第一章 第二十四話 木漏れ日の三人
エリリアが村を離れると決めてから、十二日が過ぎた。
焼け落ちた家が元通りになったわけではない。黒く焦げた柱はいくつも残り、広場の端には使えなくなった木材が積まれたままだった。それでも、十二日前には煙と血の匂いに覆われていた村へ、少しずつ生活の音が戻っている。朝になれば槌を振るう音が響き、水を汲みに行く者が道を行き交い、森へ入れるまでに回復した狩人たちは短い範囲から見回りを再開していた。襲撃前の村と同じ姿には程遠い。それでも、誰かが指示を出さなければ何も始まらない状態でもなかった。それぞれが自分にできることを見つけ、少しずつ生活を取り戻そうとしている。
レンたちの傷も、同じ十二日の中で少しずつ変わっていた。
右脚の狼の噛み傷は完全に消えたわけではないが、傷口そのものはかなり閉じている。平らな場所を普通に歩く分には支障が少なくなり、以前のように一歩ごとに顔を歪めることもなくなった。ただし長く歩き続けたり、不意に強く踏み込んだりすると、奥に残った痛みが存在を主張する。村で傷の手当てをしていた者たちからは、何度も「痛くなくなったのではなく、痛みが出るまで動ける距離が伸びただけだ」と念を押されていた。
左前腕の腫れも当初よりは明らかに引いていた。熱を持っていた皮膚は落ち着き、包帯も以前ほど厚く巻く必要はなくなっている。それでも薬指と小指の動きはまだ完全には戻らず、強く握ろうとすると他の指より反応が遅れた。触れた感覚も少し遠く、何かを持ち続けると疲れやすい。悪化はしていない。それは確かな前進だったが、元通りになったと喜ぶにはまだ早かった。
そのため黒銀の剣も、以前と同じように腰へ下げながら、鞘の位置だけを少し右へ寄せていた。左前腕へ柄や鞘が何度も当たらないよう調整したもので、背中へ回すことも、杖代わりに使うこともない。歩く時に右脚を庇いすぎると腰の位置までずれるため、その癖だけは旅へ出る前に直しておけと何度も注意された。
アイリの左脹脛の傷もほぼ閉じ、歩くたびに痛む時期は過ぎている。右肩は固定を外せる時間が増えたものの、頭より高く腕を上げたり、急に後ろへ引いたりするとまだ強く痛むため、荷物は軽くすることになった。本人は「もう平気」と何度も主張したが、そのたびにレン、エリリア、傷を見ていた村人の三方向から止められ、最後には反論すること自体を諦めた。
エリリアの左上腕と脇腹の傷は、三人の中では最も早く落ち着いた。浅かった傷はほぼ塞がり、村全体へ大きな風を巡らせた時の消耗も十二日の休息で抜けている。細剣を扱う動きにも以前の精密さが戻っていたが、彼女自身が以前より少し慎重になっていた。必要もないのに力を使って体調を確かめようとはせず、風を起こす時も小さな葉を持ち上げる程度に留めている。
それを見たリュネは満足そうに頷き、アイリは「学習した」と評し、レンは「俺より信用されてる」と不満を漏らした。
「当然でしょう」
エリリアは迷いなく答えた。
「即答するなよ」
「では、考えてから同じ答えを言いましょうか?」
「もっと傷つくだろ」
十二日の間に、こうしたやり取りも珍しくなくなっていた。
◇
出発の日の朝、空は薄い雲に覆われていた。
雨が降るほどではなく、森を歩くにはむしろ都合がいい。強い日差しが落ちてこない分、長い距離を歩いても体力を奪われにくい。
村の中央には、三人分の荷物が並べられていた。
食料は日持ちする干し肉と硬いパン、乾燥させた果実を中心に、森で補えることを前提とした量に抑えられている。水袋、火を起こすための道具、簡単な調理器具、予備の布、縄、それぞれの外套。重量を確認した上で荷物は三人へ分けられ、レンの左腕と右脚、アイリの右肩の状態を考えて、二人の負担が大きくなりすぎないよう調整された。
「これ、私の荷物少なくない?」
アイリが自分の荷袋を持ち上げながら尋ねる。
「少ないです」
エリリアが答えた。
「何で普通に認めるの」
「肩が治り切っていないからです」
「でも歩けるよ」
「肩で歩くわけではないでしょう」
「そうだけど」
「では問題ありません」
アイリがレンを見る。
「お兄ちゃん、何か言って」
「俺も荷物減らされた側だから味方できない」
「役に立たない」
「ひどいな」
レンの荷物も以前ならもっと持てた量より軽くされている。左手を長く使えない以上、荷袋の上げ下ろしを右手だけで行うことも考えなければならず、右脚への負担も無視できない。
その代わり、エリリア一人へ重量を押しつけることもしなかった。
「私はもう問題ありません」
荷物を見た彼女はそう言ったが、アイリが即座に首を振った。
「一人だけいっぱい持つのなし」
「この程度なら持てます」
「持てるかどうかじゃなくて、三人で持つの」
「ですが――」
「勝手に全部一人でやらないって約束したよね」
エリリアの口が止まる。
レンが横から頷いた。
「言ったな」
「あなたは黙っていてください」
「何で俺だけ」
「同じことを言われている側でしょう」
「それはそうだけど」
結局、荷物はそのまま三人に分けられた。
旅のための薬や包帯をまとめた小さな袋は、アイリが持つことになった。村で傷の処置をしていた者たちが、三人の出発に合わせて用意してくれたものだ。清潔な布、傷を洗う時に使うもの、乾燥させた薬草、腫れや痛みを抑えるための簡単な薬が用途ごとに分けられている。
アイリは中身を一つずつ確認し、感心したように息を漏らした。
「分け方が分かりやすい」
「使えそう?」
ミレアが横から聞く。
「うん。セラに教わったやり方と似てるところもある。知らない薬草だけ、使い方を聞いておきたい」
「それなら出る前に聞いておいた方がいいね」
ミレア自身が薬について詳しく説明し始めることはなく、近くにいた年配の女性を呼んだ。アイリは使い方を一つずつ確かめ、分からないものには小さな布片を結んで印をつけていく。
「全部覚えた?」
レンが聞く。
「たぶん」
「たぶんで大丈夫なのか」
「お兄ちゃんに使う前には確認する」
「俺で試す前提なの?」
「一番怪我しそうだから」
返す言葉がなかった。
◇
捕らえた盗賊たちについても、この十二日の間に村の中で話し合いが続けられていた。
ガロスは最後まで多くを語らなかった。なぜこの村を選んだのか、誰の指示を受けていたのかを尋ねても、答えは曖昧なままだった。最後に捕らえられた男も、ガロスに従っていたこと以上の事情を詳しく知っている様子はない。少なくとも、村を襲った全員が同じだけの情報を持っていたわけではないらしかった。
森から取り戻した細長い布包みは、長老たちが複数人で確認した。
中に入っていたのは、奇妙な武器でも価値のある宝石でもなく、古い紙と薄い板へ書き残された森の道に関する記録だった。
今では使われなくなった細い道、雨の多い季節に避ける場所、冬になると通れなくなる場所、村の周囲を流れる水の状態を確認するための古い経路。長く暮らしてきた者には知っている内容も多く、一部は既に木々に埋もれて使えなくなっているという。
ただ、それならなおさら疑問が残った。
なぜ盗賊たちは、金や食料より先にそんな記録を探していたのか。
ガロスは答えなかった。
長老も、今の段階で意味を決めつけることはしなかった。記録は村に残し、必要な者以外が勝手に持ち出さないよう保管する。それだけが決められた。
レンも気にならないわけではなかった。
それでも、自分たちが持って旅立つ理由はない。
これはまず、この村のものだ。
分からないものを何でも自分の旅へ結びつけようとするより、分からないまま残すべきものもあるのだと、以前より少しだけ思えるようになっていた。
◇
「エリリア」
出発の準備がほとんど終わったところで、リュネが呼んだ。
少女は灰色の外套ではなく、村で用意してもらった新しい淡い色の服を着ていた。左脚の固定は以前より簡単なものになり、枝の杖ももう必要ない時間が増えている。それでも長く歩く日はまだ避けるよう言われていた。
「どうしました?」
「これ」
背中へ隠していた両手を前へ出す。
小さな木彫りの鳥が乗っていた。
掌に収まるほどの大きさで、翼の左右は少し不揃いだった。嘴も片方へ寄っており、滑らかな工芸品とは言い難い。それでも羽らしい線が一本ずつ刻まれ、丸い目まで丁寧に彫られている。
エリリアが瞬きをする。
「これは?」
「お土産」
「……私が持っていく方ですか?」
「先にあげるの」
リュネは真剣だった。
「エリリア、かわいいもの見つけてくるって言ったでしょ」
「はい」
「だから、これよりかわいいの探してきて」
エリリアは木彫りの鳥を見る。
「かなり難しい条件ですね」
「かわいい?」
「ええ」
迷いなく答えた。
「とても」
リュネの顔が一気に明るくなる。
「ほんと?」
「本当です」
エリリアは右手で大切に受け取った。
「ありがとうございます。なくさないようにします」
「手紙も」
「送ります」
「いっぱい」
「できる限り」
「食べたものも書いて」
「覚えています」
「あと――」
リュネはそこで少し黙った。
エリリアも急かさない。
やがて少女はレンとアイリの方を見てから、もう一度エリリアを見上げた。
「三人とも帰ってきて」
エリリアの表情が僅かに柔らかくなる。
絶対に、と約束することはしなかった。
「そのつもりです」
「ちゃんと?」
「はい」
「レンが無茶したら?」
「止めます」
「おい」
「アイリが無茶したら?」
「止めます」
「私も?」
アイリが自分を指す。
「当然です」
「じゃあエリリアが無茶したら?」
リュネが尋ねる。
エリリアの返事が一瞬遅れた。
アイリが左手を上げる。
「私が止める」
レンも右手を上げた。
「俺も」
「二人とも自分のことを先に――」
「三人で止め合えばいいんだよ」
アイリが言った。
リュネが大きく頷く。
「それがいい」
「勝手に決まりましたね」
エリリアは小さく息を吐いたが、嫌そうには見えなかった。
◇
長老との別れは、思っていたより短かった。
三人が村の入口へ向かうと、既に何人もの村人が集まっていた。作業を止めて来た者もいれば、怪我が残っているため少し離れた場所から見送る者もいる。
長老はレンたちの前に立ち、三人を順番に見た。
「準備は?」
「できています」
エリリアが答える。
「忘れ物は?」
今度はレンが自分の荷物を見る。
「たぶん」
「そこは言い切れ」
「俺に聞かないでください」
「旅の先が思いやられるな」
「長老まで」
周囲から小さな笑いが起きる。
その笑いが落ち着いてから、長老はレンとアイリへ向き直った。
「二人には、まだちゃんと礼を言えていなかった」
「昨日も言われた気がするけど」
レンが答える。
「あれは皆に言った言葉だ」
長老は少しだけ頭を下げた。
「リュネを助け、この村に残り、最後まで一緒に戦ってくれた。ありがとう」
レンはどう返せばいいか迷い、隣を見る。
アイリも少し困った顔をしていた。
「……こちらこそ」
結局、レンが答えた。
「助けてもらったし」
「それに」
アイリも続ける。
「休ませてもらって、傷も見てもらって、食べ物もいっぱいもらったから」
「食べ物を強調するなよ」
「大事でしょ」
「大事だけど」
長老が笑う。
「なら、お互い様にしておこう」
少し間を置いてから、村の中へ目を向けた。
「戻ってきたくなったら戻ってくればいい」
レンが顔を上げる。
「いいのか?」
「今更、入口で追い返す方が難しい」
「それもそうか」
「お前はもう少し遠慮を覚えろ」
「今の長老が言ったんだろ」
アイリが笑う。
長老は次にエリリアを見る。
「行ってこい」
「はい」
「帰ってきた時に、まだ屋根がなかったら手伝え」
「その頃には直しておいてください」
「努力する」
エリリアは少しだけ笑い、それから深く頭を下げた。
「行ってきます」
その一言に、リュネがまた泣きそうな顔をした。
それでも今度は「嫌」とは言わなかった。
「いってらっしゃい」
声は震えていたが、最後まで言えた。
「いってらっしゃい、エリリア」
エリリアが頷く。
「行ってきます、リュネ」
◇
三人が村を離れてしばらくすると、建物の姿は木々の向こうへ消えた。
最初のうちは何度も後ろを振り返っていたエリリアも、やがて前だけを見るようになった。
森の中へ差し込む光は、雲と葉に何度も遮られ、地面へ細かく揺れている。風が吹くたびに明るい場所が移動し、濃い緑の上へ淡い金色の模様を作った。
「静かだな」
レンが言った。
「村も静かな方だったでしょう」
先頭を歩いていたエリリアが振り向かずに答える。
「村は人の音がする」
「森にも音はあります」
「そういう意味じゃなくて」
「分かっています」
「じゃあ言わせろよ」
後ろからアイリが笑う。
「もう始まった」
「何が」
「二人の言い合い」
「言い合ってません」
エリリアが答える。
「今のは普通の会話だろ」
レンも言う。
「ほら、二人とも同じこと言ってる」
「だから似てないって」
「似ていません」
「また同時」
二人とも黙り、アイリの笑い声だけが森の中へ広がった。
歩く速度は自然と遅めになっていた。エリリアならもっと速く進めるし、アイリも左脚だけを考えれば以前に近い速度へ戻りつつある。それでもレンの右脚と三人それぞれの回復具合を考え、誰も急ごうとはしなかった。
最初の一刻ほどはレン自身が少し速く歩こうとしたが、右脚が重くなり始めるより先にエリリアが気づいた。
「速度を落とします」
「まだ大丈夫だぞ」
「痛くなってから落とす意味はありません」
「村の人と同じこと言うな」
「正しいからでしょう」
「反論できない」
「珍しいね」
アイリが言う。
「俺だって学ぶんだよ」
「十二日掛かったけど」
「期間を言うな」
森の道は、村へ来た時に通った場所とは違っていた。
エリリアが選んだのは獣道より少し広い程度の古い通り道で、狩人たちが今も時折使っているらしい。木の根が地表へ浮き出ている場所では歩幅を小さくし、湿った斜面では枝や幹へ無理に体重を掛けないよう進む。
途中、エリリアが突然足を止めた。
「ここは踏まないでください」
レンが足元を見る。
「何かある?」
低い草の間に、細長い葉を持つ植物が生えている。
「触れただけでどうにかなるものではありませんが、茎を折った汁が皮膚につくと、人によっては強く腫れます」
レンが一歩横へ避ける。
「危ないな」
「森では珍しくありません」
アイリがしゃがみ込みそうになり、右肩を思い出して腰だけを落とした。
「これ、薬には使わないの?」
「使うこともあります。ただし扱いを間違えれば逆効果です」
「セラに教わった中にも、量を間違えると駄目なのあった」
「詳しいのですか?」
「詳しくはないよ。最初の手当てとか、旅で困らない程度。薬草も見たことあるものだけ」
「では、歩きながら分かるものは教えましょう」
アイリの目が明るくなる。
「本当?」
「ええ。ただし、覚えたからといって何でも摘まないでください」
「分かってる」
レンが二人を見る。
「俺も覚えた方がいい?」
「もちろんです」
エリリアが答える。
「俺、こういうの苦手なんだけど」
「怪我をする人ほど覚えてください」
アイリが頷く。
「すごく正しい」
「また二対一か」
「まだ旅に出て半日も経っていませんよ」
「先が長いな……」
◇
昼前、三人は小さな沢のそばで休んだ。
苔の生えた岩の間を透明な水が流れ、頭上では枝が重なって強い光を遮っている。エリリアが周囲を確認し、水を使って問題ないと判断してから、水袋を補充することになった。
レンは岩へ腰を下ろし、右脚を伸ばした。
「痛い?」
アイリが聞く。
「少し重いくらい」
「痛くなる前に言ってよ」
「分かってる」
「本当に?」
「十二日言われ続けたからな」
「ならよし」
アイリも隣へ座った。
エリリアは水袋を満たし終えると、木陰へ戻って荷物を下ろす。
昼食は硬いパンと干し肉、それに村でもらった乾燥果実だった。
「旅っぽいな」
レンがパンを齧りながら言う。
「今までのは旅じゃなかったの?」
「逃げたり、狼に噛まれたり、熊に襲われたり、村が燃えてたりしたからな」
「十分旅だったと思う」
アイリが言う。
「基準がおかしくなってるぞ」
「お兄ちゃんのせいもあるよ」
「何で俺」
「熊に向かっていった」
「向こうから来たんだろ」
エリリアが二人を見る。
「熊?」
レンとアイリが同時に黙る。
「何ですか、その反応」
「話すと長い」
レンが答える。
「短く言えば、お兄ちゃんが大きな熊に近づきました」
「おい、説明が悪い」
「事実でしょ」
「事情を言えよ」
「結果は?」
「倒した」
「怪我は?」
「した」
「では大体分かりました」
エリリアは淡々と干し肉を口へ運んだ。
「何が分かったんだ」
「あなたが無茶をするということです」
「結論が最初から決まってるだろ」
「材料が増えただけです」
アイリが笑う。
「エリリア、いい感じ」
「何が?」
「お兄ちゃんの扱い」
「まだ十二日しか知りませんよ」
「十分だったでしょ」
「否定はしません」
「俺の味方がいない」
沢の音に三人の声が混じる。
ほんの十二日前まで、同じ場所に座って食事をすることすら考えていなかった。その事実をレンはふと意識した。
エリリアは敵かもしれないと疑いながら剣を向け、レンたちも彼女が何者なのか分からないまま協力した。村を守るために必要だったから同じ方向へ動いただけだったはずなのに、今では食事をしながら熊の話をしている。
奇妙ではあったが、嫌ではなかった。
◇
午後になると森の地面は少しずつ硬くなり、平らだった道に岩が増え始めた。
まだ谷と呼ぶほどではない。ただ、遠くの木々の間に低い岩壁が見える場所が増え、地面にも砕けた石が混じっている。
「明日はもっと歩きにくくなります」
エリリアが言った。
「この先、地形が変わるので」
「山?」
アイリが尋ねる。
「山というより、岩が大きく裂けた場所が続きます。今日はその手前まで行きます」
「危ない?」
「足元は」
エリリアはレンを見る。
「なぜ私を見る」
「心当たりがあるからでは?」
「あるけど」
「自覚があるならいいです」
レンは歩きながら右脚の状態を確かめた。
今のところ、朝より少し重い程度だった。
「今日はどこで寝るんだ?」
「少し先に古い見張り小屋があります」
「村の?」
「昔、狩人が遠くまで見回りをしていた頃に使っていた場所です。今はほとんど使われません」
「屋根ある?」
アイリが聞く。
「残っていれば」
「残っていれば?」
「最後に見たのはかなり前なので」
「それ先に言ってよ」
「屋根がなければ野営です」
「急に不安になってきた」
「旅らしいだろ」
レンが言う。
「お兄ちゃん、ちょっと楽しんでるよね」
「少しだけ」
「朝は否定してたのに」
「森を歩いてるだけなら楽しい」
エリリアが振り向く。
「明日も同じことを言えるといいですね」
「怖い言い方するなよ」
「事実です」
その表情が僅かに笑っていたことに、レンは気づいた。
◇
日が傾き始める頃、木々の間に石造りの小さな建物が見えた。
「ある!」
アイリが少し嬉しそうに言った。
「屋根もありますね」
エリリア自身も僅かに安心したようだった。
「自信なかったのか」
「絶対あるとは言っていません」
「危なかった」
古い見張り小屋は、四方を粗い石で積んだ簡素な造りだった。入口に扉はなく、片側の壁には細長い窓のような開口部がある。屋根には何箇所か隙間が見えるものの、大部分は残っており、少なくとも夜露を避けるには十分だった。
中には落ち葉と細い枝が吹き込んでいる。小動物が使ったらしい跡もあった。
「まず掃除ですね」
エリリアが言う。
「風で外に出せない?」
レンが尋ねる。
「できます」
「便利だな」
「ただし、あなたたちの顔にも全部飛ぶかもしれません」
「箒にしよう」
「賢明です」
実際には箒などなかったため、葉のついた枝を束ね、三人で床の落ち葉を外へ集めた。
レンは左手を使わず右手だけで枝を動かし、アイリも右肩へ負担を掛けない小さな動きに留める。エリリアが一人でまとめてやろうとすると、二人から同時に止められた。
「これくらいは私が――」
「三人で」
アイリが言う。
「もう決まっただろ」
レンも続ける。
エリリアは二人を見比べた。
「この規則、ずっと続くのですか?」
「たぶん」
「嫌?」
アイリが聞く。
「……まだ判断中です」
それでも枝を奪おうとはしなかった。
小屋が使える状態になる頃には、外の光がかなり弱くなっていた。
夕食は昼より少しまともなものになった。小さな火を起こし、水を沸かして乾燥した食材を煮る。エリリアが森で見つけた食べられる葉を少量加え、塩気の薄い簡単な汁にする。
レンが一口飲み、首を傾げる。
「草の味する」
「葉を入れましたから」
「そういう意味じゃなくて」
「嫌なら食べなくてもいいですよ」
「食べる」
「お兄ちゃん、村でもらった食料無駄にするの嫌いだから」
「普通だろ」
アイリも口へ運ぶ。
「私は好き」
「二対一」
「料理の感想に勝敗をつけないでください」
エリリアが呆れる。
食事を終えたあとは、眠る場所と夜の見張りを決めることになった。
「私が最初から最後まで起きています」
エリリアが当然のように言った。
レンとアイリが同時に彼女を見る。
「駄目」
「駄目だな」
「なぜですか」
「これまでの話、聞いてた?」
アイリが尋ねる。
「聞いていました」
「じゃあ分かるでしょ」
「私は森での夜に慣れています」
「慣れてる人が全部やるって話じゃない」
レンは入口の外を見た。
「三人いるんだから分けよう」
「あなたはまだ怪我が――」
「見張るだけなら走らない」
「眠りが足りなければ回復が遅れます」
「それ、エリリアも同じだろ」
言い返され、エリリアが黙る。
アイリが指を一本立てた。
「三人で分ける。誰かが具合悪くなったら、その時変える」
「ですが――」
「一人で全部やらない」
エリリアはしばらく二人を見たあと、諦めたように息を吐いた。
「……分かりました」
「よし」
「アイリは時々、私より年上に見えます」
「前にも言われた」
「お前、旅のリーダーやれば?」
レンが言う。
「嫌。面倒そう」
「判断が現実的すぎる」
結局、最初はエリリア、次にレン、最後をアイリが担当することになった。時間を厳密に測れるものはないため、火と月の位置を見ながら交代する。
「もし起きられなかったら?」
レンが尋ねる。
「起こします」
「優しく?」
エリリアが考える。
「必要なら」
「それ絶対優しくないやつだ」
アイリが笑った。
◇
夜が深くなり、最初の見張りを終えたエリリアがレンを起こした。
「交代です」
「……ん」
「起きていますか?」
「起きてる」
「目が閉じています」
「今開ける」
レンは身体を起こし、右脚の状態を確かめてから外へ出た。
森の夜は、村の夜より暗かった。
家々から漏れる灯りがない分、木々の隙間に見える月だけが光源になる。小屋の前では火を大きくしすぎないよう熾火に近い状態へ落としてあり、その赤い光が周囲の石を僅かに照らしていた。
エリリアが眠りに戻るのかと思ったが、すぐには小屋へ入らなかった。
「どうした?」
「少しだけ涼んでから休みます」
「疲れた?」
「一日歩いたので、それなりに」
「後悔してる?」
エリリアがレンを見る。
「何をですか?」
「一緒に来たこと」
問いかけてから、少し早かったかもしれないと思った。まだ村を出て一日目だ。
けれどエリリアは怒らなかった。
「少しだけ」
レンが眉を上げる。
「本当に?」
「思っていたより騒がしいので」
「それ俺たちのせい?」
「主に」
「アイリも?」
「半分くらい」
「じゃあ俺が多いじゃないか」
「自覚があるのですね」
「今できた」
エリリアが小さく笑った。
昼間よりも静かな笑いだった。
「でも」
彼女は暗い森へ視線を向ける。
「嫌ではありません」
「そうか」
「はい」
少しの間、二人とも話さなかった。
木々の高いところで風が動き、葉が細かく擦れる。昼間に見えていた木漏れ日はもうなく、同じ森がまるで別の場所のように暗く広がっていた。
「戻りたくなったら戻っていいからな」
レンが言った。
エリリアが顔を向ける。
「前にも似たようなことを言っていましたね」
「一緒に行くって決めたからって、途中で変えちゃ駄目なわけじゃないだろ」
「あなたも?」
「俺?」
「旅をやめたくなったら、やめますか?」
レンは少し考えた。
「分からない」
「正直ですね」
「でも、今は行く」
「私もです」
エリリアは森の向こうを見た。
「今は、この先へ行きます」
「じゃあ明日も一緒だな」
「ええ」
エリリアは立ち上がった。
「明日もよろしくお願いします」
「こちらこそ」
小屋へ戻りかけたところで、レンが呼び止める。
「エリリア」
「何ですか?」
「リュネの鳥、なくすなよ」
エリリアは自分の荷物へ視線を向けた。
木彫りの鳥は布に包み、最も潰れにくい場所へ入れてある。
「あなたに言われなくても大切にします」
「ならいい」
「それより、眠くなったら必ずアイリを起こしてください」
「分かってる」
「無理して長く見張らないでください」
「分かってるって」
「本当に?」
「アイリみたいになってきたぞ」
エリリアは少し考えたあと、小さく笑った。
「それなら悪くないですね」
今度こそ小屋の中へ戻っていく。
レンは一人になり、火の残りを確かめてから、石壁へ背を預けた。
森の奥では何か小さな生き物が落ち葉を踏み、遠くで夜鳥の声が聞こえる。明日になれば、この穏やかな森の道も少しずつ岩の多い地形へ変わっていくという。それがどんな場所なのか、レンはまだ知らない。
それでも今夜は、急いで先を見る必要を感じなかった。
小屋の中ではアイリとエリリアが眠っている。腰には黒銀の剣があり、左腕にはまだ消えない違和感が残り、右脚も一日歩いた分だけ重かった。
万全の状態で始まった旅ではなく、三人とも旅慣れているわけでもない。それでも朝、木漏れ日の下で歩き始めた時よりは、三人で進む速度が少しだけ分かった気がしていた。
レンは暗い森へ目を向けたまま、次の交代まで静かに夜の音を聞いていた。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
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