第一章 第三十一話 焼かれる前の森
朝露が葉の先から落ちる音で目を覚ますことがあった。
セレネアの森では、夜が明けたからといって急に世界が明るくなるわけではない。何層にも重なった枝葉の隙間から淡い光が少しずつ差し込み、眠っていた森の輪郭をゆっくりと浮かび上がらせていく。遠くで最初の鳥が鳴き、その声に応えるように別の木からもさえずりが返る。湿った土の匂いと、夜の冷たさを残した風が窓から入り込み、それからようやく家々の扉が開き始める。
エリリアにとって、それは特別でも何でもない、いつもの朝だった。
「フィリス。朝ですよ」
二階の奥にある小さな部屋の扉を叩いたが、返事はない。
エリリアはもう一度叩いた。
「フィリス」
「起きてる……」
扉の向こうから、布団に顔を埋めたまま出したとしか思えない声が返ってくる。
「起きている人は扉を開けられます」
「目は覚めてる」
「身体も起こしてください」
「身体はまだ眠い」
「便利ですね、その言い訳」
中から返事がなくなった。
エリリアは少し待ってから取っ手へ手を掛ける。
「入りますよ」
「待って」
「起きますか?」
「あと少し」
「では入ります」
「姉さん横暴!」
扉を開けると、弟のフィリスは布団を頭まで被ったまま、寝台の中央で丸くなっていた。淡い銀色の髪だけが枕の端からはみ出している。
エリリアは窓辺へ行き、木製の雨戸を開いた。
朝の光と冷たい風が部屋へ入る。
「寒い!」
「朝ですから」
「閉めて」
「起きたら」
「姉さん、絶対いい人になれないよ」
「朝食を食べないなら、母さんにそう伝えておきます」
布団の中の動きが止まった。
「今日、何?」
「何がですか」
「朝ごはん」
「蜂蜜を塗ったパンを焼くと言っていました」
次の瞬間、布団が勢いよく剥がされた。
「起きた」
「見れば分かります」
フィリスは寝癖のついた髪のまま寝台から降りる。
「最初から言ってよ」
「食べ物がないと起きない弟に育てた覚えはありません」
「姉さんは僕を育ててないでしょ」
「なら、母さんに最初から育て直してもらいましょうか」
「それは嫌だな」
「なぜです?」
「また子供からやるの面倒だから」
真顔で答える弟を見て、エリリアは呆れながらも笑った。
◇
一階へ下りると、焼いたパンの香りが家の中へ広がっていた。
「ようやく起きたの?」
母が振り返る。
「僕は前から起きてたよ」
「布団の中で?」
「そう」
「それは寝ていると言うのよ」
「母さんまで姉さん側だ」
フィリスは不満そうな顔をしたまま食卓へ向かった。
窓際の小さな卓には、焼いたパンと果実、それに朝摘んだ香草を入れた温かな飲み物が並べられている。蜂蜜の壺を見つけた瞬間、フィリスの機嫌はほとんど元へ戻っていた。
「父さんは?」
エリリアが尋ねる。
「朝の訓練よ。もう戻ると思うけれど」
母が答え終えるのとほとんど同時に、外から扉が開いた。
入ってきた父アレストは細身の剣を腰へ下げ、額に薄く汗を浮かべていた。朝早くから村の若い者たちへ剣を教えていたらしい。
「おかえり」
エリリアが言う。
「ああ」
父は短く答えた後、フィリスを見る。
「今日は起きているな」
「いつも起きてるよ」
「昨日は朝食が終わる頃まで寝ていた」
「昨日は特別」
「一昨日もだ」
「一昨日も特別」
アレストはしばらく息子を見つめた。
「毎日特別なら、それが普通ではないのか」
フィリスが黙る。
母が堪えきれず笑い、エリリアも口元を押さえた。
「父さんまで」
弟は蜂蜜を塗ったパンを齧りながら、不満そうに呟いた。
アレストは剣を壁際へ立て掛け、ようやく席につく。
厳しい顔をしていることが多い父だったが、家の中でまで常に険しいわけではない。多くを話さなくても、家族が同じ食卓へ揃う時間を大切にしていることをエリリアは知っていた。訓練が長引いても、よほどの事情がない限り朝食には戻ってくる。
それもまた、エリリアにとっては当たり前の日常だった。
◇
朝食の後、エリリアは父と家の裏へ出た。
森の中でも比較的木々の間隔が広い場所に、踏み固められた小さな訓練場がある。
「昨日の続きだ」
アレストが木剣を投げる。
エリリアは右手で受け取った。
「今日は花畑を手伝う約束があります」
「知っている。だから朝のうちに終わらせる」
「父さんの『終わらせる』は長いんです」
「無駄を減らせば短くなる」
「私のせいですか」
「半分は」
「残りは?」
「私だ」
予想していなかった返事に、エリリアは一瞬だけ言葉を失った。
「認めるんですね」
「事実を否定する理由はない」
父は自分の木剣を構える。
「来い」
エリリアも姿勢を整えた。
アレストの剣は速かった。
力で押し切るのではなく、相手の姿勢が崩れる位置へ正確に刃を置く。エリリアが踏み込むと僅かに横へずれ、木剣の先でこちらの軌道だけを外した。
乾いた音が森へ響く。
エリリアはすぐに構え直す。
「今のは?」
「前へ出ることしか考えていない」
「父さんが下がるからです」
「相手が望んだ場所にいてくれると思うな」
「分かってます」
「分かっているなら、次で直せ」
再び木剣が交わる。
アレストは容赦こそしないが、娘を打ちのめすために教えているわけでもなかった。何度失敗しても、どこで身体の向きが崩れたのか、どの足へ体重を残せばよかったのかを短い言葉で示す。
エリリアは幼い頃から剣を教わってきた。嫌いではなく、むしろ周囲より覚えるのは早かったし、剣を振っている最中は余計なことを考えずに済んだ。
ただ、それを生涯の仕事にしたいと思ったことはなかった。
一時間も経たないうちに、父が木剣を下げた。
「今日はここまでだ」
エリリアは少し驚いた。
「本当に?」
「花畑へ行くのだろう」
「……はい」
「なら行け」
父から受け取った布で汗を拭きながら、エリリアは少し迷った。
「父さん」
「何だ」
「私が、村の戦士にならないと言ったらどうしますか」
アレストの表情は変わらなかった。
「ならないのか」
「まだ決めてはいません。でも、剣だけをやりたいわけじゃありません」
「何をしたい」
エリリアは森の奥へ目を向けた。
木々の向こうには、銀白花を育てる広い畑がある。
「花を育てたいです」
「銀白花を?」
「はい」
アレストはすぐには答えなかった。
エリリアは父が反対する可能性も考えていた。彼は村の守りを担い、娘にも幼い頃から剣を教えてきた。周囲からも、いずれ父と同じ道を選ぶのだろうと思われている。
しかしアレストが口にしたのは、予想とは違う言葉だった。
「なら育てればいい」
エリリアが瞬きをする。
「いいんですか?」
「なぜ駄目だと思った」
「父さんは、私に剣を――」
「剣を捨てろとは言っていない」
アレストは木剣を肩へ担ぐ。
「花を育てる者が剣を持ってはいけない理由もない」
「でも、どちらかに決めろと言われるかと」
「誰に」
「父さんに」
アレストは少し眉を寄せた。
「私はそんなに頭が固く見えるのか」
「少し」
「そうか」
否定しないらしい。
エリリアは思わず笑った。
父は訓練場の端へ歩きながら続ける。
「何を仕事にするかは自分で決めろ。ただし、守りたいものがあるなら、それを守れるだけの力まで捨てる必要はない」
足を止め、娘を見る。
「剣が好きでなくても構わない。だが、お前には使える。それを無かったことにする必要もない」
エリリアは木剣を見下ろした。
「花も、剣も?」
「好きにしろ」
「父さんらしくないですね」
「どういう意味だ」
「もっと『修行が足りない』とか言うと思ってました」
「それは事実だ」
「やっぱり言うんですね」
「明日も朝からやる」
「さっきの話で少し感動したのに」
「それとこれとは別だ」
アレストは何でもない顔で家の方へ戻っていく。
エリリアはその背中を見てから、木剣を抱えて笑った。
◇
銀白花の畑は、村の東側に広がっていた。
細い茎の先に咲く白い花は、陽の光を受けると薄く銀色を帯びる。昼と夜で色そのものが大きく変わるわけではないが、月明かりの下では花弁の縁が青白く浮かび、畑全体が淡い光を纏っているように見えた。
エリリアはその景色が好きだった。戦うためでも、守るためでもなく、ただ季節が巡るたび芽を出し、花を咲かせ、種を残すものと向き合う時間が好きだった。
「そこ、日陰を作りすぎないでね」
母の声がした。
エリリアは若い株の上へ広げようとしていた布を少し戻す。
「昨日の陽が強かったから」
「だからって守りすぎると茎が細くなるの。少しくらい風にも陽にも当てないと」
「枯れたら?」
「その時は原因を見て、次に生かす」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないわよ」
母は隣の列へしゃがみ、土の湿り具合を指で確かめた。
「だから毎日見るの。昨日と同じように見えても、本当は少しずつ違うから」
エリリアも同じように土へ触れた。
表面より下にはまだ水分がある。
「今日は水、少なめ?」
「そうね。夕方に様子を見てからでいいと思う」
「分かった」
母は立ち上がり、娘が整えた花の列を眺めた。
「本当にここで働きたいの?」
「うん」
「剣は?」
「続ける」
「お父さんが言った?」
「花を育てるなら育てろ。でも剣は捨てなくていいって」
母が少し笑う。
「お父さんらしいわね」
「もっと反対されると思ってた」
「反対する理由がないもの」
「ずっと剣を教えてたのに?」
「教えたことを仕事にしなさいなんて、お父さんは一度も言ってないでしょう」
言われてみれば、その通りだった。
エリリアは勝手に期待されていると思い込んでいただけなのかもしれない。
「私、ここをもっと広くしたい」
エリリアが畑の向こうを見る。
「北側にも銀白花を植えて、祭りの時だけじゃなくて、もっと色んな人が見に来られるようにしたい」
「忙しくなるわよ」
「分かってる」
「朝も早い」
「フィリスよりは起きられる」
「それと比べるなら、村のほとんどの人が働けるわね」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇
その年の銀白花祭は、例年より少しだけ賑やかだった。
村の中央には白い布が渡され、花畑から摘まれた銀白花が家々の入口へ飾られていた。料理を持ち寄る家族もいれば、楽器を持ち出す者もいる。子供たちは昼間から走り回り、大人たちはそれを止めるふりだけして自分たちも楽しんでいた。
「姉さん、緊張してる?」
フィリスが聞いた。
「してません」
「してる顔だよ」
「あなたに私の何が分かるんですか」
「弟だから」
「便利な言葉ですね」
祭りの夜、エリリアは村に伝わる剣舞を任されていた。
戦うための剣術とは違う。
刃のない儀礼用の細剣を使い、音楽に合わせて舞う。銀白花が最も美しく見える季節を祝い、次の一年の平穏を願うためのものだった。
「転ばないでね」
フィリスが言う。
「縁起でもないことを言わないでください」
「転んだら記録に残す」
「何の記録ですか」
「今年の祭り」
フィリスは小さな冊子を得意げに見せる。
最近、彼は何かあるたびに文章を書き残すようになっていた。
「去年の祭りも書いたの?」
「もちろん」
「見せて」
「嫌」
「なぜです?」
「姉さんのことも書いてあるから」
「余計に見せてください」
「絶対嫌」
フィリスは冊子を服の中へ隠す。
「何を書いたんですか」
「秘密」
「今なら怒りません」
「その言い方する人は絶対怒る」
「フィリス」
「ほら、もう声が怖い」
逃げようとした弟の襟を掴む前に、後ろから母が笑った。
「エリリア、そろそろよ」
「……後で話しましょう」
「祭り終わったら僕寝るから」
「起こします」
「怖い姉だ」
フィリスは笑いながら人混みへ逃げていった。
広場では楽器の音が始まっている。
エリリアは息を整え、儀礼用の剣を持って中央へ出た。
周囲の灯りが少し落とされる。
銀白花の白い花弁が風に揺れる。
最初の一歩を踏み出した瞬間、緊張は消えた。
父から教わった剣とは違っても、身体の軸や足の運びには同じものがある。刃を振り切らず、音へ合わせて止め、次の動きへ流す。
白い袖が揺れ、細剣の先が灯りを反射する。
最後の動きを終えた時、広場から大きな拍手が上がった。
エリリアは頭を下げる。
人々の中に家族を見つけた。
母は笑っている。
フィリスは誰より大きく手を叩いていた。
その横で父アレストだけは、いつもと変わらない顔をしている。
祭りが落ち着いた後、エリリアは父を捕まえた。
「どうでした?」
「何がだ」
「剣舞です」
「見ていた」
「感想は?」
アレストは少し考えた。
「悪くなかった」
「それだけ?」
「何が必要だ」
「もう少し何かあるでしょう」
「足運びは安定していた。剣先も乱れていない。最後だけ僅かに右へ重心が寄った」
「祭りの剣舞まで訓練みたいに見るんですか」
「感想を聞いたのはお前だ」
隣で聞いていた母が笑っている。
「お父さん、すごく良かったって言ってるのよ」
「どこがです?」
「『悪くなかった』は相当よ」
エリリアが父を見る。
アレストは否定しなかった。
「……分かりにくい」
「そうか」
「少しは直してください」
「考えておく」
その返事を聞いた母がさらに笑い、フィリスも横から口を挟んだ。
「僕、ちゃんと記録したよ。父さんが『悪くなかった』って言ったって」
「それは残さなくていいです」
「大事な歴史だよ」
「どこがですか」
「父さんが姉さんを褒めた日」
「普段も褒めている」
アレストが言う。
三人が一斉に父を見る。
「いつ?」
エリリアが尋ねる。
「必要な時に」
「覚えてない」
「僕も」
「私もあまり……」
母まで加わると、さすがにアレストも僅かに眉を寄せた。
フィリスは楽しそうに冊子へ何かを書き込んでいる。
「今のも残す」
「やめてください」
家族の笑い声は、祭りの音の中へ溶けていった。
◇
祭りが終わった後も、フィリスの記録好きは続いた。
彼が書くのは大げさな出来事ばかりではない。
誰の家で新しい子供が生まれたか。
今年最初に銀白花が咲いた日はいつだったか。
祭りで誰がどの料理を作ったか。
父が訓練中に珍しく冗談を言ったこと。
母が蜂蜜を入れすぎてパンを焦がしたこと。
そして、姉が朝から弟の布団を剥いだ回数まで、本人が必要だと思えば何でも書いた。
「そんなものを残して、誰が読むんですか」
ある夕方、エリリアは花畑の端に座る弟へ尋ねた。
フィリスは冊子から顔を上げる。
「未来の人」
「何百年後ですか」
「そこまでは分からないけど」
「未来の人は、あなたが朝起きなかったことなんて知りたくないと思います」
「分からないよ」
「分かります」
「姉さんは長く生きるから、何でも覚えてられると思ってるでしょ」
「全部とは言ってません」
「でも忘れるよ」
フィリスは冊子を閉じた。
「長く生きてても、昔の細かいことって忘れるんだって。誰かが言ってた」
「誰です?」
「村のおじいさん」
「候補が多すぎます」
「一番髭が長い人」
「ああ」
それなら分かった。
フィリスは花畑を見る。
「大きな戦いとか、昔の偉い人のことは皆ちゃんと残す。でも、祭りで何食べたとか、誰が何言って笑ったとか、そういうのは誰も書かないでしょ」
「普通は必要ないからでは?」
「僕は必要だと思う」
弟は真面目な顔をしていた。
「だって、そういうのが無かったら、昔の人が本当に生きてた感じしないじゃん」
エリリアは少しだけ驚いた。
普段は朝食と昼寝ばかり考えているように見える弟が、時々こんなことを言う。
「記録を残す仕事をしたいんですか?」
「うん。昔のことも調べたいけど、今のことも書きたい」
「起きられますか?」
「仕事なら起きる」
「信用できません」
「姉さんひどい」
「実績がありますから」
フィリスは頬を膨らませた後、また冊子を開いた。
「じゃあ今のも書く」
「何を?」
「姉さんが僕の夢を信用しなかった」
「そういう書き方はずるいでしょう」
「記録だから」
「訂正を要求します」
「記録する人に圧力かけるのよくないと思う」
「フィリス」
「ほら、怖い」
弟は笑いながら立ち上がり、冊子を抱えて逃げた。
エリリアも追いかける。
銀白花が風に揺れ、二人の足元で白い花弁が何枚か舞い上がった。
◇
季節が少し進んだ頃、最初の違和感が現れた。
朝、鳥の声が減った。
最初に気づいたのは母だった。
「今日は静かね」
食卓でそう言われても、エリリアはすぐには意味を理解しなかった。
「雨でも降るんじゃない?」
フィリスが蜂蜜を塗りながら言う。
「空は晴れているわ」
「鳥も休みたい日あるよ」
「あなたと一緒にしないの」
「僕はちゃんと起きた」
「今日はね」
いつも通りの会話だった。
その日は昼になると何羽かの鳥が戻り、森にも普段の音が戻ったため、誰も深刻には考えなかった。
だが数日後、今度は虫の声が減った。
銀白花の畑では普段なら小さな羽虫が飛び、花の間を忙しく動き回っている。それが目に見えて少ない。
「虫いないならいいんじゃない?」
フィリスは喜んでいた。
「僕、あいつら嫌いだし」
「花には必要です」
エリリアが答える。
「全部じゃないでしょう」
「全部いなくなったら困ります」
「じゃあ花畑にだけいればいい」
「そんな都合よく分かれてくれません」
エリリアはそう言いながらも、少し気になった。
母も同じらしく、花の間を確認する時間が増えている。
その日の夕方、父アレストは普段より遅く帰ってきた。
「何かあった?」
母が尋ねる。
「西側の見回りを増やした」
「どうして?」
「鹿の群れが移動している」
エリリアが父を見る。
「季節には早くない?」
「ああ」
「何かから逃げてる?」
「分からない」
アレストは曖昧なことを口にするのを嫌う人だった。
だからこそ、「分からない」という返事がエリリアには不安に感じられた。
「村の外で何か見つかったんですか」
「今のところ何もない」
「なら――」
「何も見つかっていないことと、何もないことは同じではない」
父の声は落ち着いていた。
「しばらく森の奥へ一人で入るな。花畑も、夕方までには戻れ」
「分かりました」
フィリスが少し不満そうに言う。
「僕も?」
「お前は普段から一人で奥へ行くな」
「何で僕だけいつもみたいな扱いなの」
「前に道へ迷ったからだ」
「一回だけ」
「二回だ」
「二回とも戻れた」
「村の者に連れ戻された」
フィリスは黙った。
いつものやり取りなのに、母は笑わなかった。
そのことの方が、エリリアには気になった。
◇
数日のうちに、森の変化は誰にでも分かるようになった。
鳥は明らかに減っていた。
早朝に響いていたさえずりは数えるほどになり、昼間も木々の上を飛ぶ影が少ない。
虫の羽音も消えていく。
夕方になると巣へ戻っていた小動物の姿まで見かけなくなった。
村の外周に立つ者が増えた。
父も家を空ける時間が長くなる。
それでも村人たちは生活を止めなかった。
食事を作り、花の世話をし、子供たちは遊び、訓練も続ける。
何が起きているのか分からない以上、日々を全部捨てて怯え続けることもできなかった。
エリリアも朝は剣を振り、昼は銀白花の世話をした。
ただ、作業の途中で何度も森へ顔を上げるようになった。
以前なら意識する必要さえなかった音が、ない。
枝から枝へ移る鳥の羽ばたきや、草の中を走る小さな獣、花の近くで鳴く虫の気配が、少しずつ森から失われていた。風が吹けば葉は揺れ、木々そのものが消えたわけではないのに、森を森らしくしていた何かだけが静かに抜け落ちていくようだった。
「姉さん」
夕方、フィリスが花畑へ来た。
「何です?」
「父さん、今日も遅いって」
「母さんから聞きました」
「見回り?」
「たぶん」
フィリスは珍しく冊子を持っていなかった。
「何かいるのかな」
「分かりません」
「父さんも?」
「何も見つかってないって」
フィリスは森の奥を見る。
「何もいないのに、動物だけ逃げるの変だよね」
エリリアも同じ方向を見る。
「だから調べてるんでしょう」
「姉さん、怖くない?」
少し迷ってから、エリリアは答えた。
「怖いですよ」
「言うんだ」
「怖くないと言えば安心しますか?」
「しない」
「なら嘘をつく意味はないでしょう」
フィリスは少し笑った。
「父さんみたい」
「それは褒めてます?」
「半分くらい」
「残りは?」
「姉さん」
「答えになってません」
それでも、弟の表情は少しだけ和らいだ。
◇
その夜、エリリアは一度眠りについた後、理由も分からないまま目を覚ました。
部屋は暗く、窓から入る月明かりだけが床へ細く落ちている。
何か音がしたわけではない。
むしろ逆だった。
音がしなかった。
エリリアは寝台から身体を起こした。
夜の森では、完全な静寂などほとんどない。風が枝を揺らし、虫が鳴き、遠くで夜鳥が声を上げる。小さな獣が落ち葉を踏むこともあれば、木の実が地面へ落ちる音もする。
今は風の音しか聞こえなかった。
それも、木々の上を通り過ぎる低い音だけだった。
窓を少し開ける。
冷たい空気が入ってくる。
エリリアは耳を澄ませたが、虫の声も、夜鳥の鳴き声も、落ち葉を踏む獣の気配も、何一つ聞こえなかった。
その時、扉が小さく叩かれた。
「姉さん」
フィリスの声だった。
エリリアはすぐ扉を開ける。
弟は寝間着のまま廊下に立っていた。
「どうしました?」
「……聞こえる?」
何を、と尋ねる必要はなかった。
「何も聞こえません」
「やっぱり?」
「あなたも、それで起きたんですか」
フィリスは頷いた。
「いつも虫うるさいのに、今日全然いない」
弟の声は小さかった。
二人で階下へ降りる。
居間には既に灯りがついていた。
父アレストが剣帯を腰へ巻き、細剣を確かめている。
母も起きていた。
エリリアとフィリスが入ってくると、父はこちらを見た。
「起きたか」
「森が静かです」
エリリアが言う。
「ああ」
「何か分かった?」
「まだだ」
アレストは鞘の位置を直す。
「今夜は二人とも外へ出るな」
「父さんは?」
「外周を見てくる」
「私も――」
「駄目だ」
即答だった。
「でも剣なら使えます」
「だからといって、何がいるかも分からない場所へ出す理由にはならない」
エリリアは言い返そうとしたが、父の表情を見て止めた。
普段の訓練で見せる厳しさとは違う。
アレスト自身にも、何が起きているのか分かっていない。
だから警戒している。
「戸を閉めておけ」
父が言った。
「誰か来ても、声を確認するまで開けるな」
「……分かりました」
「フィリスもだ」
「うん」
アレストは二人を見てから、最後に母へ視線を向けた。
短く頷き合う。
そして扉を開け、夜の森へ出ていった。
戸が閉じる。
エリリアは窓辺へ向かった。
月明かりの下には、見慣れた森が広がっている。
木々の位置も、家々の屋根も、遠くの銀白花畑も、昨日までと何も変わっていないように見えた。
それなのに、聞こえてくるはずのものだけが消えている。
フィリスが隣へ立つ。
「姉さん」
「はい」
「これ、戻るよね」
エリリアはすぐに答えることができなかった。
窓の外では風が木々を揺らしていた。
葉は確かに動いている。
けれど、その夜のセレネアの森からは、長い年月をそこで生きてきたエリリアでさえ一度も聞いたことのないほど、深く不自然な静けさが広がっていた。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
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