第一章 第二十五話 裂谷の入口
夜の黒が薄れ始めた頃、古い見張り小屋の前では熾火が赤く沈んでいた。
最後の見張りを任されていたアイリは、入口脇の石へ背を預けながら森の向こうを眺めていた。眠気がないわけではない。それでも時折薪を細い枝で動かし、火が完全に消えないよう確かめながら、木々の間から聞こえる音へ耳を澄ませている。夜の間に近くまで来た小動物は何度かいたが、危険な気配はなかった。空が青みを帯び、鳥の声が一つ、また一つと増え始めたところで、アイリはようやく身体の力を抜いた。
右肩にはまだ重さが残っている。固定を外して過ごせる時間は増えたものの、寝起きや冷えた朝には関節の奥が固く感じられた。アイリは左手を右肘へ添え、痛みの出ない範囲だけで肩をゆっくり動かしてから立ち上がる。
「お兄ちゃん、朝だよ」
小屋の中へ声を掛けても返事がない。
「お兄ちゃん」
「……起きてる」
「今起きた声」
「起きてた」
「目開いてないよ」
壁際で横になっていたレンが、ようやく片目を開けた。
「何で見えてるんだ」
「見れば分かる」
「怖い能力だな」
「普通の目だよ」
その少し向こうでは、エリリアも既に身体を起こしていた。乱れていた淡い銀髪を右手で整えながら、眠そうに瞬きをしている。
「おはようございます」
「おはよう」
アイリが答える。
「よく眠れた?」
「思っていたよりは」
「屋根あったからね」
「それは重要でした」
レンも起き上がり、まず右脚を伸ばした。昨日一日歩いた重さは残っているが、鋭い痛みはない。足首を動かし、膝を曲げてから体重を掛ける。少し奥が突っ張る程度だった。
「脚は?」
アイリがすぐに聞く。
「昨日よりちょっと重い。でも歩ける」
「ちょっとってどれくらい?」
「本当にちょっと」
「信用していい?」
「十二日も監視されたんだから、そろそろ信用してくれ」
「監視じゃなくて確認」
「同じだろ」
レンは立ち上がると、腰の黒銀の剣を確かめた。鞘は昨日と同じく少し右へ寄せてあり、左前腕に触れない位置へ収まっている。左手も一度だけ開閉した。薬指と小指はまだ僅かに遅れるものの、朝だからといって昨日より悪くなってはいない。
エリリアがその動きを見ていた。
「何回目ですか?」
「今日一回目」
「ならいいです」
「何でお前まで数える側なんだよ」
「アイリから引き継ぎました」
「引き継がなくていい」
「二人で見た方が安心だから」
アイリが言う。
「やっぱり監視じゃないか」
三人の声が、朝の冷えた石壁へ小さく反響した。
◇
簡単な朝食を済ませ、小屋を出たのは空が十分に明るくなってからだった。
昨日まで続いていた深い森は、朝のうちはまだ変わらなかった。湿った土の匂いが残り、木々の根元には苔が広がっている。しかし進むにつれて木の間隔が少しずつ開き、地面に混じる石が増えていった。柔らかかった土は次第に硬くなり、靴底へ返ってくる感触も変わっていく。
先頭を歩くエリリアは、昨日より何度も周囲を確認していた。
「この先から道が二つに分かれます」
「どっち行くの?」
アイリが尋ねる。
「それを決めます」
「決めてなかったのか?」
「決めていないから、決めるんです」
「正しいけど」
少し先で古い道は緩やかに分岐していた。片方は北寄りへ回り込みながら低い丘陵へ続き、もう片方は木々の少なくなった岩地へ向かっている。
エリリアは地面へしゃがみ込み、拾った細枝で簡単な線を描いた。
「こちらを回れば、裂けた岩地を避けられます。ただ、かなり遠回りになります」
「どれくらい?」
「今の速度なら三日、悪ければ四日余分に掛かります。途中で水を得られる場所も少ないです」
アイリがもう一方を見る。
「こっちは?」
「裂谷を通ります」
聞き慣れない言葉に、レンが眉を上げた。
「れっこく?」
「大きく裂けた岩の谷です。昔は人や狩人が通っていた道が残っています。向こう側へ抜ければ、いくつかの街道へ繋がる平地へ出やすい」
「今も使う?」
「頻繁には」
「何で?」
エリリアは少し考えてから答えた。
「歩きにくいことと、魔物が入り込むことがあるからです」
「先にそっち言って」
アイリが呆れた。
「危険が全くない道はありません」
「それは分かるけど」
レンは分岐の先を見た。
岩地へ続く方は、木々の向こうから既に白っぽい石肌が見えている。
「エリリアは通ったことある?」
「入口付近までなら何度か。裂谷そのものを最後まで抜けたのは以前に一度です」
「道は分かる?」
「大きく変わっていなければ」
「それなら、そっちでいいんじゃないか」
言ってから、レンはアイリを見る。
「俺はそう思うけど」
「脚は?」
「今のところ大丈夫。遠回りして歩く日数を増やす方が、たぶんきつい」
アイリは少し考え、それからエリリアを見る。
「途中で無理そうなら戻れる?」
「入口付近なら。奥まで入れば、戻るより抜けた方が早い場所もあります」
「じゃあ、入る前にもう一回決めよう」
「そうしましょう」
三人の意見が揃った。
それからエリリアは立ち上がり、岩地へ向かう道を選んだ。
「あと、距離は?」
レンが尋ねる。
「裂谷の入口までなら、今の歩調で半日より少し長いくらいです」
「分かるの?」
「歩いた時間と歩幅で大体は」
「歩数数えてるのか?」
「時々」
「ずっと?」
「必要な時だけです」
レンが自分の足元を見る。
「俺もやった方がいいかな」
「まず百歩くらい数えて、自分がどれだけずれるか確かめるところからですね」
「ずれる前提?」
「あなたは話しながら左右へ寄るので」
アイリが吹き出した。
「それはある」
「何で知ってるんだよ」
「昨日見てたから」
「二人とも俺を観察しすぎだろ」
「目の前を歩くからです」
エリリアはそう言って、また前を向いた。
◇
森が薄くなるにつれて、音が変わった。
鳥の声は少なくなり、代わりに靴底が石を踏む乾いた音が目立ち始める。足元には角のある岩が増え、木の根を避ける代わりに、ぐらつく石を見極めなければならなくなった。斜面へ差し掛かると、昨日までの土道とは違って、一歩ごとの衝撃が直接脚へ返ってくる。
レンの右脚も、その変化をすぐに感じ始めた。歩けないほどではないが、噛み傷のあった場所より少し奥へ、鈍い重さが溜まっていく。
エリリアが振り返った。
「速度を落とします」
「まだ何も言ってないぞ」
「歩幅が変わりました」
「そんなに?」
「少しだけ」
アイリも兄の右脚を見る。
「休む?」
「もう少し行ける」
「行けるかじゃなくて、休んだ方がいいか聞いてる」
「……ちょっと休んだ方がいいかも」
「よし」
「何で嬉しそうなんだよ」
「ちゃんと言えたから」
「俺、何歳だと思われてる?」
「二十歳」
「知ってるじゃないか」
「二十歳でも無茶はする」
エリリアが道の端に平らな岩を見つけ、三人はそこで荷物を下ろした。
レンは腰を下ろし、右脚を伸ばす。包帯の上から触れても強い熱はなく、傷口が開いた感覚もない。ただ、硬い地面を歩き続けたせいで筋肉まで強張っていた。
「赤くなってない?」
アイリが横から覗く。
「包帯外すほどじゃないだろ」
「痛み増えたら見る」
「分かった」
レンは素直に答えた。
自分でも少し変わったと思う。以前なら「大丈夫」で押し切っていたはずだ。
左手を膝へ置き、指をゆっくり動かす。薬指と小指は相変わらず遅い。それでも昨日と同じ程度には動いた。
「そっちは?」
アイリが聞く。
「変わらない」
「ならよかった」
休憩を終える頃には、森の向こうに見えていた岩壁がかなり近くなっていた。
◇
昼を過ぎた頃、道の脇に古い石柱が現れた。
人の背丈より少し低く、角は長い年月で丸く削れている。表面には文字が刻まれていたが、雨風に晒され続けたせいで半分ほどは読みにくくなっていた。
「何て書いてある?」
レンが尋ねる。
エリリアが表面の土を払う。
「この先の道についてです」
「危険?」
「普通の注意書きに近いですね。落石に気をつけることと、暗くなってから通らないこと」
「それだけ?」
「それだけです」
レンは少し拍子抜けした顔をした。
「もっと怖いこと書いてあるのかと思った」
「何を期待していたんですか」
「入った者は戻れない、とか」
「そんな場所なら案内しません」
「確かに」
アイリが石柱の向こうを見る。
「暗くなってから危ないのは魔物?」
「それもありますし、足元が見えなくなるのが一番危険です。岩壁の間では月明かりもほとんど届きません」
「じゃあ今日はどこまで?」
「入口を見てから判断します」
再び歩き出すと、石柱を過ぎたあたりから木々は急速に減っていった。
最後まで残っていた背の低い樹木さえ疎らになり、代わりに白灰色の岩が地面を覆い始める。空が広く見えるようになった一方で、正面には高い岩壁が何層にも重なっていた。
そして、その先で道が突然途切れたように見えた。
レンは思わず足を止めた。
「……でかいな」
森の終わりの向こうで、大地そのものが深く割れていた。
左右からそびえる岩壁は、人が作った城壁など比較にならないほど高い。淡い灰色の石肌には長い亀裂が走り、その間を古い道が細く縫うように奥へ続いている。入口付近ではまだ空が大きく見えていたが、数百歩も進めば壁はさらに近づき、頭上の青は細い帯のようになるだろう。
「これが裂谷?」
アイリが声を落として尋ねる。
「はい」
返事が岩へ当たり、僅かに遅れて戻ってくる。
『はい――』
アイリが目を丸くする。
「声返ってきた」
「場所によってはもっと強く響きます」
レンが手を口元へ当てる。
「おーい」
『おーい……おーい……』
「面白い」
「大声は控えてください」
「何で?」
「何かがいる場合、こちらの位置を教えることになります」
レンはすぐに口を閉じた。
「先に言ってくれ」
「普通は分かると思いました」
「森育ちの普通を俺に求めるな」
エリリアは呆れたように息を吐いた。
それでも入口へ近づくにつれ、その表情から笑いが消えていった。
◇
裂谷へ続く古い道には、ところどころ人工的に削られた跡が残っていた。
大きな岩を避けるために平らにされた地面、崩れかけた石組み、錆びた金具が埋め込まれた場所。かつては荷を運ぶ者や狩人が通っていたことが分かるが、今では補修する者もほとんどいないらしい。
入口から少し手前で、エリリアが足を止めた。
「待ってください」
声が低い。
レンとアイリも止まる。
「何?」
エリリアは道の中央へしゃがみ込んだ。
石の表面には、四本ほどの深い筋がほぼ平行に並び、古い石道を斜めに横切っていた。
レンも近づく。
「これ……爪?」
「おそらく」
アイリの表情が強張る。
「どれくらい大きいの?」
「傷だけでは正確には分かりません」
エリリアは指で触れず、少し離れたところから筋の幅を見た。
「ただ、小さくはありません」
古い傷なら角が丸く削れているはずだったが、これは比較的新しい。筋の底にはまだ明るい石の色が残り、周囲には細かな欠片まで散っている。
「前に来た時もあった?」
「ありませんでした」
「いつ頃?」
「かなり前です。だから最近とは限りませんが、少なくともこの道を使う何かがいる」
レンは裂谷の奥を見る。
入口から見える範囲には何もいない。ただ、さっきまで森で聞こえていた鳥の声が、ここではほとんどしなかった。
「引き返す?」
アイリが聞いた。
誰に向けたというより、三人全員への問いだった。
エリリアは空を見上げる。
太陽は既に午後の位置へ移っていた。
「今から森へ戻れば、昨日の小屋までは無理でも、木々のある場所までは戻れます」
「裂谷の中に泊まれるところは?」
「入口からそれほど遠くない場所に、古い休息所があります。石造りなので、残っていれば野外よりは安全です」
「そこまでどれくらい?」
「今の速度で一刻半ほど。途中で問題がなければ」
レンは右脚へ意識を向ける。
休んだ後は少し楽になっていた。
「俺は行ける」
すぐに付け加える。
「でも、俺だけで決めるつもりはない」
アイリが兄を見る。
「成長した」
「いちいち言うな」
エリリアは裂谷と空を交互に見た。
「私なら入ります。ただし、予定より少しでも遅れるなら途中で無理をしない。危険な痕跡が増えたら戻る。それでどうですか」
アイリは傷のある道を見る。
「私は……ちょっと怖い」
レンが隣を見る。
「俺も」
「え?」
「怖いよ」
アイリが少し驚いた顔をした。
レンは裂谷の奥から目を逸らさなかった。
「何がいるか分からないし、あの爪痕でかいし。普通に怖い」
「……うん」
「でも前みたいに黙って怖くないふりするより、言った方がいいんだろ」
アイリが兄を見る。
「うん」
レンは少しだけ笑った。
「言えば一人じゃなくなるんだろ」
アイリの表情が柔らかくなる。
「そうだよ」
エリリアは二人のやり取りを黙って聞いていたが、やがて小さく頷いた。
「では、三人とも怖いということで」
「エリリアも?」
「当然でしょう」
「ちょっと安心した」
「安心するところですか?」
「エリリアまで平気だったら、俺だけ弱いみたいだろ」
「そこを気にしていたのですか」
「少し」
アイリが笑う。
裂谷の前で緊張が消えたわけではなかった。それでも、その笑いが終わる頃には三人の呼吸は少し整っていた。
「行こう」
レンが言う。
「慎重にね」
アイリが続ける。
エリリアが先頭へ立った。
「私から離れすぎないでください」
三人は裂谷へ足を踏み入れた。
◇
入口を越えた途端、空気が変わった。
風がなくなったわけではない。むしろ岩壁の間を通る風は森よりはっきりしていた。ただし同じ方向から吹き続けるのではなく、細い道や壁の亀裂に沿って曲がり、時折足元から巻き上がる。
エリリアが少しだけ右手を開いた。
細かな砂が風に乗って動く。
「どうした?」
「風の流れを見ています」
「何か分かる?」
「今のところ、近くに大きく流れを乱すものはありません」
「魔物も分かるの?」
「確実には。大きなものが急に動けば気づけることはあります」
「便利だな」
「万能ではありません」
その言葉を証明するように、頭上から小石が一つ落ちてきた。
乾いた音を立て、三人の数歩先で跳ねる。
レンたちが同時に上を向く。
遥か高い岩壁の縁に、黒い影が一瞬だけ見えた。
「鳥?」
アイリが目を細める。
「大きすぎないか」
翼を広げた影は、普通の鳥より明らかに大きかった。
すぐに岩壁の向こうへ消える。
エリリアは細剣の柄へ右手を置いた。
「止まらず進みます」
「襲ってくる?」
「まだ分かりません」
声を抑え、歩調を少し速める。
裂谷の道は思っていた以上に狭い場所と広い場所を繰り返した。左右の壁が数人分の幅しか残さないところもあれば、小さな広場のように開けた場所もある。
問題は音だった。
三人の足音が何度も壁に反射し、自分たちとは別の誰かが後ろを歩いているように聞こえる。
レンが思わず振り返る。
「何もいません」
エリリアが前を向いたまま言った。
「まだ何も言ってない」
「振り向いたので」
「音がさ」
「分かります」
少し先で、また石が落ちた。
今度は右側だった。その直後、翼が風を叩く低い音が頭上を通り過ぎる。
アイリが左手で短剣の位置を確かめる。右肩も日常動作なら動くが、空から高速で飛び込んでくるものへ咄嗟に振るにはまだ信用できない。
「増えた?」
岩壁の上に、今度は二つの影が見えた。
「少なくとも二体」
エリリアが答える。
「こっち見てる?」
「おそらく」
「嫌だな」
レンも黒銀の剣へ右手を添えた。
左手で鞘を強く押さえることはできないため、抜刀の時には身体の向きで補う必要がある。十二日の間に練習してきたが、以前ほど自然ではない。
「まだ抜かないでください」
エリリアが言う。
「分かってる」
「本当に?」
「お前までそれ言うのやめろ」
それでも手は柄から離さなかった。
◇
裂谷へ入ってから一刻ほど経った頃、道の片側に崩れた石壁が見えた。
エリリアが足を止める。
「休息所です」
「これ?」
レンは目の前のものを見る。
建物だった形は辛うじて分かる。
岩壁を利用して片側だけ石を積んだ小さな構造で、屋根の半分は落ち、入口も崩れた石で狭くなっていた。
「泊まれる?」
アイリが尋ねる。
「三人なら何とか」
エリリアが中を確認する。
完全に安全とは言い難いが、少なくとも背後と片側を石壁で守れる。
レンは空を見た。
入口で見えた青より細くなった空の帯が、少しずつ夕方の色へ変わり始めている。
「ここで止まる?」
誰もすぐには答えなかった。
頭上にいた影はまだ消えておらず、時折、岩壁の上を横切っている。それなのに襲ってこない。
「何で来ないんだ?」
レンが尋ねる。
「警戒しているのかもしれません」
「俺たちを?」
「あるいは」
エリリアが裂谷の奥を見る。
「別の何かを」
その直後、遠くから低い音が響いた。
最初は落石かと思ったが、一度で終わらない。重い何かが石の上を踏むような音が、間を置いて繰り返される。
反響のせいで前後の判別はつかなかったが、少なくとも頭上から聞こえている音ではないことだけは分かった。
「何の音?」
アイリが声を落とす。
「分かりません」
エリリアが細剣を抜くと、足元の砂が僅かに動き、彼女の周囲を流れていた風が細くまとまった。
「ここに入る?」
レンが崩れた休息所を見る。
「待ってください」
エリリアは風の向きを確かめるように顔を上げた。
頭上の影が一体急に翼を広げ、続いてもう一体も岩壁の上で位置を変えた。飛び立とうとしているのではなく、何かから距離を取るような動きだった。
レンの背中に冷たいものが走る。
「エリリア」
「はい」
「上のやつら、俺たちを狙ってるんじゃないかもしれない」
「私もそう思い始めました」
重い音がもう一度響く。
今度は近い。
岩壁から細かな砂が落ちた。
「ここじゃ駄目」
アイリが言った。
崩れた休息所の入口は狭い。中へ入れば空からは守れるかもしれないが、地上から大きな何かに塞がれた時、逃げ道がない。
「少し先に、道が広くなる場所があります」
エリリアが即座に判断した。
「そこまで行きます。周囲が見える方がいい」
「どれくらい?」
「数百歩」
「走る?」
「走らない」
エリリアがレンを見る。
「全員、足元を確認しながら急ぎます」
「了解」
レンも剣を抜いた。右手だけで柄を握り、鞘は腰へ残す。
アイリも左手で短剣を抜く。
三人は休息所を離れた。
◇
谷の奥へ進むにつれ、岩壁の上を回る影は三体、四体と増えていった。高い場所を円を描くように移動しながら、それでもこちらへ降りてくる気配はない。
その方が不気味だった。
地上から響く重い足音は、一歩ごとに長い間を置きながら確実に近づいてきていた。壁へ反射するたび音の数が増え、実際には一体なのか複数なのかさえ分からなくなる。
レンは右脚が重くなっていくのを感じていた。
それでも速度を上げすぎない。
前の自分なら、危険が近づけば痛みを無視して走ったかもしれない。だが今は、転べば自分だけでなく後ろの二人まで止まる。
「大丈夫?」
アイリが後ろから聞く。
「まだいける」
一歩置いてから付け加える。
「重くなってきたけど」
「分かった」
エリリアも聞いていた。
「あと少しです」
道が緩やかに曲がる。
その先で岩壁が離れ、少し広い場所が見えた。
「そこ!」
三人が抜ける。
広場と呼ぶには狭いが、これまでの通路よりはずっと動ける。片側には崩れた石柱が二本残り、昔ここにも何か小さな門か仕切りがあったらしい。
エリリアが止まる。
「ここなら――」
言葉が途中で消えた。
重い足音が突然途切れ、同時に上空を回っていた翼音まで消えていた。
レンは息を止める。
「何で静かになった」
誰も答えない。
自分たちの呼吸だけが壁へ返る。
エリリアは細剣を構え、右手を僅かに開いた。風が彼女の前を走り、砂を数歩先へ運ぶ。
「後ろ」
小さな声だった。
レンが振り向く。
視界にはまだ何もいない。
「何かいる?」
「風が――」
次の瞬間、頭上で空気が破裂し、巨大な影が視界を横切った。
「伏せて!」
三人が反射的に身を低くすると、背後へ何か途方もなく重いものが落下し、轟音とともに石道が大きく震えた。砕けた石の欠片が跳ね上がり、レンたちの周囲まで飛んでくる。
レンは右腕で顔を庇い、右脚へ余計な力を掛けないよう踏み止まった。アイリも左腕を上げ、エリリアは小さな風を横へ流して飛んできた砂と細かな石を逸らす。
衝撃音が岩壁を何度も叩き、裂谷全体が唸ったように震えた。
やがて砂煙の向こうから、低い呼吸音が聞こえた。
三人はゆっくり振り返る。
谷の入口へ戻る道を塞ぐように、巨大な何かが立っていた。
まだ砂煙が濃く、全身は見えない。ただ、岩のように厚い輪郭と、石を砕くほど重い四肢だけは分かった。
頭上にいた翼の影たちは、一斉に高く舞い上がっている。
レンは左手を使わず、右手だけで黒銀の剣を握り直した。右脚の奥には鈍い痛みが残っている。
隣ではアイリが短剣を構え、エリリアの細剣の周囲では細い風が砂を払っていた。
三人の背後には裂谷のさらに深い道が続き、前には戻る道を塞いだ巨大な影が立っている。
砂煙の中で何かが頭を持ち上げた。
次の瞬間、岩壁を震わせるほどの咆哮が裂谷を貫いた。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!




