第一章 第十八話 銀髪の戦士
剣より先に、風が走った。
エリリアが踏み込んだ瞬間、路地に滞留していた煙と灰が一斉に横へ押し流され、正面から駆け込んできた男たちが反射的に腕を上げた。視界を奪われたのはほんの一瞬。それでも彼女には十分だった。炎を映した淡銀の髪が低く翻り、細身の剣が最初の男の刃へ触れる。真正面から力を受け止めるのではなく、刃の側面を撫でるように滑らせて軌道を外し、開いた脇を抜けざまに手首へ浅く鋭い一閃を刻む。男の指から剣が落ちる頃には、エリリアは既にその横を通り過ぎていた。
後方から別の男が槍を突き込む。エリリアは大きく振り返ることさえせず、細剣の切っ先を僅かに持ち上げた。直後、圧縮された空気が低く唸り、槍の穂先を横から殴りつけるように軌道を逸らす。石壁へ金属が擦れた瞬間、エリリアは身体を半歩だけ戻し、細剣を槍の柄へ沿わせて走らせた。刃が木を裂き、穂先側が地面へ転がる。何が起きたのか理解できずに立ち尽くした男の胸元へ彼女の靴底が入り、その身体が後ろへ傾いたところへ、さらに一陣の風が重なった。押し飛ばすというより、崩れた重心の向きをそのまま増幅するような風だった。男は自分が想定していたより二歩も三歩も遠くへ転がり、燃えかけた柵へ背中を打ちつけた。
レンは黒銀の剣を右手に構えたまま、その一連の動きを目で追った。速い。だが、目を奪われる理由は単純な速度ではなかった。熊との戦いを通してようやく身体で理解し始めた「力を正面から受けない」という考え方を、エリリアは初めから自分の呼吸の一部であるかのように使っている。受け止めず、外す。押し返さず、崩す。敵が失った均衡へ細剣を通し、足りない距離や角度だけを風で補う。魔法が剣技と別々に存在しているのではない。彼女にとって風は、腕や脚と同じく戦闘を構成する一部なのだ。
「お兄ちゃん、左!」
アイリの声でレンは意識を戻した。エリリアとの正面衝突を避けた男が一人、建物の陰を回って水路側へ抜けようとしている。その先には、リュネと救い出した子供たちが向かった退路がある。
レンはすぐに男との間へ入った。追って倒すためではない。今の役割は、ここから先へ一人も通さないことだ。
「退け!」
男の短剣が横から走る。レンは大きく黒銀の剣を振らず、片手のまま刃を斜めへ置いた。短剣を真正面から叩き返せば、傷ついた左腕を使えない今の身体では衝撃を殺し切れない。そこで刃の腹へ黒銀の剣を沿わせ、その勢いを外側へ滑らせる。男の上体が前へ流れたが、レンは追撃しなかった。水路へ続く細道と男の間に立ち続ける。
「アイリ!」
「うん!」
男の足元へ小石が転がった。アイリが左手で投げたものだ。傷ついた右肩ではまともな戦闘などできない。それでも狙ったのは身体ではなく、相手が次に踏み込もうとした場所だった。男は反射的に足を引き、その一歩で退路からさらに離れる。
レンは黒銀の剣先を向けた。
「そこから先へ来るな」
「餓鬼が……!」
男が怒りに任せて踏み込もうとした、その瞬間だった。レンの横を鋭い横風が抜け、男の手元へ絡みつくように圧力が走る。短剣が指から弾き飛ばされ、数歩先の土へ突き刺さった。直後、淡銀の髪がレンの背後を横切る。
「逃げ道を守るのでしょう」
エリリアだった。
「ああ」
「なら、倒すために追わない」
「分かってる」
レンが答えると、エリリアは淡紫色の瞳を僅かに細めた。
「今、追いそうな顔をしていました」
「顔までは知らない」
「そういうところです」
横でアイリが僅かに笑い、レンは不満そうに妹を見た。
「お前はどっちの味方なんだ」
「生き残る方」
短いやり取りの最中にも、エリリアの長い耳は絶えず周囲の音を拾っていた。次の瞬間、炎の向こうから斧を持った男が飛び出す。
「まとめて殺せ!」
頭上から重い斧が落ちる。エリリアは受け止めず、一歩下がった直後に足元へ横向きの風を走らせ、自分の身体を半身分だけ滑らせた。斧が空を切って土を砕く。その刃が地面へ食い込んだ瞬間、細剣が男の手の甲を走り、握力を奪うように浅い傷を刻んだ。
「ぐっ……!」
斧が落ちる。エリリアは喉を狙わず、男の胸元へ細剣の切っ先を止めた。
「伏せて」
「ふざけ――」
男の左手が腰へ伸びる。隠していた小刀へ指が触れた瞬間、エリリアの細剣が動くより先に、細く絞られた風が手首へ叩きつけられた。抜きかけた小刀が宙へ跳ね、男の指に細い血の線が走る。
「次は手では済みません」
声は静かだった。その静けさに、男の顔からかえって血の気が引いていく。
後方にいた者たちも、倒れた仲間、武器を失った男たち、そして炎と風の間に立つ銀髪のエルフを順に見た。やがて一人が後退しながら怒鳴る。
「一度引け! ここは退くぞ!」
数人が逃げ始めても、エリリアは追わなかった。細剣を構えたまま、最後の影が建物の向こうへ消えるまで警戒を解かない。足音が完全に遠ざかってから、ようやく彼女の肩が僅かに上下した。
そこでレンは初めて気づいた。平然としているように見えるエリリアの呼吸は浅い。黒と白を基調とした服にはいくつもの裂け目があり、袖にも脇腹にも乾いた血が付着している。その全てが彼女自身のものとは限らなかったが、リュネが消えた後から村へ戻り、今までほとんど休むことなく戦い続けていたことは容易に想像できた。
「リュネは?」
細剣を完全には下ろさず、エリリアが尋ねる。
「助けた子供たちと水路へ向かった。怪我した村の人も一人一緒だ」
レンが答えると、淡紫色の瞳が僅かに揺れた。
「リュネも怪我を?」
「左足首だ。歩けるけど、走らせない方がいい」
「どうして、あの子があなたたちと?」
「森で会った」
エリリアが少しだけ眉を寄せる。
「それだけでは分かりません」
「熊に追われてた」
「熊?」
「長くなる。あとで全部話す」
そう答えてから、レンは自分でも少し苦い顔になった。つい先ほど、エリリアにも同じようなことを言われたばかりだったからだ。
「さっきお前も、あとで話すって言っただろ」
エリリアも気づいたらしく、細剣の切っ先を僅かに下げた。
「……確かに」
「リュネはちゃんと子供たちを連れていったよ」
アイリが続ける。
「戻ってくるとも言ってない。だから今は、あの子に任せよう」
「そうですか」
短い返事だったが、エリリアの表情から張り詰めていたものがほんの少しだけ抜けた。
「なら、残っている人たちを出します」
「そのつもりだ」
レンが答えると、エリリアの視線が今度は彼の身体へ移った。包帯に覆われた左前腕。無意識に庇っている右脚。そしてアイリの胸元へ固定された右肩。
「その状態で?」
「勝ちに行くつもりはない。俺は誰も追わない。捕まってる人へ近づく奴がいたら一度止める。それ以上はやらない。退路ができたら退く」
少し前までのレンなら、そこまで明確に自分の役割を狭めることはできなかっただろう。エリリアはしばらく彼の顔を見ていたが、やがて僅かに頷いた。
「分かりました」
「最近、何度も同じことを約束させられてるからな」
「誰に?」
レンがアイリへ視線を向けると、妹は左手を小さく上げた。
「私」
「なるほど」
「納得するな」
その時、村の中央から大きな怒鳴り声が上がった。三人の表情から僅かな軽さが消える。
西側の建物を盾にしながら広場へ近づくと、状況はさらに悪かった。捕らえられたエルフたちは二十人を超えている。中央へ最も大きな集団が座らされ、その外側にも数人ずつ分けられていた。北の貯蔵庫にはさらに十人ほどが閉じ込められているらしい。
「見張りは?」
レンが壁の裂け目から広場を見ながら尋ねた。
「村へ入ったのは三十人前後です。私や村の者が何人か倒しましたが、まだかなり残っています」
エリリアが囁く。
アイリは敵の人数ではなく、屋根と見張り台を見た。
「弓が多いね」
「広場へ近づく者を先に射るよう命じられています」
「誰が?」
「ガロス」
リュネから既に聞いていた名前だった。レンの顔が僅かに硬くなる。
「ここの指揮役か」
「少なくとも、今この村では。顔の左側に古い火傷があります。湾曲した剣を二本使う男です」
そこまで説明した時、エリリアの声へ初めて明確な怒りが混じった。
「最初に村へ入った一人です」
「道を聞きに来た奴?」
アイリの言葉に、エリリアが彼女を見る。
「リュネから?」
「うん」
「……そこまで話せるようになったのですね」
独り言に近い声だった。
広場の反対側で男たちの怒鳴り声が上がる。
「北を探せ! まだあるはずだ!」
「記録庫は全部見た!」
「だったら長老に吐かせろ!」
レンとエリリアが同時にそちらを見る。
「何か探してるな」
レンは改めて周囲の家々を観察した。最初は炎と捕虜ばかりに意識を奪われていたが、落ち着いて見れば異様だった。扉を破られた家。棚を完全にひっくり返された家。地面へ投げ捨てられた紙や割れた箱。食料や金目の物だけが奪われた略奪ではない。古びた木板や書物まで外へ捨てられている。
「長老の家と記録庫は特に荒らされています」
エリリアが言った。
「森の古い道について書かれた記録を出せ、と言われた者もいるそうです」
「道……?」
「地図を探しているのか、記録そのものが目的なのかまでは分かりません。私は戻ってから、捕まっている人を逃がすことを優先していました」
「それでいいと思う」
アイリが即座に答えた。
エリリアは一瞬だけ彼女へ目を向け、それから小さく言った。
「ありがとう」
広場へ再び視線を戻した時、二本の湾曲刀を腰へ下げた男が現れた。周囲の者より上等な革鎧。炎に照らされた左頬から顎へ、古い火傷の痕が伸びている。
「ガロス」
エリリアの声が低くなる。
男は捕虜の前へ立ち、何かを問い詰めていた。距離があるため言葉までは拾えない。やがて年老いたエルフの髪を掴み、無理やり顔を上げさせる。
エリリアの細剣が僅かに動き、その足元で風が小さく巻いた。
「今は行かない」
レンが言う。
「分かっています」
「聞くことがあるんだろ」
「ええ」
「なら、生きたまま残す」
エリリアは一度だけ呼吸を整え、細剣から余計な力を抜いた。
「そのつもりです」
怒っていないわけではない。むしろ反対だった。リュネの故郷を焼かれ、仲間を捕らえられ、老人が目の前で痛めつけられている。その全てを見ながら、それでも救出を優先するため自分を抑えている。
レンはその姿を見て、不思議なほど自分に近いものを感じた。
「助ける順番は?」
「まず広場です」
エリリアは即答した。
「北の貯蔵庫は火から離れています。広場は見張りに囲まれているけれど、一度陣形を崩せれば捕虜を動かしやすい」
「縄を切る人がいるね」
アイリが言った。
「私がやる」
「肩は?」
レンがすぐ確認する。
「短剣は左手で使える。人と戦うんじゃなくて縄を切るだけならできるよ。難しければやめる」
レンは数秒だけ妹を見たあと頷いた。以前なら「駄目だ」と先に言っていただろう。だがアイリが自分の身体を理解したうえで役割を選んでいることも、ここまでの旅で少しずつ分かってきていた。
エリリアは広場を囲む屋根と見張り台、その間を漂う煙へ視線を巡らせる。
「私は弓を引きつけます」
「囮になる気か?」
「囮だけではありません。弓持ちは先ほどから私を優先して狙っています。なら、その視線を利用します」
「見える場所へ出る?」
「ええ。屋根を移動しながら弓をこちらへ向けさせる。燃えている家の煙も風で流せます。広場側へ押し込めば、一時的に射線を潰せる」
レンは眉を寄せた。
「全部の矢を止められるのか?」
「無理です」
即答だった。
「何本かなら風で軌道を外せます。でも、正面から大量の矢を押し返し続けるような力は使えない。そんなことをすれば、すぐに魔力が尽きます。だから矢は基本的にかわす。避けきれないものだけ、風で軌道をずらします」
風を「壁」にするのではなく、必要な一瞬だけ矢の向きへ干渉する。それなら、先ほどの戦い方とも繋がる。
「それに、煙の流れを変え続けるのも消耗します。一か所には留まりません」
「怪我してるのに?」
「あなたほどではありません」
「比較する相手を間違えてる」
「それは同意する」
アイリが即座に言い、レンは何か返そうとしてやめた。
それ以上の確認は必要な部分だけに留めた。三人とも満身創痍である以上、完全な作戦など作れない。重要なのは、失敗した時の基準を曖昧にしないことだった。
エリリアが示したのは、広場の西にある古い薬草庫だった。屋根の片側が焼け、看板も半分落ちている。その床下には、かつて村の排水路や冬季の導水路を点検するために使われていた古い通路があり、長老の家の裏まで続いているという。
「そこから広場へ?」
「長老の家の床下へ出れば、西側の捕虜まで建物二つ分ほどです」
「見張りは?」
「表に二人。裏側は先ほど一人倒しました。ただし、増える可能性はある」
エリリアはレンを見る。
「通路を出たら、アイリは縄へ。レンは西側の角を見てください。一人なら近づけないよう止めるだけ。二人以上が来たら戻る」
「分かった」
「捕虜を残すことになっても?」
レンは一瞬だけ口を閉じた。
助けに来た人間を目の前にして逃げる。その選択は嫌だった。だが無理をして全員が捕まれば、その後に助けられる者まで失う。
「その時はアイリを連れて戻る。全員捕まるよりいい」
エリリアは黙って頷いた。
三人は薬草庫へ向かう前に数分間、広場の巡回と弓兵の視線、ガロスの位置、そして煙の流れを観察した。焦れば焦るほど、立ち止まっている時間が長く感じられる。それでも動かなかった。今まで何度も、急いだ結果として傷を増やしてきた。だからこそ、この待つ時間も戦いの一部だった。
立ち続けているうちに、レンの右脚では熊に噛まれた傷の奥が少しずつ熱を増していた。アイリは兄の立ち方だけでそれに気づく。
「脚?」
「……さっきより痛い」
言い訳する前に正直に答えると、アイリは少しだけ驚いたように目を瞬いた。
「戻ったら包帯見るからね」
「ああ」
「戻る前提なんですね」
エリリアの声が横から入った。
レンは迷わず答えた。
「そういうつもりで動くって決めた。死ぬことを前提に戦うよりいいだろ」
エリリアの淡紫色の瞳が僅かに細くなる。
「……そうですね」
その返事には、他の言葉とは違う重さがあった。レンは何かを尋ねかけたが、やめた。まだ会ったばかりの相手だ。それに今は、その過去へ踏み込む時ではない。
やがて広場の見張りが一人北へ移動し、屋根の弓兵たちも別方向へ意識を向けた。
エリリアは小さく言った。
「今です」
三人は走らず、建物の影から影へ移った。煙が流れて敵の視界を遮る瞬間だけ開けた道を横切り、エリリアを先頭に、アイリ、レンの順で薬草庫へ進む。一度だけ見張りがこちらへ顔を向けたが、別方向から名を呼ばれて視線を逸らした。三人は足音さえ抑えてその場へ留まり、敵が離れきってから薬草庫の裏へ滑り込んだ。
内部はひどく荒らされていた。乾燥薬草は床へ散らされ、瓶は割れ、棚まで倒されている。金目の物などほとんどない場所にもかかわらず、ここにも何かを執拗に探した痕跡があった。
「こんなところまで……」
アイリが呟く。
「だから変なんです」
エリリアは床板を調べ、古い板を一枚外した。その下から鉄の取っ手が現れる。引き上げると床の一部が持ち上がり、土壁と木材で補強された暗い点検路が口を開いた。
エリリアは長い耳を僅かに動かして内部へ意識を向けた。
「誰もいません」
「そこまで聞こえるのか」
「近い音なら。ただ……便利なだけではありません」
「どういう意味?」
「燃えている家の音も、全部聞こえますから」
レンは何も言えなくなった。
炎が爆ぜる音。倒れる柱。泣き声。捕らえられた仲間の声。敵の足音。それら全てが、人間であるレンより遥かに鮮明に届いているのだろう。それでもエリリアは必要な音だけを拾い、ここまで戦ってきた。
「アイリ。先に入ってください」
「うん」
右肩を固定したまま、アイリは左手で身体を支え、足から慎重に穴へ降りる。しばらくして下から小さな声が届いた。
「着いた」
レンは黒銀の剣を先に渡した。
「重っ……」
「持ち上げなくていい。床へ寝かせろ」
「分かってる」
剣が下へ降りたのを確認してから、レンも右手を使って身体を支え、左腕と右脚へ必要以上の負担を掛けないよう慎重に通路へ降りる。
最後に頭上のエリリアを見上げた。
「お前は?」
「ここから屋根へ出ます」
レンは少し間を置いた。
「一人で全部やるなよ」
エリリアの眉が僅かに上がる。
「あなたに言われると、不思議な気分です」
「俺の話はいい」
「二人とも同じだからね」
下からアイリの声がした。
「違う」
「違います」
兄とエリリアの返事が同時に重なり、暗闇からアイリの小さな笑い声が返った。それ以上は続けず、エリリアは真剣な表情へ戻る。
「私が屋根へ出たら、弓をこちらへ引きつけます。最初に煙を大きく動かします。それを合図に」
「その後、俺たちは長老の家まで進む。出口が危険なら戻る」
「ええ」
「お前も無理なら下りろ」
「分かっています」
「そこは約束しろ」
一瞬だけ、エリリアが黙った。
やがて彼女はレンと、その奥にいるアイリを順に見て、はっきりと答えた。
「分かりました。生きて、あとで話しましょう」
レンも頷く。
「ああ」
「絶対ね」
アイリが念を押す。
「絶対に」
今度のエリリアには迷いがなかった。
床板が静かに閉ざされ、レンとアイリの周囲が暗闇へ沈んだ。
◇
頭上でエリリアの足音が遠ざかっていく間、二人は動かなかった。土と古い木の匂いに包まれた点検路へ、家が燃える低い音だけが遠く響いている。
「腕は?」
アイリが囁く。
「左は使ってない」
「右は?」
「疲れてる」
「脚」
「痛い」
少し間が空いた。
「ちゃんと言えるようになったね」
「言えって言ったのはお前だろ」
暗闇の中で、アイリが小さく笑った気配がした。
「じゃあ、無理なら戻る」
「ああ」
「私も」
「一緒にな」
「うん」
それだけを確認した直後、頭上を小さな風が抜けた。
続いて、男たちの怒鳴り声が響く。
「屋根だ!」
「銀髪がいるぞ!」
「弓を上へ向けろ!」
陽動が始まった。
◇
エリリアは崩れかけた外壁の突起へ足を掛け、屋根の縁へ左手を伸ばした。傷と疲労の残る脚だけでは僅かに高さが足りない。そこで足元へ一瞬だけ上向きの気流を作り、身体を持ち上げる力を補う。風だけで跳び上がったのではない。腕と脚で生み出した動きを、必要な分だけ風が支えた。
淡銀の髪が屋根の上へ現れた瞬間、最初の矢が飛んでくる。
一本目は首を傾けるだけでかわした。
二本目へは細剣を短く向ける。矢を正面から押し返すのではなく、飛来する矢尻の片側へ横風を集中させる。ほんの僅かに軌道が変わり、矢は彼女の肩を外れて後方へ消えた。
三本目には魔法を使わない。屋根を蹴って隣の建物へ移る。
着地しようとした瓦が外れ、足元が沈んだ。
そこへ四本目。
「っ……!」
エリリアは崩れた姿勢のまま足元へ風を走らせ、落下しかけた身体を横へ流す。矢が袖を掠め、布と皮膚を浅く裂いた。赤い線が腕へ浮かんだが、止まらない。一か所へ留まれば、次に来るのは一本では済まない。
「射ろ!」
「落とせ!」
弓兵たちの視線が一斉にエリリアへ向く。
予定通りだった。
だからこそ、恐怖を感じる暇もなく次へ動く。
エリリアは燃える家から立ち上る煙を見た。火そのものを操ることはできない。煙を生み出すこともできない。しかし、熱気によって既に生まれている空気の流れなら利用できる。
全てを逆方向へ押し返そうとはしなかった。
細剣を大きく横へ振る。
その動きに合わせて、複数の気流を一方向へ束ねる。
空気が低く唸った。
薬草庫と広場の間を漂っていた煙が持ち上がり、風に押されて大きな黒い幕となる。そのまま弓兵たちの射線へ横から流れ込み、見張り台と屋根を一時的に覆い隠した。
「見えねえ!」
「煙だ!」
「散れ!」
敵の怒鳴り声が重なる。
村の屋根を横切った大きな風が、地下にいるレンとアイリへの合図になった。
二人は同時に動き始めた。
点検路は水路ほど狭くないものの、立って歩ける高さはない。アイリは左手で壁へ触れ、固定した右肩を木材へぶつけないよう身体を斜めにする。レンは鞘へ収めた黒銀の剣を右手で低く持ち、左腕を身体へ寄せたまま後ろへ続いた。
頭上で何人もの足音が走る。
「右へ回れ!」
「弓を増やせ!」
「銀髪を落とせ!」
陽動は成功していた。
同時に、レンとアイリから離れた危険の全てがエリリアへ集中している。
レンの足が一瞬だけ鈍った。
助けに行きたい。
あれだけの矢を一人へ向けさせて、自分たちだけ安全な場所を進むことが正しいのか。その考えが胸へ刺さる。
だが、自分たちは決めた。
彼女が弓を引きつける。
アイリが縄を切る。
自分が退路を守る。
そこで役割を捨てて屋根へ向かえば、エリリアが危険を引き受けた意味まで失わせる。
レンは前へ向き直った。
信じることも、今は戦うことの一つだった。
屋根の上では、エリリアの呼吸が明らかに重くなり始めていた。
煙を大きく動かした風は既に弱まり、視界が少しずつ戻っている。風を使うたび身体の奥から力が削られていく感覚がある。弓兵はまだ残っている。
「今だ!」
複数の弓弦が、ほとんど同時に鳴った。
エリリアは走る。
全ての矢を風で止めることなどできない。そんな力を一度に作れば、そこで動けなくなる。
必要なのは、自分へ届くものだけを選ぶこと。
一本目。正面寄り。横風を矢尻の右側へ当て、軌道を外す。
二本目。低い。身体を沈める。
三本目。避ける場所がない。細剣の腹で弾く。
四本目。銀髪を数本奪って後ろへ消える。
その陰から、五本目。
近い。
「――っ!」
エリリアは肩を捻った。
間に合わない。
矢尻が左上腕の外側を裂き、血が夜気へ飛んだ。
焼けるような痛みが走る。それでも指は動く。肩も上がる。深く刺さってはいない。
確認するのは、それだけでいい。
彼女は次の屋根へ踏み出し、跳躍の最後に足元へ追い風を重ねた。風が飛距離を僅かに補い、隣の建物へ届く。着地した膝が深く沈んだ。
それでも倒れない。
「逃がすな!」
広場からガロスの声が響いた。
エリリアが顔を上げる。
炎の向こう。
二本の湾曲刀を下げた男が立っている。
左頬から顎へ続く、古い火傷。
ガロスもこちらを見ていた。
一瞬だけ視線が重なる。
細剣を握る指へ力が入った。
今ここで飛び込めば、届くかもしれない。
問い詰めたい。
どうしてこの村を選んだ。
何を探している。
なぜリュネを追った。
なぜ仲間たちを傷つけた。
怒りと疑問が一気に胸へ込み上げる。
それでもエリリアは動かなかった。
ガロスと戦うのは、捕らわれた村人たちを逃がしてからでいい。
今はまだ、その時ではない。
◇
床下を進んでいたレンとアイリの前に、薄い光が見え始めた。
長老の家へ続く出口だった。
レンは足を止めた。
「アイリ。俺が先に見る」
「一人で出ない」
「顔だけ出す」
「……それならいい」
レンは黒銀の剣を床へ置き、右手で古い床板をほんの少しだけ持ち上げた。
細い隙間から煙混じりの光が入り込む。
その向こうを一人の男の足が横切った。
動かない。
呼吸も抑える。
足音が遠ざかるまで待ってから、レンはもう一度だけ隙間を広げた。
すぐ近くに見張りはいない。
さらにその向こう。
広場の端へ座らされたエルフたちの背中が見えた。
想像していたよりずっと近い。
アイリも隙間へ目を寄せた。
「行けそう?」
「今なら」
「エリリアは?」
答えるより先に、遠くで複数の弓弦が連続して鳴った。
風の唸り。
男たちの叫び。
レンの意識が一瞬だけ屋根へ引かれる。
見に行きたい。
助けに行きたい。
だが、それは今の自分の役目ではない。
エリリアは自分たちを信じて屋根へ上がった。
なら、自分も彼女を信じなければならない。
「……信じる」
自分自身へ言い聞かせるように呟くと、隣でアイリが頷いた。
「うん」
レンは床板を音が出ないよう、さらにゆっくり持ち上げた。
アイリの左手には短剣。
レンの右手には、鞘へ収めた黒銀の剣。
広場の捕虜までは、あと僅かだった。
その頭上で再び幾つもの弓弦が鳴る。
炎に照らされた空を矢の群れが裂き、その下で淡銀の髪が大きく翻った。
飛来する矢へ正面から抗うのではなく、避けるための隙間だけを作るように空気の流れが変わる。燃える家々から立ち上る煙が揺れ、屋根を渡る夜風が一つに重なり、銀髪の戦士の周囲で低く唸った。
そして次の瞬間――村の上で、風が吠えた。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
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