第一章 第十七話 燃える森の村
森の向こうが赤く燃えていた。枝葉の隙間から見えていた光は、近づくほど一つの炎ではなくなっていく。何本もの黒煙が夜へ伸び、低い風に押されながら森の上へ横たわっていた。時折、乾いた木材が爆ぜる音が遠くまで響き、そのたびにリュネの肩が小さく震える。焦げた木と布、それに何か別のものまで混じった臭いが鼻へ入り、レンの記憶の底から十年前の炎を引きずり出そうとした。
エイレン。崩れる家。母の背中。赤い髪。黒煙の向こうで笑った男。
右手が腰の黒銀の剣を強く掴みかけたところで、隣から声がした。
「お兄ちゃん」
アイリだった。
レンは一度だけ目を閉じた。煙の向こうに重なりかけた過去を押し戻し、もう一度、目の前の森を見る。
「大丈夫だ」
「……わたしも、ちょっと思い出した」
「ああ」
それ以上は言わなかった。今燃えているのはエイレンではない。ここにいるのは十年前の自分たちでもない。そして、この村を襲っている者たちが、あの夜の襲撃者と同じだという証拠もない。炎を見たというだけで、怒りの向かう先まで勝手に繋げてはいけない。それは分かっている。それでも、赤い光を見るたびに身体の奥が熱くなるのを、完全に止めることはできなかった。
「村は、あっち」
リュネが震える指で示した。若草色の上着は、追跡してくる犬を逸らすための囮として森へ残してきた。今はアイリから借りた灰色の外套を細い身体へ巻き、固定した左足首を庇いながら、歩行用の枝へ体重を預けている。今すぐ駆け出したいのだろう。けれど、一歩でも無理に急げば、その足では村へ着く前に動けなくなる。
「急ぎたいのは分かる。でも、走らない」
レンが言うと、リュネは燃える方角を見たまま唇を噛んだ。
「……うん」
「まず見る」
アイリが続けた。
「人数。捕まってる人がどこにいるか。見張りがどこにいるか。それから、逃げられる道」
「見つかったら戻る」
レンが言う。
アイリはすぐにこちらを見た。
「追わない」
「追わない」
「一人で残らない」
「残らない」
「勝てそうでも?」
「今は戻る」
リュネが二人を交互に見る。
「……何回確認するの?」
「お兄ちゃん相手だから」
「俺への信用が低い」
「自分で下げたんでしょ」
反論できなかった。
熊との戦いを終えてから、まだそれほど時間は経っていない。左前腕の噛み傷は新しく巻き直した包帯の下で熱を持ち、薬指と小指には相変わらず力が入りにくい。右脚の傷も歩くたびに鈍く疼いている。アイリの右肩は胸元へ固定されたままで、左脹脛の傷も消えてはいない。リュネに至っては、枝がなければ長い距離をまともに歩くことさえ難しい。
三人とも、正面から大勢と戦える身体ではなかった。
「熊の時みたいには動けない」
アイリが念を押す。
「分かってる」
「だから今日は、勝つより助ける」
レンは赤く染まる森の奥を見た。
「……ああ。助ける方を先にする」
◇
リュネが案内したのは、村の正面へ続く道ではなかった。森の斜面を大きく回り込み、木の根が岩を抱き込むように盛り上がった場所まで進む。そこには細い水の流れがあり、夜の暗がりの中で湿った石だけが僅かに光っていた。
「ここから入る」
リュネが囁く。
「村に?」
「昔の水抜き」
レンは流れの先を覗き込んだ。斜面の下へ、石と木で組まれた古い溝が続いている。人間が立って歩けるようなものではない。途中からは土に半分埋まり、根や腐りかけた板まで覆い被さっていた。
「ミレアに教えてもらった穴とは別?」
「同じところにつながってる。でも、こっちはもっと狭い」
「入れる?」
「子供なら」
リュネはレンの身体を見上げ、少しだけ間を置いた。
「大人は……頑張れば」
「頑張るしかないな」
アイリが水路を覗き込む。
「剣は?」
レンも腰へ目を落とした。黒銀の剣は長く、重い。剣帯へ差したまま這えば、石か根へ引っ掛かるのは目に見えている。
「外す」
剣帯そのものは腰へ残し、鞘に収めた黒銀の剣だけを右手で外す。
「俺が先に入る。狭いところを抜けたら、剣だけ先に送ってくれ」
「誰が?」
「アイリ」
「片手だよ?」
「持ち上げなくていい。鞘ごと石の上を滑らせる。俺が向こうで受け取る」
「わたし、引ける」
リュネが言った。
「足首悪いだろ」
「レンも脚悪い」
「俺は腕も悪い」
「じゃあ三人とも悪い」
アイリが小さく笑った。
「結論出たね」
「何が?」
「誰も無理しないで、一個ずつやる」
レンは仕方なく頷き、水路へ身体を入れた。
初めのうちは、右手と脚を使って身体を低くすれば進めた。だがすぐに天井が下がり、肩を斜めにしなければ通れないほど狭くなる。左前腕を地面へつけないよう庇いながら、右手を前へ送り、右膝と左足先で少しずつ身体を押す。右脚へ体重が掛かるたび、噛み傷の奥が鈍く疼いた。
「大丈夫?」
後ろからアイリの声がする。
「まだ」
「まだって何」
「まだ大丈夫」
「痛くなったら言って」
「もう痛い」
「じゃあ言えてる」
「それで満足するな」
さらに後ろから、リュネが小さく息を漏らした。
「二人、こういう時も喋るんだ」
「黙るとお兄ちゃんが勝手に無理するから」
「関係ないだろ」
「ある」
少し先で水路の高さが僅かに戻った。レンは身体を横へずらし、どうにか片膝をつけられる場所を確保する。
「ここまで来た。剣」
「送るよ」
暗闇の奥から鞘の先が現れた。アイリが左手だけで、泥の少ない石の縁に沿わせながら押している。レンは右手で受け取り、自分の身体の横へ置いた。
「取った」
「次、わたし行く」
アイリが這い始める。右肩を動かせないため、姿勢はレン以上に不自然だった。左手と膝を使い、身体を少しずつ前へ送る。
「右肩ぶつけるなよ」
「分かってる」
「そこ、根が出てる」
「見えてる」
「その先低い」
「お兄ちゃん、後ろ向きに見えてるの?」
「さっき通った」
「じゃあ分かる」
「そう言ってる」
「二人とも静かに」
最後尾のリュネが囁き、三人とも口を閉じた。
頭上のどこかで足音がした。水路の外を誰かが歩いている。すぐ近くではない。それでも、この狭い穴が既に村の内側へ入り込んでいることを実感させるには十分だった。
足音が遠ざかるまで待つ。
「……行ける」
リュネが囁いた。
三人は再び進んだ。
やがて、古い木枠が半ば崩れた状態で水路を塞いでいる場所へ出た。レンが右手で押してみるが、腐っている見た目に反してほとんど動かない。
「腐ってるのに重いな」
「どいて」
「無理だ。幅がない」
「じゃあ一緒に押す」
「アイリ、肩」
「左でやる」
「俺が右」
「リュネは?」
「下、見える」
後ろから少女の声がした。
「左側が石に挟まってる」
レンが手探りで確かめると、腐った横木の端がいくつかの小石の間へ噛み込んでいた。右手だけで一つずつ石を外していく。左腕を使えればもっと早い。それでも使わない。
最後の石が抜けた。
「今」
レンが右手で押し、後ろからアイリも左手を添える。木が低く軋み、少しだけ横へずれた。
「もう少し」
「せーの――」
「二人とも声大きい」
リュネに叱られ、最後は三人ともほとんど息だけで合図を取りながら木枠を動かした。
やがて横木が倒れ、人一人がどうにか通れる隙間ができる。
「……できた」
アイリが小さく息を吐いた。
「一人じゃ無理だったな」
「珍しく素直」
「今だけ」
「記録しておく」
「どこに?」
「頭の中」
「消せ」
「嫌」
後ろから、またリュネが笑った。
ほんの短い笑いだったが、それだけで暗く狭い水路の息苦しさが少し薄れた。
◇
水路の出口は、村の西端にある古い倉庫の裏へ繋がっていた。石の隙間を塞いでいる板を内側から少しずつ動かすと、外から焦げた空気が流れ込んでくる。
「待って」
リュネが耳を澄ませる。
「……今は近くにいない」
レンが先に外を覗いた。
夜は既に深まり始めている。それでも暗闇にはならない。村のあちこちで上がる炎が、建物や道を不規則な赤色に照らしていた。屋根の端から火が回っている家もあれば、壁そのものが燃え始めている建物もある。
少し先の広場には、多くの人影が集められていた。
「捕まってる」
アイリが息を潜めた。
少なくとも十数人。もっといる。座らされ、両手を後ろへ縛られたエルフたちを、武器を持った男たちが囲んでいる。屋根の上にも人影があった。
「弓」
レンが言う。
「こっちから見えるだけで三人」
「反対にもいる」
リュネが囁いた。
村の中央には荷車が二台停められ、袋や箱が積み込まれている。さらに荷台の一部には、人を縛るためにも見える縄まで張られていた。
明日の朝に運ぶ。
リュネが聞いた話と繋がる。
「今、全部助けるのは無理」
アイリが言った。
「ああ」
レンも認めるしかなかった。
広場へ飛び込めば終わる。今の三人では、数人を倒せたとしても、その先で包囲される。
「まず逃げ道」
「水路は使える」
リュネが答える。
「でも大人がたくさん通ったら時間かかる」
「他には?」
「東に古い柵の切れ目。でも、広場の近くを通る」
「今は水路だな」
レンが視線をずらした、その時だった。
倉庫の角近くに、一人の男が倒れている。村人ではない。革鎧を着た人間で、手には短剣が残っている。
首元から胸へ、細い斬撃が一本。
傷は妙に深い。
さらに不自然なのは、その周囲だった。地面へ落ちた葉が、男の身体から少し離れたところまで同じ方向へ細く裂けている。ただ剣が通っただけでは説明しづらい。
「リュネ」
レンが指し示す。
少女の目が大きく開いた。
「……それ」
「知ってる?」
「エリリア」
「分かるのか?」
「剣だけじゃない」
小さな声に、初めて明確な希望が混じった。
「エリリアが魔法を使うと、刃が届かないところまで風が切る」
レンは細く裂けた葉をもう一度見る。
「じゃあ、戻ってるかもしれない」
「うん」
リュネは強く頷いた。
「きっと」
断定できる証拠ではない。それでも、先ほどまで震えていた少女の足元が、ほんの少しだけ確かになったように見えた。
その時。
子供の泣き声が聞こえた。
三人が同時に顔を上げる。
「どこ?」
アイリが尋ねる。
リュネが耳を動かした。
「向こう。何人かいる……大人も一人」
広場から少し外れた家。窓は外から板で塞がれ、屋根の端には既に火が移り始めている。まだ建物全体を包むほどではないが、時間を掛けていられる状態でもない。
レンは広場を見る。見張りの何人かは、村の反対側で続いている騒ぎに意識を向けていた。遠くで剣らしい金属音が響き、男たちの怒鳴り声が重なる。
西側の警戒が薄い。
「先に子供を出す」
アイリが言った。
「同意」
レンはすぐ答えた。
「リュネ、裏まで行ける道は?」
「分かる」
「行こう」
◇
三人は家の裏側へ回った。
正面の扉には男が一人立っている。だから使えるのは背面だけだった。壁には小さな採光窓があり、外側から何枚もの板を打ちつけられている。
「これ」
アイリが板の端を左手で確かめる。
「釘」
「音が出るな」
「でも外すしかない」
レンは周囲を見回した。
「一気に剥がさない。一本ずつ浮かせる」
板の端へ旅用ナイフを差し込む。右手だけで力を掛け、少しずつ釘の周囲を緩めていく。木が軋むたび、三人は動きを止めた。
外の足音が近づき、そして遠ざかる。
再開する。
一本。
もう一本。
板を外していくと、単なる採光窓ではなく、その下まで続く古い開口部が姿を現した。昔は荷物を受け渡すために使われていたのかもしれない。子供なら余裕を持って通れ、細身の大人でも身体を横へすればどうにか抜けられそうな幅がある。
「いける」
アイリが中へ向けて、ごく小さな声を掛けた。
「聞こえる?」
返事はない。
代わりに、泣き声がぴたりと止まった。
「大丈夫。外にいる」
沈黙。
リュネが前へ出た。歩行用の枝を脇へ置き、開口部へ顔を近づける。
「わたし」
中で誰かが息を呑んだ。
「……リュネ?」
「うん」
「リュネ……?」
今度は子供の声だった。
リュネの緑色の瞳が揺れる。
「生きてたの?」
「うん」
「どうして……」
少女は一瞬だけ言葉を失った。
そして、自分でも確かめるように言った。
「助けに来た」
口にしてから、リュネ自身が僅かに目を見開いた。
中から押し殺した泣き声が上がる。
「静かに」
リュネが慌てて囁く。
「まだ外に人がいる。順番に来て」
アイリが開口部の下へ膝をついた。右肩は胸元へ固定したまま、左腕だけを使える位置に身体を寄せる。
「小さい子から」
中にいる大人らしい女性が、子供を一人ずつ抱え上げた。
最初の子供の足が外へ出る。
「ゆっくり」
アイリは左手で腰を支え、自分の膝へ一度体重を預けさせた。
「お兄ちゃん」
「分かってる」
レンが右腕で子供の胴を受け取る。左腕は使わない。右脚へ一気に体重を掛けないよう片膝をついた姿勢のまま、そっと地面へ下ろした。
「リュネのところへ」
子供が泣きながら駆け出そうとする。
「走らない!」
リュネがすぐ止めた。
「静かに。こっち」
枝を拾い直し、自分の近くへ集める。
二人目。
三人目。
四人目。
中の煙が少しずつ濃くなっていく。屋根の上で何かが崩れ、火の粉が開口部の近くまで落ちた。
「まだいる?」
「あと二人!」
女性の声が返る。
「急ぐよ」
アイリの額に汗が浮いている。それでも右肩は使わない。左手と膝、それに自分の身体そのものを支えにして、子供の体重を少しずつ外へ逃がす。レンも右腕だけで受け取る。
最後の子供が出た。
「大人は?」
レンが尋ねる。
「一人」
「通れる?」
奥から若い女性の顔が見えた。片腕から血が出ている。
「子供を先に……」
「もう全員出た!」
リュネが言った。
「今度はあなた!」
「でも――」
「早く!」
女性が開口部へ身体を横向きにする。頭、肩、片腕。ぎりぎりだった。
「引くよ」
アイリが左手で衣服を掴む。
リュネも足首へ無理を掛けないよう地面へ座り、外へ出てきた袖を支えた。
「レン!」
「右手出す」
レンは女性の手首ではなく前腕の衣服を掴み、傷へ直接力が掛からないよう引く。
「息吐いて!」
アイリの声に、女性が身体から力を抜いた。
肩が抜ける。
腰。
最後に脚。
女性は三人の前へ転がり出た。
「っ……!」
「大丈夫?」
「子供……」
「全員いる」
リュネが答える。
女性の顔が崩れた。
「リュネ……本当に……」
「今は話さない」
少女は首を横へ振った。
「逃げる」
その言い方に、レンは僅かに目を見張った。
森の中で石を握り、人間を見ただけで震えていた少女が。
今は、自分以外の誰かへ「逃げる」と言えている。
◇
子供たちを水路へ向かわせる。
全員を三人で連れていけば遅過ぎる。そして、この辺りの道を最もよく知っているのはリュネだった。
「リュネ」
レンが呼ぶ。
「この人たちを水路まで連れていける?」
少女の表情が変わった。
「レンたちは?」
「後ろを見る」
「一緒じゃないの?」
「すぐ行く」
「……嘘じゃない?」
これまで何度も交わしてきた約束が、今度はリュネの側から返ってきた。
レンは正面から答える。
「嘘じゃない」
「残らない?」
「残らない」
「敵を追わない?」
「追わない」
アイリも頷いた。
「わたしも戻る。だから、リュネは子供たちをお願い」
少女は二人を見つめ、それから小さく頷いた。
「……分かった」
「枝は持っていけ」
「分かってる」
リュネは歩行用の枝をしっかり握ったまま、子供たちへ向き直る。
「こっち。走らないで。音出さない」
「リュネ、お姉ちゃん?」
小さな子供が尋ねる。
リュネが一瞬固まった。
「……今それ聞く?」
「だめ?」
「あとで」
傷ついた女性が子供たちをまとめる。
「行ける?」
レンが尋ねると、女性は片腕を押さえながら頷いた。
「歩けます」
「水路まで行けば森へ抜けられる。リュネの言うことを聞いて」
「あなたたちは?」
「すぐ追いつく」
その言葉を口にした直後、近くで足音が響いた。
「誰だ!」
男の声。
リュネが振り返る。
「行け!」
レンが低く言った。
子供たちは走らない。それでも必死に急いだ。リュネが枝を使いながら先頭へ立ち、女性が最後尾について角を曲がる。
やがて姿が消えた。
レンとアイリはその場に残った。
「来る」
アイリが囁く。
「ああ」
「一人で出ない」
「分かってる」
「同時」
「同時に動く」
三つの足音が近づいてきた。
最初に現れたのは剣を持った男。その後ろには斧。さらに数歩離れた場所で、弓を持った男が止まった。
「いたぞ!」
剣の男が叫ぶ。
レンは黒銀の剣を右手で抜いた。いつもと同じ重さのはずなのに、疲れた腕にはさらに重く感じる。それでも握れる。
「女もいる!」
「餓鬼どもは?」
「逃げた!」
弓の男がすぐ矢をつがえる。
「アイリ、壁!」
「分かってる!」
アイリは右肩を庇いながら建物の陰へ身体を寄せる。
レンも正面へ出ない。
剣の男が踏み込んできた。速くはない。だが今のレンには十分に危険だった。振り下ろされる剣を力で受けず、半歩外へ身体をずらす。右脚が疼き、完全には抜け切れない。黒銀の刃を相手の剣の腹へ斜めに添え、軌道だけを横へ流した。
金属音。
衝撃が右手へ伝わる。
「っ……!」
続いて斧の男が入ってくる。
「右!」
アイリの声。
レンは下がる。
斧が地面へ深く食い込んだ。
アイリが左手で小石を投げる。狙ったのは顔ではない。足元だ。男が反射的に視線を落とした隙に、レンはさらに距離を取る。
「逃げんじゃねえ!」
「逃げるよ!」
アイリが言い返した。
「それが目的だから!」
こんな時なのに、レンは一瞬だけ笑いそうになった。
その直後。
弓弦が鳴った。
レンが顔を上げた時には、既に矢が放たれている。
自分へ向かって。
今の姿勢では黒銀の剣を間に合わせられない。斧を避けた直後で右脚の重心が崩れ、重い刀身も低い位置にある。
避ける。
間に合うか。
「お兄ちゃん!」
アイリの声。
矢が迫る。
次の瞬間、空気が鋭く鳴った。
矢が横から何かに叩かれたように軌道を変える。レンの頬の横を掠め、そのまま背後の壁へ突き刺さった。
「……何?」
弓の男が声を漏らした。
風だった。
ただの風ではない。
燃える村を流れていた熱気とは別方向から、一本の鋭い流れが路地を走り抜けた。灰が舞い、火の粉が巻き上がり、男たちの衣服が同時に大きく揺れる。
レンは風の来た方向へ顔を上げた。
屋根の上に、銀色があった。
長い淡銀の髪。
煤と血に汚れてなお目を引く、黒と白を基調にした衣服。
女だった。
右手には細身の剣。その刃の周囲だけ、煙の流れが不自然に歪んでいる。
「……エルフ?」
長い耳。
そして、炎の光を映してなお静けさを失わない、淡い紫の瞳。
冷淡というより、研ぎ澄まされていた。目の前にいる者が敵か味方か、その一瞬だけで見極めようとしているような眼差しだった。
女は屋根の端から踏み出した。
落下したようには見えない。
足元へ巻き上がった風が一瞬だけ身体を受け、着地の衝撃を殺す。細い靴底が静かに土へ触れ、遅れて長い銀髪が背中へ落ちた。
「銀髪……!」
斧の男の顔色が変わる。
「エリリアだ!」
「まだ生きてやがったのか!」
エリリア。
リュネが口にしていた名前。
女――エリリアは男たちへすぐ斬りかからなかった。
最初に見たのはレンだった。
次にアイリ。
人間が二人。
淡紫の瞳が鋭く細まり、細剣の切っ先が僅かに持ち上がる。
敵意。
当然だった。
この村を襲っている者たちも人間なのだから。
「待って!」
アイリが先に言った。
「わたしたちは――」
その時、路地の向こうに逃げていく子供たちの姿が一瞬だけ見えた。
その先頭。
灰色の外套を巻き、枝を杖にして進む小さなエルフ。
リュネ。
エリリアの表情が変わった。
「……リュネ?」
初めて聞く声は低く、疲れで少し掠れていた。それでも、名前を口にした瞬間だけは明らかな驚きが混じっている。
リュネも振り返った。
「エリリア!」
その一声だけで十分だった。
エリリアの視線が再びレンたちへ戻る。黒銀の剣。傷だらけの身体。そして、村の子供たちを逃がしている状況。
「その子たちを」
エリリアが言った。
「あなたたちが出したの?」
「そうだ」
レンが答える。
「話はあとでいい」
剣の男が叫びながらエリリアへ斬りかかった。
「死ね!」
エリリアが動く。
レンには、一歩しか見えなかった。
相手の剣の軌道から僅かに身体を外し、銀髪を流す。そのまま細剣が一度だけ走った。
同時に、地面の灰が一本の細い線となって男の横を抜ける。
「――っ?」
男の剣が地面へ落ちた。
右前腕に深い裂傷が開いている。骨ごと断ち切ったわけではない。それでも、もう剣を握り続けられる傷ではなかった。
「ぎゃああっ!」
男が腕を押さえて崩れる。
斧の男が思わず一歩下がった。
「魔法……!」
エリリアの細剣の周囲で空気が低く鳴り、漂っていた煙が左右へ割れた。
「子供を閉じ込めたのは」
エリリアが男を見る。
「あなたたち?」
「ち、違――」
「嘘」
声は静かだった。
それなのに、男の顔から血の気が引いた。
弓の男が矢をつがえ、今度はエリリアへ放つ。
エリリアは振り向かない。
細剣を僅かに傾ける。
風が走った。
矢は彼女の肩へ届く前に軌道を横へずらされ、燃えかけた柵へ深く突き刺さった。
レンは息を呑んだ。
剣で弾いたわけではない。
刃の届かない距離。
確かに風そのものが動いている。
エリリアは初めてレンたちへ背を向けた。
「リュネと一緒にいる理由は、あとで聞く」
「連れてきたんじゃない」
レンが言った。
「一緒に戻ってきた」
長い耳が僅かに動いた。
「……そう」
それだけだった。
信じ切ったわけではない。
だが、少なくとも今すぐ斬る相手ではないと判断したらしい。
広場の方から、さらに複数の足音が近づいてくる。
敵が増える。
エリリアも既に気づいていた。
「あなたたち、戦える?」
レンは自分の左腕を見た。
右脚。
それから、右肩を固定したアイリ。
「少しなら」
「少し?」
「長くは無理だ」
エリリアは一瞬だけこちらを見る。
「正直なのね」
「最近そうしろって言われてる」
アイリが横から頷いた。
「わたしが言ってる」
「……そう」
ほんの僅か、エリリアの口元が動いたように見えた。
すぐに消える。
「なら、子供たちの逃げ道を守って」
「お前は?」
「広場へ戻る」
「一人で?」
言った瞬間、アイリがレンを見る。
レンも気づいた。
少し前までなら、自分が同じことを言っていた。
もちろんエリリアは、そんな事情を知るはずもない。
「広場にはまだ仲間がいる」
「人数は多い」
「知ってる」
「弓もいる」
「知ってる」
「怪我してるだろ」
「それも知ってる」
返事があまりにも早く、レンは一瞬言葉を失った。
アイリが小さく呟く。
「……お兄ちゃんみたい」
「俺より話聞かないかもしれない」
「聞こえてる」
エリリアが淡々と言った。
二人とも黙る。
しかし、次に彼女が続けた言葉は、レンが想像したものとは少し違った。
「一人で全部倒すつもりはない」
レンが顔を上げる。
「広場の人たちを逃がす。そのために見張りを崩す」
「逃げ道は?」
「西の水路でしょう」
村の者なら、当然知っている道らしい。
「ああ。狭いけど、まだ使える」
「なら十分」
エリリアは細剣を構え直した。
「あなたたちは、そこを塞がせないで」
命令というより、役割を分ける言葉だった。
レンは頷く。
「分かった」
「アイリ?」
「わたしも」
遠くからリュネの声が飛んだ。
「エリリア!」
エリリアが振り返る。
「先に行って!」
子供たちを連れたリュネが叫ぶ。
「わたしたち、ちゃんと逃げる!」
一瞬。
エリリアの淡紫の瞳が揺れた。
「……分かった」
小さな声だった。
「必ず戻る」
そして銀髪のエルフは広場へ向き直る。
火の粉が風へ巻き込まれ、その周囲を大きく弧を描いて流れた。
新たに駆け込んできた男たちが足を止める。
「エリリア!」
「囲め!」
四人。
五人。
その後ろにも影がある。
レンは黒銀の剣を右手で握り直した。
自分たちが勝つ必要はない。
ここを守る。
子供たちが水路へ消えるまで、追手を通さない。
それだけでいい。
「お兄ちゃん」
「ああ」
「一人で出ない」
「同時に動く」
アイリは左手で短剣を抜いた。右肩は固定されたまま。
レンも前へ飛び出さない。
その少し先で、エリリアの銀髪が大きく舞った。
風が集まる。
燃え上がる炎とは逆らうように、灰と煙と落ち葉が細剣の周囲へ巻き込まれていく。
そして次の瞬間。
エリリアが踏み込んだ。
剣より先に、風が走った。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
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皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!




