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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
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第一章 第二十九話 血の川を見下ろして

石の間を抜けていく細い水路には、もう消えきらない赤が広がり始めていた。


 三人はしばらく、その流れを高い岩棚から見下ろしていた。裂谷の底では岩甲獣の咆哮が続き、洞窟蜥蜴の甲高い威嚇と、飛翼獣が翼で空気を打つ音が入り混じっている。距離があるため一つ一つの動きまでは追えなくなっていたが、巨大な影がぶつかるたびに砂埃が舞い、時折石道そのものが小さく揺れているのが見えた。


 負傷した獲物へ飛翼獣が降り、岩甲獣の近くへ寄った洞窟蜥蜴が爪に弾かれる。倒れたものへ別の個体が牙を向け、そこへまた空から影が落ちてくる。少し前まで三人を追っていた魔物たちは、今では互いを獲物としていた。


 その下を流れる水だけが、赤い筋を飲み込みながら、争いとは無関係のように同じ方向へ進んでいる。


「……すごい色になってきたね」


 アイリが小さく言った。


 レンは返事をせず、目を細めた。


 最初に見えた時は、水の中へ血が細く溶けているだけだった。それが今では何本もの赤い流れとなって合わさり、岩陰へ消える直前には、元の水の色が分からないほど濃くなっている場所まであった。


 血の匂いはここまでほとんど届かない。


 それでも見ているだけで、口の奥に鉄の味が蘇るようだった。


「もう行きましょう」


 エリリアが先に裂谷の底から目を離した。


 レンが彼女を見る。


 声はいつも通り落ち着いている。しかし、細剣の柄へ触れていた指先だけが、ほんの僅かに強く閉じていた。


「そうだな」


 レンも視線を戻した。


「ここにいても、何も変わらない」


 アイリはもう一度だけ血の混じった水を見下ろした後、二人に続いた。


     ◇


 点検路は、裂谷の上部を縫うように続いていた。


 右手には切り立った岩壁が迫り、左手側は急な斜面の先で谷底へ落ち込んでいる。足元には人の手で削られた跡がところどころ残っていたものの、長い年月の間に石は欠け、砂も溜まっていた。


 先頭を歩くエリリアは、急がず一歩ずつ足場を確かめていた。


 その後ろをアイリが進み、レンが最後につく。


 飛翼獣の影はまだ遥か上空に見えることがあったが、三人へ向かって高度を落とす様子はなかった。裂谷の底で続く争いの方が、今は彼らを引きつけているらしい。


 しばらく歩いたところで、アイリが振り返った。


「お兄ちゃん、脚」


「ん?」


「さっきから歩き方変わってる」


 レンは一瞬黙った。


「そんなに?」


「分かるよ」


「妹だから?」


「今回は誰でも分かると思う」


「それは嫌だな」


 軽く返したものの、右脚の奥には確かな重さが溜まっていた。


 傷そのものが開いている感覚はない。平らな道を歩く程度なら村を出た時から問題なかったが、裂谷へ入ってからは足場の悪い石道を進み、岩甲獣から逃れ、洞窟蜥蜴を相手にし、そのまま壁まで登った。閉じた傷の奥へ、鈍い痛みが何層にも積み重なっている。


「もう少し広いところがあったら、一回見よう」


 アイリが言う。


「見ても治らないぞ」


「悪くなってないかは分かる」


「お前の肩もな」


「分かってる」


 前を歩いていたエリリアが振り返らずに言った。


「二人とも確認した方がいいです」


「エリリアも」


 アイリがすぐ返す。


「私は――」


「手、赤いよ」


 エリリアが黙った。


 鉄具と岩を掴み続けた手のひらは、遠目にも擦れて赤くなっている。


 レンが少し笑う。


「全員だな」


「そうみたい」


 アイリも笑った。


 それから三人は、次に道幅が広がる場所まで余計な会話をせずに歩いた。


     ◇


 点検路が岩壁の内側へ少し入り込む場所に、三人が腰を下ろせる程度の平らな空間があった。


 頭上には岩が張り出しており、飛翼獣からも見つかりにくい。


「ここなら少し止まれます」


 エリリアが周囲を確認してから言った。


 三人は荷物を下ろした。


 動きを止めた途端、身体のあちこちに残っていた疲れが一度に存在を主張し始める。


「まずお兄ちゃん」


 アイリが言った。


「何で俺からなんだ」


「歩き方変わってたから」


「肩痛い人に言われてもな」


「だから、その次に私」


「順番まで決まってるのか」


「決まってる」


 レンは諦め、岩へ背を預けた。


 右脚の衣服を傷痕が見えるところまで上げる。


 十二日間の休養で閉じた狼の噛み傷は、その形を残したまま皮膚の下へ沈んでいる。周囲に新しく滲んだ血はなく、腫れが急に増した様子もない。


 アイリは触れる前に目で状態を確かめた。


「血は出てない」


「だから言っただろ」


「でも熱とか痛みとかは見ただけじゃ分からないから」


 指先で傷の近くへ軽く触れる。


「ここは?」


「平気」


「こっち」


「少し痛い」


「鋭い?」


「いや。奥が重い感じ」


 アイリは頷いた。


「じゃあ今のところ、開いた感じはなさそう。でも今日はもう走らない方がいい」


「走る予定はない」


「魔物が来ても?」


「……できれば」


「そこは言い切ってよ」


 レンが肩を竦めた。


「来たら考える」


「それが一番心配なんだけど」


 アイリは次に彼の左前腕を見る。


 服の上からでも、以前ほど腫れていないことは分かる。熱も村へ着いた頃より落ち着いている。しかし問題は傷そのものより、手の動きだった。


「指、やって」


 レンは左手を開き、ゆっくり閉じた。


 親指、人差し指、中指はほぼ同時に動く。


 薬指と小指だけが、ほんの少し遅れる。


 もう一度動かしても、結果は同じだった。


「さっきより遅くない?」


「疲れてるからだと思う」


「感覚は?」


 レンは小指の先を右手で軽く押した。


「ある。でも遠い」


「薬指も?」


「似た感じ」


 アイリは少し眉を寄せたが、不安を大きく見せることはしなかった。


「セラが言ってた。こういうのは無理に何度も動かして確かめるより、疲れたら休ませた方がいいって」


「分かった」


「本当に?」


「今日はもう何回目だ、それ」


「ちゃんと聞くまで」


「分かった。左手に無理させない」


「うん」


 そこでようやくアイリは息を吐いた。


 レンは妹の肩を見る。


「次、お前」


「はいはい」


「俺より雑じゃないか」


「自分のことだから分かるの」


「そういう問題か?」


 アイリは右肩をゆっくり前へ動かし、次に肘を曲げた。胸の前へ手を持ってくる程度なら問題はない。


「そこは?」


「平気」


「上は?」


「高く上げるのはやめとく」


「後ろは?」


「それも今は嫌」


 レンは眉を寄せる。


「登る前より悪くなってる?」


「少し重いだけ。鋭い痛みはないし、さっき岩棚に上がった時と変わってない」


 エリリアも横から動きを見ていた。


「今日は右腕で荷物を持たない方がいいですね」


「うん」


「その分、俺が――」


 レンが言いかける。


 アイリとエリリアの視線が同時に彼へ向いた。


「何だよ」


「右脚」


 アイリが言う。


「左手もです」


 エリリアが続けた。


「じゃあ誰が持つんだ」


「分ければいいでしょ」


 アイリは当然のように答えた。


「重いものは一人に集めない。私も左で持てる分は持つし、エリリアも全部持たない。お兄ちゃんも持てる量だけ」


 レンは少しだけ黙り、それから頷いた。


「それでいこう」


 以前なら、もう少し言い返していたかもしれない。


 だが裂谷へ入ってから、誰か一人が全部を背負うことがどれほど危ういかは嫌というほど思い知らされた。


「じゃあ次、エリリア」


 アイリが向き直る。


「私は手だけです」


「見せて」


 エリリアは素直に両手を差し出した。


 手のひらには細かな擦り傷がいくつかあり、指の付け根にも赤くなった部分がある。血が滲むほど深いものはない。


 アイリは水を少量だけ布へ含ませ、砂や細かな錆が残っているところを丁寧に拭いた。


「痛かったら言って」


「この程度なら大丈夫です」


「そういう言い方、お兄ちゃんと同じ」


「一緒にしないでください」


「そこまで嫌がる?」


 レンが言う。


「今は褒めてないからね」


「知ってる」


 エリリアの手を拭き終えると、三人は荷物を開いたまま少し休んだ。


 誰かが大きな怪我を増やしたわけではない。


 それでも、身体が無事だったというだけで疲労まで消えるわけではなかった。


 息を整え、少量の水を飲む。


 遠くではまだ、魔物たちの声が響いている。


     ◇


「……これって、勝ったって言っていいのかな」


 アイリが水筒の口を閉じながら言った。


 レンは岩壁へ背を預けたまま、少し考えた。


「勝った、か」


「だって、追われて、逃げて、登って、今ここにいるでしょ」


「魔物はほとんど下で生きてるけどな」


「全部倒さないと勝ちじゃないの?」


「いや」


 レンは首を横へ振った。


「そうじゃないと思う」


 視線を点検路の来た方向へ向ける。


 ここから血の流れそのものは見えない。


 ただ、谷底から響く音だけは途切れず届いている。


「俺たちはあそこを抜けた。三人ともここにいる。それで十分なんじゃないか」


 アイリは少し考え、やがて小さく笑った。


「じゃあ勝ちでいい?」


「逃げ切ったって方が近い気もする」


「それだとちょっと格好悪い」


「でも事実だろ」


「お兄ちゃん、こういう時だけ変に真面目」


「こういう時だけって何だよ」


 エリリアが二人のやり取りを聞きながら、静かに口を開いた。


「生きて抜けたのなら、それで十分な日もあります」


 その言葉に、レンとアイリが彼女を見る。


 エリリアは二人ではなく、岩棚の外側へ視線を向けていた。


 表情は穏やかだった。


 けれど、ほんの一瞬だけ遠いものを見るような色が淡い瞳へ浮かんでいる。


「毎回、何かを倒して終わる必要はありません」


 彼女は続けた。


「何も得られなくても、前へ進めなくても、ただ生きてその日を越える。それだけしかできない時もあります」


 アイリが黙って聞いている。


 レンも何も挟まなかった。


 エリリアの声音は落ち着いているのに、その言葉だけが妙に長く胸へ残った。


「エリリアも、そういう日あった?」


 アイリが尋ねた。


 ほんの短い間、風の音だけが三人の間を通った。


「……ありました」


 エリリアは答えた。


 それ以上は話さない。


 アイリも続けて尋ねなかった。


 レンは横顔を見たものの、口を開くことはしなかった。


 何かを聞いていい時と、まだ聞くべきではない時がある。


 今は後者だと思った。


「じゃあ今日は、生きて抜けた日ってことでいいね」


 アイリが少し明るい声に戻した。


「そうですね」


 エリリアも小さく笑う。


「ただし、まだ一日は終わっていません」


「それ言う?」


 レンが顔をしかめた。


「大事なことです」


「今ちょっと良い話だったのに」


「良い話をしたからといって、安全になるわけではありません」


「エリリアらしい」


 アイリが笑った。


 その笑いにつられるように、レンも息を漏らした。


 緊張が完全に消えたわけではない。


 それでも、裂谷へ入ってから張り詰め続けていた何かが、ほんの少しだけ緩んだ気がした。


     ◇


 休憩を終えると、三人は荷物を分け直した。


 水や食料、縄、予備の布を一人へ偏らせず、それぞれの状態に合わせて持つ。アイリは右肩へ負担を掛けないよう軽い荷物だけを左側で持ち、レンも右脚と左前腕へ響かない量に留めた。エリリアは二人より少し多く受け持ったものの、それでも全てを抱え込むことはしなかった。


「これでいい?」


 アイリが尋ねる。


「私は問題ありません」


 エリリアが答える。


 レンも荷物を背負い直し、腰の剣帯がずれていないことを確認した。


「俺も大丈夫」


「じゃあ行こう」


 三人は再び点検路へ出た。


 午後の光は既に傾き始めていた。


 谷底まで届く明るさが弱まり、岩壁の影が少しずつ長く伸びている。


 裂谷の上部は下より風が通る。


 汗の残った肌へ冷たい空気が触れ、止まっていた時より歩いている方が寒さを感じた。


「日が落ちる前に、止まれる場所を探した方がいいですね」


 エリリアが言う。


「この道、どこまで続く?」


 レンが尋ねる。


「分かりません。ただ、橋を点検するための道なら、どこかで下の道へ戻るか、作業できる広い場所へ繋がっているはずです」


「今夜中に谷を出るのは?」


 アイリが聞いた。


 エリリアは周囲の地形と空を見てから首を横へ振った。


「勧めません。暗くなれば足場が見えなくなりますし、飛翼獣より危険なものがいないとも限りません」


「じゃあ今日は途中で止まるしかないな」


 レンが言った。


 それに異論はなかった。


 点検路はしばらく同じ高さを保った後、緩やかに下り始めた。


 歩くほどに、谷底から届く戦いの音は少しずつ遠ざかっていく。


 最初は岩甲獣の咆哮が何度も聞こえていた。


 やがて、それが時折に変わる。


 飛翼獣の声も減り、最後には風の音へ紛れる程度になった。


 レンは一度だけ後ろを振り返った。


 もう、血の流れは見えない。


 壊れた橋も、魔物たちも、岩壁の向こうへ隠れていた。


「どうしたの?」


 アイリが気づく。


「いや」


 レンは前へ向き直る。


「本当に抜けたんだなと思って」


「まだ谷の中だよ」


「分かってる」


「だったら油断しない」


「はいはい」


「返事が軽い」


「ちゃんと分かってるって」


 エリリアが前で小さく笑った。


「二人とも、足元を見てください」


「はい」


「分かった」


 今度は二人とも素直に前を見る。


     ◇


 日が岩壁の向こうへ隠れ始めた頃、点検路の先にこれまでより広い場所が現れた。


 道の壁側が大きく窪み、張り出した岩が屋根のように頭上を覆っている。


 天然の岩陰だった。


 奥行きは深くないが、三人が横になれる程度の広さがある。地面も完全な平面ではないものの、これまでの細い点検路より遥かに安定していた。


 エリリアが最初に入り、壁際や天井の裂け目を確認する。


 レンは入口から周囲を見渡した。


 片側が岩で守られているため、少なくとも背後から何かに近づかれる心配はない。


 アイリも地面へしゃがみ込み、足元に新しい糞や獣の毛がないかを見た。


「何か住んでる感じはなさそう」


「奥も問題ありません」


 エリリアが戻ってくる。


「ここなら一晩は休めると思います」


 レンは西側の空を見る。


 残っていた明るさも、もう長くは続かない。


「今日はここまでだな」


「うん」


 アイリはその場へ荷物を下ろした。


 今度は誰も反対しなかった。


 三人とも、自分で思っていた以上に疲れている。


 レンが岩陰の入口から最後に裂谷を見た。


 ここから谷底の水は見えない。


 それでも、少し前まで眼下を流れていた赤い水の光景は、瞼の裏へ鮮明に残っていた。


 逃げ切ったからといって、あそこで起きたことまで消えるわけではない。傷ついた身体も、怖かった記憶も、血に染まった水も、そのまま残る。


 それでも、自分たちは三人でここにいる。


 レンはその事実を確かめるように一度だけ息を吐き、岩陰の奥へ戻った。


 外では最後の陽が岩壁の上から消えようとしていた。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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