と砂が風に巻き上がり、弓兵の顔へ吹きつけた。


 放たれた矢が大きく狙いを外す。


 その間に剣の男が迫った。


 エリリアは一歩下がったが、相手の刃が左肩の近くを掠め、服と肌を浅く裂いた。


 熱い痛みが走る。


 傷は深くない。


 腕も動く。


 エリリアは相手の刃を細剣で外へ流し、そのまま踏み込んで太腿の外側を浅く斬った。姿勢を崩した相手を追撃せず、すぐ避難列へ戻る。


「エリリア!」


 母が叫ぶ。


「平気!」


 煙の中をさらに進む。


 東の外周までは遠くない。そこまで出れば木々の密度が下がり、森の外の斜面へ抜けられる。


 その時、前方で大きな木が軋んだ。


「止まって!」


 誰かが叫ぶ。


 炎に包まれた大木が、避難路へ向かって倒れ始めていた。


 人々が左右へ逃げる。


 エリリアは前へ出て風をぶつけた。


 巨木そのものを押し戻すことはできない。それでも倒れる方向を僅かにずらしたことで、大木は避難列の中央ではなく道を斜めに塞ぐ形で落ちた。


 激しい衝突音とともに枝が砕け、火の粉と煙が一気に舞い上がる。


 エリリアは腕で顔を覆った。


 視界が消える。


「フィリス!」


「姉さん!」


 返事は煙の向こうから聞こえた。


 倒れた大木が道を二つに分断している。


 エリリアと母、それに負傷者数人はこちら側に残り、フィリスと子供たち、避難列の先頭にいた者たちは既に向こう側へ出ていた。


「そのまま東へ行って!」


 エリリアが叫ぶ。


「姉さんは!?」


「回って追いつく!」


「嫌だ!」


「フィリス!」


 煙の隙間から弟の姿が見えた。


 小さな子供が彼の服を掴んで泣いている。


 後方から黒衣の者たちの声も近づいていた。


「止まるな! 先へ行け!」


 こちら側の村人が叫び、向こうでも大人たちが子供たちを前へ進ませようとしている。


「姉さん!」


 フィリスがこちらへ戻ろうとする。


 エリリアは強く首を横へ振った。


「子供たちと行って!」


「でも!」


「あなたが必要なんでしょう!」


 弟の動きが止まった。


 広場で伝えたのと同じ言葉だった。


 フィリスは泣きそうな顔で姉を見た。


「追いついてよ!」


「行って!」


 向こう側の村人がフィリスの肩を掴む。


 避難の流れが再び動き始めた。


 弟は何度も振り返りながら、煙の奥へ遠ざかっていく。


 エリリアは大木の脇を回ろうとしたが、燃え広がった枝が道を塞いでいた。風で炎を押しても、別の隙間からすぐ新しい火が立ち上がる。


「エリリア!」


 母の声で振り返る。


 後方から矢が飛び、大木へ突き刺さった。


「今はこっち!」


「フィリスが!」


「向こうには大人がいる!」


「でも!」


「ここにいる人たちも動けないの!」


 母の後ろには、脚を負傷した女性と老人がいた。


 さらに向こうからは黒衣の男たちが迫っている。


 エリリアには選べる道がなかった。


 歯を食いしばり、燃える大木から離れた。


     ◇


 東側の斜面へ抜けるまで、どれほど走ったのか分からなかった。


 煙を吸い込んだ喉は焼けるように痛み、何度も咳が出た。左肩の浅い傷も動くたびに熱を持つ。それでもエリリアは負傷者の腕を取り、母とともに歩き続けた。


 やがて木々の密度が薄くなり、煙の向こうに空が見えた。


「外です!」


 先を歩く村人が叫ぶ。


 森を抜けた先には緩い斜面が広がり、そのさらに先へ低い岩場が続いている。既に何十人もの村人がそこへ逃れていた。


 エリリアは人々の間を見渡した。


「フィリス!」


 答えはない。


 子供たちを探す。


 先ほど一緒にいた少女はいる。


 別の子供もいる。


 しかし弟の姿だけが見つからなかった。


「フィリスは?」


 エリリアは近くの男へ尋ねた。


「途中まで一緒だった。倒木の向こうから来た子たちだろ?」


「はい」


「斜面へ出る手前で別の火が回ってきた。何人か北へ避けたんだ」


「北へ?」


「煙で列が分かれた。ここにいないなら、そっちへ行ったかもしれない」


 エリリアはすぐ北へ向かおうとした。


 母が腕を掴む。


「待って」


「フィリスがいない!」


「分かってる」


「探しに行かないと!」


「今戻ったら、あなたまで動けなくなる!」


「離して!」


 エリリアは初めて母の手を振り払った。


 数歩走ったところで、森の中央付近から異様な赤い光が膨らんだ。


 足が止まる。


 普通の炎とは明らかに違う巨大な火が、木々の上まで一気に噴き上がる。遅れて轟音が斜面まで届き、その周囲の樹冠が次々と赤く染まっていった。


 エリリアは、その色を知っていた。


 少し前まで父の前に立っていた赤髪の男の剣にまとわりついていた炎と、同じ色だった。


「父さん……」


 声が掠れた。


 母が再び隣へ来る。


 今度は腕を強く引かなかった。


 ただ、娘のそばに立っていた。


「フィリスも、向こうにいるかもしれない」


 エリリアが言う。


「分かってる」


「だったら――」


 森の端で大きな音がした。


 燃えた木々が次々と倒れている。


 逃げてきた村人たちがさらに斜面を下り始めた。


「火が回るぞ!」


「もっと離れろ!」


 声が広がる。


 父はまだ戻らず、フィリスの姿も見えない。それでも母は、今ここにいる負傷者や生き残った者たちを火から遠ざけなければならなかった。


「今は生きて離れるの」


 母が言った。


「でもフィリスが!」


「生きていなければ探しにも戻れない!」


 エリリアは母の目を見た。


 そこにも、自分と同じ恐怖があった。


「……分かった」


 それしか言えなかった。


     ◇


 生き残った者たちは、森からさらに離れた岩場へ向かった。


 歩けない者は肩を貸され、子供たちは何度も後ろを振り返る。


 エリリアも同じだった。


 一歩進むたびに振り返った。


 フィリスがどこかから走ってくるのではないかと思った。


 父が森から出てくるかもしれないと思った。


 しかし、現れるのは別の避難者ばかりだった。


 途中で母は、歩けなくなった女性と老人を支えるために足を止めた。


「エリリア、先へ行って」


「母さんも一緒に」


「この人たちを連れていく。あなたは先で人数を確かめて」


「でも――」


「フィリスが向こうへ着いているかもしれないでしょう」


 弟の名前を聞き、エリリアは言葉を止めた。


 少し先には既に多くの避難者が集まっている。


「……分かった。向こうで待ってる」


「ええ。行って」


 エリリアは何度も振り返りながら岩場へ走った。


 母の姿は、負傷者たちと後続の避難者の中へ次第に紛れていった。


     ◇


 斜面の上から見たセレネアは、もう朝を迎える森には見えなかった。


 夜空の下で、木々の間を無数の炎が走っている。


 家々の屋根は赤く染まり、広場のあった方向から黒い煙が立ち昇る。銀白花の畑があった東側にも火が広がり、祭りの夜には淡く光っていた白い花の場所が、不自然なほど強い橙色に染まっていた。


 エリリアは生き残った人々の間を歩き続けた。


「フィリスを見ませんでしたか」


 首を横へ振られる。


「銀色の髪で、私より小さくて、子供たちと一緒にいたんです」


 知らないと言われる。


「小さな冊子を持っていて――」


 返事は変わらない。


 一緒に逃げてきた子供たちにも尋ねた。


「フィリスは?」


「途中まで一緒だった」


「どこで?」


「煙のところ……」


「その後は?」


「分かんない……」


 母の姿も見つからなかった。


 後続の避難者へ尋ねても、負傷者を支えていたところまでは見たという者と、その後は分からないという者しかいない。


 エリリアは北側へ向かおうとした。


 村の守り手の一人が前へ立つ。


「駄目だ」


「弟が戻ってない。母さんもまだ来てない」


「今は入れない」


「まだ生きてるかもしれない!」


「だからこそ待て! 今入ったらお前も戻れなくなる!」


「待ってたら――!」


 言葉の先が出なかった。


 自分でも分かっている。


 あの炎の中へ戻って、何ができるのか。


 風で押し退けられる程度の火は、もうどこにも残っていない。


 森全体が燃えている。


「行かせて」


「行かせられない」


「父さんも、母さんも、フィリスもどこにいるか分からないんです!」


 叫んだ瞬間、煙を吸った喉が痛み、声が掠れた。


 男は何も言わなかった。


 ただ、エリリアが炎の中へ戻ろうとするのを止めていた。


 遠くで巨木が倒れた。


 森の中央で長く目印になっていた大きな樹冠が火の中へ傾き、周囲の木々を巻き込みながら崩れていく。


 振動が斜面の上まで伝わってきた。


 エリリアは燃える森を見つめた。


 家がどこにあったのか、もう分からない。


 花畑がどこまで続いていたのかも見分けられない。


 祭りの広場も、父と剣を振った訓練場も、フィリスを毎朝起こしに行った二階の窓も、炎と煙の向こうへ飲み込まれていた。


 父も、母も、フィリスも、今どこにいるのか分からない。誰一人として最期を見届けたわけではなかったからこそ、まだどこかで探せるような気がしてしまう。


 セレネアを包む炎の向こうで、あの異様な赤い光がもう一度大きく揺れた。


 エリリアはその色から目を逸らせなかった。


 夜明けにはまだ早い。


 それなのに空の下半分は、燃え続ける森によって朝よりも赤く染まっていた。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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