第一章 第三十話 夜営の火
最後の陽が岩壁の向こうへ消えきる前に、三人は夜を越す準備を始めた。
岩陰は奥行こそ深くなかったが、頭上を大きく張り出した岩が覆い、背後と片側も厚い石壁に守られている。入口側だけが細い点検路へ開いているため、完全に安全な場所とは言えないものの、裂谷の途中で夜を迎えるには十分だった。アイリとエリリアが横になれそうな場所から尖った小石を取り除いている間に、レンは入口から少し奥まった地面を確認し、火を置けそうな浅い窪みを選んだ。
「本当に火、つける?」
アイリが尋ねた。
レンは岩陰の外へ目を向ける。日暮れとともに裂谷から色が急速に失われ、少し離れた岩肌さえ灰色の影へ沈み始めていた。昼間は遠くまで見えていた上空にも、今は飛翼獣の姿がない。谷底から届いていた魔物たちの声も、ここまで離れてからはほとんど聞こえなくなっている。
「大きくしなければいいと思う」
レンが答えると、エリリアも入口から外を確かめながら頷いた。
「暖を取らない方が危険です。ただ、外から目立つほど明るくする必要はありません。火は奥へ寄せて、入口から直接見えにくくしましょう」
「じゃあ、小さくね」
三人は明るさが残っているうちに、岩陰から離れすぎない範囲で乾いた枝や枯れ草を集めた。裂谷の高い場所には大きな木こそほとんど生えていなかったが、岩の隙間へ吹き込んだ古い枝や、乾ききった低い灌木の残骸なら見つかる。夜のために必要な量だけを拾い、長く周囲を歩き回ることはしなかった。
レンが少し太い枝へ手を伸ばしたところで、すぐ後ろからアイリの声が飛んだ。
「それ置いて」
「まだ持ってないだろ」
「今から持とうとした」
アイリは左手に細い枝を抱えたまま、じっと兄を見ている。
「これくらいなら右手で持てる」
「右手じゃなくて脚の話。戻る時に足取られたら痛むでしょ」
「枝一本でそこまで言われる?」
「今日は言う」
レンは助けを求めるようにエリリアを見る。
「どう思う?」
「アイリの言う通りです」
「味方がいない」
「昼間に決めたでしょう。持てる分だけ持つ、と」
エリリア自身も、擦れた手のひらへ負担を掛けないよう細い枝だけを選んでいる。
レンは諦めて足元の軽いものを拾った。
「三人とも面倒だな」
「お兄ちゃんが一番面倒」
「否定は難しいですね」
「エリリアまで」
そんなやり取りをしながら岩陰へ戻った頃には、空に残っていた明るさもかなり薄くなっていた。
◇
乾いた草へ火種を移すと、小さな炎が生まれた。
橙色の光が草の端を舐め、やがて細い枝へ燃え移っていく。その様子を見つめていたレンの手が、ほんの僅かに止まった。
目の前にあるのは、手のひらで覆えてしまいそうなほど小さな火だった。家を飲み込む炎でもなければ、夜空を赤く染める火でもない。それでも一瞬だけ、焼け落ちる梁の音と、息を吸うたびに喉へ入り込んだ煙の匂いが記憶の底から浮かびかけた。
レンは細い枝を一本、炎の脇へ加えた。
「お兄ちゃん?」
「ん?」
「手、止まってた」
「火加減見てただけ」
アイリは何かを言いかけたが、結局それ以上は聞かなかった。彼女自身も同じ火を静かに見ている。
レンには、その横顔だけで十分だった。
二人とも同じ夜を覚えている。火の色も、煙も、その向こうで失ったものも、説明しなくても互いに分かっていた。
少し離れたところでは、エリリアが水筒と食料を取り出していた。火が安定したところで顔を上げた彼女の淡い瞳も、一瞬だけ炎を越えて遠い何かを見るように揺れる。
レンはそれに気づいたものの、何も尋ねなかった。
「これくらいでいい?」
アイリが炎を指差す。
「十分です」
エリリアの視線はすぐ現在へ戻った。
「これ以上大きくすると燃料も無駄になります」
「よし。じゃあ食べよう」
アイリの一言で、小さな火は過去を思い出すためのものではなく、今夜を越すための灯りと暖かさへ変わった。
◇
村でもらった食料の中から、アイリは固いパンと干し肉、それに少量の乾燥野菜を取り出した。
「煮る?」
レンが聞く。
「その方が食べやすいと思う。お兄ちゃんの手もあるし」
「食べるのに左手、そんな使わないぞ」
「硬いパンちぎる時」
「右でやる」
「それで器落とすんでしょ」
「落とさない」
「今日の信用は低いよ」
エリリアが荷物から小さな鍋を出した。
「水を使いすぎない程度に煮ましょう。パンも少し入れれば柔らかくなります」
「エリリア、料理できる?」
アイリが尋ねる。
「普通には」
「普通ってどれくらい?」
「少なくとも、食べられれば十分という考え方ではありません」
二人の視線が同時にレンへ向いた。
「何で俺を見るんだ」
「お兄ちゃんだから」
「今回はその理由、関係ないだろ」
エリリアが僅かに口元を緩める。
「以前、干し肉と固いパンがあれば食事として十分だと言っていました」
「十分だろ」
「ほら」
アイリが即座に言った。
「旅の途中なら腹に入ればいいんだよ」
「味を諦める理由にはなりません」
「腹減ってたら大抵うまい」
「それは料理をする側に一番言ってはいけない言葉です」
「何でそんな怒られるんだよ」
アイリは笑いながら鍋へ水を注いだ。右手は器を軽く支える程度に使い、持ち上げたり肩へ力の掛かる作業をしたりする時は左手を中心に動かしている。
レンが干し肉を切ろうとすると、今度はエリリアが止めた。
「左手を添えないでください」
「添えてない」
「今、使おうとしました」
「二人とも監視が細かすぎないか?」
「見えるところでやるからだよ」
アイリが当然のように答える。
「じゃあ俺、何すればいい?」
「火を見てて」
「それだけ?」
「大事だよ」
「子供に仕事渡す時みたいに言うな」
文句を言いながらも、レンは火の前へ座り、枝の位置を調整した。
やがて小さな鍋が炎の上へ置かれ、水が温まり始める。乾燥野菜と干し肉から少しずつ匂いが立ち、岩陰の冷たい空気へ混じっていった。
アイリが味を確かめる。
「薄い」
「塩を少し」
エリリアが言う。
「どれくらい?」
「入れようと思った量の半分だけ」
「こう?」
「はい。それで一度混ぜてください」
レンは二人のやり取りを眺めた。
「俺いなくてもできるな」
「火」
アイリが言う。
「はい」
鍋から立ち昇る湯気と温かな匂いに包まれていると、昼間まで血と砂と魔物の臭いの中を走っていたことが、急に遠い出来事のように感じられた。
◇
出来上がったものは豪華な料理ではなかった。
柔らかくなったパンと干し肉、乾燥野菜を煮ただけの簡単な食事だったが、冷え始めた身体には十分だった。
三人は小さな火を囲み、それぞれ器を持つ。
「いただきます」
アイリが最初に言い、レンも続いた。
エリリアは一瞬だけ二人を見てから、同じように小さく口にする。
「いただきます」
レンが一口食べると、まず温かさが口の中へ広がった。薄い汁にはほどよい塩気があり、干し肉の旨味を吸ったパンも思っていた以上に食べやすい。
「うまい」
アイリがこちらを見る。
「本当に?」
「何で疑う」
「お兄ちゃん、食べられたら何でもうまいって言うから」
「これはちゃんとうまい」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
エリリアが器を口元へ運びながら言った。
「その評価基準では、褒められた気がしませんね」
「二人で作ったんだから二人とも褒めてる」
「お兄ちゃんも火やったでしょ」
「じゃあ俺も作った側か」
「火だけですが」
「ほら、エリリアすぐそういうこと言う」
「事実です」
「二人とも、食べてる時まで喧嘩しないの」
アイリに言われ、レンとエリリアが同時に顔を向けた。
「喧嘩してない」
「喧嘩ではありません」
声まで重なった。
アイリは数秒黙った後、堪えきれずに笑い出す。
「ほら、それ」
「何だよ」
「似てる」
「どこが」
「今のところ」
レンがエリリアを見ると、エリリアもこちらを見ていた。
「似てないだろ」
「似ていません」
再び言葉が重なり、今度はアイリが声を抑えきれなくなった。
「もう駄目」
「何がだよ」
「自分たちで証明してる」
「偶然です」
「そういうことにしとこう」
レンもつられて笑った。
火の明かりが三人の間で揺れている。
それほど長く一緒に旅をしているわけではない。村を出た時ですら、三人で歩いていることにどこか不思議さが残っていた。それなのに今は、一つの鍋を囲んでくだらないことで笑っている。
裂谷で何度も互いの声を頼りにしたせいなのかもしれない。
言葉を交わす距離が、昨日までより少しだけ近くなったようにレンには感じられた。
◇
食事を終える頃には、外は完全な夜になっていた。
三人は火を大きくせず、燃えた枝を中央へ寄せながら熾火が残る程度に保った。エリリアは手のひらへ残っていた細かな砂を湿らせた布で拭い、アイリは右肩を冷やさないよう外套の位置を直す。
レンも左手の具合が気になって指を一度だけ開閉した。薬指と小指はやはり他の指より少し遅く、昼間から続く疲労のせいか、触れた感覚もまだ遠い。
「何回やってるの?」
アイリが見ていた。
「今ので一回」
「今日はもう確かめないって言ったでしょ」
「気になっただけ」
「気になるたびに動かすのが駄目なの」
レンは素直に左手を膝へ置いた。
「分かった」
「寝る時、腕の下にしないでね」
「分かってる」
「本当に?」
「アイリ」
「何?」
「今日その確認、多すぎる」
「お兄ちゃんが信用を積み直せば減るよ」
「いつ積み直せるんだ」
「明日から」
「今日じゃないのか」
「今日はもう終わるから」
エリリアが静かに笑った。
「合理的ですね」
「エリリアまでそっちか」
「今日はアイリの方が正しいことが多いです」
「今日は、って何だよ」
「普段については保留します」
「それもひどいな」
アイリは満足そうに笑ったあと、右肩の位置を僅かに変え、顔をしかめた。
今度はレンが見逃さない。
「痛いのか」
「痛いっていうより、固まってる感じ」
「横になる時、右を下にするなよ」
「分かってる」
「本当に?」
アイリが兄を見る。
レンも同じ顔で見返した。
数秒後、アイリが吹き出す。
「仕返し?」
「確認」
「面倒」
「誰の真似だ」
「二人とも同じです」
エリリアが何でもない顔で言い、火へ細い枝を一本加えた。
◇
「見張り、どうする?」
レンが尋ねると、エリリアは入口の外へ広がる暗闇を確認した。
「三人とも眠るわけにはいきません。入口は一つですが、音だけで気づける相手ばかりとも限りません」
「順番は?」
アイリが聞く。
「私が最初にします」
エリリアは迷わず答えた。
「二人は先に休んでください」
「一人だけ長くやる気じゃないよね」
「しません」
「本当に?」
レンが言うと、エリリアの目が細くなった。
「あなたまで始めるのですか」
「確認」
「面倒ですね」
「さっき俺が言われた」
アイリが笑う。
「じゃあ、エリリアが最初で、次がお兄ちゃん。最後が私?」
「それがいいと思います」
エリリアが頷いた。
「レンは脚と左手を少しでも先に休ませてください。アイリも肩を休める時間が長い方がいいでしょう」
「エリリアは?」
「私は手が擦れている程度です。風を何度も使った疲れもありますが、少し休めば問題ありません」
「無理してない?」
アイリが尋ねる。
「していません」
アイリは数秒見つめてから、ようやく納得したように頷いた。
地面の固い部分へ外套や予備の布を敷き、荷物を頭側へ寄せる。アイリは右肩を下にしないよう左側を向いて横になった。
「おやすみ」
「おやすみ」
レンが答える。
「ゆっくり休んでください」
エリリアも声を掛けた。
朝から歩き続け、何度も魔物に追われ、最後には岩壁まで登った疲労は相当なものだったのだろう。アイリの呼吸はほどなくゆっくりと一定になった。
レンも岩壁側へ場所を取り、剣帯が左腕や右脚へ当たらない位置を確かめて身体を横たえた。黒銀の剣はいつもの位置に収めたまま、左前腕へ体重を掛けない姿勢を選ぶ。
「寝ないのですか」
入口側へ座ったエリリアが小声で尋ねた。
「寝る」
「目が開いています」
「今から」
「子供みたいな返事ですね」
「見張りしながら喋る余裕あるんだな」
「あなたが寝れば静かになります」
「ひどいな」
レンは目を閉じた。
火が小さく爆ぜる音と、岩壁の間を抜ける風の音が重なる。遠くで時折小石が転がる音はしたが、昼間あれほど響いていた咆哮はもう聞こえなかった。
その静けさの中で、レンの意識は少しずつ沈んでいった。
◇
どれほど眠ったのかは分からなかった。
目を開けると、火は最初より小さくなり、熾火の赤だけが岩陰の底で静かに明滅していた。
レンが身体を動かすと、右脚の奥に鈍い痛みが返ってくる。眠れば消えるものではないらしい。それでも傷が開いたような鋭さはなく、左手の痺れも寝る前より僅かに軽く感じられた。
身体を起こすと、入口近くに座るエリリアがこちらを見る。
「まだ交代には少し早いです」
「どれくらい?」
「もう少し休めます」
「目が覚めた」
「寝直してください」
「眠くない」
エリリアはしばらくレンを見た。
「脚が痛むのですか」
「少し」
「だから起きた?」
「たぶん」
「なら横になっていた方がいいのでは」
「じっとしてても気になる」
「それは困りましたね」
「だろ」
レンは声を抑えながら、火の近くへ少し身体を寄せた。
アイリはまだ眠っている。右肩を下にせず、左側を向いた姿勢も変わっていなかった。
それを確認してから、レンは入口の外へ視線を向ける。月は高い岩壁に隠れ、空は細長く切り取られていた。その狭い夜空に、いくつもの星が淡く光っている。
「静かだな」
「静かすぎるくらいです」
「昼間あれだけうるさかったからな」
エリリアが頷く。
二人はしばらく話さなかった。
火の中で炭になった枝が崩れ、赤い光が一度だけ強くなる。
レンはその光を見ながら、ふと思い出した。
「今日、俺が壁登ってた時」
「はい」
「アイリの言う通りに動いた」
「そうですね」
「何でちょっと嬉しそうなんだ」
「ようやく学んだと思ったので」
「そこまでか?」
「かなり」
エリリアは平然と答えた。
「あなたはアイリを守ろうとすると、自分で全部決めようとする時があります」
レンは火を見る。
「そんなつもりはない」
「つもりの話ではありません」
「厳しいな」
「今日の壁では、アイリの方があなたより周囲をよく見えていました。だからあなたは彼女の声を聞いた。それで助かった」
「それは分かってる」
「なら良かったです」
レンは少し考えた。
「でも、守ろうとするのは変わらないぞ」
「変える必要はないでしょう」
予想していなかった答えに、レンはエリリアを見る。
「そうなのか?」
「守りたいと思うこと自体が悪いとは言っていません。ただ、守ることと、その人に何もさせないことは同じではないでしょう」
レンは火の向こうで眠るアイリへ目を向けた。
岩壁の途中で、上から彼女の声が飛んできたことを思い出す。
右から来る。
止まって。
今。
あの時、レンには飛翼獣が見えていなかった。だから妹の言葉を信じ、それで生きて上まで辿り着いた。
「……前より強くなったんだよな」
「アイリが?」
「ああ」
「前から強かったのでは?」
レンが眉を上げる。
「知り合ってそんな経ってないだろ」
「それでも分かります」
「何が」
「あなたに言い返すところです」
「そこかよ」
エリリアが少し笑う。
「冗談です」
「半分くらい本気だろ」
「半分以上かもしれません」
「やっぱりな」
声を抑えて笑った後、レンはふと思いついたように続けた。
「でも、エリリアも同じじゃないか」
「何がですか」
「自分で全部やろうとするところ」
今度はエリリアが黙った。
「村でもそうだったし、今日も最初に壁を登った」
「あれは私が一番適任だったからです」
「それは分かる。でも、何かあった時に自分が先にやろうとするのは同じだろ」
「状況によります」
「ほら、すぐ否定する」
「あなたも先ほど否定していました」
「だから似てるって言ってる」
エリリアは反論しかけたが、やがて諦めたように小さく息を吐いた。
「……少しだけなら、認めます」
「少しだけ?」
「本当に少しです」
「十分だな」
「勝手に満足しないでください」
レンは声を殺して笑った。
エリリアも困ったような顔をしながら、それ以上は否定しなかった。
◇
少しして、レンは腰の剣帯が身体へ当たる位置を直した。
それを見ていたエリリアが尋ねる。
「その剣は、ずっとお母様のものだったのですか」
「ああ」
「エレナさんも剣を?」
「使えた」
レンは鞘へ右手を添えたまま答えた。
「俺よりずっと強かったと思う」
「思う?」
「本気で戦ってるところ、ほとんど見たことなかったから」
火が小さく揺れる。
「母さんは普段、剣を振り回すような人じゃなかった。家にいる時は普通だったし、俺とアイリに剣を見せることもほとんどなかった」
「それでも、あの夜は使った」
エリリアの声は静かだった。
「……ああ。最後まで、俺たちを守ってくれた」
それ以上詳しく話す必要はなかった。
エリリアも続きを求めず、短く答えた。
「そうですか」
その言葉には、形だけの慰めも、無理に傷へ触れようとする同情もなかった。ただ聞いているだけだった。
それがレンにはありがたかった。
「この剣を持ってると、母さんがどうとか、そういう大げさなことは思わない」
レンは続ける。
「ただ、手放したくない。それだけだ」
「それで十分だと思います」
エリリアは火へ目を向けた。
「大切なものに、立派な理由が必要とは限りません」
レンは彼女の横顔を見る。火の色が淡い銀髪の端へ映っていた。
「エリリアにもある?」
「大切なものですか」
「ああ」
答えはすぐには返らなかった。
エリリアは擦れた自分の手のひらへ一度目を落とし、やがて静かに指を閉じた。
「……ありました」
失われたものを指す言葉だと分かったが、レンはすぐには尋ねなかった。
炎の中で細い枝が崩れる。
その音に合わせるように、昼間エリリアが口にした言葉がレンの中へ蘇った。
「昼間、エリリアが言ってたこと」
「生きて抜けたなら、それで十分な日もある、という話ですか」
「ああ」
レンは少し迷ってから尋ねる。
「……あれ、故郷のことか?」
エリリアの表情から、僅かに柔らかさが消えた。
レンはすぐに続けた。
「話したくないなら、聞かない」
「いえ」
エリリアは静かに首を横へ振る。
「そうではありません。ただ、どう話せばいいのか考えていました」
レンは何も言わず待った。
エリリアの視線は、火の向こうへ向けられている。
「故郷を失った日のことを思い出す時、私はずっと、燃えている景色から考えていました」
その声は静かだった。
「炎と煙と、逃げる音。その前に何があったのかまで思い返すことは、あまりしなかったんです」
「今日、この火を見て思い出した?」
「少し」
「嫌なことを?」
エリリアはしばらく答えず、やがて僅かに首を横へ振った。
「違います。燃えてしまう前のことを思い出しました」
その口元に、ごく小さな笑みが浮かぶ。
レンがこれまで見てきた彼女の笑顔とは少し違っていた。今ここにいる誰かへ向けるというより、遥か遠くに置いてきたものへ触れるような表情だった。
「どんなところだった?」
レンが尋ねる。
エリリアはすぐには答えなかった。
レンも急かさない。
話すかどうかを決めるのは彼女だ。
外では夜の風が岩壁を擦り、低い音を立てている。火の近くでは、アイリが変わらず静かな寝息を立てていた。
やがてエリリアは、炎からレンへ視線を移した。
「……聞いてくれますか」
「ああ」
「燃えてしまう前の、私の故郷の話を」
レンはそれ以上何も尋ねず、ただ頷いた。
小さな火が二人の間で静かに揺れていた。
エリリアは一度だけ目を閉じ、長く胸の奥へ沈めていた記憶へ手を伸ばすように、ゆっくりと息を吸った。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
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