第一章 第二十三話 旅に加わる理由
朝の光が村へ差し込んでも、焼けた木の匂いまでは消えていなかった。
夜のうちに消し切れなかった煙が、崩れた屋根や黒く焦げた柱の間から細く立ち昇っている。広場では既に何人もの村人が動き始めており、倒れた木材を運ぶ者、使える道具を選り分ける者、壊れた壁へ板を打ちつける者の声が絶えず行き交っていた。昨日までの村と同じ姿には程遠い。それでも、誰かが指示を出さなければ何も始まらない状態でもなかった。それぞれが自分にできることを見つけ、少しずつ生活を取り戻そうとしている。
レンはその様子を、比較的火の被害が少なかった家の軒先から眺めていた。
左前腕には新しい布が巻かれ、右脚にも昨日より厚く包帯が重ねられている。座っている分には耐えられるが、立ち上がる時や体重を移す時にはまだ傷が強く疼いた。腰には黒銀の剣をいつも通り下げているものの、今日は抜く理由もなければ、抜いていい状態でもない。
隣ではアイリが壁へ背を預けていた。右肩は固定されたままで、左脚も完全には休まっていない。それでも朝食として渡された薄い粥を左手だけで器用に食べ終えると、兄の左手へ視線を落とした。
「また動かしてる」
「確認だけ」
「昨日も七回確認してた」
「今日はまだ三回だ」
「数えてるんだ」
「お前が数えるから」
レンは左手を開き、ゆっくり閉じる。薬指と小指は昨日と大きく変わらず、少し遅れて動いた。悪くなってはいない。それだけでも今は十分だと自分へ言い聞かせ、四度目を試す前に手を膝へ戻す。
「ちゃんと我慢できた」
「何が」
「四回目」
「子供扱いするな」
「無茶する人はだいたい子供扱いされるよ」
「それ誰の理屈だ」
「私」
「強いな」
アイリが少し笑ったところで、二人の前へ影が落ちた。
「今、話しても大丈夫ですか」
顔を上げると、エリリアが立っていた。
昨日より顔色は戻っているものの、疲労が消えたわけではない。左上腕には新しい包帯が巻かれ、脇腹の傷も処置されている。細剣は腰に帯びていたが、右手を柄へ置くこともなく、身体の動きもいつもより慎重だった。
レンは昨夜の会話を思い出した。
「旅の話?」
「はい」
アイリが二人を見る。
「昨日、何か話したの?」
「明日お前も一緒に話したいって」
「私が寝たあと?」
「ああ」
アイリの目が細くなる。
「二人で?」
「何だその言い方」
「別に」
「別にじゃないだろ」
「話を始めてもいいですか?」
エリリアの静かな声に、兄妹は同時に口を閉じた。
「どうぞ」
「お願いします」
返事まで重なり、エリリアが僅かに目を細める。
「本当に似ていますね」
「どこが」
「全然似てないよ」
また重なった。
今度はエリリアも小さく笑った。
◇
エリリアは二人の正面へ腰を下ろした。
すぐには本題に入らず、広場の向こうへ視線を向ける。昨日まで戦場だった場所では、村人たちが壊れた荷車を起こし、その横を子供たちが水の入っていない小さな桶を運んでいた。重い物は持たせてもらえないらしく、それでも何かをしたい子供たちへ、大人たちが軽い仕事を任せているのだろう。
「あなたたちは、ここを出たあとも旅を続けると言いましたね」
昨夜より少し改まった声だった。
レンが頷く。
「ああ」
「行き先は決まっていない」
「大きくはな。町や人がいるところへ行けば、故郷のことを知ってる誰かに会えるかもしれない。今はそれくらいだ」
「危ない旅になる可能性もあります」
「もう十分危なかったけどな」
「これ以上になるかもしれません」
「それは嫌だな」
レンが真顔で言うと、アイリが横から肘で突こうとして、右肩を動かしかけたところで止まった。
「何でちょっと楽しそうなの」
「楽しそうに見えるか?」
「見える」
「誤解だ」
「誤解ですね」
エリリアまで即答した。
「エリリア?」
「本題に戻します」
何事もなかったように言われ、レンは諦めた。
エリリアは一度息を整え、それから二人を真っ直ぐ見た。
「私も、村を離れることを考えています」
レンは一瞬、意味を取り違えた。
「村を?」
「はい」
「しばらく?」
「どれくらいになるかは分かりません」
今度はアイリがエリリアの顔を見つめる。
「それって……旅に出るってこと?」
「そうなります」
「一人で?」
エリリアは少しだけ間を置いた。
「できれば、あなたたちと一緒に」
レンは黙った。
アイリもすぐには口を開かなかった。
村の向こうから木を打つ音が聞こえる。一定ではなく、何人もの作業が重なった不揃いな音だった。
「俺たちと?」
ようやくレンが聞き返す。
「はい」
「何で?」
あまりにもそのままの問いに、アイリが兄を見る。
「もうちょっと言い方あるでしょ」
「だって気になるだろ」
「気になるけど」
「私も、その質問をされると思っていました」
エリリアは怒った様子もなく答えた。
「だから、まず理由を話します」
彼女の視線が広場へ移る。
「私は長い間、この村にいることが正しいと思っていました。ここを守ることが、自分にできる一番大切なことだと」
リュネが暮らし、ミレアが暮らし、多くの村人たちが生活してきた場所。エリリアにとって、この村がただの滞在先ではないことはレンにも分かる。
「それは間違ってないだろ」
「はい。間違っていたとは思いません」
エリリアは静かに頷いた。
「だからこそ、離れることを考えないようにしていました」
「考えないように?」
「村の外へ目を向ければ、ここにいない間に何かが起きるかもしれない。誰かが傷つくかもしれない。その時に自分がいなければ、きっと後悔すると思っていたんです」
レンは答えなかった。
その考え方には、妙に覚えがあった。自分が目を離したら誰かが傷つく。自分がそこにいなければ守れない。だから、自分がやる。ここ数日の間に何度も身体へ叩き込まれた思い込みとよく似ていた。
「でも、昨日の戦いで分かりました」
エリリアの声が続く。
「私が一人で村を守っていたわけではありませんでした」
広場では、昨日戸板を盾にした男が片腕を吊ったまま別の村人へ指示を出していた。縄を切った女たちは、水を運ぶ列に加わっている。森へ戻った狩人たちは負傷していても、座ったままで矢や道具の状態を確認していた。
「私が大きな風を維持できなくなっても、村の人たちは動き続けました。私が屋根から下りたあとも、誰かが誰かを守った。リュネも、子供たちのそばに残った。私が全てを抱えなければ崩れる村ではなかったんです」
アイリが静かに頷く。
「うん」
「それを知って安心したのと同時に……少し怖くなりました」
「怖い?」
レンが尋ねる。
「今まで、ここに残る理由を『守るため』だと思っていました。それが間違いではなくても、それだけを理由にしていたら、私はいつまで経ってもここから動かないでしょう」
エリリアは自分の右手を見た。
「今回、この村を襲った者たちは、金や食料だけを求めていたわけではありませんでした。何かを探していた。何のためかは、まだ分かりません」
布に包まれた細長い何かは、長老たちの手元に預けられたままだ。ガロスも、捕らえたもう一人の男も、まだ詳しいことを話してはいない。
「ここで待っていても、分からないことがあります」
エリリアは言った。
「それに、私自身にも……村へ来る前から、答えを出せていないことがあります」
レンが僅かに眉を寄せる。
「前から?」
「はい」
それ以上、エリリアは説明しなかった。顔にも、続きを話すつもりがないことが表れている。
レンも追及しなかった。
「だから旅に?」
「それだけではありません」
エリリアは二人を見る。
「ここを出たいと思っている自分がいることを、もう無視したくないんです」
その言葉が一番率直だった。
「何かを探したい。知りたい。外に何があるのか、自分の目で見たい。それを全部、村を守るという理由だけで押し込め続けるのは違うのではないかと思い始めました」
アイリが尋ねる。
「でも、リュネは?」
エリリアの表情が僅かに揺れた。
「それが、一番迷っている理由です」
「村の人たちもだよね」
「はい」
「だったら、まだ決めてない?」
「……決めたいと思っています」
少し不思議な答えだった。
レンが首を傾げる。
「どういう意味?」
「頭では、行きたいと思っています。でも、それを自分に許せていない」
その時、背後から声がした。
「やっぱりそこなんだね」
三人が振り向く。
ミレアが弓を背負ったまま立っていた。
「聞いてたのか?」
レンが聞く。
「途中から」
「盗み聞きです」
エリリアが言う。
「普通に歩いてきたよ」
「声を掛ければいいでしょう」
「いいところだったから」
「ミレア」
「怒らないで。怪我に悪い」
エリリアの眉が僅かに動く。
「それを言えば私が黙ると思っていますか」
「思ってる」
ミレアは笑いながら近くへ座った。
◇
「私からも聞いていい?」
ミレアが言った。
「エリリア、本当は何が怖いの?」
「今、話した通りです」
「村に何かあった時、ここにいないこと?」
「それもあります」
「リュネを置いていくこと?」
「当然でしょう」
「他は?」
エリリアが黙った。
ミレアは急かさなかった。
「戻ってきた時に、居場所がなくなってたら嫌?」
エリリアが顔を上げる。
レンもアイリも口を挟まなかった。
「何を言っているんですか」
「この村から出たら、もうここに戻れない気がしてるんじゃない?」
「そんなことは――」
「ない?」
エリリアの言葉が止まる。
ミレアは笑わなかった。
「ずっといたからね」
その声は柔らかかった。
「ここを守るって決めて、ずっと守ってきた。離れることを考えなかった。だから、いざ自分から出ようとすると、村を捨てるみたいに感じるんでしょう」
エリリアは視線を落とした。
「……少しだけ」
「少し?」
「かなり」
「やっと素直」
リュネだけでなくミレアにまで同じことを言われ、エリリアは小さく息を吐いた。
「でもね、エリリア」
ミレアは村の方へ顎を向けた。
「あそこ見て」
焼けた壁を立て直している者がいる。昨日まで捕らわれていた者も混じっている。子供たちは大人の邪魔にならない場所で細い枝を集め、負傷者は座ったまま出来る仕事を探している。
「昨日、あなたが倒れたら全員死んだ?」
「……いいえ」
「あなたが屋根から下りたあと、村は止まった?」
「止まりませんでした」
「あなたがいなかった水路の先で、子供たちは生き延びた?」
エリリアが頷く。
「はい」
「じゃあ分かるでしょう」
ミレアの声に責める響きはなかった。
「この村はあなた一人で立ってるんじゃない」
エリリアは何も言わない。
「必要じゃないって言ってるわけじゃないよ。必要だよ。私だって、いてくれた方が安心する。リュネなんて泣くと思う」
「もう泣かれました」
「早いな」
「まだ旅に出るとは伝えていません」
「じゃあ別件で泣かせた?」
「言い方」
アイリが思わず笑った。
ミレアは肩を竦める。
「でも、必要とされることと、どこにも行けないことは同じじゃない」
その言葉に、エリリアの目が僅かに揺れた。
「もしあなたが村を離れた日に何かが起きたら、みんなでどうにかする。今回みたいにね。それで足りなかったら、その時はまた考える。でも、起きるかもしれないこと全部を理由にして、あなたが一生ここから出ないのは違うでしょう」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないよ」
ミレアは即座に答えた。
「私だって怖い」
「なら――」
「それでも、怖いからって誰かを縛るのは嫌」
エリリアは黙った。
しばらくして、ミレアが立ち上がる。
「決めるのはあなた」
それだけ言って、背中の弓を直した。
「長老とも話すなら話せばいい。村の仕事をどうするかも決めればいい。でも、最後に行くか残るか決めるのは長老じゃないし、私でもない。リュネでもない」
ミレアはエリリアを見る。
「あなたでしょ」
エリリアはゆっくり頷いた。
「……はい」
「じゃあ私は邪魔したから戻るね」
「本当に途中から聞いていたんですか?」
「さあ」
「ミレア」
「怪我人は怒らない」
「その理屈はもう聞きました」
ミレアは笑いながら広場へ戻っていった。
◇
エリリアはその日の午前中を、村の中を歩いて過ごした。
長距離を歩くことはまだ止められていたため、実際には何度も休みながらだった。壊れた家を見て、負傷した者へ声を掛け、長老とも話した。村を離れる場合に誰がどの役目を引き受けるのか、森の見回りをどうするのか、狩人たちの配置をどう戻していくのか。どれもエリリア一人が決めることではなく、だからこそ彼女がいなくても話し合って決められることだった。
昼を過ぎた頃、エリリアは再びレンとアイリのところへ戻ってきた。
二人は朝と同じ軒先にいた。
レンは眠っていたらしく、壁へ頭を預けたまま目を閉じている。
「お兄ちゃん」
アイリが声を掛ける。
「起きて」
「起きてる」
「今まで寝てた」
「目を閉じてただけ」
「口開いてたよ」
「嘘だ」
「本当」
エリリアが小さく笑う。
その声でレンが目を開けた。
「いつからいた?」
「口を開けていたところから」
「アイリ」
「私悪くないよ」
「二対一じゃないか」
「まだ二対一ではありません」
エリリアが言った。
レンが彼女を見る。
朝とは表情が違っていた。
迷いが完全に消えたわけではない。それでも、何かを決めてきた人間の顔だった。
「決めた?」
アイリが先に尋ねる。
「はい」
エリリアは二人の前へ座った。
「私は村を離れます」
言葉にしたあと、自分自身でそれを確かめるように一度息を吐く。
「すぐではありません。怪我もありますし、村の方も整えなければならない。長老とも、必要なことを引き継いでからにすると話しました」
「うん」
「その上で」
エリリアはレンとアイリを交互に見る。
「もし二人が構わないなら、一緒に行かせてください」
レンはアイリを見る。
アイリも兄を見る。
「何で俺を見るんだ」
「お兄ちゃんも私見たでしょ」
「同じこと考えてるか確認した」
「私も」
「で?」
「私はいいよ」
「早いな」
「だって嫌なら朝の時点で言ってる」
「それもそうか」
レンはエリリアへ向き直る。
「俺も反対する理由はない」
「本当に?」
「むしろ助かる」
アイリが眉を上げる。
「お兄ちゃん」
「何だよ」
「今、強い人が増えるから助かるって考えた?」
「……ちょっと」
「やっぱり」
「ちょっとだけだぞ」
エリリアが呆れたように息を吐く。
「正直ですね」
「でも、それだけじゃない」
レンの声が少し真面目になる。
「俺たちはエリリアのことを全部知ってるわけじゃない。たぶんエリリアも同じだろ」
「はい」
「それでも、昨日一緒に戦った。リュネのことも任された。俺とアイリが危ない時にも助けてもらった」
「私も助けられました」
「だったら、今の時点ではそれで十分だと思う」
エリリアが静かに聞いている。
「行く理由があるなら来ればいい。途中で別の道へ行きたくなったら、その時また考えればいい」
「随分簡単に言いますね」
「ミレアにも言われた?」
「似たようなことを」
「じゃあ正しいんじゃないか」
「その判断基準はどうかと思います」
アイリが笑う。
「でも、私も同じかな」
エリリアが彼女を見る。
「旅って、たぶん思ったより大変だよ。私たちも慣れてないし」
「見れば分かります」
「それ今日二回目」
「事実なので」
「でも」
アイリは少しだけ真剣な顔になった。
「一緒に行くなら、勝手に全部一人でやらないでね」
エリリアが瞬きをする。
「それはレンに言うべきでは?」
「お兄ちゃんにはもう言ってる」
「何度もな」
「エリリアにも」
「私は――」
言い返そうとして、エリリアは途中で止めた。昨日、自分が村全体へ風を巡らせたことを思い出したのだろう。
「……努力します」
「よし」
「あなた、本当に十八歳ですか?」
「何歳に見えるの」
「時々もっと上に」
「褒めてる?」
「判断に困っています」
レンが笑う。
少し考えてから、右手をエリリアへ差し出した。
「じゃあ、よろしく」
エリリアはその手を見る。
「何ですか?」
「何って……こういう時、握手するだろ」
「そうなのですか?」
「たぶん」
「自信ないんだ」
アイリが言う。
「いいだろ、気持ちの問題だ」
エリリアはほんの僅かに笑い、右手を伸ばした。
二人の手が重なる。
「よろしくお願いします、レン」
「ああ」
手を離すと、今度はアイリが左手を差し出した。
「私も」
エリリアが彼女を見る。
「右手ではなく?」
「肩痛いから」
「そうでした」
「忘れないでよ」
「すみません」
エリリアは右手でアイリの左手を握った。
「よろしくお願いします、アイリ」
「うん。よろしく、エリリア」
大げさな誓いもなければ、どこまで一緒に歩くのかもまだ決まっていない。それでも、昨日まで別々だった道が、少なくともここからしばらくは同じ方向へ伸びることになった。
◇
夕方前、エリリアが旅に出る考えをリュネへ伝えると、返事はほとんど間を置かずに返ってきた。
「嫌」
「リュネ」
「嫌」
「話を――」
「嫌だ」
三回目は少し声が震えていた。
リュネは昨日から身につけている灰色の外套の裾を両手で握り、エリリアを真っ直ぐ見ている。左脚はまだ固定され、すぐ横には枝の杖が立て掛けられていた。
「どうして行くの?」
「話したでしょう」
「分かんない」
「村の外で確かめたいことがあります」
「誰かに任せればいい」
「私が知りたいことなんです」
「じゃあ私も行く」
エリリアの表情が止まった。
「それは駄目です」
「何で!」
「脚を怪我しています」
「治ったら!」
「治ってもです」
「私、役に立てるよ!」
リュネは一歩前へ出ようとして、左脚へ痛みが走ったのか顔を歪めた。
「昨日だって、子供たちを連れて森まで行けた。みんなのそばにもいた。道だって分かるし――」
「リュネ」
エリリアの声が少しだけ強くなった。
少女の言葉が止まる。
エリリアはすぐに声を和らげた。
「あなたが役に立たないから連れていかないのではありません」
「じゃあ何で」
「あなたはもう十分にやりました」
リュネの目に涙が溜まり始める。
「子供たちを森まで連れていった。自分も怪我をしているのに、最後まで離れなかった。それがどれほど大切だったか、あなたはまだ分かっていないかもしれません」
「でも、戦ってない」
「戦うことだけが誰かを守ることではありません」
その言葉は、昨夜の長老の話と同じ意味を持っていた。
「あなたは、危険な場所へ戻らなくても誰かを守れた。それをしたのに、今度は旅へついてきて危険なことをしなければ自分の価値を証明できないと思っているなら、それは違います」
リュネは唇を噛んだ。
「証明したいんじゃない」
「では、何ですか?」
「……いなくなるのが嫌」
ようやく、本当の言葉が出た。
「エリリアがいなくなるのが嫌」
エリリアは何も言わず、少女の前へ膝をついた。
「みんな、いなくなる」
リュネの声が小さくなる。
「昨日も、帰ってこなかった人がいた。前にも……いなくなった人がいた。エリリアも行ったら、帰ってこないかもしれない」
涙が頬を伝う。
「だから嫌」
エリリアは右手でリュネの頬を拭った。
「私も怖いです」
リュネが顔を上げる。
「エリリアも?」
「はい」
「でも行くの?」
「行きます」
「怖いのに?」
「怖いから行かない、を続けていたら、私はきっとずっとここから動けません」
エリリアは一度村の方を見た。
「ここは私の帰る場所です」
「帰る?」
「はい」
「本当に?」
「帰るつもりで行きます」
リュネは鼻を啜る。
「絶対?」
「絶対という約束は、できません」
少女の顔が曇る。
エリリアは逃げずに続けた。
「旅の途中で何が起こるか、私には分からないからです。でも、戻るつもりがないわけではありません。私はここを捨てるために出るのではありません」
「じゃあ……帰ってきたい?」
「はい」
リュネは長い時間黙っていた。
「手紙」
「え?」
「手紙送って」
エリリアが瞬きをする。
「分かりました」
「いっぱい」
「できる限り」
「どこ行ったか書いて」
「はい」
「何食べたかも」
「必要ですか?」
「必要」
「分かりました」
「あと、お土産」
「……それも必要ですか?」
「必要」
涙を拭いながら、リュネは真剣な顔で言う。
「かわいいもの」
「基準が難しいですね」
「エリリアがかわいいと思ったもの」
「それなら更に難しいです」
「何で?」
「私とあなたでは、かわいいの基準が違う可能性があります」
「じゃあアイリに選んでもらって」
エリリアが一瞬黙った。
「それは良い案です」
「でしょ」
「レンには頼まないのですか?」
リュネは少し考えた。
「変なの選びそう」
少し離れた場所から声が飛んだ。
「聞こえてるぞ!」
リュネが驚いて振り向く。
レンとアイリが少し先にいた。
「いつからいたの!」
「かわいいものの辺りから」
「盗み聞き!」
「普通に通っただけだ!」
昼間のミレアと同じ言い訳を聞き、エリリアが額へ手を当てる。
「今日はそういう日なのですか」
アイリが笑いながら近づいてくる。
「お土産、私が選ぶね」
「うん!」
「お兄ちゃんには選ばせない」
「何で俺だけ信用ないんだよ」
「日頃の行い」
「それ便利すぎないか?」
リュネが泣きながら笑った。
◇
その日の夕方、エリリアは長老や村の者たちへ、自分の考えを正式に伝えた。
大きな集会にはならなかった。昨日の夜に皆で食事をしたばかりで、今日も一日中働き続けている。話を聞ける者が広場の一角へ集まり、来られない者にはあとで伝えることになった。
「しばらく村を離れます」
エリリアはそれだけを最初に言った。
驚く者はいた。
「今?」
「こんな時に?」
不安そうな声も上がる。
エリリアはそれを否定せず、一つずつ聞いた。
「すぐに出るわけではありません。怪我が治るまで残ります。見回りや森の道についても、必要なことは引き継ぎます」
「戻ってくるのか?」
一人が尋ねる。
「戻るつもりです」
答えはそれだけだった。
誰かを納得させるために長い演説をすることはなかった。それでも、不安が完全に消えるはずもない。
長老が周囲を見回す。
「心配する者がいるのは当然だ」
静かな声だった。
「私も心配だ」
エリリアが長老を見る。
「だが、心配だから行くなと言い続けたら、誰もどこへも行けなくなる」
長老はそこで言葉を切り、村の外れで作業している者たちへ視線を向けた。
「昨日、私たちは一人で村を守ったわけじゃない。それはもう分かっただろう」
何人かが頷く。
「なら、今度は残る者が残る者の役目をする。それだけだ」
長老はエリリアを見る。
「行くと決めたのか?」
「はい」
「なら、帰ってきた時に住む場所がなくならない程度には直しておこう」
エリリアの表情が一瞬だけ崩れた。
「……ありがとうございます」
「礼は帰ってからでいい」
それ以上、誰も彼女を止めなかった。
◇
夜になると、村は前日よりずっと静かだった。
修復を始めたばかりの家々の間には、まだ夜風が通り抜ける隙間が多い。遠くで見張りを交代する声が聞こえる以外、村を覆うのは虫の音と木々のざわめきだけだった。
リュネは横になっていたが、眠ってはいなかった。
隣ではエリリアが右腕を枕代わりにして横になっている。
「エリリア」
「まだ起きていたのですか」
「うん」
「脚が痛みます?」
「ちょっと。でもそれじゃない」
「何ですか?」
しばらく答えがない。
「旅って楽しい?」
思いがけない問いだった。
「どうでしょう」
「分かんないの?」
「まともな旅をしたことが、あまりありませんから」
「じゃあレンたちも?」
「二人とも慣れているようには見えませんね」
「大丈夫?」
「それは私も少し心配です」
リュネが小さく笑う。
「レン、危ないことしそう」
「しますね」
「アイリに怒られる?」
「怒られるでしょうね」
「エリリアも怒って」
「必要なら」
「いっぱい」
「それはレン次第です」
少しの沈黙のあと、リュネが尋ねる。
「二人、いい人?」
エリリアはすぐには答えなかった。
水路の暗闇で初めて二人を見た時、自分は疑っていた。何者なのか分からない。村へ入り込んだ敵かもしれない。そう考え、剣を向ける準備までしていた。
それから見たものを思い出す。
怪我をしたまま子供たちを守るレン。使える腕が一つしかなくても縄を切り続けたアイリ。逃げることができたのに、二人とも村へ残った。
「はい」
エリリアは静かに答えた。
「いい人たちだと思います」
「強い?」
「強いです」
「エリリアより?」
「それは答えに困りますね」
「じゃあ危ない?」
エリリアは少し考えた。
「かなり」
リュネがまた笑う。
「やっぱり」
「でも、たぶん」
エリリアは暗い天井を見上げた。
「一緒に歩いてみたいと思える人たちです」
リュネはそれ以上何も言わなかった。
しばらくして、規則正しい寝息が聞こえ始める。
エリリアは隣の少女へ顔を向けた。
ここを離れることを考えるだけで、胸の奥にはまだ痛みに似た感覚がある。村は壊れていて、傷ついた人もいる。離れたくない理由なら、いくらでも見つけられた。
それでも、この場所が自分の帰る場所であることと、ここから一歩も離れないことは同じではない。
明日すぐに出発するわけではない。傷を治し、必要なことを整え、村がもう少し落ち着いてからになる。それでもエリリアは今日、自分の意思で初めて村の外へ続く道を選んだ。
隣ではリュネが眠っている。
村の外では森が静かに夜風を受けている。
エリリアは目を閉じる前に、その音を長く聞いていた。
いつか戻ってきた時にも聞けるように、覚えておきたいと思った。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!




