第一章 第十九話 矢雨と血煙
屋根の上で膨らんだ風は、降り注ぐ矢を真正面から押し返すのではなく、その群れを横から大きく揺さぶった。炎に照らされた十数本の軌道が一斉に乱れ、何本かは屋根瓦へ突き刺さり、何本かは煙の向こうへ消えていく。それでも全てを逸らせたわけではない。エリリアは細剣を身体の前へ走らせ、風を抜けてきた一本を刃の腹で弾くと、その反動を利用するように屋根を蹴った。直後、さっきまで彼女が立っていた場所へ二本の矢が深く突き立ち、乾いた瓦が砕けて火の粉とともに夜気へ飛び散った。
隣の屋根へ着地した瞬間、左上腕の傷が鋭く疼いた。先ほど矢尻に裂かれた傷は浅いものの、破れた袖の下から新しい血が細く流れている。エリリアは傷へ手を当てようとはせず、呼吸を整えるために一度だけ深く息を吸った。風を起こすたび、胸の奥に蓄えていた力が少しずつ削られていく。村へ戻ってから何度剣を振ったのか、自分でもとうに数えることをやめていた。それでも屋根の下ではレンとアイリが動いている。自分へ向けられた矢の数だけ二人へ向く目が減っているのなら、まだここに立ち続ける意味はあった。
「西へ回れ! 逃げ道を見ろ!」
広場からガロスの怒鳴り声が飛ぶ。
「銀髪だけ追うな! 下も探せ!」
その指示を聞いた瞬間、エリリアはガロスへの評価を改めた。怒鳴り散らすだけの男ではない。こちらの計画までは見抜けていなくても、弓持ちの視線が一方向へ集まり過ぎていることには既に気づいている。
屋根の端から下を覗くと、二人の男が西側の路地へ走り始めていた。その先には薬草庫があり、さらに床下ではレンとアイリが捕虜のもとへ向かっている。エリリアは男たちへ直接刃を向けず、その前方に積まれていた空箱と板材へ細剣を振った。刃の先から生まれた鋭い風が木材へ叩きつけられ、崩れた箱と板が路地へ雪崩れ込む。
「何だ!」
「上だ!」
二人が反射的に足を止めた時には、エリリアは既に隣の屋根へ移っていた。
「私を見ていなさい」
声が届いたかどうかは分からなかった。それでも次の矢がこちらへ向いたことで、目的は果たせていると分かった。
◇
長老の家の床下では、レンが頭上の足音を聞きながら古い板をゆっくりと持ち上げていた。先ほど外を横切った見張りは戻ってこない。聞こえてくるのは広場の怒鳴り声と、遠くで繰り返される弓弦の音、それから屋根の上を何者かが走る軽い足音だった。その足音が途切れず移動を続けていることで、エリリアがまだ陽動を続けていることだけは分かる。レンはその事実を胸に留め、それ以上そちらへ意識を奪われないよう目の前へ集中した。
「先に俺が出る」
隣のアイリがすぐに首を振る。
「戦いに行かないなら」
「周りを見るだけだ」
「見つかったら戻る」
「ああ」
「絶対?」
「絶対」
アイリがようやく頷くのを確認すると、レンは板をさらに持ち上げ、右肩から外へ身体を滑らせた。右脚へ急に体重が掛からないよう膝をつき、左前腕は胸元へ寄せたまま使わない。腰を上げる前に周囲を確認すると、長老の家の裏側には誰もいなかった。火が回っているのは屋根の反対側で、壁際には割れた木箱と古い壺が転がっている。その先を数歩進めば、広場の西端へ出られる位置だった。
レンは床下へ右手を差し伸べた。
「来ていい」
先に黒銀の剣を受け取り、鞘に収めたまま地面へ置く。続いてアイリが左手を縁へ掛け、胸元へ固定した右肩を動かさないよう慎重に身体を引き上げた。
「肩は?」
「大丈夫。脚の方がちょっと痛い」
レンは彼女が庇っている左脹脛へ一度だけ視線を落とした。
「歩ける?」
「歩ける。走らない」
「分かった」
レンは黒銀の剣を再び腰の剣帯へ収めた。抜くのは本当に必要になってからでいい。
二人は壁沿いに広場へ近づいた。捕らえられているエルフたちは、遠目に見た時よりも疲弊していた。両手を後ろへ縛られて地面へ座らされている者もいれば、隣の者へ肩を預けてようやく身体を起こしている者もいる。血の滲んだ布を脚へ巻いた者や、顔を腫らした者もいた。その外側を武器を持った男たちが歩き回っている。
西側の見張りは一人。少し離れた位置にもう一人いたが、そちらは屋根の上のエリリアへ気を取られていた。
レンはアイリへ顔を寄せ、声を落とした。
「手前の奴が向こうを向いたら行く。最初は一番端の人だ」
「縄を切ったら、その人にも手伝ってもらう?」
「ああ。一人ずつ全部お前が切るより早い」
「分かった」
「声は出させない」
「うん」
二人は物陰で待った。見張りの男は何度も屋根を見上げている。
「くそ、まだ落ちねえのか!」
遠くで別の男が怒鳴った。
「もっと射て!」
見張りが完全にそちらへ顔を向けた瞬間、レンはアイリの傷ついた右肩には触れず、背中の左側へ指先を軽く当てた。それを合図に二人は同時に物陰を離れる。
広場の端までの僅かな距離が、森を何十歩も進むより長く感じられた。レンは右脚を引きずらないよう意識しながら柱の陰へ入り、アイリもすぐ後ろへ続く。
最も端に座らされていた年配のエルフが二人へ気づき、目を大きく見開いた。
「声を出さないで」
アイリが囁く。
年配の男の視線がレンへ移り、人間だと気づいた瞬間、瞳の奥に明確な警戒が浮かんだ。
「リュネを助けた」
レンは必要なことだけを伝える。
「今、子供たちと逃げてる」
男の表情が変わった。
「……リュネが?」
「話はあとです」
アイリは左手で短剣を抜き、男の後ろへ回った。右肩を使えないため姿勢は少し不自然だが、縄を切るだけなら剣戟のような速さは必要ない。
「手、動かさないで」
縄と手首の隙間へ刃を差し込み、一度ゆっくり引く。繊維が僅かに裂けたところで角度を変え、もう一度刃を滑らせると、今度は縄が完全に切れた。
男は自由になった両手を一瞬見つめたあと、すぐ隣の女性へ身体を寄せる。
「刃物は?」
レンが尋ねると、男は首を横へ振った。
アイリが短剣を差し出しかけたが、レンはすぐ止める。
「それ一本しかない」
「分かってる」
年配の男は周囲を見回し、地面へ落ちていた割れた陶器の破片を拾った。
「これでいい。次を切る」
自由になった一人が隣の縄へ手を掛け、その間にアイリはさらに次の捕虜へ移る。最初の数人が解放されると、その者たちは陶器の破片や落ちていた金具を使い、次々と隣の縄を削り始めた。アイリ一人で全員の拘束を解くより遅い者もいる。それでも人数が増えるたび作業そのものが広がり、何より誰も大声を上げなかった。
助けを待つしかなかった者たちが、自分の手が自由になった瞬間から隣の誰かを助け始めている。レンはその光景を横目で確かめながらも、西側の道から視線を外さなかった。
◇
屋根の上では、エリリアが必要な場所へ必要な分だけ風を送っていた。大きな風を何度も起こせるほど力は残っていない。弓持ちが狙いを定める瞬間には煙を横切らせ、放たれた矢の中で身体へ届きそうなものだけ軌道をずらす。屋根から屋根へ渡る時も、自分の脚だけでは足りない距離を僅かに補う程度に風を使っている。それでも消耗は止まらず、着地した足が一度滑った瞬間には、エリリアは反射的に左手を屋根へついた。
左上腕の傷が引かれ、袖に滲んでいた血がさらに濃くなる。痛みに顔を歪めながら身体を起こした時、村の外れにある高い見張り台へ一人の弓兵が移ったことに気づいた。
距離があるうえ、そこには煙もほとんど届いていない。エリリアが相手の動きを捉えた時には、既に矢が放たれていた。反射的に身体を捻ったものの完全には避け切れず、矢尻が脇腹の衣服を裂いて皮膚を浅く削り、そのまま背後へ飛んでいく。傷そのものは深くない。それでも、痛みを認識するより前に身体の反応が僅かに遅れたことの方が、エリリアには気になった。
見張り台の男は既に次の矢をつがえている。細剣の間合いでは届かず、風の刃をそこまで伸ばすことはできるかもしれないが、強い一撃を放てば、そのあと屋根を移り続ける力が残らない可能性がある。選ぶ時間はほとんどなかった。
その瞬間、横から別の矢が飛び込んできた。
狙われたのはエリリアではない。見張り台の弓兵が放とうとしていた矢、その矢柄へ横からぶつかったのだ。二本の矢が空中で軌道を崩し、別々の方向へ落ちていく。
弓兵が驚いて振り向き、エリリアも矢が飛んできた方角へ顔を向けた。
村の西側、焼け残った柵の向こうで、一人の女性エルフが長弓を構えている。髪も服も煤で汚れ、額には乾いた血がこびりついていた。
「……ミレア?」
思わず漏れた声が僅かに震える。
女性は弓を下ろさない。
「遅くなった!」
その後ろから、さらに数人のエルフが現れた。腕へ布を巻いた男、片脚を引きずっている女、互いに肩を貸し合う者たちまでいる。誰一人として無傷ではない。それでも、動ける者は弓や槍、短い斧を手にしていた。
「どうして……」
「子供たちが来た!」
ミレアは次の矢をつがえながら叫ぶ。
「西の水路を抜けて、森まで辿り着いた! そこで私たちと合流した! リュネも一緒だ!」
エリリアの呼吸が一瞬止まった。
「リュネは?」
「生きてる! 子供たちから離れてない!」
胸の奥で固く結ばれていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。リュネは戻ってこなかった。戦うために役目を投げ出すこともせず、子供たちと一緒に安全な場所まで辿り着いた。それでよかった。むしろ、それこそがあの子に任せたかったことだった。
エリリアは短く息を吐く。
「……そう」
「だから今度は私たちの番!」
ミレアが矢を放つ。
矢は見張り台の木枠へ突き刺さり、弓兵が反射的に身を伏せた。他の狩人たちも無闇に一斉射撃をすることはなく、撃てる者だけが狙いを定め、近接武器しか持たない者は物陰を使って広場へ近づいていく。
その動きを見て、エリリアはようやく自分一人で全方向を見続ける必要がなくなったことを理解した。
「ミレア!」
「何!」
「西の弓をお願い!」
「任せて!」
「私は広場を見る!」
「それも任せろって言いたいけど、今は無理!」
「十分です!」
エリリアは屋根を蹴った。今度の風は自分だけを運ぶために使わず、広場へ流れ込んでいた煙を僅かに西へずらし、戻ってきた狩人たちの動きを隠すためにも利用した。
◇
広場では、縄を切られたエルフが既に十人近くまで増えていた。自由になったからといって、全員が武器を探したわけではない。立ち上がれない老人へ肩を貸す者もいれば、脚を怪我した女性の包帯を結び直す者もいる。別の二人はまだ縛られている仲間の縄を切り続けていた。
若い男が地面に落ちていた棒を拾い上げたが、年配のエルフがすぐその腕を掴む。
「戦うな。先に怪我人を動かせ」
「でも――」
「逃げられる者を増やせ」
若い男は広場の敵を見て迷い、それから棒を地面へ戻した。
「分かった」
その判断を聞いた時、レンは胸の奥が僅かに揺れるのを感じた。戦わずに逃げることも、傷ついた誰かを運ぶことも、生き残るために必要なら、敵へ立ち向かうことに劣らない。少し前までの自分なら、そんな選択を「戦わない」という理由だけで弱いものだと決めつけていたかもしれないが、今はそれもまた誰かを守るための行動なのだと分かり始めていた。
「お兄ちゃん」
アイリの声でレンが振り向く。
西側の角から、先ほど離れていた見張りが戻ってきた。
「何してる!」
男の視線が自由になった捕虜たちへ向かう。
「てめえら!」
剣を抜いた。
レンも腰から黒銀の剣を抜き、右手だけで握った。左前腕は身体へ寄せたまま使わない。
「アイリ、続けろ」
「一人だけ?」
「今は」
「増えたら戻るよ」
「ああ」
男が剣を振り上げ、こちらへ突っ込んでくる。
「殺すぞ!」
レンは迎え撃つために走らなかった。捕虜たちと男の間へ身体を置き、振り下ろされた刃へ黒銀の剣を斜めに合わせる。力で受け止めるのではなく、相手の刃を自分の剣の上へ滑らせ、その勢いを身体の外へ逃がした。
男の剣先がレンの肩の横を通り過ぎる。
その瞬間、右脚へ強く体重が掛かった。噛み傷が深く疼き、踏ん張り切れず身体が半歩後ろへ下がる。
男が笑った。
「脚やられてんじゃねえか!」
すぐに二撃目が来る。今度は横薙ぎだった。
背後にはまだ拘束を解かれていない村人がいるため、大きく後ろへ避けるわけにはいかない。レンは黒銀の剣を右手で立て、相手の刃が最も速くなる場所ではなく、振り切る前の途中へ合わせた。
金属音が響く。
衝撃で右手が痺れ、左前腕も反射的に動きかけたことで噛み傷の奥が引きつった。
「っ……!」
「お兄ちゃん!」
「大丈夫!」
まだ剣は持てる。それでも、同じ受け方を何度も続けられないことは分かっていた。約束したのはこの男を倒すことではなく、アイリたちが逃げるための時間を作ることだ。
レンは自分から距離を詰めず、黒銀の剣を構え直した。
「来いよ!」
男が苛立ったように挑発する。
「行かない」
「は?」
「俺はここから動かない」
男の顔が歪んだ。
「舐めてんのか!」
三度目の攻撃へ踏み込もうとした直前、男の足首へ何かが巻きついた。
「な――」
先ほど切られた縄だった。自由になった年配のエルフが地面を這わせるように縄を引き、男の踏み込みを崩した。
身体が傾いた瞬間、レンはそこで初めて一歩前へ出る。ただし斬るためではない。黒銀の剣の柄を、男が剣を握っている手首へ叩きつけた。
武器が地面へ落ちる。
直後、自由になった別の村人が横から男へ体当たりし、さらにもう一人が加わった。男はそのまま地面へ倒される。
「押さえろ!」
誰かの声に応じて村人たちが男の腕を背中へ回し、自分たちを縛っていた縄で今度はその手首を拘束していく。
レンは黒銀の剣を構えたまま、その光景を見た。自分一人で敵を倒し切る必要などなかった。
「お兄ちゃん!」
アイリがもう一度呼ぶ。
「終わった!」
広場全体ではない。だが、西側に集められていた捕虜たちの縄は全て切れていた。
「水路へ!」
レンは周囲に聞こえ過ぎない程度に声を強める。
「歩ける人は怪我してる人を支えて! 西の建物の裏から出られる!」
「子供たちは?」
一人の女性が尋ねた。
「先に逃げてる!」
「本当に?」
「リュネが連れてる!」
その名前に、周囲の空気が変わった。
「リュネ?」
「あの子、生きてるのか?」
「子供たちも?」
「生きてる!」
レンの代わりにアイリが答える。
「だから、みんなも行って!」
その言葉で人々が動き始めた。立てる者が立てない者へ手を伸ばし、一人で歩けない者を二人で支える。誰かが地面へ落ちていた布を拾い、血の出ている脚へ巻きつける。自由になった者同士が互いの肩へ腕を回し、少しずつ西側へ移動していく。
その中で、一人の男がまだ解放されていない中央の捕虜へ視線を向け、戻ろうとした。
「そっちはまだ!」
レンが止める。
「でも家族が!」
「分かってる。次に行く。でも今ここが崩れたら、全員止まる!」
男は歯を食いしばった。
「……絶対助けろ」
助ける、と断言しかけて、レンは一瞬だけ言葉を止める。
「できる方法でやる」
男は驚いたようにレンを見る。それから何も言わず、近くにいた負傷者へ肩を貸した。
◇
ガロスが異変に気づいたのは、広場西側の捕虜たちがまとまって立ち上がった時だった。
「何をしている!」
二本の湾曲刀を抜き、周囲の男たちを怒鳴りつける。
「西だ! 捕虜が逃げてる!」
近くにいた三人がすぐ走り出したが、その進路へ上から矢が突き刺さった。
ミレアの矢だった。
「狩人だ!」
「森側にもいるぞ!」
男たちの注意が屋根、西側の柵、逃げ始めた捕虜へと分かれていく。どこを最初に止めればいいのか判断できず、動きが一瞬鈍った。
そんな中で、ガロスだけはその場に立ち止まり、炎の向こうを見ていた。左頬から顎へ伸びる古い火傷の痕を赤い光が照らす中、その視線は西へ逃げていく村人たちを追い、やがてその近くにいる黒髪の青年と銀白の髪の少女を捉えた。
ガロスの目が鋭く細められる。
「……あいつらか」
レンたちには届かないほどの声だったが、男の中では何かが繋がったらしい。
「屋根の女は後だ!」
今度は広場全体へ響くほど大きく叫ぶ。
「逃げる奴を止めろ!」
屋根の上でエリリアの顔が強張った。
「ガロス!」
エリリアが叫ぶと、男が顔を上げる。
「ようやくこっちを見る気になったか、銀髪」
「あなたの相手は私です」
「知るか」
ガロスは口元を歪めた。
「守りたいんだろ? なら、そっちを狙えばいい」
その視線が逃げ始めた村人たちへ向けられる。
「弓!」
ガロスが片方の湾曲刀を持ち上げる。
「広場から逃げる奴を射ろ!」
屋根の弓兵たちが一瞬戸惑った。
「でも、エリリアが――」
「放っておけ! あいつ一人殺すより、逃げ道を血で塞げ!」
その一声で、今までエリリアだけを追っていた弓が少しずつ地上へ向き始めた。
◇
「まずい!」
レンもすぐに変化へ気づいた。屋根や見張り台にいる弓持ちたちが、広場の外へ向かう村人へ身体を向け直している。狙われるのはレン一人ではない。老人も、怪我人も、互いに肩を貸して歩いている者たちもいる。
「伏せて!」
アイリが叫ぶ。
しかし十人以上が同時に身を隠せる場所などない。
レンは黒銀の剣を握り直した。一本なら弾けるかもしれないが、二本、三本と続けば、それだけで右手も右脚も限界へ近づく。そのうえ空から降る矢の全てを、自分一人で守れるはずがなかった。
その時、近くにいた年配のエルフが周囲へ声を飛ばした。
「板を持て! 家の戸でも柵でもいい、頭を守れる物を使え!」
自由になった者たちが一斉に周囲を見回した。倒れた扉や割れた机、荷車から外れた側板を、持ち上げられる者が拾って走れない者たちの外側へ回り込む。戦える者だけが前へ出るのではなく、力の残っている者が板を持ち、歩ける者が怪我人を支え、それぞれが自分にできることで集団を守ろうとしていた。
レンも厚い板へ手を伸ばしかけたが、左前腕の傷では両手で支えることができない。無理に持とうとせず、すぐ周囲の警戒へ戻る。
「俺は外を見る!」
「お兄ちゃん、右!」
別の見張りが広場へ近づいてくる。
だがレンが向かうより先に、一人のエルフが割れた長机を進路へ押し倒した。男が反射的に足を止め、別の村人が石を投げる。石は外れたが、それでも男の足を一歩遅らせた。
敵を倒す必要はない。ほんの数秒でも足を止められれば、それだけ誰かが逃げるための時間になる。広場の至るところで、それぞれができる範囲の小さな抵抗が生まれ始めていた。
◇
ミレアも弓の向きが変わったことに気づいた。
「まずい! 村人を狙ってる!」
隣にいた狩人が矢をつがえる。
「何人止められる?」
「全部は無理!」
ミレアは迷わず答えた。
「射つ直前の奴を狙う! 止められない矢は下で防いでもらうしかない!」
できないことまで引き受けるつもりはない。それでも、自分たちにできることを残すつもりもなかった。
弓弦が鳴る。
ミレアの矢が一人の弓兵の肩口へ突き刺さり、その射撃を止めた。すぐに次の相手へ狙いを移すが、敵の数は多い。こちらも負傷者ばかりで、撃てる矢にも限りがある。
◇
屋根の上で、エリリアは広場を囲む弓兵たちの位置を見渡していた。西側、正面、見張り台、さらに炎の向こうにも人影がある。自分へ向かってくる数本だけなら、これまでのように一本ずつ風で軌道を外すこともできる。しかし、あれだけの弓が同時に地上の村人へ放たれれば、とても全てには間に合わない。
走って射線の間へ入るにも距離があり過ぎる。細剣の周囲へ風を集めようとすると、胸の奥が鈍く痛んだ。力が完全に残っていないわけではない。だが、これまでと同じ使い方を続ければ、そう遠くないうちに身体の方が先に動かなくなる。
左上腕からはまだ血が流れ、脇腹の浅い傷も熱を持っている。呼吸も重い。それでもエリリアが見下ろした広場では、老人を二人で支える者がいて、怪我人の前では自由になったばかりの者が重い板を持ち上げている。まだ拘束された仲間を気にしながら、それでもまず動けない者を逃がそうとしている人々がいた。
その中にはレンとアイリもいる。レンは敵を追わず、逃げ道へ近づく者だけを警戒している。アイリは右肩を胸元へ固定したまま、左手で拘束を解く作業を続けていた。
そして、リュネはここにはいない。
それでいいのだ。あの子は今、戦場へ戻る代わりに、逃げた子供たちのそばにいる。エリリアがここで守ろうとしている村の未来を、別の場所で守っている。
ならば、自分も自分にできることをすればいい。
エリリアは細剣を胸の前へ持ち上げながら、降り注ぐ矢を一本ずつ落とす以外の方法を探した。全てを真正面から受け止める必要もない。そもそも弓兵たちが正確に狙いを定められず、放たれた矢が真っ直ぐ進めなくなれば、それだけで被害を減らせる。
炎と煙の向こうへ目を凝らす。
熱せられた空気は上へ昇り、家々の間には夜風が流れている。燃え続ける家々は周囲の空気を引き込み、その流れには煙と灰、細かな火の粉まで混ざっていた。村の中には最初から無数の風の道が存在している。
これまでエリリアがしてきたのは、その一つ一つへ必要な分だけ力を加え、僅かに流れを変えることだった。
ならば、それらを一度だけ同じ方向へ揃えることができれば。
細剣を握る右手へ力を込めながら、エリリアはただ強い風を放つだけでは駄目だと考えた。燃えている家を煽れば被害が広がり、地面近くを強く吹かせれば逃げている老人や怪我人まで倒してしまう。
必要なのは、弓兵たちの視界と矢の通り道だけを乱す高さだった。
どこから空気が入り、どこへ抜けているのか。煙がどちらへ集まり、炎がどの方向へ空気を吸い込んでいるのか。エリリアは目で追える煙と灰を頼りに、一つずつ頭の中で流れを繋いでいった。
「エリリア!」
西からミレアの声が飛ぶ。
「来る!」
弓兵たちが一斉に弦を引き絞り、ガロスが湾曲刀を高く掲げた。
「射て!」
幾つもの弓弦がほとんど同時に鳴り、炎の上へ黒い矢の群れが浮かび上がる。
広場から悲鳴が上がった。
レンが顔を上げる。
アイリも、ミレアも、逃げる村人たちも空を見る。
その瞬間、エリリアは細剣を力任せに振り下ろさなかった。傷ついた左腕は身体へ寄せたまま、右手だけで銀色の刃を高く掲げる。
風そのものを無理やり従わせるのではなく、既に村を流れている無数の空気の道へ、自分の意志を重ねていく。
最初に大きく動いたのは、広場の上へ溜まっていた煙だった。それに引かれるように屋根の灰が舞い上がり、燃えかけた落ち葉や細かな火の粉まで同じ方向へ流れ始める。
ミレアが息を呑んだ。
ガロスの顔から笑みが消える。
空を覆う矢の群れが逃げる村人たちへ向かって落ち始める中、エリリアの淡銀の髪がこれまでとは比べものにならないほど大きく翻った。
そして、村のあらゆる隙間を走っていた風が、たった一つの大きな流れへ変わろうとしていた。
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