第一章 第二十二話 勝利の夜
最後の盗賊が南の森から連れ戻された頃、夜空の黒はようやく薄れ始めていた。
東の空がまだ夜明けと呼ぶには暗い色を残している中、村では誰一人として勝利を口にしていなかった。追うべき敵がいなくなったからといって、やるべきことまで消えたわけではない。燃え残った家々では火が燻り、広場では負傷者の手当てが続き、武器を奪われた盗賊たちは複数の村人に見張られている。ガロスと最後に捕らえられた男は互いに言葉を交わせないよう離され、どちらにも別々の見張りが付けられた。
ミレアが取り戻した布包みも、その場では開かれなかった。
「これは預かる」
長老は煤で汚れた細長い包みを受け取り、布の上から形を確かめることさえせず、傍らの村人へ渡した。
「誰も勝手に開けるな。まず村の中を片づける。それから確認する」
エリリアも異を唱えなかった。
「その方がいいです」
ガロスが僅かに顔を上げたが、何も言わない。エリリアはその反応に気づいていたものの、今ここで問い詰めることもしなかった。聞かなければならないことは残っている。それでも、目の前には傷ついた村人と消え切っていない火があり、どちらを先にするべきかは明らかだった。
レンも布包みを見つめていたが、右脚の痛みが強くなり、無意識に重心をずらしたところでアイリに袖を引かれた。
「座って」
「また?」
「また」
「今はちゃんと立ってるだけだぞ」
「立ってるだけでも脚使うでしょ」
「それはそうだけど」
「じゃあ座って」
反論できる言葉が見つからず、レンは近くへ置かれていた木箱の端に腰を下ろした。黒銀の剣は鞘へ収めたまま腰の右寄りに下げている。戦いが終わったと分かっていても、完全に手放す気にはまだなれなかった。
「お前も休めよ」
「私は座ってる」
「今立ってるだろ」
「お兄ちゃんを座らせるために立ったの」
「理屈が強いな」
「当然です」
アイリはそう言いながら再び腰を下ろし、固定された右肩へ負担を掛けないよう身体の向きを変えた。左脹脛にも痛みが残っている。兄妹の少し向こうでは、エリリアも壁へ背を預けるようにして休んでいた。左上腕と脇腹の傷は浅いとはいえ、村全体へ風を巡らせた反動がそれ以上に大きいらしく、細剣を持つ右手にも普段のような力は戻っていない。誰一人として無傷ではなかったが、それでも三人とも生きてここにいる。
レンがその事実を噛み締めるより早く、西側から一人の村人が走ってきた。
「戻ってくるぞ!」
広場にいた者たちの顔が一斉に上がる。
「森へ知らせに行った者たちが戻った! 子供たちも一緒だ!」
その言葉に、疲れ切っていた空気が初めて大きく揺れた。
◇
西側の道から最初に姿を見せたのは、子供を背負った一人のエルフだった。その後ろから別の大人が歩き、さらに何人もの小さな影が続いてくる。
子供たちは疲れ切っていた。泣き腫らした顔の者もいれば、何が起きていたのかまだ理解できていないように周囲を見回している者もいる。負傷していた世話役も二人に支えられながら戻ってきた。
そして、その列の中ほどに、灰色の外套をまとった小さな少女がいた。
「リュネ!」
アイリが立ち上がる。
リュネも声の方へ顔を向けた。淡い金色の髪は乱れ、顔には泥と煤が残っている。左脚にはまだ固定が施され、片手には森へ入る時から使っていた枝を持っていた。急いでこちらへ来ようとしたのか、一歩目で足を庇うように身体が揺れる。
「走らない!」
アイリの声に、リュネは思わず足を止めた。
「でも――」
「こっちから行く」
アイリも走れない。左脚を庇い、右肩を動かさないよう注意しながら歩いていく。
二人の間の距離が縮まる。
「アイリ……」
「うん」
「みんな……?」
リュネは広場へ目を向けた。
「レンもいる。エリリアもいるよ」
その言葉を聞いた瞬間、リュネの緑の瞳に溜まっていたものが溢れた。
「よかった……」
アイリは左腕だけを伸ばした。
リュネもすぐに近づいたが、勢いよく抱きつくことはせず、傷ついた肩を避けながらアイリの服を掴む。
「ごめん……」
「何で謝るの?」
「私、戻れなかった」
「戻らなくてよかったんだよ」
「でも、みんな戦ってたのに」
「リュネもやることやってたでしょ」
アイリは泣いている少女の顔を覗き込んだ。
「子供たちを森まで連れていった。ちゃんとそばにいた。それで十分だよ」
「でも……」
「それ以上やったら怒る」
「誰が?」
「私が」
リュネが鼻を啜る。
「アイリ、怖い」
「うん。知ってる」
その返事に、リュネの口元がほんの少しだけ緩んだ。
そこへエリリアがゆっくり歩いてくる。いつもの彼女なら、もっと早く近づいただろう。だが今は呼吸を乱さない速度で一歩ずつ進み、リュネの前まで来ると静かに膝を折った。
「リュネ」
少女が顔を上げる。
「エリリア……!」
今度は止める間もなかった。
リュネは枝を落とし、エリリアへ身体を寄せた。
「っと……」
エリリアは左腕を庇いながら右腕だけで少女を受け止める。
「ご、ごめんなさい!」
「大丈夫です」
「怪我……」
「あなたが心配するほどではありません」
そう答えながらも、エリリアの顔には明らかな疲労が残っていた。
リュネはそれに気づいたらしく、すぐに身体を離す。
「本当に?」
「本当に」
「嘘じゃない?」
「……全く痛くないとは言いません」
「やっぱり」
少し離れた場所からレンが笑った。
「エリリアも最近素直になってきたな」
エリリアが振り向く。
「あなたに言われたくありません」
「それ、アイリにも言われた」
「でしょうね」
そのやり取りを聞いて、リュネが今度こそ小さく笑った。
その頃には、戻ってきた子供たちの周囲にも家族や村人たちが集まり始めていた。名前を呼びながら抱きしめる者もいれば、言葉もなく子供の頭へ手を置く者もいる。再会できた喜びのすぐ隣で、周囲を探し続ける視線もあった。
誰もが帰ってきたわけではなく、その事実だけは、どれほど再会を喜んでも歓声に変えることができなかった。
◇
日が昇る頃、レンたちはようやくまともな手当てを受けることになった。
村の中で薬草や傷の処置に慣れている者たちが集まり、比較的被害の少なかった家の一角へ負傷者を順番に座らせていく。湯が沸かされ、汚れた布が取り替えられ、血と煤で固まった傷が一つずつ洗われていった。
レンの番になると、左前腕に巻かれていた布を外した年配のエルフが眉を寄せた。
「狼か?」
「ああ」
「いつだ」
「数日前」
「そのまま森を歩いて、そのあと戦ったのか」
「……そうなる」
横からアイリが口を挟む。
「何回も無茶しました」
「おい」
「本当でしょ」
「本当だけど」
年配のエルフは兄妹の会話に構わず、腫れた腕を慎重に調べていった。噛み傷の周囲にはまだ熱があり、深く食い込んだ箇所を触れられるたびに鈍い痛みが走る。
「指を動かせ」
レンは右手を膝へ置き、左手だけをゆっくり開いた。親指、人差し指、中指までは大きな問題なく動いたが、薬指と小指は僅かに遅れてついてくる。
「もう一度」
今度は意識して動かす。
やはり最後の二本だけ反応が鈍い。
「感覚は?」
「ある。ただ……他より少し鈍い」
「触るぞ」
指先へ順番に触れられる。
レンは目を閉じた。
「ここは?」
「分かる」
「こっち」
「……分かる」
「これは?」
一瞬遅れてから、レンは頷いた。
「分かる。ちょっとだけ遠い感じがする」
年配のエルフは頷いた。
「今のところ、全く感じないわけじゃない。だが腫れも強い。傷の周りが荒れているうちは指が動かしにくくなることもある。今日明日で無理に使うな」
「剣は?」
「右手で持つ分には勝手にしろと言いたいところだが、その脚もある」
今度は右脚へ視線が落ちた。
「結論から言えば、休め」
「……はい」
アイリが満足そうに頷いた。
「もっと強く言ってください」
「お前はどっちの味方なんだ」
「お兄ちゃんの味方だから言ってるの」
右脚の包帯も外され、狼に噛まれた箇所が洗い直された。途中で浅く開いた傷は再び閉じ始めているものの、何度も踏み込んだせいで周囲の痛みはまだ強い。新しい布を巻かれ、当分は長距離を歩かないよう言い渡された。
その隣では、アイリも右肩の固定を確認されていた。
「腕を上げようとするな」
「上げません」
「本当に?」
「今日は」
「今日だけじゃ困る」
レンが横から笑う。
「言われてるぞ」
「お兄ちゃんより守ります」
「基準を俺にするな」
左脹脛の傷も洗浄され、新しい布が巻かれる。噛まれたというより掠められた傷ではあるが、森を歩き続けたため汚れが入り込んでいた。
処置を見ていたアイリは、セラに教わった手当ての順番と大きく違わないことを確かめるように、必要な時だけ左手で布や湯を渡した。右肩を使おうとするたび近くの者に止められ、そのたびに小さく不満そうな顔をする。
少し離れた場所では、エリリアも左上腕と脇腹の傷を洗われていた。どちらも深くはないものの、乾きかけた血を落とされるたび眉が僅かに動く。
「痛い?」
リュネが心配そうに尋ねる。
「少しだけ」
「また素直」
「今日はそういう日らしいです」
エリリアは右手だけで少女の頭を軽く撫でた。
「それより、あなたの脚も見てもらいなさい」
「もう見てもらった」
「何と言われました?」
「歩きすぎ」
「でしょうね」
「エリリアも風使いすぎ」
エリリアの手が止まる。
「誰から聞きました?」
「ミレア」
「余計なことを」
「本当なの?」
エリリアは少しだけ視線を逸らした。
「……本当です」
リュネが頬を膨らませる。
「じゃあ休んで」
「はい」
「ちゃんと」
「はい」
今度はレンとアイリが揃って笑った。
「何ですか」
エリリアが睨む。
「いや」
「別に」
「二人とも同じ顔をしています」
久しぶりに、痛み以外の理由で小さな笑い声が生まれた。
◇
昼を過ぎる頃、村の火はほとんど消えた。
それと入れ替わるように始まったのは、夜の間にはできなかった仕事だった。倒れた家の木材をどかす者、残っている食料や薬を確かめる者、そして傷の軽い者たちは、森の縁に近い静かな場所へ向かい、帰らなかった者たちのために土を掘った。
レンたちは、その作業の全てに加わることを許されなかった。手伝おうと立ち上がった時点で、三人ともそれぞれ別の相手に止められたからだ。
レンはアイリに、アイリは手当てをしていた年配の女に、そしてエリリアはリュネとミレアの二人に止められた。
「どうして私だけ二人なんですか」
「一人だと聞かないから」
ミレアが答える。
「あなた昨日、屋根から村全部に風流したでしょう」
「全部ではありません」
「そこじゃないよ」
エリリアは黙った。
結局、三人は運ばれてくる水や布を受け渡す程度しか許されず、村人たちが動く様子を少し離れた場所から見守ることになった。
森の縁では、声を張り上げる者はいなかった。
亡くなった者のそばへ家族や友人が集まり、その人が使っていた小さな品を添える者もいる。狩りに使っていた古い革紐や、欠けた木の飾り、何度も研ぎ直された小さな刃。何を置くかは人によって違い、何も置かずにただ長い時間そこへ座っている者もいた。
リュネも子供たちと一緒に森の縁まで行った。灰色の外套の裾を握り、一人の小さな子と手を繋いでいる。
朝に戻ってきた時とは違い、もう泣いてはいなかったが、笑ってもいなかった。ただ、土がゆっくり戻されていくのを最後まで見ていた。
レンは遠くからその姿を見ながら、何も言えなかった。
自分の故郷にも、同じように送りたかった人がいた。けれど、あの夜にはそんな時間すらなかった。炎が全てを奪い、逃げるだけで精一杯だった。
胸元へ手を伸ばしかけ、途中でやめる。
今は自分の過去を重ねて、この村の悲しみまで自分のものにする時ではない。
レンはただ座ったまま、森の方へ頭を下げた。
◇
夕方になると、村の中央にいくつかの小さな火が起こされた。
昼まで家を焼いていた炎とは違い、石で囲われた小さな火だった。大鍋が掛けられ、残っていた根菜や干した肉、森から持ち帰った食べられる葉が一緒に煮込まれていく。
豪華な食事ではなかったが、温かい匂いが村へ広がると、朝からほとんど何も口にしていなかった者たちが少しずつ集まってきた。
誰かが「祝おう」と言ったわけではない。ただ、一人で食べる気になれない者が多かった。
家を失った者もいる。家族を失った者もいる。怪我をした者も、眠れない子供もいる。
だから皆、同じ火の周囲へ座った。
拘束された盗賊たちには別に食事と水が運ばれ、見張りも外されなかった。ガロスと最後の男も村人たちから離されたままで、誰かが殴りに行くこともなければ、自由に歩かせることもなかった。許したわけではないが、飢えさせて苦しませることを勝利の証にする者もいなかった。
レンは右脚を伸ばしやすい場所へ座り、アイリはその左隣に腰を下ろしていた。エリリアは少し離れたところでリュネと子供たちに囲まれている。
「人気だな」
レンが言う。
「子供にはね」
アイリが椀を左手で持ちながら答える。
「大人には怖がられてるけど」
「聞こえていますよ」
少し離れた場所からエリリアの声が飛んできた。
「聞こえるように言った」
「アイリ」
「冗談です」
「顔が冗談ではありません」
リュネが笑った。
その笑い声につられたように、近くの子供も笑う。広場全体が明るくなるほどではない小さな音だったが、それでも昨日の夜には聞こえなかったものだった。
やがて長老が立ち上がった。
誰かが静かにするよう命じたわけではないが、少しずつ声が止まっていく。
長老は疲れ切った顔で周囲を見回した。
「長い話はしない」
その最初の一言に、何人かが僅かに笑った。
「話せば朝まで掛かる。こっちも眠い」
今度はもう少し笑いが広がる。
長老自身も小さく息を吐いてから、火の周囲に集まった者たちを見た。
「生き残った者だけを見て、よかったと言うつもりはない。今日、ここにいない者がいることを、私たちは忘れない」
誰も動かなかった。
「だが、この村が残ったのも事実だ」
長老は広場へ視線を巡らせる。
「剣を持った者だけが守ったんじゃない。水を運んだ者がいた。戸板を持った者がいた。縄を切った者がいた。怪我人を支えた者がいた。森から戻って戦った狩人たちがいて、子供たちを連れて逃げた者がいた」
リュネが顔を上げる。
「そして、逃げた子供たちのそばに最後まで残った子もいた」
視線が集まり、リュネが慌てて俯いた。
「私……」
「立たなくていい」
長老がすぐに言う。
「脚を痛めてる子を立たせたら、あとで私が怒られる」
今度はミレアが笑った。
「分かってるじゃない」
「最近よく怒られる」
小さな笑いが再び広がる。
長老はレンとアイリへ目を向け、その後でエリリアを見る。
「この村で生まれていない者たちも、ここに残って戦ってくれた。礼は言う。だが、今日ここにいる誰か一人を英雄にするつもりはない」
レンはその言葉に少し驚いた。
「一人で守った村じゃないからだ」
長老は椀を持ち上げた。
「失った者を忘れないために。生きている者が明日も生きるために。今夜は食べよう」
それだけだった。
誰かが大声で乾杯を叫ぶこともなく、皆がそれぞれ椀を手に取り、少し冷め始めた食事を口へ運ぶ。
レンも木の匙で汁を掬った。口へ運んだ汁の温かさが喉を通り、空になっていた腹へゆっくり落ちていく。
目の前では、赤と橙の光を揺らす炎が静かに燃えていた。昨日までなら、それを見るだけで身体の奥が強張ったかもしれない。
故郷を焼いた夜。
ここへ来た時に見た燃える家。
同じ火の色だ。
それなのに、今は鍋を温め、冷えた手を暖め、子供たちの顔を照らしている。
「お兄ちゃん?」
アイリが覗き込む。
「何でもない」
「火、見てた」
「ああ」
レンはしばらく炎を見たまま答えた。
「燃やすだけじゃないんだなって思ってた」
アイリも火を見る。
「火が?」
「ああ」
「当たり前じゃない?」
「そうなんだけどさ」
レンは少し笑った。
「分かってるのと、ちゃんと見るのは違うな」
アイリは返事をせず、火へ手を向けた。
炎の向こう側では、誰かが子供へ椀を渡している。別の場所では、負傷した男が隣の者へ水を頼んでいる。壊れた村の中に置かれた小さな火は、何かを奪うためではなく、今ここに残った者たちを温めていた。
◇
食事が一段落した頃、レンは広場の端へ移動していた。
長く同じ姿勢で座っていると右脚が固まり、立つ時に痛みが強くなる。だからといって歩き回ることもできず、結局、火から少し離れた場所で脚を伸ばすことにした。
左手を膝へ置き、指をゆっくり曲げる。薬指が少し遅れ、小指も思った通りにはついてこない。
「またやってる」
隣から声がした。
アイリだった。
「何が」
「指」
「確認してるだけ」
「さっきから何回目?」
「数えてない」
「私は数えてる」
「怖いな」
「七回」
「本当に数えてたのかよ」
アイリはレンの隣へ座った。
右肩を固定したまま、左手で自分の膝を抱える。
「気になる?」
「そりゃな」
「朝の人は、全然感じないわけじゃないって言ってたでしょ」
「分かってる」
「じゃあ何で何回も見るの」
レンは答えなかった。
アイリも急かさない。
広場の中央から笑い声が聞こえ、それが消えたあとには薪の弾ける音だけが残った。
「もしさ」
レンは左手を見たまま口を開く。
「このままだったらって、考える」
「このまま?」
「薬指と小指が動かしにくいまま。感覚も、今みたいに鈍いまま」
アイリが兄を見る。
「剣のこと?」
「それもある」
「他には?」
レンは指を一度握り、また開いた。
「普通に嫌だろ。自分の手なのに、自分の思った通りに動かないの」
「うん」
「朝は大丈夫って言われたわけじゃない。ただ、今はまだ分からないってだけだ」
「うん」
「だから……」
一度言葉が止まる。
レンは笑おうとしたが、上手くいかなかった。
「怖いよ」
アイリは何も言わなかった。
「これが残ったらどうしようって思う。もっと悪くなったらどうしようって思う。剣が握れるとか、それだけじゃなくて……ちゃんと戻らなかったらって考えると、普通に怖い」
口にしてしまうと、胸の中に押し込めていたものが思った以上にはっきりした形を持った。
アイリはしばらく兄の横顔を見ていた。
「それ、最初から言えばよかったのに」
「言ったらどうなるんだ」
「私が心配する」
「だから言わなかったんだよ」
「もう心配してるから同じ」
「……確かに」
「あと、お兄ちゃんが怖いって思ってるなら、少し安心する」
レンが眉を寄せる。
「何でだよ」
「怖いって分かってるなら、次はちょっとくらい自分の身体を大事にするかもしれないから」
「評価低いな」
「昨日までを思い出して」
「……低くて当然だな」
「でしょ」
アイリは小さく息を吐いた。
「守ってくれるのは嬉しいよ。でも、お兄ちゃんが壊れるまでやってほしいとは言ってない」
「壊れるって」
「そういうところ」
レンは黙った。
「私もお兄ちゃん守るから」
「それは俺の台詞だろ」
「二人とも言えばいいじゃん」
「ずるくないか?」
「何が?」
「俺の役目が減る」
「減っていいの」
アイリは少しだけ笑った。
「半分こにしよ」
「何を」
「守るの」
レンは妹を見る。
冗談を言っている顔ではなかった。
「半分で足りるか?」
「足りなかったらエリリアにも手伝ってもらう」
「勝手に増やすなよ」
「リュネもいる」
「さらに増えた」
「ミレアも」
「もう俺いらないだろ」
アイリが笑い、レンもつられて笑った。
左手の違和感も、それがこのまま残るかもしれないという怖さも消えたわけではない。それでも、何度も指を動かして確かめずにはいられなかった気持ちは、少しだけ薄れていた。
◇
夜が深くなるにつれ、広場の人影は少しずつ減っていった。
子供たちは先に休ませられ、リュネも最後まで起きていると言い張った末、エリリアとミレアの両方に止められて連れていかれた。
アイリも眠気には勝てなかった。
「お兄ちゃんも寝てよ」
「もう少ししたら」
「その台詞信用ない」
「今日は本当に寝る」
「本当?」
「本当」
「……じゃあ先行く」
「ああ」
アイリは何度か振り返りながら、用意された休む場所へ歩いていった。
レンは残っていた火の一つを眺めていた。炎は昼間よりずっと小さく、薪の表面を赤く染めている。
そこへ足音が近づいた。
「まだ起きていたのですか」
エリリアだった。
「それ、こっちの台詞じゃないか?」
「私は今から休みます」
「俺も」
「アイリに言われたのでは?」
「見てたのか」
「聞こえていました」
「みんな耳いいな、この村」
「あなたたちが大きな声で話すからです」
エリリアはレンから少し離れた場所へ腰を下ろした。左腕を身体へ寄せ、右手だけで衣服の裾を整える。
しばらく二人とも火を見ていた。
戦っている時には、こうして何もせず同じ場所へ座ることなど考えられなかった。
「レン」
「ん?」
「一つ、謝っておきたいことがあります」
レンが顔を向ける。
「何を?」
「あなたたちを疑ったことです」
「最初の話?」
「はい」
エリリアは火へ目を戻した。
「村が襲われている中で、見知らぬ二人が現れた。警戒したこと自体を間違いだったとは思いません」
「じゃあ謝らなくてもいいだろ」
「最後まで聞いてください」
「はい」
「ただ、私はあなたたちが何をしてきたかを見るより先に、疑う理由ばかりを探していました」
レンは少し考えた。
「まあ、俺も逆の立場なら疑うと思う」
「そう言うと思いました」
「ならいいじゃないか」
「よくありません」
エリリアの声は穏やかだった。
「リュネを助けた。子供たちを逃がした。自分たちも怪我をしているのに、村から逃げなかった。そこまで見て、ようやく私はあなたたちを信じようとした」
「十分じゃないか?」
「あなたはそう思うのですね」
「俺たちも、エリリアのこと何も知らなかったし」
「それでも、です」
エリリアは僅かに頭を下げた。
「ありがとうございました。リュネを守ってくれて」
レンは一瞬、返す言葉を失った。
「……どういたしまして、でいいのか?」
「普通はそうです」
「こういうの慣れてなくて」
「見れば分かります」
「ひどいな」
エリリアの口元が僅かに緩んだ。その表情は、初めて村で会った時よりずっと柔らかい。
「あなたとアイリは、これからどうするつもりですか?」
唐突ではないが、これまでとは少し違う問いだった。
レンは炎を見る。
「まだ全部は決めてない」
「故郷へ戻るのではなく?」
「戻っても、もう何もない」
自分で口にしてから、少しだけ胸が痛んだ。
「だから先へ行く。どこまで行くかは分からないけど」
「何かを探しているのですか?」
「探してるって言えるのかな」
レンは右手を膝へ置いた。
「あの夜、何が起きたのか。どうして俺たちの村がああなったのか。分からないことはある。でも、今の俺には誰に聞けばいいかも分からない」
エリリアは黙って聞いている。
「答えが見つかる保証もないし、ただ旅を続けるだけになるかもしれない。それでも、何も知らないまま立ち止まるのは嫌なんだ」
「アイリも同じ考えですか?」
「たぶん。でも、あいつは俺より現実的だからな」
「それは分かります」
「即答するなよ」
「事実でしょう」
「否定できないけど」
エリリアは再び火を見る。
しばらく沈黙が続いた。
レンは何かを考えている彼女の横顔を見たが、何を考えているのかまでは分からなかった。
「レン」
「ん?」
「明日、アイリも一緒に、少し話せますか」
「俺とアイリ?」
「はい」
「何の話?」
エリリアはすぐには答えなかった。
火の中で細い薪が崩れ、赤い火の粉が一瞬だけ舞い上がる。
「あなたたちの旅のことです」
レンは彼女の顔を見る。
「旅?」
「今夜ではなく、明日話します」
「気になる言い方するな」
「今話し始めると、あなたも私も休めなくなります」
「それは困るな」
「でしょう?」
レンは少し笑った。
「ああ。分かった」
「では、明日」
エリリアが立ち上がる。
「おやすみなさい、レン」
「おやすみ、エリリア」
彼女が歩き去ったあと、レンはもう一度だけ小さな火を見た。
村を焼いた炎の多くは消え、今残っているのは、人を暖めるために囲われた火だけだった。少し離れた場所では、家族のそばで眠る子供たちがいる。森から戻ってきたリュネもいる。傷を負いながらも生きているアイリとエリリアがいて、村人たちは明日へ残すものを守ろうとしている。
失ったものが戻るわけではない。それでも今夜、この場所には帰ってきた者たちがいた。
レンはようやく立ち上がり、傷ついた右脚へ無理を掛けないようゆっくり歩き始めた。
背後では小さな火が静かに燃え続け、夜を越えようとする村の人々の顔を柔らかく照らしていた。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!




