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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
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第一章 第二十六話 岩壁に響く咆哮

咆哮が岩壁へぶつかり、幾重にも反響しながら裂谷の奥へ走っていった。


 耳の奥まで震わせるような音圧に、レンは思わず奥歯を噛み締めた。背後で巻き上がった砂煙はまだ完全には落ち着かず、細かな石の欠片が古い石道を転がっている。その向こうに立つ巨大な影が一歩動くたび、靴底から身体へ低い振動が伝わった。


 やがて谷を抜ける風が砂を少しずつ押し流し、影の輪郭を露わにしていく。


 熊よりも明らかに大きい。四肢は太く、背から肩にかけて何層もの岩板を重ねたような甲殻が覆っていた。地面へ着いた前脚の先には太い爪が並び、一歩踏み込むだけで石の表面が削れる。低く突き出した頭部も頑丈な外殻に守られ、額から頬にかけては本物の岩と見紛うほど硬質な灰色をしていた。


「岩甲獣……」


 エリリアの声に、先ほどまでとは違う緊張が混じった。


「知ってるの?」


 アイリが左手の短剣を構えたまま尋ねる。


「はい。ですが、この辺りまで出てくる種類ではありません」


「本当はどこにいる?」


「もっと裂谷の奥です」


 レンは巨大な獣から目を離さなかった。


「何でこんな入口近くにいるんだ」


「分かりません」


 エリリアも不用意な推測はせず、細剣を構え直した。


 岩甲獣が頭を低くし、太い四肢へ力を集める。


 その変化を最初に捉えたのはアイリだった。


「来る!」


 次の瞬間、巨体が地面を蹴った。


 大きさから想像していたより遥かに速い。


「横へ!」


 エリリアの声と同時に、三人は直線上から外れた。


 岩甲獣が前脚を振り上げる。レンは右へ踏み込み、落ちてくる爪の真正面から身体をずらした。それでも軌道の端に引っ掛かると判断し、黒銀の剣を右手で振るって爪の側面へ斜めに刃を当てる。


 止めるためではない。あの重量を正面から受け止めれば、剣より先に自分の身体が持たない。


 金属を叩きつけたような衝撃が剣から右腕へ突き抜けた。それでも爪の向きは数寸だけ逸れ、レンを捉えるはずだった一撃が隣の石道へ落ちる。


 轟音とともに石が抉れ、砕けた欠片が跳ね上がった。


「レン、下がって!」


 アイリの声に反応してレンは右脚で地面を蹴ったが、急激に体重を移した瞬間、噛み傷の奥に残っていた痛みが鋭く返った。


「っ……!」


 足が止まりかける。


 その背中へ、横から細い風が滑り込んだ。


 エリリアが細剣を小さく返しただけの、ごく短い風だった。人一人を吹き飛ばすほどではない。それでも崩れかけた重心を後ろへ押すには十分で、レンは次に振られた前脚の範囲から辛うじて抜ける。


「走れますか!」


「まだいける!」


 レンが答えた瞬間、岩甲獣の頭がエリリアへ向いた。


 彼女は大きく後退せず、一歩だけ踏み込んだ。狙うのは甲殻そのものではない。前脚が地面へ着き、石板のような外殻同士の隙間が僅かに開く瞬間を待つ。


 細剣の切っ先が、前脚の付け根へ滑り込んだ。


 刃に沿って細く流れた風が軌道を乱さず、エリリアは必要最小限の動きだけで横へ斬り抜ける。


 傷は浅かった。


 それでも痛みは通ったらしく、岩甲獣が激しく首を振り、巨体の向きが僅かに崩れた。


「今です!」


 三人は同時に裂谷の奥へ駆け出した。


     ◇


 全力で走ることはできなかった。


 レンの右脚だけが理由ではない。裂谷の道には古い亀裂や砕けた石が至るところに残り、足元を確かめずに速度だけを上げれば簡単に転倒する。先ほど岩甲獣が落とした石の欠片まで散らばり、一歩ごとの判断が必要だった。


 背後からは巨体の足音が追ってくる。


 岩甲獣が一歩踏み込むたびに地面が震え、その音が左右の壁へ反射して何度も戻ってきた。実際より何体も追ってきているように聞こえるため、距離さえ掴みにくい。


「次、右へ曲がります!」


 先頭のエリリアが叫んだ。


 少し先で裂谷の幅が急に狭まり、道が右へ深く曲がっている。三人ならそのまま通れるが、岩甲獣ほどの巨体では速度を落とさなければ壁へ身体を擦るはずだった。


「そこまで行けば離せる?」


 アイリが尋ねる。


「少しは!」


 三人が曲がり角へ入り込んだ直後、背後から凄まじい摩擦音が響いた。


 岩甲獣の肩が岩壁へ擦れたのだろう。石が削れる鈍い音に続き、上方から細かな欠片が降ってくる。


「上!」


 アイリの声に、レンが反射的に頭を下げた。


 拳ほどの石がすぐ横へ落ち、さらに二つが前方の石道へ跳ねる。


 エリリアは振り返りざまに細剣を小さく払った。横へ流れた風が落下する石の一つを僅かに逸らし、レンの背中を外して地面へ落とす。もう一つはアイリの前へ落ちたが、彼女は早めに軌道を見て避けた。


「全部は逸らせません!」


「分かってる!」


 レンは右脚の痛みを無視せず、歩幅を一段小さくした。速度は落ちても、ここで足を取られる方が危険だった。


 後ろから見ていたアイリも言葉を挟まず兄の速度へ合わせ、エリリアも先へ出すぎない。三人の間隔は自然と数歩まで縮まった。


 岩甲獣の咆哮が再び追ってくる。距離はまだ近いものの、先ほどより足音そのものは遅くなっていた。狭い曲がり道が巨体の勢いを殺している。


「少し離れた!」


 後ろを確認したアイリが言う。


「止まらず行きます!」


 曲がり道を抜けると、裂谷は再び少し広がった。


 そこでレンが右脚へ強めに体重を乗せ、僅かに顔を歪める。


「お兄ちゃん」


「分かってる。ちゃんと言う」


 レンは走り続けるのをやめ、呼吸を整えながら歩調を保った。


「右脚はさっきより痛い。でも歩ける。傷が開いた感じはない」


 アイリが頷く。


「左腕は?」


「剣の衝撃が少し響いた」


 左前腕の奥には鈍い痺れが残り、薬指と小指の感覚も普段より僅かに遠い。それでも指は動き、急に悪化した感覚もなかった。


「なら次、無理な受け方しないで」


「受けてない。ずらしただけだ」


「それでも」


「分かってる」


 エリリアが二人を見た。


「次に追いつかれたら、一度私が後ろを――」


「一人で残るのはなし」


 アイリが即座に遮った。


「ですが、今は私が一番動けます」


「だからって一人で岩甲獣を止めるの?」


「止めるとは言っていません」


「なら俺が後ろに――」


「お兄ちゃんも駄目」


「じゃあどうするんだよ」


「三人で進む」


 アイリは二人を交互に見た。


「一人ずつ前に出ないって決めたでしょ。お兄ちゃんが一人で残っても、エリリアが一人で残っても同じ。誰か一人が全部やるんじゃなくて、三人でどうにかする」


 レンもエリリアも一瞬黙った。


 やがてエリリアが小さく息を吐く。


「……はい」


「レンも」


「分かった」


「本当に?」


「今のは俺にだけ確認した?」


「うん」


「ひどいな」


 緊張の中でも、それだけは少し笑えた。


 背後から岩甲獣の足音が再び近づき始める。


「行こう」


 レンが言い、三人はまた裂谷の奥へ進んだ。


     ◇


 先へ進むほど、裂谷の景色は険しくなっていった。


 左右の岩壁には細かな亀裂が増え、かつて整えられていたらしい道もところどころ崩れている。風も一定の方向へ流れず、壁の張り出しや細い割れ目へ当たるたびに向きを変え、小さな渦を作っていた。


 エリリアは時折、細剣の切っ先を僅かに動かして周囲の風を確かめながら先導する。


「ここは左寄りに」


「何かある?」


 レンが尋ねる。


「右側の壁が緩んでいます」


 三人が左へ寄った直後、背後から岩甲獣の足音が響いた。


 巨体が同じ場所へ差し掛かったのだろう。


 壁へ肩がぶつかる鈍い音がして、レンたちが避けたばかりの右側から拳大の石がいくつも転がり落ちる。


「この谷、あいつが通るたび壊れてない?」


 アイリが振り返った。


「元から崩れやすい場所です。ただ、あれほどの巨体が擦れば悪化します」


 レンは歩きながら岩壁を見上げる。


 高い位置にも、長い亀裂が何本か走っていた。


「巻き込まれたくないな」


「だから止まりません」


 その時、頭上を大きな影が横切った。


 先ほどから岩壁の上をついてきていた翼のある魔物の一体が、高度を下げ始めている。


「上、右!」


 アイリが真っ先に見つけた。


 三人が視線を上げる。


「飛翼獣です!」


 エリリアがその姿を捉えて言った。


「急降下に気をつけてください!」


 飛翼獣は羽ばたきというより滑空に近い軌道で速度を増してくる。前へ伸びた細長い顎には牙が並び、脚の先にも鋭い鉤爪が見えた。


「アイリ、角度!」


 レンが叫ぶ。


「右上から! エリリアの方!」


 エリリアは大きく跳んで避けなかった。


 細剣を斜めへ振り、その軌道へ沿わせるように風を曲げる。岩壁に沿って流れていた空気が飛翼獣の片翼を下から叩き、高速で安定していた身体の角度を僅かに崩した。


 爪がエリリアを狙っていた位置から外れる。


 彼女はその下を滑るように抜けた。


「レン!」


 アイリの声が飛ぶ。


 姿勢を立て直そうとした飛翼獣が、今度はレンの側へ流れてくる。


 レンは追いかけなかった。斬りに踏み込めば、それだけ右脚へ負担が掛かる。


 飛翼獣自身が通過する軌道へ、黒銀の剣を置く。


 刃が翼の端を浅く掠めた。


 甲高い声を残し、飛翼獣は再び上空へ逃げる。


 深手ではない。飛べなくなるほど傷ついた様子もなかったが、すぐに二度目の急降下へ入ることはなく、岩壁の上を回る仲間の影へ戻っていった。


「まだいる」


 アイリが空を見上げる。


 高い位置には複数の影が残っている。


「追ってくるつもりかな」


「おそらく」


 エリリアは呼吸を整えた。


「弱るのを待っているのかもしれません」


「嫌なやつらだな」


「今は相手にしません」


「賛成」


 三人は再び歩き出した。


 背後には岩甲獣が迫り、頭上には飛翼獣が残っている。立ち止まれない理由だけが増えていった。


     ◇


 しばらく進むと、岩甲獣の足音はまた遠ざかった。


 道がさらに細く曲がったため、巨体では簡単についてこられないらしい。


 三人は完全には止まらず、歩調だけを少し落とした。


「あとどれくらいで抜ける?」


 レンが尋ねる。


「裂谷全体なら、まだかなりあります」


 エリリアが答えた。


「今日中は無理?」


「最初からそのつもりではありませんでした」


「そうだった」


「今夜どうするの?」


 アイリが聞く。


「この状況なら、場所を選び直す必要があります。狭すぎれば岩甲獣から逃げられませんし、開けすぎれば上から狙われます」


「ちょうどいい場所ってある?」


「探します」


「頼りになるな」


「全部任せないでください」


 エリリアが即座に返した。


 レンが目を丸くする。


「今の自分で言った?」


「言いました」


「学習した」


 アイリが満足そうに頷く。


「あなたたちに言われ続けましたから」


「俺にも何か役目を」


「足元を見て転ばない」


「もっと格好いいやつ」


「今のあなたには重要ですよ」


「否定できない」


 軽いやり取りが途切れた直後、先頭のエリリアが足を止めた。


 表情から笑いが消えている。


「どうした?」


 レンも止まる。


 エリリアは前方の暗い岩陰を見ていた。


「音がします」


 三人とも黙り、周囲へ耳を澄ませた。


 最初は自分たちの足音の残響しか聞こえなかったが、やがて石の上を硬いものが擦るような微かな音が届く。それは一度きりではなく、複数の何かが動いているらしい。しかも、すべて地面に近い位置から聞こえていた。


「岩甲獣じゃないよね」


 アイリが声を落とす。


「違います」


 エリリアが細剣を構え直した。


「前です」


 道は数十歩先で暗くなっていた。


 左側の岩壁が内側へ張り出し、その根元に細い裂け目がいくつも口を開けている。


 その一つから、灰色の頭がゆっくり現れた。


 地面すれすれの位置から覗いた頭には細長い顎が伸び、全身を覆う鱗は周囲の石とほとんど見分けがつかない灰色をしている。続いて低い胴が這い出し、その左右に広がった六本の短い脚で、石道の上を滑るように進んできた。


「洞窟蜥蜴です」


 エリリアが声を落とした。


「危ない?」


 レンが尋ねる。


「群れなら」


 一体目の後ろから二体目が現れ、さらに別の裂け目からも石色の鱗が覗く。


 アイリが目を凝らした。


「今見えるの、五体」


「まだ奥にいます」


 一体の洞窟蜥蜴が口を開く。


 牙の間から粘り気のある唾液が糸を引き、石道へ落ちた。


 小さな音とともに、触れた場所から白い煙が上がる。


 レンの表情が変わった。


「毒?」


「腐食性があります。皮膚につけないでください」


「先に言ってくれて助かる」


「今言ったでしょう」


「十分早い」


 洞窟蜥蜴たちはすぐには飛びかからず、低い身体を左右へ広げながら道を塞ぐように散っていく。


 その背後で、しばらく遠ざかっていた岩甲獣の咆哮が再び響いた。


 アイリが振り返る。


「来てる」


 さらに頭上から飛翼獣の翼音まで聞こえ始めた。


「上も戻ってきた」


 レンは一度だけ目を閉じ、短く息を吐いた。


「全部揃ったな」


「嬉しくない集合ですね」


 エリリアの返事に笑う余裕はほとんど残っていなかった。


     ◇


「どうする?」


 アイリが尋ねた。


 誰か一人へ答えを求めた問いではない。


 三人で決めるための問いだった。


 レンは前方を見る。


 洞窟蜥蜴は少なくとも五体。奥の岩陰にも、まだ複数の影が動いている。


 後ろから近づく岩甲獣を正面から倒すのは難しい。


 頭上の飛翼獣は、こちらが消耗する機会を待っている。


「前を抜ける」


 レンが言った。


「俺はそう思う」


「理由は?」


 アイリが確認する。


「後ろのやつは、広い場所に出ればまた速くなる。前の蜥蜴なら数は多くても、少なくとも岩甲獣よりは隙間を作れる」


「私も同じです」


 エリリアが頷く。


 アイリも前方を見た。


「じゃあ三人とも前」


 エリリアは洞窟蜥蜴たちの位置を確かめる。


「私が風で中央を崩します。その隙間を――」


「また一人で全部やろうとしてる」


 アイリが遮った。


「全部ではありません」


「なら分けよう」


 アイリは左手の短剣を握り直す。


「エリリアは真ん中をずらす。お兄ちゃんは右側。私は左と上を見る」


「アイリは無理に戦わなくていい」


 レンが言った。


「戦わないよ。近づいたやつだけ止める」


「肩は?」


「分かってる。右で強い動きはしない」


「急に後ろへ引くのも避けてください」


 エリリアまで加わる。


「二人とも急に心配する側になるのやめて」


「三人で止め合うんだろ」


 レンが答えた。


 アイリは一瞬黙り、それから小さく笑う。


「そうだった」


 背後の地面が低く震えた。


 岩甲獣が近づいている。


「行きます」


 エリリアが細剣を低く振った。


 刃の軌道から生まれた風が地面を這い、洞窟蜥蜴たちの足元へ溜まっていた砂を巻き上げる。


 完全に視界を奪うほど強くはない。


 それでも石と同じ色をしていた身体の輪郭が一瞬崩れ、中央にいた二体が顔を背けた。


「今!」


 三人は同時に前へ出た。


     ◇


 右側にいた洞窟蜥蜴が低く跳んだ。


 胸の高さまで飛び上がるのではなく、石道の上を滑るような軌道でレンの足元へ食いつこうとする。


「右!」


 アイリの声に、レンがすぐ反応した。


 右脚を大きく踏み込まず、身体だけを半歩引く。噛みつこうと開かれた顎の横へ黒銀の剣を落とし、首そのものを断つのではなく、顎の向きを地面へ押しつけるように斬った。


 硬い鱗に刃が滑る。


 それでも軌道は逸れ、洞窟蜥蜴は勢いを殺せず横へ転がった。


「背中は硬い!」


「脚の付け根を狙ってください!」


 エリリアが答えながら、別の一体へ細剣を走らせる。


 真正面から鱗を斬らず、胴と脚の境目へ切っ先を滑り込ませる。


 細い風が刃に沿って走り、前脚の一本を深く傷つけた。


 洞窟蜥蜴が身体を捻る。


「左、来る!」


 アイリは自分の側へ回り込んだ一体を見ていた。


 飛びかかってくる瞬間を待ち、左手の短剣を横へ出す。斬り倒すのではなく顎の側面へ刃を当て、噛みつく軌道そのものを外した。


 右肩を激しく動かさないよう身体ごと後ろへ回ったものの、均衡を取ろうとした瞬間に右腕が咄嗟に動き、肩の奥が強く疼く。


「っ……!」


「アイリ!」


「大丈夫! 外れてない!」


 痛みは残ったが、関節が崩れた感覚はない。


 アイリはすぐ右腕を身体へ寄せ、左手だけで短剣を構え直した。


 そこへ後方から轟音が押し寄せた。


 岩甲獣が狭い曲がり道を抜けてきたのだ。


 巨体の肩が左側の岩壁へ激しく擦れ、頭上から大量の砂が落ちる。


「急いで!」


 エリリアが叫んだ。


 前にはまだ洞窟蜥蜴がいる。


 後ろからは岩甲獣が迫っている。


 レンは一瞬だけ前方の位置関係を見た。


「エリリア、中央!」


「はい!」


 エリリアが再び細剣を払う。


 今度も洞窟蜥蜴そのものを吹き飛ばそうとはせず、顔へ砂と細かな石を叩きつけることで、ほんの数瞬だけ中央の進路を空けた。


「アイリ、先に!」


「三人で!」


「分かってる! 道を見て!」


 アイリが前へ出る。


 エリリアがそのすぐ後ろへ続き、レンは最後尾についたまま立ち止まらない。


 三人の距離は数歩しか離れていなかった。


 岩甲獣が再び吠え、その圧力だけで背中が強張る。


 巨体が前脚を踏み込んだ瞬間、岩壁の上方から鈍い亀裂音が響いた。


 レンが視線を上げる。


 先ほどから岩甲獣の肩が擦れていた場所で、高い壁に走っていた古い亀裂が僅かに広がっていた。


「エリリア!」


「見えています!」


「崩れる?」


「分かりません。止まらないで!」


 三人は洞窟蜥蜴の群れを抜けるため、さらに前へ進んだ。


     ◇


 一体がアイリの後ろへ食いつこうとした。


「左後ろ!」


 レンが叫ぶ。


 アイリは振り向かず、そのまま前へ踏み込んだ。


 エリリアが二人の間へ入り、下から跳ね上げた細剣で洞窟蜥蜴の顎を逸らす。


 牙の間から飛んだ唾液が石へ散り、白い煙が上がった。


「触れないで!」


「分かってる!」


 直後、上空から翼音が急速に近づいた。


 混乱を好機と見た飛翼獣の一体が、再び降下してきている。


「上、左から!」


 アイリがすぐに捉えた。


 エリリアは洞窟蜥蜴から視線を外せない。


 レンが空を見る。


 自分から斬りに踏み込めば、今の右脚には負担が大きすぎる。


「エリリア、そのまま前!」


「レン?」


「上は俺が見る!」


 飛翼獣が速度を増す。


 レンは剣を高く掲げず、身体の横へ構えて軌道だけを読んだ。


「もう少し……」


 アイリが距離を測る。


「まだ!」


 翼音が一気に大きくなる。


「今!」


 レンは右足ではなく左足を軸に身体を回し、黒銀の剣を斜め上へ振った。


 飛翼獣も直前で危険を察し、翼を傾ける。


 刃は深く入らなかったが、前脚の鉤爪を浅く切った。


 魔物は攻撃を諦め、そのまま上空へ逃れる。


 レンが振り抜いた反動から体勢を戻した際、右脚へ一瞬体重が乗り、噛み傷の奥が強く疼いた。


「っ……」


「お兄ちゃん!」


「動ける!」


 嘘ではない。


 ただし、同じ動きを何度も繰り返せば持たないことも自分で分かっていた。


「あと少し!」


 前方からエリリアの声が飛ぶ。


 洞窟蜥蜴の群れが薄くなり始めていた。


 岩壁の張り出しの向こうへ抜ければ、少なくとも一度は態勢を整えられる。


 その時、岩甲獣が再び突進した。


 狭い道へ無理に巨体を押し込み、肩を岩壁へ激突させる。


 今度の音は先ほどまでとは違った。


 乾いた破裂音が高い場所を走る。


 エリリアが振り向いた。


「崩れます!」


「前へ!」


 三人は一斉に走り出した。ただし全力ではなく、足を取られない範囲で出せるぎりぎりの速度だった。


 背後で岩が軋む。


 壁の高い場所から小石が降り始め、その量が瞬く間に増えていく。


 それでも岩甲獣は止まらなかった。


 目の前の獲物だけを追うように、さらに身体を前へ押し込む。


 その巨大な肩が、亀裂の走った壁へもう一度ぶつかった。


 岩壁が耐え切れなかった。


 低い崩壊音が腹の底まで響き、壁の一部が大きく裂谷側へ傾く。


「伏せないで! 進んで!」


 エリリアが叫ぶ。


 ここで止まれば岩に呑まれる。


 三人は前だけを見た。


 レンのすぐ後ろへ人の頭ほどある石が落ち、砕けた。


 アイリは右肩を庇いながら頭を低くし、エリリアは走りながら細剣を後方へ払った。小さな風が砂塵だけを横へ押し流し、三人の視界を辛うじて保つ。


 巨石そのものを止めようとはしない。そんな力を使ったところで間に合うはずもなかった。


 三人が岩壁の張り出しを越えた直後、背後で大地そのものが崩れたような轟音が響いた。


 衝撃が足元を突き上げる。


 レンは一瞬よろめいたが、左前腕へ強い荷重を掛けないよう、右肩を岩壁へ当てて体勢を支えた。アイリも足を止めず、エリリアが細剣を前へ返す動きに合わせて小さな風を送り、その背中を僅かに押す。


 やがて崩落音が途切れた。


 三人は十数歩先まで離れてから、ようやく立ち止まった。


 舞い上がった砂に咳き込みながら振り返る。


 先ほどまで通ってきた道は、崩れた巨石と砕けた岩によって裂谷いっぱいまで塞がれていた。


「岩甲獣は?」


 アイリが息を整えながら尋ねる。


 答えるように、岩塊の向こうから低い咆哮が響いた。


 怒りに満ちた声の直後、巨大な何かが反対側から崩落跡へぶつかる。


 積み重なった石が僅かに揺れたものの、すぐに道が開く様子はなかった。


「生きてる」


 レンが言った。


「ですが、今すぐこちらへ来ることはできません」


 エリリアが答える。


「じゃあ、少しは――」


 アイリが言いかけたところで、三人の前方から石を擦る音が聞こえた。


 レンたちは同時に振り向く。


 先ほど抜けたはずの洞窟蜥蜴の一部が、岩陰を回って再び道へ出てきていた。こちら側にも別の裂け目が続いているらしく、暗い隙間の中では石と同じ色をした身体がいくつも動いている。


 頭上には、いつの間にか飛翼獣の影も戻っていた。


 三人の後ろには岩甲獣の咆哮が響く崩落跡があり、前には洞窟蜥蜴が道を塞ぎ、遥か上では飛翼獣の翼音が旋回している。


 アイリがゆっくり息を吐いた。


「後ろ、戻れないね」


「ああ」


 レンは右脚に残る痛みを確かめながら、右手の黒銀の剣を握り直した。


「なら、前です」


 エリリアが細剣を僅かに構え直すと、その刃の周囲を細い風が流れた。


 一体の洞窟蜥蜴が口を開き、牙の間から垂れた唾液が石道へ落ちる。


 触れた場所から白い煙が細く立ち昇った。


 岩塊の向こうで再び岩甲獣が吠え、その咆哮が塞がれた裂谷の中を震わせる。


 三人は誰か一人が前へ出ることなく、互いの位置を確かめるように距離を詰めた。


 そして、前方の群れから目を離さなかった。

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