↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
20/112

第一章 第二十話 村を守る者たち

村のあらゆる隙間を走っていた風が、一つの大きな流れへ変わった。


 最初に押し流されたのは、広場の上へ溜まっていた煙だった。燃え続ける家々から立ち昇る黒煙が突然横へ引かれ、屋根を覆っていた灰と火の粉まで巻き込みながら、弓兵たちの前を斜めに横切っていく。直後、空を埋めていた矢の群れがその流れへ入った。全てが同じ方向へ吹き飛ばされたわけではない。軽い矢は大きく軌道を外し、勢いの強いものも僅かに傾き、その小さなずれが地上へ届く頃には一人分以上の差へ変わっていた。


 何本もの矢が村人たちの頭上を越え、燃えかけた屋根や地面へ突き刺さった。別の矢は持ち上げられた戸板や荷車の側板へ硬い音を立てて食い込み、板を支えていた者たちの腕を震わせる。それでも完全には逸れなかった一本が、逃げようとしていた若いエルフの肩口へ浅く刺さり、男が苦痛の声を上げた。


「止まるな! 肩なら歩ける!」


 近くにいた年配の女がすぐに身体を支える。


「抜くな、そのままでいい! 水路まで行くよ!」


 男は歯を食いしばり、もう一人に肩を借りながら前へ進んだ。


 ミレアも風を抜けてきた矢の行方だけを追っていた。全てを空中で撃ち落とそうとはせず、村人へ届きそうな矢を放った弓兵へ素早く射返し、次の一射を止める。二人目を狙った矢は外れたが、その直後に別の狩人が地上から石を投げ、弓兵の狙いを僅かに乱した。その隙に戸板を持った村人たちが負傷者を囲み、少しずつ西側へ動いていく。


 広場の上では、風がなお強く唸っていた。屋根の上に立つエリリアの淡銀の髪は大きく後ろへ流れ、黒と白の衣服も激しく揺れている。右手に掲げた細剣の刃先が震えていたのは、風そのものの力だけではなかった。


「エリリア!」


 ミレアが叫ぶ。


 エリリアは返事をしようとしたが、胸の奥が強く締めつけられ、すぐには声が出なかった。息を吸おうとしても浅くしか入らない。視界の端が一瞬だけ暗くなり、足元の屋根が僅かに遠く感じられる。村全体を巡る空気の流れを繋いだ反動は、彼女が予想していた以上に大きかった。無理やり風を生み出したわけではなくても、無数の流れを同時に捉え、一つの方向へ揃えるには、これまでとは比べものにならない集中と力が必要だった。


 エリリアが細剣をゆっくり下ろすと、それに伴って村を横切っていた大きな流れも少しずつ崩れていった。風が完全に止まったわけではなく、煙はまだ流れ、屋根の灰も宙を舞っている。それでも、もう同じ規模の風をすぐに作れるとは思えなかった。


「エリリア!」


 今度はミレアの声が近い。


「聞こえてます」


 どうにか答える。


「下りられる?」


「下ります」


「本当に?」


「……少し待ってください」


「それは下りられない時の答えだよ」


 ミレアの声に僅かな苛立ちが混じったが、エリリアは反論しなかった。左上腕から流れている血は多くなく、脇腹の傷も浅い。それでも身体全体へ力が入りにくくなっており、これ以上は誤魔化せないほど風を使い過ぎていることを、エリリア自身も認めるしかなかった。


 屋根の縁へ近づき、地面までの高さを確認する。先ほどまでなら風で衝撃を殺せた距離だが、今同じことをすれば着地した脚が支え切れない可能性がある。


「西側へ回って!」


 ミレアが叫ぶ。


「裏に低い屋根がある! そこから下りて!」


 エリリアは素直に頷いた。


「分かりました」


 それだけ伝え、屋根の傾斜へ沿って慎重に移動を始めた。


     ◇


 広場では、最初の矢雨を凌いだことで村人たちの動きが一気に変わっていた。エリリアの風が全てを守ったわけではないからこそ、自分たちも動かなければならないと誰もが理解していた。


「板は前へ! 怪我してる人を中に!」


「西の道を空けて!」


「水を持てる人は火へ! でも一人で行くな!」


「縄を切れるもの、こっちにも!」


 誰か一人が全てを指揮しているわけではなかった。声を出せる者が声を出し、動ける者が近くの誰かを助け、その姿を見た別の者が自分にできる役割を見つけていく。


 レンはその流れの外側に立ち、右手で黒銀の剣を握っていた。左前腕は身体へ寄せ、傷ついた右脚へ余計な体重を掛けないよう注意しながら周囲を見る。少し前までなら、自分が中心へ飛び込まなければ誰も守れないと思ったかもしれない。だが今は、村人たち自身が既に動き始めている。ならばレンがするべきことは、その中心へ割り込むことではなく、必要な場所だけを確実に守ることだった。


「お兄ちゃん!」


 アイリの声が飛ぶ。


 振り向くと、妹は広場中央に近い場所で、一人の女性の縄を左手だけで切っていた。右肩は胸元へ固定されたままで、身体を捻る時もそちらへ負担を掛けないよう姿勢を選んでいる。


「こっち、あと六人!」


「見張りは?」


「今はいない。でも広場の向こうに二人!」


「分かった。そっちから来たら言え!」


「うん!」


 レンは再び周囲へ視線を巡らせた。西側の逃げ道へ向かう村人たちは、まだ十数人いる。その列へ斧を持った一人の男が突っ込もうとしているのが見え、レンは反射的に剣を構えた。


 しかし、先に動いたのは別の村人だった。


 大きな戸板を抱えた男が斧の進路へ身体ごと割り込み、刃を真正面から受けるのではなく、板を斜めに押し出して相手の腕を外へ流す。


「今だ!」


 別のエルフが横から長い棒を差し込み、斧を持つ男の脚を払った。男が転んだところへさらに二人が加わり、地面へ押さえ込む。


 レンはその一連の動きを見届けたまま、一歩も動かなかった。自分が入る必要がなかったからだ。剣を握っている者だけが敵を倒し、全てを解決しなければならないわけではない。


「レン!」


 今度はミレアの声が飛んだ。


 彼女は西側の柵近くに立ち、弓を構えながら広場中央を指している。


「そっち!」


 レンが視線を移した先で、ガロスが動き始めていた。


     ◇


 二本の湾曲刀を持つ男は、逃げる村人を止めるよう周囲へ命じながらも、自分自身はしばらく広場中央から動かなかった。だが、もう命令だけで戦況を戻せる段階ではない。部下の何人かは拘束され、何人かは森側の狩人を警戒し、残った者たちの間にも明らかな動揺が広がっていた。


「何してやがる!」


 ガロスが一人の男を怒鳴りつける。


「捕まえ直せ!」


「無理だ! 西にも狩人がいる!」


「だったら殺せ!」


「こっちも人数が――」


 ガロスの湾曲刀が男の目の前へ鋭く振られた。


「言い訳するな! 行け!」


 命令された男は広場へ走り出したものの、その背中に以前の勢いはなかった。


 ガロス自身も、既に統制が崩れ始めていることには気づいている。それでも退くのではなく、自分で流れを押し戻すことを選んだ。


「邪魔だ!」


 逃げようとしていた老人の前へ立っていた戸板へ湾曲刀を叩きつける。


 刃が木へ深く食い込み、板を持っていた男が衝撃に耐え切れず膝をついた。もう片方の湾曲刀が横から振られた直後、その軌道へ黒銀の剣が割り込む。


 金属音が弾けた。


 レンは正面から押し返さず、ガロスの刃を外へ滑らせながら老人と戸板の間へ身体を差し込んだ。


「またお前か」


 ガロスが笑う。


 炎の光が左頬から顎へ伸びる古い火傷の痕を照らした。


「その脚でまだ立つのか?」


「立つだけならな」


「なら、斬られて死ね!」


 二本の刃がほとんど間を置かずに迫った。最初の一撃が上から落ち、続く二撃目が脇腹を狙って走る。レンは一撃目を黒銀の剣の腹へ滑らせ、二撃目から逃れるため半歩後ろへ身体を引いた。


 右脚の傷が強く疼き、思ったほど大きく下がれない。


 湾曲刀の先が服だけを浅く掠めた。


「お兄ちゃん!」


 アイリの声が飛ぶ。


「平気だ!」


 レンは反射的に押し返そうとして一歩踏み出しかけたが、そこで足を止めた。自分はガロスと決着をつけるためにここへ来たのではない。逃げる村人たちを守り、男をここから先へ通さないことこそ、今の役割だった。


「どうした?」


 ガロスが挑発する。


「来いよ」


 レンは黒銀の剣を構えたまま動かない。


「行かない」


「何?」


「お前を追う必要がない。逃げる人たちを守る。そこから先へ行かせない。それだけだ」


「……舐めやがって」


 ガロスが先ほどよりも鋭く一気に踏み込んでくる。今のレン一人では、あの勢いを正面から止め切れない。


「右!」


 アイリの声が飛び、レンは身体を左へずらした。湾曲刀が肩の横を抜けた瞬間、ガロスの足元へ一本の矢が刺さる。ミレアの放った矢だった。


「次は当てる!」


「森鼠が!」


 ガロスが矢の飛んできた方向へ顔を向ける。その僅かな隙に、老人を支えていた二人がさらに西へ動いた。


 ガロスが追おうとすると、今度は横から長い棒が差し込まれる。


「こっちを見るな!」


 若いエルフが両手で棒を構えていた。


「お前の相手は一人じゃない!」


 ガロスが怒鳴る。


「寄ってたかって戦うのが誇りか!」


 その言葉に、近くにいた年配のエルフが笑った。


「三十人で村へ来た奴が言うことか!」


 別の男も声を上げる。


「子供まで縛っておいて、一対一を求めるのか!」


「黙れ!」


 ガロスの顔が歪む。


 レンは黒銀の剣を下げないまま、その様子を見ていた。ガロスが欲しいのは、自分だけを見てくれる敵なのだろう。誰か一人を倒せば、それで村全体の流れまで変えられると思っている。


 だが今の村は、もう一人を倒せば崩れる状態ではなかった。


 ガロスが誰かへ向けば別の誰かが道を塞ぎ、誰かが倒れれば別の誰かが支える。それぞれが自分にできる方法で動き続けることで、広場全体が一つの防壁になり始めていた。


     ◇


 エリリアが地上へ下りた頃には、呼吸は少しだけ落ち着いていた。低い屋根を経由し、最後の高さだけ小さな風で衝撃を和らげる。足が地面へ触れた瞬間には膝が僅かに沈んだものの、そのまま倒れることはなかった。


「無理してない?」


 ミレアがすぐ隣へ来る。


「しています」


「認めるんだ」


「さすがに」


「じゃあ後ろにいて」


「それはできません」


「今認めたばっかりでしょう」


「大きな風はもう使いません」


「小さいのも使わないとは言わないんだね」


「必要なら」


 ミレアは何か言おうとして、結局ため息へ変えた。


「……分かった。でも倒れたら私が引きずるから」


「その時はお願いします」


「素直すぎると逆に怖いよ」


 エリリアは僅かに笑った。


 広場からガロスの怒鳴り声が上がると、その表情がすぐに引き締まる。


「行きます」


「走らない!」


「走りません」


 実際、今の身体で走り続けられる状態ではなかった。


 二人は物陰を使いながら広場へ近づいた。途中、ミレアが一人の弓兵へ矢を放ち、エリリアは別の男が構えた短剣の軌道を小さな風で外す。今の彼女に必要なのは、誰もが驚くほど大きな風ではない。仲間の行動が成功するよう、ほんの少しだけ流れを変えることだった。


     ◇


 アイリは最後の一人の縄へ短剣を差し込んでいた。


「もう少し」


 縛られている女性が不安そうに広場を見る。


「大丈夫?」


「大丈夫じゃないけど、切れる」


「右肩……」


「使ってないから平気」


 アイリは左手だけで刃を引き、繊維を少しずつ断っていく。やがて縄が切れると、女性は自由になった腕を胸元へ引き寄せた。


「西へ。走らないで」


「あなたは?」


「まだ兄がいるから」


「一緒に来なさい」


「行くよ。でも、今じゃない」


 女性は迷った。


 アイリは笑って誤魔化さず、真っ直ぐ彼女を見る。


「先に行って。お願い」


 その声に、女性はようやく頷いた。


「必ず来て」


「うん」


 女性が離れるのを見届けると、アイリは立ち上がり、右肩の固定がずれていないことを確認した。左脹脛の傷はまだ痛むが、歩くことはできる。短剣も左手で持てる。それなら今は、自分にできる範囲で周囲を見るべきだった。


「お兄ちゃん!」


 ガロスがレンへ踏み込むのが見えた。


 アイリはすぐに叫ぶ。


「後ろからもう一人!」


 レンには振り向く余裕がない。


 別の盗賊が背後から近づいている。


 アイリは左手の短剣を投げようとして、途中で止めた。今の距離では確実に当てられるとは言えず、外せば自分の武器まで失う。


 代わりに足元の木片を拾い、男の顔ではなく進路へ投げた。


 木片が地面で跳ね、男が反射的に視線を落とす。


「そっち!」


 その一声で、近くにいた村人が男へ戸板を押しつけた。


 盗賊が壁との間へ挟まれる。


 別のエルフがすぐ腕を押さえた。


 アイリは短剣を手元に残したまま周囲へ視線を戻した。自分で相手を倒せなくても、危険へ気づいて誰かに伝えられれば、それで十分に役割を果たせる。


     ◇


 ガロスは少しずつ後ろへ押されていた。誰か一人に負けているわけではないという事実が、余計に彼を苛立たせている。


「退け!」


 湾曲刀で棒を弾く。


「邪魔するな!」


 戸板を蹴り飛ばそうとする。


「どけ!」


 レンへ斬りかかる。


 そのたびに誰かが一歩下がり、別の誰かが空いた場所へ入る。ミレアの矢が退路を制限し、エリリアの小さな風が刃の軌道を僅かに外し、アイリの声が死角から来る危険を知らせる。レンはガロスを追わず、逃げ道との間だけを守り続けていた。


 やがてガロスの呼吸が明らかに荒くなった。


「ふざけるな……」


 男は周囲を見回す。部下はほとんど残っていない。何人かは拘束され、何人かは地面へ倒れ、残った者たちにも逃げ腰になる者が出始めていた。


「ガロス!」


 一人の盗賊が叫んだ。


「もう無理だ!」


「黙れ!」


「逃げるぞ!」


 男は返事を待たず、南側の路地へ走り出した。


「待て!」


 ガロスが怒鳴る。


 だが、村人もレンもその男を追わなかった。まだ広場には負傷者と拘束された者が残り、目の前のガロスも武器を持っている。今はそちらを崩さないことの方が重要だった。


 ガロス自身は逃げず、代わりに足元へ落ちていた小さな革袋へ手を伸ばした。


 それを見た瞬間、エリリアの顔色が変わる。


「レン!」


「何だ!」


「その袋から離れて!」


 ガロスが口元を歪めた。


「遅い」


 革袋の口を開くと、中から黒い粉が見えた。火薬を思わせる乾いた匂いが漂い、さらにガロスは腰から短い紐の付いた小さな筒を取り出す。


「全部失うくらいなら――」


 男の視線が燃えている家へ向く。


「残ったもんまで燃やしてやる」


 レンの背中に冷たい感覚が走った。


「やめろ!」


「来るな!」


 ガロスが筒を火の近くへ伸ばす。


 レンは一瞬で距離を測った。今の右脚では、ここから走って真正面から止めるには遠過ぎる。無理に距離を詰めれば、ガロスが筒を火へ近づける方が早い。


「ミレア!」


 エリリアが叫んだ時には、既に弓弦が鳴っていた。


 ミレアの矢はガロス本人ではなく、火の近くへ伸ばされた腕のすぐ横へ突き刺さる。


「っ!」


 ガロスが反射的に腕を引いた。


 その瞬間、近くにいた村人が燃えていた木片へ水桶を叩きつける。炎が大きく揺れ、急速に小さくなった。


「今!」


 レンが一歩踏み込む。


 ガロスの湾曲刀が横から振られた。


 レンは黒銀の剣で正面から受け止めず、刃を自分の身体の外へ流す。その動きで右脚の傷が強く痛んだが、必要なのはあと一歩だけだった。


 傷ついた左前腕は使わず、レンは黒銀の剣の鍔をガロスの手首へぶつける。


 指が開き、小さな筒が地面へ落ちた。


「くそっ!」


 ガロスが踏みつけようと足を上げる。


 その前に、細い風が地面を走った。大きな力ではなく、今のエリリアが残された力で起こせる、ごく小さく精密な風だった。


 筒は地面を僅かに転がり、ガロスの靴先を外れて、さきほど水が撒かれた泥の上へ滑り込む。短い紐の先に残っていた火が湿った土へ触れ、そのまま消えた。


 ガロスの目が大きく開く。


「てめえ――」


 レンへ向き直ろうとした背中へ、年配のエルフが戸板を押し込んだ。


 ガロスの身体が前へ崩れる。


 ミレアが即座に弓を向ける。


「動くな!」


 別の村人が一本の湾曲刀を蹴り飛ばす。


 残った一振りを握り直そうとした手首へ、エリリアの細剣が静かに触れた。斬ることはせず、刃先を皮膚へ置いて、次に動けば届くと伝えるだけだった。


「そこまでです」


 荒い呼吸だけがガロスの喉から響く。


「殺せよ」


 誰も動かなかった。


「どうした?」


 男が笑う。


「村を燃やした奴だぞ。仲間を傷つけた。子供も縛った。殺したいだろ?」


 エリリアの淡紫の瞳が細くなる。


「ええ」


 ガロスの笑みが深まった。


「なら――」


「でも、聞くことがあります」


 その笑みが止まる。


 エリリアは細剣を動かさなかった。


「だから今は殺しません」


 年配のエルフが縄を持ってくる。


 ガロスの腕を後ろへ回した。


「触るな!」


「さっきまでお前たちがやってたことだ」


 別の村人がもう片方の腕を押さえ、さらに周囲から人が加わっていく。三人、さらに四人と力を合わせてガロスの抵抗を封じ、誰か一人が力で勝ったのではなく、皆で男の動きを奪っていった。


 やがて二本の湾曲刀は手の届かない場所まで離され、ガロスは地面へ膝をつかされた。


     ◇


 広場に残っていた盗賊たちの多くは、それを見て武器を捨てた。まだ抵抗した者もいたが、指揮を失い、逃げ道もなく、村人と狩人の両方に囲まれれば長くは続かなかった。


「剣を置け!」


「両手を見せろ!」


「動くな!」


 怒鳴り声はまだ響いている。それでも、さっきまでの殺し合いとは明らかに違っていた。相手を倒すためではなく、この戦いを終わらせるための声だった。


 レンは黒銀の剣を握ったまま周囲を見回した。身体中に疲労と痛みが残り、特に右脚は強く疼いている。左前腕も脈を打つように熱を持っていた。それでも呼吸は乱れ切っておらず、意識もはっきりしている。少なくとも、今すぐ倒れるような状態ではなかった。


「お兄ちゃん」


 アイリが近づいてきた。


「座って」


「まだ――」


「座って」


 いつもより強い声だった。


 レンは反論しかけて、やめる。


「……分かった」


 近くの石へ腰を下ろすと、アイリも隣へしゃがんだ。


「脚見せて」


「今?」


「今」


「まだ敵いるぞ」


「捕まってる。ミレアたちもいる。エリリアもいる」


 レンが視線を上げる。


 少し離れた場所では、エリリアが壁へ片手をついて立っていた。意識ははっきりしているようだが、呼吸の深さや姿勢を見れば、かなり限界へ近づいていることはレンにも分かる。


「お前も肩」


「固定したまま。大きく悪くはしてない」


「脚は?」


「痛いけど歩ける」


「……じゃあ俺も同じ」


「お兄ちゃんの脚、包帯から血出てる」


「少しだろ」


「少しでも見る」


 アイリが膝をつき、右手は使わずに左手だけでレンの脚の包帯を確かめた。傷が大きく開いたわけではないものの、何度も踏ん張ったことで血の滲みが少し増えている。


「あとで巻き直す」


「ああ」


「左腕も」


「分かってる」


「本当に?」


「本当に」


 アイリは少しだけ疑うように兄を見る。


「最近素直だね」


「言われ続けたからな」


「成果出てる」


「褒め方が雑だ」


     ◇


 広場の中央では、エリリアが拘束されたガロスの前へ立っていたが、すぐに尋問を始めることはしなかった。今はまだ、村人たちの安全を確かめる方が先だった。


「他の場所は?」


 エリリアがミレアへ尋ねる。


「二人ずつ確認に向かわせた。見張りが残ってるかもしれないから、単独では動かせてない」


「正しいです」


「水路側は?」


「逃げた人たちは森へ入った。そこから子供たちのいる方へ行かせる」


「リュネは?」


「まだ子供たちといるはず」


 エリリアは一度目を閉じ、僅かに頷いた。


「よかった」


「会いに行きたい?」


「行きたいです」


「じゃあ行こう」


「まだ、ここを終わらせていません」


 ミレアがため息をつく。


「あなたもレンと同じこと言うね」


 少し離れた場所から、アイリがこちらを見た。


「聞こえたよ」


「でしょうね」


 エリリアの口元が僅かに緩んだ。


 その時、南側の村道から一人の狩人が走ってきた。


「ミレア!」


 全員の視線が向く。


「どうした!」


「一人いない!」


「誰が?」


「盗賊だ! さっき南へ逃げた奴!」


 その言葉を聞いた瞬間、ガロスの表情が僅かに変わった。


 エリリアは見逃さなかった。


「逃げただけですか?」


「違う!」


 狩人は荒い呼吸を整えながら続ける。


「記録を探してた家の裏を通った時、何か抱えてた! 布で巻いた細長い包みだ。中身は見えなかった!」


 レンが反射的に立ち上がりかける。


 アイリは傷ついた腕へ触れず、すぐに服を掴んだ。


「立たない」


「でも――」


「まず聞く」


 レンはそこで動きを止めた。


 エリリアは拘束されたガロスを見る。


「何を持っていきました?」


 男は答えない。


「ガロス」


「知らねえな」


「顔が変わりました」


「気のせいだ」


 エリリアの細剣が僅かに動く。


「何を持っていったのですか?」


 ガロスは口元を歪めた。


「さあな」


 その反応だけで、少なくとも何も知らないという言葉をそのまま信じることはできなくなった。ただ逃げただけではなく、何かを持っている。そしてガロスは、それについて話したくないらしい。


 ミレアが南の森へ視線を向ける。


「追う?」


 レンは反射的に答えそうになったところで、自分の身体と周囲の状況を見た。自分には傷ついた右脚と左前腕があり、アイリも右肩と左脹脛を痛めている。エリリアは大きな風を使った直後で、ミレアを含め戻ってきた狩人たちにも負傷者が多い。今ここに、万全の状態で森を追える者などほとんどいなかった。


 だからといって、何を持って逃げたのか分からない相手を無条件で放置していいとも限らない。


 エリリアもすぐには答えず、南側の森と広場を順番に見た。


「人数を決めます」


 やがて静かに言う。


「傷の軽い狩人を先に。森の中へ全員で入る必要はありません」


「私も行く」


 ミレアが言う。


「あなたは怪我しています」


「あなたも」


 エリリアは一瞬黙り、わずかに眉を下げた。


「……そうですね」


 アイリがレンを見る。


「お兄ちゃんは?」


 レンは南の暗い森を見つめた。


 追いたい。


 何を持っていったのか確かめたい。


 誰のところへ向かっているのか知りたい。


 その衝動は消えていない。それでも、以前のように気持ちだけで立ち上がることはしなかった。


「まず、行ける人を決める」


 アイリの表情が少しだけ和らいだ。


「うん」


 エリリアもレンを見る。


「その方がいいです」


 拘束されたガロスが地面へ唾を吐いた。


「遅い」


 レンが視線を向ける。


「何?」


「もう追いつけねえよ」


 男は薄く笑った。


「森に入ったなら、もう終わりだ」


 エリリアの目が細くなる。


「誰のところへ行くのですか?」


「さあな」


「何を届ける?」


「知らねえって言ってんだろ」


 答えは返ってこない。それでも、南へ逃げた男が単なる敗走者ではないという疑いは、さっきより濃くなっていた。


 村の中ではまだ火が燃えている。負傷者の声が聞こえ、拘束した盗賊たちを見張る者も必要だった。村の他の場所には、まだ捕らわれている者が残っている可能性もある。


 そして南の森には、一人の盗賊が正体の分からない何かを抱えたまま消えている。


 村の中の戦いは、ようやく終わりへ近づいていた。だが、その先へ続くものまで終わったわけではない。


 南の森を見つめるレンの横で、アイリが小さく息を吐いた。


「今度も、一人で行かないでね」


 レンは迷わず答える。


「ああ。一人では行かない」


 その返事を聞いたエリリアが、ほんの僅かに頷いた。


 炎に照らされた村の外では、夜の森が何事もなかったように暗く続いている。


 その奥へ、最後の一人が姿を消していた。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。