第一章 第二十七話 逃げ場なき谷
岩塊の向こうから響いた岩甲獣の咆哮が、崩落によって狭められた裂谷の空気を震わせた。
レンたちの背後では、積み重なった巨石が低く軋んでいる。岩甲獣が反対側から身体をぶつけているらしく、時折細かな砂が岩の隙間から零れ落ちた。すぐに崩れる様子はないものの、あの巨体がいつまでも諦める保証もない。
前方では、薄暗い岩陰や壁際の裂け目から現れた洞窟蜥蜴が、低い姿勢のまま道を塞ぐように広がっていた。見えているだけでも六体おり、さらに奥の影でも石色の身体がいくつか動いている。地面へ落ちた唾液の周囲からは、石が焼けるような微かな音とともに細い白煙が立ち昇っていた。
遥か頭上では、飛翼獣の影が円を描いている。
レンは右手の黒銀の剣を握り直した。右脚には先ほどまでの逃走で溜まった痛みが残り、左前腕にも鈍い痺れがある。どちらも動けなくなるほどではないが、何度も無理を押し通せる状態ではなかった。
「後ろは、しばらく大丈夫そう?」
アイリが崩落跡を見ながら尋ねた。
「今すぐ抜けてくることはないと思います」
エリリアは細剣を構えたまま答える。
「ただ、あれが岩を動かし続ければ分かりません」
「じゃあ、前を開けるしかないな」
レンが言った。
洞窟蜥蜴の一体が頭を低くし、六本の脚を石道へ広げる。
その変化を見たアイリがすぐに声を飛ばした。
「右側、二体動く!」
「見えています」
エリリアが細剣の切っ先を下げた。
「倒すことより、道を作ります。中央が開いたら止まらず抜けてください」
「エリリアも一緒にだぞ」
「もちろんです」
「念のため」
「信用されていませんね」
「お互い様だろ」
アイリが二人の間から前を見る。
「話してる間に来るよ」
言葉が終わるより早く、右側の洞窟蜥蜴が地面を蹴った。
低い身体が石道を滑るように迫る。
「右!」
アイリの声に合わせてレンが半歩だけ前へ出た。
右脚へ大きく踏み込まず、剣の間合いへ入ってくるのを待つ。洞窟蜥蜴が顎を開いた瞬間、黒銀の刃を横から当て、噛みつく向きを外へ逸らした。
硬い鱗を断ち切ろうとはしない。必要なのは顎の軌道を変えることだけだった。
洞窟蜥蜴の身体がレンの横を滑り、そのまま壁際へぶつかった。
同時に中央の二体が動く。
エリリアが細剣を低く払った。
刃先から生じた風が地面の砂を薄く巻き上げ、洞窟蜥蜴の顔へ叩きつける。巨体を吹き飛ばすような力ではなかったが、視界を奪われた二体が一瞬だけ頭を振った。
「今です!」
三人は揃って前へ出た。
アイリが左側を見る。
「左、来る!」
岩陰から一体が回り込んでいた。
アイリは右肩を大きく動かさず、左手の短剣だけを前へ出す。洞窟蜥蜴が足元へ食いつこうとしたところで顎の側面へ刃を当て、身体ごと横へずれることで軌道を外した。
強く押し返そうとはしない。向こうの勢いを、そのまま自分たちの進路から外へ流す。
肩の奥へ軽い痛みは走ったが、先ほどのような鋭さはなかった。
「大丈夫?」
レンが横目で確認する。
「大丈夫。前見て」
「了解」
三人は数歩進む。
洞窟蜥蜴たちもすぐに向きを変えた。
後方では岩甲獣がまた崩落跡へ身体をぶつけたらしく、岩同士が擦れる低い音が聞こえる。
「止まらない!」
アイリが叫ぶ。
今度は前方の三体が横一列へ広がった。狭い道いっぱいに低い身体が並ぶ。
「中央、少し離れてる」
アイリが言った。
エリリアも同じ隙間を見ていた。
「レン、右の一体だけ向きを変えられますか」
「やる」
「倒さなくていいです」
「分かってる」
レンは右側の洞窟蜥蜴へ剣先を向けた。
自分から大きく踏み込まず、相手が来るのを待つ。
顎が開く。
その瞬間だけ剣を振った。
刃が硬い鱗へ浅く滑り、頭の向きが僅かに外側へ逸れる。
そこへエリリアの風が横から重なった。
洞窟蜥蜴そのものを押し倒すほどではないが、既に崩れていた重心をさらに外へ流すには十分だった。
一体が隣の個体へぶつかる。
二体の身体が一瞬絡み、中央に人一人分の隙間が開いた。
「通る!」
アイリが最初に踏み込む。
エリリアがそのすぐ後ろにつき、レンも最後尾から離れなかった。
左右から牙が迫る。
エリリアは細剣を左側へ送り、脚と胴の境目を浅く斬る。洞窟蜥蜴が痛みに身体を捻ったことで、アイリの背中へ伸びていた顎が外れた。
右側では別の個体がレンへ噛みつこうとする。
牙の間から唾液が飛んだ。
レンは剣で受けず、身体を後ろへ反らして避ける。
透明な雫が足元の石へ落ち、すぐに白い煙を上げた。
「剣にもつけないで!」
アイリが叫ぶ。
「そのつもり!」
レンは一歩進み、洞窟蜥蜴の顎が閉じた直後を狙って剣の腹で横から押した。
力比べではない。
向きを変えるだけでいい。
開いた進路へ身体を滑り込ませる。
三人が群れの中央を抜けた。
「そのまま!」
エリリアが言う。
後ろから洞窟蜥蜴たちが追ってくる。
しかし全てが同時に動けたわけではない。先ほどぶつかった二体と、脚を傷つけられた一体が狭い道の中央でもつれ、後続の進路を塞いでいた。
レンが振り返る。
「勝手に詰まってる」
「好都合です」
エリリアは一度だけ細剣を後ろへ向け、地面近くへ風を流した。
巻き上げられた砂が追ってきた個体の顔へ広がる。完全に止めることはできないが、数秒あれば十分だった。
「行きます!」
三人は群れを倒し切ることなく、裂谷の奥へ距離を取った。
◇
洞窟蜥蜴の姿が岩壁の曲がり角に隠れるまで進んだところで、レンたちはようやく歩調を落とした。
右脚の奥に溜まっていた鈍痛が、速度を落とした途端にはっきりしてくる。
レンは呼吸を整えながら一度だけ脚を動かした。
「どう?」
アイリが尋ねる。
「重い。でもさっきと変わらない」
「左手は?」
レンは黒銀の剣を右手に持ったまま、左手の指を開閉する。薬指と小指の動きには僅かな遅れがある。
「ちょっと疲れた。動く」
「なら今はそれ以上使わないで」
「使ってないだろ」
「転びそうになった時とか」
「分かった」
今度はレンが妹を見る。
「肩は?」
「さっき少し痛かった。でも大丈夫」
「大丈夫の基準、俺と同じじゃないよな」
「お兄ちゃんより厳しい」
「信用がない」
「実績の差」
「ひどい」
少し先を歩いていたエリリアが立ち止まった。
会話へ加わる様子もなく、前方を見つめている。
「どうした?」
レンが声を掛ける。
返事はすぐに来なかった。
エリリアは数歩進み、古い石道の端へ近づく。
「待ってください」
三人の足が止まった。
そこから先に、道がなかった。
◇
裂谷の底を走っていた古い道は、数十歩先で大きく途切れていた。
左右の岩壁そのものが裂けたような深い亀裂が横切り、向こう側の道まで広い空白が開いている。
底は見えない。
レンが足元の小石を一つ拾って落とすと、何度か壁へ当たる音が続いた後、かなり長い間を置いてから小さな衝突音が返ってきた。
「……渡れないよね」
アイリが亀裂の縁から一歩下がる。
「今は」
エリリアの声が硬い。
彼女は向こう岸ではなく、左右の岩壁を見ていた。
「前に来た時も、ここあった?」
レンが尋ねる。
「亀裂はありました」
「じゃあどうやって?」
「橋がありました」
二人が彼女を見る。
エリリアは崩れた道の端に残る石組みへ近づいた。
よく見れば、左右には古い橋台らしい構造が残っている。太い石材が何本か折れ、片方は亀裂の中へ傾いていた。
「ここを渡ったことある?」
「一度だけです。その時は木と石を組んだ橋が残っていました」
「いつ?」
「数年前です」
アイリが亀裂を見下ろす。
「その間に落ちたんだ」
「おそらく」
エリリアは橋台の近くへしゃがみ、崩れた石の間を確認した。
そこで、岩へ埋め込まれた錆びた鉄輪を一つ見つける。
さらに少し上にも別の金具があった。
レンが岩壁を見上げた。
「上にもある」
最初は自然の凹凸にしか見えなかったが、目を凝らすと壁には一定の間隔で人工的に削られた足場が残っていた。岩へ直接打ち込まれた古い鉄輪や短い金具も、ところどころ錆びながら残っている。
真上へ一直線に続いているわけではない。
壁は途中から僅かに傾き、十数メートルほど上に細い岩棚が見える。その先は亀裂の向こう側へ回り込むように続いていた。
「これ、登るためのもの?」
アイリが尋ねる。
「橋を点検する人たちが使っていたのでしょう」
エリリアは目で経路を追う。
「上の棚まで行ければ、壁沿いに向こうへ回れる可能性があります」
「可能性?」
「上から先が見えません」
「他に道は?」
三人が後ろを見る。
今来た道の遥か向こうから、洞窟蜥蜴が石を擦る音が僅かに聞こえ始めている。
そのさらに奥では、岩甲獣の咆哮がまだ時折響いていた。
レンは再び亀裂を見る。
「ないな」
「ないね」
アイリも答えた。
エリリアは壁へ近づき、一番低い鉄輪へ軽く力を掛けた。
錆は浮いているが、すぐ抜ける様子はない。
「これ一個だけに頼るのは嫌だな」
レンが言う。
「私もです」
三人は荷物を開いた。
村を出る際に分けて持ってきた縄を取り出し、長さと傷みを確認する。
エリリアは壁へ残る鉄具を見上げた。
「登りながら使える金具だけ確かめます。縄は私の腰へ結んで、途中の丈夫な輪を通しながら上へ持っていきます」
「下で俺たちが持つ?」
「はい。ただし、私を引っ張り上げるためではありません。滑った時に落ちる距離を減らすためです」
アイリが縄と壁を見比べる。
「上に着いたら?」
「そこで二か所以上へ固定し直します。それから二人を上げます」
レンがエリリアを見る。
「最初に行くつもりか」
「三人の中で最初に登るなら私でしょう」
反論しようとして、レンは自分の右脚を見る。
続いて左前腕。
アイリも自分の右肩へ視線を落とした。
「今回は、その通りだと思う」
アイリが言った。
「私、上で縄を固定する役はちょっと怖い」
「俺も今の腕と脚で最初はやめた方がいいな」
エリリアが僅かに眉を上げる。
「二人とも素直ですね」
「毎回逆らうと思うなよ」
「少し思っていました」
「ひどいな」
レンは縄の端を確かめる。
「でも、一人で全部やるって意味じゃないからな」
「分かっています」
エリリアは細剣を鞘へ納め、腰の位置を確かめてから縄を結んだ。
「私が上へ行って固定します。その後はアイリ、最後にレンです」
「俺が最後?」
「今、地上で一番戦えるのはあなたです」
「エリリアが上へ行った後なら、ってことか」
「そうです」
アイリが後ろを見る。
「でも無理して残らないでね」
「分かってる」
「本当に?」
「また俺だけ確認するのか」
「だってお兄ちゃんだから」
「理由になってない」
「私にはなってる」
レンは言い返しかけたが、結局諦めた。
「近づかれたら縄のところまで下がる。約束する」
アイリはそれでようやく頷いた。
◇
登り始める前に、三人は壁の低い位置に残る鉄具を一つずつ確認した。
使えそうな輪を見つけるたび、エリリアは縄を通し、下の二人が急な落下だけを受け止められるよう経路を作っていく。古い金具の中には触れただけで錆が落ちるものもあり、そうした箇所は使わず、岩そのものへ深く埋め込まれているものだけを選んだ。
「それ、誰に教わった?」
レンが尋ねる。
「村で荷物を吊るす時にも似た考え方を使います」
「エルフって何でもできるな」
「全員ではありません」
「エリリアが何でもやってるだけじゃない?」
アイリが言う。
「だから全部任せないでください」
「ちゃんと覚えてる」
エリリアは最後に腰の結び目を確かめた。
「私が滑った時、急に引き上げようとしないでください。縄が張るまで余分な分だけ取って、落ちる勢いを抑える程度で」
「了解」
レンは主に右手で縄を扱い、左前腕へ強い荷重が掛からない位置を取った。
アイリも横から縄の動きを見られる場所へ立つ。
「行きます」
エリリアが最初の足場へ右足を置いた。
両手で岩の凹凸と鉄具を使い、身体をゆっくり持ち上げる。
剣は腰へ固定したままだ。
三人分の荷物のうち重いものは下へ残し、彼女が背負っているのは必要最低限だけだった。
「ゆっくりでいいよ」
アイリが声を掛ける。
「そうします」
エリリアは一つずつ確実に位置を変えた。
丈夫そうな鉄輪へ縄を通してから次へ進み、右手で金具を掴み、左足を削られた窪みへ置く。届きにくい足場へ無理に身体を伸ばさず、使える凹凸を探しながら高度を上げていった。
地上ではレンが縄の余分な弛みを取り、アイリが上空と後方を交互に見張る。
「五メートルくらい?」
レンが尋ねる。
「もう少し」
アイリが見上げたまま答える。
「上ばっか見て首痛くならない?」
「今それ言う?」
「ちょっと思っただけ」
「後ろ見て」
「はい」
レンが振り返る。
洞窟蜥蜴はまだ見えない。
ただし石を擦る音はさっきより近くなっていた。
「来てるな」
「どれくらい?」
「まだ曲がり角の向こう」
頭上からエリリアの声が降りてくる。
「焦らせないでください」
「焦らせてない!」
「聞こえています!」
「耳いいな!」
そんな会話ができたのも、そこまでだった。
アイリの表情が突然変わる。
「エリリア、上!」
岩壁の縁を横切っていた飛翼獣の一体が、翼を畳み始めていた。
エリリアはすぐに顔を上げる。
飛翼獣が壁沿いへ急降下してくる。
地上の時のように自由へ避けられる場所ではない。
エリリアは右手で鉄輪を掴み、左手を岩の縁へ掛け、両足もそれぞれ狭い足場へ置いて身体を支えていた。どれか一つを外せば、その分だけ姿勢が不安定になる。
「降りないで!」
レンが叫ぶ。
「そのまま!」
エリリア自身も同じ判断をしていた。
下へ飛び降りれば縄が支えてくれるとしても、壁へ強く振られる危険がある。
飛翼獣は真っ直ぐ彼女を狙っていた。
エリリアは右手の鉄輪を離さず、左手だけを岩から一瞬外した。
身体の脇へ小さく払う。
壁に沿って上昇していた風が横へ折れ、飛翼獣の片翼へ狭い範囲だけぶつかった。
高速で降下していた身体の角度が崩れる。
魔物が慌てて翼を広げ、鉤爪がエリリアの肩から僅かに外れた位置を通過した。
だが風を使うために左手を離した一瞬で、彼女の左足が足場から滑った。
「エリリア!」
身体が下へ落ちる。
右手は鉄輪を掴んだままだったが、片腕だけでは体勢を保てず、足が壁から離れた。
腰へ結ばれた縄が、下側の丈夫な鉄輪を経由して張る。
レンは右手で弛みを取り、急な落下だけを止めた。
エリリアの身体は大きく落ちる前に止まり、壁へ腰を軽くぶつける。
「っ……!」
「大丈夫!?」
アイリが叫ぶ。
「大丈夫です!」
エリリアは呼吸を整えながら左足を足場へ戻し、左手も岩へ掛け直した。
「手は?」
「問題ありません」
「腰ぶつけた」
「少しだけです」
「少しってどれくらい」
レンが聞く。
「今それを始めないでください!」
「了解!」
飛翼獣は再び高度を上げていた。
他の影も動き始めている。
アイリがそれを見て、声を落とした。
「見られてる」
「分かってる」
レンも空を見る。
さっきの一体だけではない。
複数の飛翼獣が、先ほどまでより明らかに低い位置を回り始めていた。
「エリリア、急がなくていい。でも止まりすぎない方がいい」
「難しい注文ですね」
「ごめん」
「正しいので困ります」
エリリアは再び登り始めた。
◇
そこからは会話も減った。
エリリアが一つ上へ進むたび、レンは縄の弛みを調整し、アイリは上空と後方を見張った。
洞窟蜥蜴の音は確実に近づいている。
飛翼獣も離れない。
岩甲獣の咆哮だけは崩落の向こうへ遠ざかっていたが、代わりに今いる場所そのものが逃げ道のない袋小路へ変わりつつあった。
やがてエリリアは壁の途中にある狭い岩棚へ到達した。
そこから先は壁が少し斜めになっており、上の棚までは数メートルだった。
「あと少しです!」
レンが見上げる。
「上に固定できそうな場所ある?」
「確認します!」
エリリアは岩棚へ身体を寄せ、残っていた鉄具を一つずつ確かめながら進む。
古い金具の一つは軽く触れただけで錆が崩れた。
「それ駄目そう?」
「駄目です」
「怖いこと普通に言うな」
「だから使いません!」
もう少し上には、岩へ深く埋め込まれた太い鉄輪が残っていた。
さらに横へ数歩進んだ場所には、自然の岩柱も突き出している。
「二か所使えます!」
「片方駄目でも大丈夫そう?」
「そのつもりで固定します!」
エリリアが上の棚へ身体を引き上げる。
完全に立ち上がった姿が見えた瞬間、アイリが安堵したように息を吐いた。
「着いた」
「着いたな」
しかし休んでいる時間はない。
エリリアはすぐに縄を引き上げ、太い鉄輪と岩柱の二か所へ荷重が分かれるよう固定し直した。
何度か体重を掛けて確認してから、下へ声を飛ばす。
「大丈夫です!」
レンも下から縄の張りを確かめた。
「次、アイリだな」
「うん」
アイリは短剣を鞘へ戻した。
肩から提げていた軽い荷物も外し、後で引き上げられるよう一か所へまとめる。
レンが彼女の右肩を見る。
「本当に登れる?」
「右手を使わないとは言ってないよ」
「でも体重全部は掛けるな」
「分かってる。左と脚を多めに使う」
上からエリリアも声を掛ける。
「右手は補助だけで構いません。縄にも少し体重を預けてください」
「うん」
「腕だけで登ろうとしないでください」
「それは肩が元気でも無理そう」
「正しいです」
レンが少し笑う。
「何かあったらすぐ下りろよ」
「お兄ちゃんこそ」
「俺は下にいるだけだろ」
「洞窟蜥蜴、来てる」
アイリが道の奥を見る。
曲がり角の向こうに、低い灰色の影が一瞬だけ見えた。
レンの表情が変わる。
「もう来たか」
「まだ距離はあります!」
上からエリリアが言う。
「アイリ、今のうちに!」
「分かった」
アイリは壁へ向いた。
左手で最初の鉄輪を掴み、左足を削られた足場へ置く。右手は肩より高く無理に伸ばさず、胸の高さにある岩の凹凸へ軽く添えた。
エリリアが上から縄の張りを調整する。
「引っ張りすぎないでね」
「分かっています」
アイリが一段上がる。
右肩に痛みが出ていないか確かめるように一度動きを止め、それからもう一段進んだ。
「どう?」
レンが尋ねる。
「いける」
「痛かったら言えよ」
「お兄ちゃんもね」
「今それ返すのか」
「返す」
アイリが三つ目の足場へ進んだ。
その背中を見届けてから、レンは地上へ残された荷物を一か所へ寄せる。
黒銀の剣は腰へ戻さず、右手に持ったまま洞窟蜥蜴の来る方向へ身体を向けた。
曲がり角の向こうから、石を擦る音が近づいてくる。
最初の一体が姿を見せ、その後ろにもいくつかの影が続いていた。
レンは壁から離れすぎない位置へ立つ。
ここで倒し切る必要はない。
アイリが上へ着くまで近づけさせず、自分の番になればすぐ縄へ移る。
それだけでいい。
「レン!」
エリリアが上から呼ぶ。
「無理して残らないでください!」
「分かってる!」
「約束しましたからね!」
「覚えてる!」
洞窟蜥蜴が一歩進む。
レンも黒銀の剣を構えた。
その時、上空からこれまでより低い翼音が響いた。
レンが顔を上げる。
岩壁の縁を回っていた飛翼獣たちが、一体ずつ高度を下げ始めていた。
先ほどエリリアを試した時とは違う。
一体だけではない。
複数の影が、壁を登るアイリへ向けて大きく円を狭めている。
「アイリ!」
レンが叫んだ。
壁の途中で、アイリが顔を上げる。
上の岩棚ではエリリアが縄を握り直した。
飛翼獣の一体が翼を畳み、続いて別の影も降下姿勢へ入る。
地上ではレンの前へ洞窟蜥蜴が迫り、壁の途中にはアイリ、上の岩棚には縄を支えるエリリアがいる。その三人を縦に分けるように、飛翼獣たちが空から一斉に高度を落とし始めた。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
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