第一章 第二十八話 空から来る牙
飛翼獣の一体が翼を畳んだ。それを合図にしたように、岩壁の上を旋回していた影が次々と高度を落とし始める。
壁の途中にいるアイリは、左手で鉄輪を掴み、左足を削られた足場へ置いたまま顔を上げた。右手は胸の高さにある岩の凹凸へ添えている。右肩には既に鈍い疲れが溜まり始めていたが、動かせないわけではない。問題は、今の姿勢では左右へ逃げる場所がないことだった。
上の岩棚ではエリリアが二か所へ固定した縄の状態を確かめ、下ではレンが迫る洞窟蜥蜴へ黒銀の剣を向けている。縦に離れた三人を狙うように、飛翼獣たちは裂谷の上空から降下を始めていた。
「アイリ、右上!」
最初の軌道を捉えたレンが叫んだ。
アイリは無理に振り向かなかった。
「見えない!」
「そのまま壁に寄れ!」
飛翼獣が岩壁すれすれへ滑り込み、広げた翼の片側を石肌へ近づけながら、鉤爪をアイリの背中へ伸ばす。
エリリアは細剣を抜き、左手で縄の流れを確かめたまま右手の刃を横へ短く払った。岩壁に沿って上昇していた風が折れ、飛翼獣の片翼を下から叩く。強引に吹き飛ばすほどの風ではなかったが、高速で壁際を降下している身体には僅かな傾きだけでも十分だった。
狙いを外れた鉤爪がアイリの外套だけを掠め、布を細く裂いた。アイリは反射的に身体を縮め、右肩を岩へ打ちつけないよう左側へ重心を逃がしたものの、その拍子に右足が浅い足場から滑る。続いて左足も位置を失い、左手だけでは体重を支え切れず、身体が短い距離だけ下へ落ちた。
「っ!」
腰へ繋がった安全縄がすぐに張り、落下を止めた。上ではエリリアが固定点へ余分な衝撃が掛からないよう縄の弛みを整え、アイリの身体が大きく振られないよう支える。
「アイリ!」
「大丈夫!」
左手は鉄輪を離していない。アイリは壁へ靴先を戻しながら、次に使える足場を探った。
「右足、少し下!」
レンの声が下から届く。
「そこから右!」
言われた通りに靴先を動かすと、浅い窪みへ触れた。
「あった!」
「そこ!」
アイリは右足を置き直して身体を安定させた。最初の飛翼獣は既に上空へ抜け、再び仲間たちのいる高さまで戻っている。
「肩は?」
レンが聞く。
「平気。今のはびっくりしただけ」
「本当に?」
「今は!」
上からエリリアの声が飛んだ。
「止まらず登ってください。次は一体とは限りません」
アイリは岩棚までの距離を見上げ、小さく息を吐いた。
「分かった」
左手を次の鉄輪へ伸ばし、右肩を高く上げすぎないよう右手は身体に近い位置の岩へ添えるだけにする。腕で引き上げようとはせず、脚で身体を押し上げながら、一段ずつさらに上へ進んでいった。
その下では、洞窟蜥蜴もレンとの距離を詰め始めていた。
◇
最初の一体がレンへ走り込んできた。
壁を登るアイリから注意を逸らしすぎないためにも、レンは自分から深く踏み込まなかった。洞窟蜥蜴の低い頭が左右へ揺れ、開いた顎の牙の間では腐食性の唾液が糸を引いている。
「来い」
レンは黒銀の剣を右手だけで構えた。
相手が間合いへ入り、顎が閉じようとした瞬間、剣の腹をその側面へ当てる。硬い鱗を斬ろうとはせず、噛みつく頭の向きだけを外へ流した。
洞窟蜥蜴はレンの右横を通過し、そのまま壁際へ滑る。レンは追わず、すぐ正面へ視線を戻した。ここまで剣を振るい続けた疲労が左前腕には残っており、薬指と小指も長く力を入れるほど動きが遅くなる。左手で無理に剣を補助せず、身体の向きと腰の位置で右手の動きを支える方が安全だった。
「お兄ちゃん、上!」
今度はアイリの声が降ってきた。
レンが一瞬だけ視線を上げる。
二体の飛翼獣が高度を下げ、一体は壁の途中にいるアイリへ、もう一体は上の岩棚にいるエリリアへ向かっていた。
「二体!」
「見えています!」
エリリアは縄の固定点から大きく離れられない。それでも、アイリは自分の脚と左腕を中心に登っており、安全縄は滑落を止めるためのものだ。エリリアが腕力だけで彼女の全重量を支えているわけではない。
左手で縄の弛みを管理しながら、エリリアは右手の細剣を構えた。
一体目がアイリへ降下する。
「左上から!」
レンが叫ぶ。
「アイリ、壁から離れないで!」
エリリアの細剣が斜めに走り、谷壁へ沿っていた風の流れを横へ曲げた。飛翼獣を正面から押し返すのではなく、翼の下へ流れを差し込み、降下角だけを崩す。
飛翼獣の身体が傾き、鉤爪はアイリの頭上を外れて岩壁を引っ掻いた。白い石の欠片が散る。
しかし同時に、もう一体が岩棚のエリリアへ迫っていた。
「エリリア!」
アイリが見上げる。
エリリアは一体目へ風を送った直後だった。立て続けに強い風を作れば、自分の呼吸だけでなく足元の安定まで乱しかねない。
彼女は魔法だけに頼らず、飛翼獣が岩棚へ近づいたところで半歩だけ身体をずらした。
鉤爪が岩棚の縁へ降りる。
その瞬間、細剣が下から斜めに走り、伸びてきた脚の付け根を浅く斬った。
飛翼獣が甲高い声を上げ、翼を激しく打つ。強い風圧に銀髪が乱れたが、エリリアは踏み込まず、岩棚と縄の位置を守った。
傷ついた飛翼獣は高度を上げて離れていく。
「大丈夫?」
アイリが声を上げる。
「大丈夫です。登って!」
「うん!」
アイリは次の足場へ身体を運んだ。
右肩の奥には徐々に重さが増していた。痛みを無視しているわけではなく、右手はあくまで補助に留め、体重は両脚と左腕へ分散させる。
「次の足場、左足の少し上!」
レンが下から教える。
「見えない!」
「膝くらい上げて、左!」
アイリが靴先で探った。
まだ触れない。
「もう少し壁側!」
エリリアも上から位置を補う。
靴底が浅い窪みに入った。
「あった」
「そこです」
アイリは息を吐き、身体をもう一段持ち上げた。
◇
下では洞窟蜥蜴が二体に増えていた。
レンは壁の直下から離れすぎない位置を保ち、一体を正面に置きながら、もう一体が右側へ回り込もうとする動きを見ていた。
「増えてる?」
アイリが上から聞いた。
「二体見えてる!」
「無理しないで!」
「分かってる!」
右側の個体が先に動いた。
レンは剣先を低く保ったまま待つ。洞窟蜥蜴が顎を開き、前脚で地面を蹴った瞬間、刃を横へ滑らせて前脚の一本を浅く打つ。
勢いが崩れ、その個体がレンの横を通り過ぎた。
間を置かず、正面の一体も飛び込んでくる。
レンは右脚へ強く踏み込まず、左足を軸に身体を回した。顎の外側へ剣を当て、進路を横へ変える。
牙の間から飛んだ唾液が袖を掠める寸前で石へ落ち、白い煙を上げた。
「近いな……」
それでも剣で唾液を受けなかった判断は正しかった。
レンは数歩下がり、壁へ近づく。
約束通り、ここで意地を張って地上へ残るつもりはない。アイリが上へ着けば、すぐに自分も登る。
頭上から翼音が重なった。
今度は三体の飛翼獣が互いに距離を取り、異なる角度から降下を始めていた。
「三体来る!」
レンが叫ぶ。
エリリアも既に気づいている。
「アイリ、次の足場まで上がったら止まってください!」
「止まるの?」
「そこで身体を壁へ寄せて!」
アイリは言われた通りに一段だけ上がり、左右の足を別々の窪みへ置いて、左手を鉄輪へ掛けた。右手は胸の高さで岩へ添え、できるだけ身体を壁へ近づける。
一体目が正面から降りてくる。
エリリアは飛翼獣そのものへ風を叩きつけず、壁際の砂と細かな埃を巻き上げて鼻先へ流した。
視界を乱された飛翼獣が首を振り、軌道を外す。
二体目はその横からアイリへ向かった。
「右!」
レンの声が飛ぶ。
アイリは動かなかった。ここで不用意に避ければ足場を失う。
エリリアが細剣を大きく振り、翼の上面へ沿わせるように風を流した。飛翼獣の身体が壁から外側へ僅かに押され、鉤爪が届かない。
しかし三体目は、縄を管理しているエリリア自身へ向かっていた。
彼女は細剣を構えたまま半歩だけ後ろへ下がる。
飛翼獣が岩棚へ飛び込む直前、切っ先が横へ走った。風が片翼へ斜め下から入り、身体を僅かに回転させる。
姿勢を崩した飛翼獣は鉤爪ではなく肩から壁へぶつかり、鈍い衝突音を響かせた。
エリリアは追いかけない。
届く範囲へ入った首の下へ、右手だけで細剣を短く突き込む。
刃は浅く入った。
飛翼獣が暴れ、翼で岩棚を叩く。エリリアはすぐに剣を引き、縄の固定点から離れない位置まで戻った。
魔物は足場を失って谷側へ落ちかけ、慌てて翼を広げたものの、片翼を壁へ強く打ったせいで十分な高度を取り戻せない。数メートルほど落ちながらようやく壁から離れ、下方へ逃れていった。
「今です、アイリ!」
エリリアが叫ぶ。
アイリは再び登り始めた。
◇
岩棚までは、あと数メートルだった。
そこまで来る頃にはアイリの呼吸も明らかに荒くなり、疲労は右肩だけでなく、身体を支え続けている左前腕や両脚にも溜まっていた。安全縄があるとはいえ、狭い足場と鉄具だけを頼りに身体を壁へ預け続ける緊張は大きい。
「一回止まる?」
エリリアが尋ねる。
「止まったら、また来る」
アイリは上を見た。
「あとちょっとなら行く」
「右肩は?」
「重い。でも鋭くは痛くない」
エリリアはそれ以上止めなかった。
「次の鉄輪を左手で取れれば、その上に足場があります」
「見える?」
「私からは」
「じゃあ言って」
アイリが左手を伸ばす。
指先が届かない。
「あと少し上です」
「これ以上、右で押したくない」
「縄へ少し体重を預けてください」
アイリは一度息を吐き、腰の安全縄へ少しだけ体重を預けた。上の固定点が荷重を受けたことで身体は壁から離れず、右手へ掛かっていた力が軽くなる。
その分だけ左腕を伸ばす。
鉄輪へ指が掛かった。
「取れた」
「そのまま。左足は今の位置で」
エリリアが岩棚の縁へ近づく。
「右足を一段上げてください。そこに浅い窪みがあります」
「見えない」
「私の声だけ聞いて」
アイリは靴先を上へ滑らせた。
「もう少し右」
位置を変える。
「そこで壁へ寄せて」
靴底が窪みに引っ掛かった。
「ある」
「はい。そこです」
アイリが脚で身体を持ち上げる。
岩棚の縁へ左手が届いた。
エリリアは身を乗り出しすぎない範囲で左前腕を差し出す。
「掴めますか」
「うん」
アイリはその前腕を掴んだが、エリリアだけに体重を預けなかった。右足で窪みを押し、左足でも最後の一段を踏み上がる。安全縄も張られている。
自分の脚、縄、エリリアの支えを使いながら、アイリは身体を岩棚の高さまで持ち上げた。
エリリアは最後だけ左腕を引き、腰が縁を越えるのを助ける。
アイリが岩棚へ膝をついた。
「着いた……」
エリリアは右肩へ直接触れず、その動きを見る。
「右肩、動かせますか」
アイリは息を整えながら、痛みの出ない範囲でゆっくり腕を動かした。
「動く。ちょっと重い」
「鋭い痛みは?」
「ない」
「なら、今は使いすぎないでください」
「うん」
アイリは座り込まず、すぐに下を見た。
「お兄ちゃん!」
「見えてる!」
レンは既に壁際まで下がっていた。
洞窟蜥蜴は三体に増え、そのうち一体は岩壁の低い部分へ前脚を掛けている。
「次、俺だな」
◇
レンは黒銀の剣を鞘へ戻した。鞘はいつも通り腰の少し右側へ寄せてあり、登っている最中に脚へ絡まないよう帯も締め直す。
「荷物は?」
上からアイリが聞く。
「先に上げる」
地上へ残していた荷物を縄の別端へまとめ、上の二人が引き上げた。アイリは右肩へ強い力を掛けないよう主に左手で縄を送り、エリリアが荷重の大きい部分を受け持つ。
荷物が岩棚へ届くと、レンは腰へ安全縄を繋いだ。
右手で最初の鉄輪を掴む。
左手も使えないわけではない。ただし強く握り続ければ前腕の奥が痺れ、薬指と小指の感覚も鈍くなる。左手は低い位置の岩へ添えて姿勢を保ち、主に右手と脚で登る方がいい。
「準備いい?」
アイリが聞く。
「いい」
「無理したらすぐ言って」
「分かった」
「本当に?」
「今は本当に分かった」
上からエリリアが僅かに笑う。
「では、登ってください」
レンが右足を最初の足場へ置こうとしたところで、背後から石を擦る音が急に近づいた。
振り返る。
洞窟蜥蜴の一体が走り込んできていた。
「お兄ちゃん!」
レンは剣へ手を戻さなかった。
ここで抜き直して戦えば、その分だけ登り始めるのが遅くなる。代わりに一段目へ身体を持ち上げた。
洞窟蜥蜴が壁の根元へ到達し、牙が右足へ届きかける。
レンは靴底を一段上へ逃がした。
顎が空を噛む。
「登って!」
アイリが叫ぶ。
「そのつもり!」
二段目へ進む。
洞窟蜥蜴は前脚を岩壁へ掛け、六本の脚で石へ張りつきながら後を追った。低い位置なら登れるらしい。
「来るぞ!」
上からエリリアが壁を見下ろす。
「この傾斜なら、高いところまでは追えないはずです!」
「はず?」
「少なくとも同じ速度では来られません!」
「今はそれ信じる!」
レンは右手を次の鉄輪へ伸ばし、左足を窪みへ置く。右脚を持ち上げた瞬間、噛み傷の奥が強く疼いた。地上を歩くより、脚を高く持ち上げる動きの方が負担が大きい。
「っ……」
「脚?」
アイリがすぐに気づく。
「痛い。でも動く」
「次の足場までゆっくり!」
下では洞窟蜥蜴がまだ追っていたが、壁の傾斜が強まるほど動きは鈍くなる。数メートル登ったところで脚の一本が滑り、それでも顎を上へ伸ばそうとしたものの、レンがさらに二段高度を稼ぐと届かなくなった。
やがて洞窟蜥蜴は足場を失い、石道へ落ちた。大きく傷ついた様子はなかったが、再び同じ場所から登ろうとはせず、下からレンを見上げている。
レンが短く息を吐いた直後、頭上から翼音が近づいてきた。
◇
飛翼獣たちは狙いをレンへ変えていた。
地上にいた時とは違い、今のレンも壁から自由に離れられない。一体が高い位置から円を狭め、もう一体が反対側へ回っている。
「右上に一体!」
アイリが叫ぶ。
「左にもいます!」
エリリアが続ける。
「どっち見る?」
「登って!」
アイリの答えは早かった。
「私たちが見る!」
レンは空を追うのをやめた。
右手で次の鉄輪を掴み、左手を岩へ添え、脚で身体を押し上げる。
翼音が近づく。
「右から来る!」
アイリの声が飛ぶ。
レンは壁へ身体を寄せた。
上からエリリアの風が走る。
地上より高い位置では、谷を抜ける空気の流れも速い。彼女はその流れを正面から止めず、飛翼獣の進行方向へ斜めに重ねた。
魔物の片翼が煽られ、狙っていたレンより上へ軌道がずれる。
鉤爪が頭上を通過した。
「今、二段!」
アイリが叫ぶ。
レンは続けて高度を上げる。
右脚が痛む。
左前腕にも痺れが溜まっていく。
それでも止まらない。
もう一体が近づいた。
「左!」
エリリアが叫ぶ。
レンは振り向かず、身体を壁へ寄せる。
飛翼獣が横から入り込む。
エリリアは先ほど風を使った直後で、大きく軌道を変えるほどの余裕がない。
アイリが岩棚の縁へ身体を寄せた。
「アイリ、出すぎないで!」
エリリアが止める。
「でも!」
「声を!」
アイリはすぐに意図を理解し、飛翼獣とレンの位置を見比べた。
「お兄ちゃん、今止まって!」
レンが動きを止める。
「そのまま!」
飛翼獣は、動き続ける獲物が次の足場へ移る位置を狙っていた。レンが止まったことで牙と鉤爪が想定より前を通り、翼の端が岩壁へ触れる。
姿勢が崩れた。
その瞬間、エリリアが細剣を横へ振った。
短い風が飛翼獣の背へ入り、身体を岩壁から外側へ押し出す。
魔物は攻撃を続けられず、高度を取り直した。
「今!」
アイリが叫ぶ。
レンは再び登る。
「お前、よく見えてるな!」
「上からだと見える!」
「頼む!」
「任せて!」
役割が入れ替わっていた。
さっきまでは下にいたレンが、アイリから見えない角度を伝えていた。今はアイリが上からレンの死角を見て、エリリアが風で敵の軌道を崩す。
レンは戦うことではなく、登ることへ集中した。
それだけで動きに迷いが減った。
◇
中ほどの岩棚へ到達した頃には、レンの呼吸も荒くなっていた。
額から汗が落ちる。右脚には重い痛みが溜まり、左前腕の痺れも強くなっている。特に薬指と小指は鉄輪を長く掴もうとすると力が抜けやすかった。
そこでレンは、右手を次の鉄輪へ移し、脚で身体を押し上げ、左手は姿勢を保つためだけに使う動きを繰り返して高度を稼いだ。
「一回止まる?」
アイリが聞く。
「止まると飛んでくるだろ」
「来ても私たちが見る」
「じゃあ少しだけ」
レンは身体を岩へ寄せ、右腕を休ませながら呼吸を整えた。
上ではエリリアも肩を上下させている。細かな風を何度も正確に使った疲労が、呼吸へ表れ始めていた。
アイリの右肩も、動かさずにいると固まるらしい。彼女は左手で右肘の位置を僅かに調整している。
三人とも疲れていたが、誰か一人だけが限界まで負担を背負っているわけではない。
「もう半分ないよ」
アイリが言った。
「そう言われると行けそうな気がする」
「気じゃなくて行くの」
「厳しいな」
「お兄ちゃんにだけ」
「知ってる」
レンは呼吸を整え終え、次の鉄輪へ右手を伸ばした。
「行く」
◇
飛翼獣たちの攻撃は、それまでより慎重になっていた。
一体ずつ同じ軌道を繰り返すのではなく、距離を空けながら連続して入ってくる。一体目がエリリアに風を使わせ、その直後を次が狙おうとしているように見えた。
「合わせてきています」
エリリアが低く言った。
「こっちのやり方見てる?」
アイリが尋ねる。
「少なくとも、同じ失敗は繰り返していません」
「賢いな」
壁に張りついたレンが言う。
「褒めてる場合?」
「褒めてない!」
一体が正面からレンへ降下する。
エリリアはすぐには風を使わなかった。
「レン、そのまま登って!」
「え?」
「まだ!」
飛翼獣が距離を詰める。
アイリが空と壁を見比べる。
「あと少し!」
レンは次の鉄輪を掴み、身体を一段上げる。
飛翼獣が翼を畳んだ。
「今、壁に寄って!」
レンが身体を伏せる。
その瞬間、エリリアの細剣が大きく横へ走った。
風は魔物へ直接叩きつけず、いったん岩壁へ向けて流す。跳ね返るように向きを変えた風が、真っ直ぐ降下していた飛翼獣の下側へ入り込んだ。
身体が予想より高く浮く。
飛翼獣は翼を広げて修正しようとしたが、既に速度が乗りすぎていた。
片翼の先端が岩壁へ強くぶつかる。
魔物が大きく回転し、胴の側面から再び石へ衝突した。
硬い音が裂谷へ響く。
飛翼獣は数メートル落下しながら翼を開こうとしたものの、片方が思うように動かない。もう一度壁へ当たり、さらに高度を失った末、完全な墜落だけは避けるように斜め下へ滑空し、裂谷の底に近い岩陰へ姿を消した。
上空の残りの飛翼獣が距離を取る。
すぐに次が降りてくる様子はない。
「今のうち!」
アイリが叫ぶ。
レンは一気に二段上がった。
右脚の奥が強く疼いたが、足は滑らない。
岩棚までは、もう数メートルしかなかった。
「レン、次の右手の位置、少し外です!」
エリリアが指示する。
「見えた!」
鉄輪を掴み、左足を上げ、右足で身体を押す。
最後の区間へ入った。
◇
岩棚の縁へ近づいた頃には、レンの右腕もかなり疲れていた。
左手を最後の鉄輪へ掛ける。
薬指と小指の握りは弱い。
無理に五本全部へ力を入れず、親指と人差し指、中指を中心に位置を保つ。
上からアイリが身体を寄せた。
「左手、無理してない?」
「長くは無理」
「じゃあ右手こっち!」
アイリは左前腕を差し出した。
レンが見上げる。
「肩は?」
「左だから大丈夫! 早く!」
「そうだった」
レンは右手を伸ばし、妹の前腕を掴んだ。
ただしアイリに引き上げてもらうのではない。
右足で最後の足場を押し、安全縄へも僅かに体重を預ける。エリリアは固定点の側で縄を調整し、急に引き上げすぎないよう支えた。
レンの胸が岩棚の高さへ届く。
左前腕へ強い荷重を掛けないよう右肘を棚へ置き、身体を横へ滑らせる。
アイリが左腕を引き、エリリアも重心が谷側へ戻らないよう背中側を支えた。
レンは岩棚へ身体を上げ切った。
「……着いた」
「着いたね」
アイリが笑う。
「ちゃんと三人です」
エリリアも息を整えながら言った。
レンは一度呼吸を整えてから身体を起こした。
「飛翼獣は?」
「まだいます」
アイリが空を見る。
残った影は高い位置を旋回していたが、先ほどまでのようにすぐ高度を落とそうとはしていない。三人が同じ場所へ揃ったからか、何度も攻撃を外され、仲間の一体が岩壁へ衝突したからか、その理由までは分からなかった。
「今のうちにここ離れよう」
レンが立ち上がる。
右脚へ体重を掛けた瞬間、鈍い痛みが返り、僅かに顔が歪んだ。
アイリがすぐに気づく。
「歩ける?」
「歩ける。走るのは今は嫌」
「私も右肩は休ませたい」
エリリアは自分の手のひらを見る。鉄具と岩を掴み続けたため赤く擦れてはいたものの、皮膚が大きく裂けているわけではない。
「私も少し休みたいですが、ここは開けすぎています」
「先に安全なところまでだな」
レンが答えた。
エリリアは岩棚の奥へ目を向けた。
そこには人が一人ずつ通れる程度の幅で、岩壁に沿う細い道が続いている。自然にできた足場だけではなく、壁側の石はところどころ平らに削られ、古い鉄具も残っていた。
「点検路が続いています」
「向こう側まで?」
「少なくとも、この亀裂を回り込む方向には」
「じゃあ行こう」
三人は荷物を持ち直した。
レンは腰の少し右側に収まった黒銀の剣と剣帯を確かめ、アイリも短剣の位置を確認する。エリリアは細剣を鞘へ戻した。
狭い岩棚では横に並べないため、三人は一列になって点検路を進み始めた。
◇
上の点検路は、下の石道より遥かに狭かった。
片側には岩壁が迫り、反対側は裂谷へ向かって急激に落ち込む斜面になっている。それでも壁へ鉄具や削られた足場が残っている分、完全な自然道よりは歩きやすかった。
エリリアが先頭に立ち、アイリが中央、レンが最後を歩く。
誰も急がない。
飛翼獣はまだ上空を回っているが、距離を詰めてはこなかった。
しばらく進むと、点検路は大きく右へ回り込み始めた。先ほど越えられなかった亀裂の上部を迂回しているらしく、足元の遥か下には壊れた橋台が見える。
「本当に橋あったんだな」
レンが言った。
「嘘をつく理由がありますか」
「疑ってたわけじゃない」
「少し疑ってた顔だった」
前を歩くアイリが言う。
「何で分かるんだよ」
「妹だから」
「便利だな、その理由」
会話をする余裕が戻ってきたことに、レン自身が少し驚いた。
ほんの少し前まで、空から牙が降っていた。今も完全に安全な場所とは言えない。
それでも三人とも自分の足で歩いている。
アイリは右肩を庇いながらも歩調を保ち、エリリアも疲れた呼吸を整えながら周囲の風を確かめている。レンの右脚も痛むが、走らなければまだ歩けた。
やがて点検路の先で岩棚が少し広がり、三人はそこで足を止めた。
そこからは、裂谷の底がよく見えた。
「……あれ」
アイリが声を落とした。
下で何かが動いている。
◇
崩落跡の一部が崩れていた。
岩甲獣が長い時間を掛けて反対側から押し続けたのだろう。巨大な身体そのものが通れるほどではないが、頭部と片方の前脚を出せる程度の隙間が開き、その周囲へ洞窟蜥蜴が集まっていた。
一体が岩甲獣へ噛みつく。
硬い甲殻には牙が通らない。
それでも別の個体が前脚の付け根へ回ろうとした瞬間、岩甲獣の太い爪が振り下ろされた。
石道が震え、洞窟蜥蜴の身体が横へ弾かれる。
その隙に別の個体が岩甲獣の脚へ飛びついた。
さらに上から飛翼獣の一体が急降下する。
今度の狙いは人間ではない。
負傷して動きの鈍った洞窟蜥蜴だった。
「……あいつら」
レンが呟く。
「私たちを追わなくなったんじゃなくて、別の獲物に変えたんだ」
アイリが言った。
「そのようです」
エリリアの声は静かだった。
飛翼獣の鉤爪が洞窟蜥蜴の背へ食い込み、襲われた個体が身体を捻って牙を上へ向ける。
さらに別の飛翼獣が降りる。
岩甲獣も激しく咆哮する。
その音は左右の壁に何度も反射し、三人のいる高い岩棚まで届いた。
レンたちは近づかなかった。
下の戦いへ戻る理由はない。
「行こう」
レンが言う。
だがアイリは、もう少しだけ裂谷の底を見ていた。
「待って」
「どうした?」
彼女が指差す。
裂谷の底には細い水の流れがあった。乾いた石道の脇を縫い、岩の裂け目から現れては再び影へ消えていく程度の小さな水路だ。
倒れた洞窟蜥蜴の身体から流れた血が、そこへ落ちている。
暗い水へ細い赤が混じり、流れに引かれて裂谷の奥へ伸びていった。すぐに薄まりかけたものの、飛翼獣の傷や洞窟蜥蜴の裂けた脚、岩甲獣の爪に倒された獲物の下からも新たな血が流れ込み、幾筋もの赤が水の中で重なりながら少しずつ色を濃くしていく。
流れは争いに構うことなく、その血を裂谷の奥へ運んでいた。
エリリアが先に視線を外す。
「ここを離れましょう」
アイリも頷いた。
「うん」
三人は点検路の先へ向き直った。
背後では岩甲獣の咆哮と飛翼獣の甲高い声が岩壁へ反響し続けている。
その下を流れる細い水路だけが、争いの音にも魔物たちの動きにも関わりなく裂谷の奥へ続いていた。
石の間を抜けていくその流れには、もう消えきらない赤が静かに広がり始めていた。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!




