第一章 第十六話 エルフの少女の言葉
森の奥から聞こえた低い鳴き声に、三人の間から眠気が消えた。
古い大木の空洞は、つい先ほどまで傷ついた身体を休めるための場所だった。幹の裂け目から入り込む夕暮れの光も既に薄く、外から見ればただの黒い亀裂にしか見えない。だが、その闇の向こうでは人間の声が少しずつ近づき、時折、鎖か金具の触れ合う小さな音に混じって犬の息遣いが聞こえていた。
「二頭……じゃない」
リュネは灰色の外套を胸元へ引き寄せながら、長い耳を入口へ向けた。
「たぶん三頭。もっといるかもしれない」
「距離は?」
レンは黒銀の剣を抜かず、右手だけを柄へ置いている。
「まだ少しある。でも、こっちに来てる」
その声は小さい。
だが震えていた。
リュネの若草色の上着は、熊を誘導するための黒い鉤を切り取ったせいで背中が大きく裂けている。今はまだ着ていたものの、切り取った場所の周囲には洗い切れなかった黒赤い汚れが僅かに残り、近づけば鉄と脂が混じったような臭いも薄く感じられた。
レンは入口の外を見た。
何も見えない。
だからこそ、無闇に動けない。
「犬がリュネを追ってるなら、ここに隠れてるだけじゃ見つかるかもしれない」
「でも外へ出たらもっと危ないよ」
アイリは右肩を固定したまま、薬袋の中を左手で探っていた。
「分かってる。だから……ちょっと待って」
「何探してる?」
「匂いの強いもの」
小瓶。
包帯。
軟膏。
乾燥させた薬草。
一つずつ確かめ、最後に指先ほどの布袋を取り出す。
「これ」
レンが見る。
「何だ?」
「虫除けに持ってきた苦い粉。セラが森へ行くなら入れておけって」
「犬に効くの?」
リュネが尋ねる。
「分からない」
アイリは即答した。
「犬を追い払うための物じゃないし。でも鼻先で吸ったら嫌がるかもしれない。少なくとも、何もないよりはましだと思う」
「匂いを消せる?」
「たぶん無理」
袋を開けて自分でも僅かに顔をしかめる。
乾いた香草と苦い樹皮を混ぜたような強い臭いが広がった。
「消すんじゃなくて、別の匂いを重ねるくらい。それに……」
アイリの視線がリュネの上着へ移る。
少女も気づいた。
「これ?」
「うん。その服、まだ少しあの鉤の匂いが残ってる」
リュネの顔が硬くなる。
数時間前、自分を熊へ追わせるために使われた臭い。
触れることすら嫌なのは当然だった。
「嫌なら使わない」
アイリはすぐ言った。
「別の方法を考える」
リュネは上着の裂けた背中へ手を伸ばした。
指が止まる。
それでも、ゆっくり脱ぎ始めた。
「使う」
「リュネ」
「この服のせいで熊が来たなら……今度は、こっちが使う」
強がっている。
それは分かった。
だが、決めたのはリュネ自身だった。
アイリはそれ以上止めず、自分が羽織っていた灰色の外套の残りを外した。右肩を固定している布は別に切り取ってあるため、肩の固定はそのままだ。
「じゃあ、これ着て」
「アイリは?」
「寒くなったら文句言う」
「貸していいの?」
「返してくれれば」
「……うん」
リュネは灰色の外套を受け取り、細い身体へ巻いた。
レンは若草色の上着を見る。
「それを外へ置いて、犬を別方向へ引く?」
「置くだけじゃ近過ぎる」
アイリが答える。
「少し離れたところへ持っていかないと」
「俺が行く」
「お兄ちゃん」
「待て。勝手には行かない」
先回りするように言ってから、レンは二人を見る。
「三人で決める」
アイリの表情が僅かに和らいだ。
「……それなら聞く」
「リュネは走れない。アイリも左脚がある。三人で外へ出たら音が増える。俺が一番近い窪みまで持っていって、できるだけ遠くへ投げる。それだけ」
「どこまで?」
「この木から見失わない距離……は暗いから無理だな。さっき来た道の途中に、根が剥き出しになった浅い窪みがあった。そこまで」
「その先へ行かない?」
「行かない」
「人を見つけても?」
「追わない」
「向こうに見つかったら?」
「戦わず戻る」
「犬が来たら?」
「上着を投げて戻る」
アイリは一つずつ確認する。
レンも一つずつ答えた。
最後にリュネが言った。
「絶対戻る?」
その問いだけは、少し違った。
レンは少女を見る。
「ああ」
「約束?」
「約束だ」
アイリは虫除けの粉を若草色の上着へ少量だけ振りかけた。全部使わない。もし計画が失敗した時のために、残りは手元へ置く。
「犬がこっちへ来るのを止められるとは思わないでね」
「ああ」
「時間を稼げたら成功」
「分かってる」
レンは上着を右手に持った。
黒銀の剣は腰。
歩くために使っていた枝は置いていく。森の中で引きずれば音になるからだ。
立ち上がった瞬間、右脚の噛み傷が鈍く脈打つ。
左前腕も熱を持っていた。
だが指の感覚が消えているわけではない。薬指と小指は相変わらず鈍く、握る力も弱い。それでも左腕を使わず、短い距離を慎重に進むだけなら可能だった。
「行ってくる」
「走らないで」
「走らない」
「本当に」
「犬より先に俺の脚が怒る」
アイリが笑いそうになり、すぐ真顔へ戻った。
「戻ってきて」
「分かった」
レンは大木の裂け目から外へ出た。
◇
森は、先ほどまでより遥かに暗く感じた。
一歩進むごとに足元を確かめる。
枯れ枝を踏まない。
濡れた落ち葉へ足を置き、太い根を跨ぐ時も右脚へ急に体重を掛けない。
背後の大木が見えなくなる。
それでも道は覚えている。
十歩。
二十歩。
犬の鳴き声が少し大きくなった。
レンは立ち止まった。
人間の声。
さっきより近い。
「……こっちは薄いな」
低い男の声。
「熊の死体のところで混ざり過ぎた。血臭が酷え」
「犬は?」
「拾ってる。黙って待て」
レンは太い幹へ身体を寄せた。
見つけに行ったわけではない。
向こうから近づいてきた。
ならば、約束通り戻るべきだ。
そう思った直後。
「ガロス」
別の男が呼んだ。
レンの足が止まる。
「少女は本当に生かしたままか?」
「ああ。殺すなと言われてる」
最初の男――ガロスらしい声が答える。
「村の道を知ってる。あの餓鬼に死なれると面倒だ」
「熊は?」
「あれで片づくと思ってたんだがな」
男が舌打ちする。
「死体があったってことは?」
「誰かがやった。足跡も一人分じゃねえ。人間が混じってる」
レンの右手が、腰の剣へ触れそうになる。
止めた。
抜かない。
戦わない。
戻る。
「じゃあ、もう誰かに拾われたか?」
「ならまとめて捕まえる」
「少女が死んでたら?」
一瞬の沈黙。
次の答えには迷いがなかった。
「残ってるもんだけでも持ち帰る。逃げればどうなるか、村の連中に見せられる」
レンの奥歯が噛み締められた。
怒るのはあとだ。
今は戻る。
彼は足音を立てずに後退した。
浅い窪みまであと数歩。
右手の若草色の上着を大きく振る余裕はない。低い枝を一本見つけ、そこへ布の端を引っ掛けるように投げる。完全には掛からず、一度地面へ落ちた。
「くそ……」
拾い直す。
右脚を曲げるだけでも傷が疼く。
二度目。
今度は上着が枝を越え、その向こうの窪みへ落ちた。
濡れた枯れ葉の上。
熊を追わせた臭い。
リュネ自身の匂い。
そして苦い虫除けの粉。
どれが犬にどう作用するのか、レンには分からない。
だが、もうできることはない。
戻る。
一歩。
二歩。
遠くで犬が一度吠えた。
別の犬が応える。
レンは振り返らなかった。
◇
「戻った」
小さく声を掛けて大木の裂け目へ滑り込むと、アイリが露骨に息を吐いた。
「遅い」
「近くにいた」
「見つかった?」
「見つかってない」
「約束破ってない?」
「向こうから声が聞こえた。追ってない」
レンは入口近くへ身体を落ち着けた。
呼吸が少し速い。
額にも汗が浮いている。
アイリが左手を伸ばし、額へ触れかけた。
「何だ?」
「ちょっと熱い」
「歩いたからだろ」
「かもしれない」
アイリはすぐ手を引いた。
「疲れてるせいかもしれないし、傷のせいかもしれない。今は分からない」
「あとで見る」
「絶対」
「ああ」
リュネはそんな兄妹のやり取りを見ていたが、すぐ入口へ耳を戻した。
「来る」
声が強張る。
「さっきより近い」
レンは息を整えながら囁いた。
「ガロスって男、知ってるか?」
リュネの身体が止まった。
「……何で?」
「外で名前を呼ばれてた」
「何て言ってた?」
レンは一瞬迷った。
全部を今伝えるべきか。
だが、隠す権利もない。
「リュネは生かして捕まえろって」
少女の指が灰色の外套を強く握る。
「村の道を知ってるから必要だって言ってた」
「……ガロス」
「知ってるんだな」
リュネが頷く。
「最初に村へ来た人」
「最初?」
「道を聞きたいって言った。怪我した仲間がいるって。子供にも優しかった」
緑色の瞳が揺れる。
「笑ってた」
その一言だけで十分だった。
「その夜に?」
アイリが尋ねる。
「……うん」
リュネはそれ以上言えなかった。
外で犬が吠えた。
三人とも黙る。
足音。
枝を踏む音。
低い男たちの声。
近い。
大木の外を、何者かが横切った。
レンは黒銀の剣の柄へ右手を置く。
抜かない。
まだ。
犬の荒い呼吸。
鼻で地面を探る音。
やがて。
「止まったぞ」
男の声。
「ここか?」
「待て。犬が迷ってる」
リュネの呼吸が浅くなる。
アイリは少女へ触れず、自分の左手を見える位置へ置いた。
握ってほしいとは言わない。
ただ、そこにいる。
大木の外から声がした。
「リュネ」
少女の肩が跳ねた。
さっきレンが聞いた声。
ガロス。
「いるんだろ?」
優しい声だった。
それが余計に恐ろしい。
「出てこい。怒ってない」
リュネは口元を両手で押さえた。
「誰も傷つけない。村へ戻るだけだ」
少女の目に涙が浮かぶ。
アイリがごく小さな声で尋ねる。
「同じ?」
リュネは頷いた。
「……最初も」
唇だけが動く。
「同じこと言った」
外でガロスが続ける。
「お前の仲間も待ってる。今出てくれば、余計なことはしない」
返事はない。
犬が入口の近くへ来た。
鼻を鳴らす。
一歩。
さらに一歩。
レンの右手へ力が入る。
その時。
アイリが小声で言った。
「もし入ってきたら、わたしが入口を――」
リュネが顔を上げた。
「駄目」
アイリの言葉が止まる。
「え?」
「さっき言った」
リュネの声は震えていた。
それでもはっきりしていた。
「三人で生きるって言った」
アイリが目を見開く。
「わたしもいる」
「リュネ……」
「アイリだけ入口にいたら、三人じゃない」
一瞬。
アイリが苦い顔をした。
「……お兄ちゃんみたいになってた」
「俺を引き合いに出すな」
「今は本当にそうだった」
「否定できないけど」
リュネは不安そうに二人を見る。
アイリはすぐ頷いた。
「ごめん。やめる」
「じゃあ、どうする?」
「三人で考える」
薬袋へ左手を入れ、先ほど残した虫除けの粉を確かめる。
「本当に入ってきたら、これを入口の方へ投げる。犬が嫌がるかもしれない」
「効かなかったら?」
「その時はレンが入口を塞ぐ――」
言いかけてアイリが止まった。
レンが眉を上げる。
「また俺一人?」
「……違う」
アイリは小さく息を吐く。
「粉で一瞬でも止まったら、三人で外へ出る。リュネが先に音の少ない方向を選ぶ。わたしがその後ろ。お兄ちゃんが最後」
「俺が最後なのは?」
「剣持ってるから」
「それなら納得する」
「勝手に残らない?」
「残らない」
リュネが念を押す。
「絶対?」
「絶対」
外から苛立った声がした。
「返事しねえな」
別の男が言う。
「中にいるなら燻せば出てくるだろ」
金属の音。
火打ち金。
リュネの顔から血の気が引いた。
レンが剣へ手を掛ける。
アイリは粉袋を握る。
カチ。
乾いた音。
もう一度。
カチ。
火花が散る微かな光が、幹の裂け目の向こうで瞬いた。
「リュネ」
ガロスの声が低くなる。
「最後だ。自分から出てこい」
犬が突然吠えた。
大木の前ではない。
森の奥。
一頭。
続いてもう一頭。
「何だ?」
「おい、引くな!」
鎖が鳴る。
犬の足音が遠ざかる。
「匂い拾った!」
「どっちだ!」
「向こうの窪み!」
外の空気が一気に動いた。
「ガロス!」
「待て! 全部行かせるな!」
だが犬は興奮しているらしく、鎖を引く音が激しく遠ざかっていく。
数秒後。
「……行くぞ」
ガロスの声が離れた。
「ここはあとで戻る」
足音。
犬。
金属音。
少しずつ。
少しずつ遠ざかる。
それでも三人は動かなかった。
リュネは耳を澄ませ続ける。
一分。
二分。
「……まだいる?」
アイリが囁く。
「遠くなってる」
「全員?」
「分からない」
「じゃあ、もう少し待つ」
さらに待った。
森が静けさを取り戻しても、すぐには安心しない。
ようやくリュネが小さく頷いた。
「近くには聞こえない」
レンは剣の柄から手を離した。
「成功……したのか?」
「今だけ」
アイリが言う。
「戻ってくるって言ってた」
「ああ」
リュネは膝を抱えた。
「ガロス……」
その名を口にしただけで、顔が歪む。
レンは少女の隣へ寄らない。
逃げ道を塞がない距離のまま尋ねた。
「これからどうしたい?」
「……分からない」
「じゃあ、分かるところだけ教えてくれ」
リュネが顔を上げる。
「何を?」
「俺たちが次にどこへ行けば生き残れるか。それを決めるのに必要なことだけでいい」
アイリも頷いた。
「全部話さなくていいよ」
リュネはしばらく黙っていた。
やがて、灰色の外套を握る手を少し緩めた。
「ミレアが……逃げろって言った」
「ミレア?」
「村の人。わたしの……」
言葉を探す。
「ずっと面倒見てくれた人」
母親なのか、姉のような存在なのか。
それ以上は聞かなかった。
「ガロスたちが来たのは昼だった」
リュネはゆっくり話し始める。
「道が分からないって。怪我した人がいるから、水がほしいって言った。最初に来たのはそんなに多くなかった」
「村に入れた」
「うん」
「夜に何か変わった?」
リュネの耳が伏せられる。
「人が増えた」
声が小さくなる。
「森の外から、いっぱい来た。最初にいた人たちが門を開けて……武器を持ってた人を先に囲んだ」
アイリは何も挟まない。
「家から出るなって言われた。逆らった人は殴られた。火も……」
リュネの呼吸が乱れそうになる。
レンが静かに言った。
「そこで止めてもいい」
「……まだ言える」
少女は首を横へ振る。
「何人かは逃げたと思う。でも捕まった人もたくさんいる。手を縛られてた。子供も、一つの家に集められてた」
「リュネは?」
「ミレアが縄を切ってくれた」
両手首の痣へ視線が落ちる。
「西側の柵の下に、昔の水抜き穴があるから、そこから行けって。森を抜けて、人を呼べって」
「それで一人で逃げた」
「うん」
「途中で鉤を撃たれた」
「たぶん」
「熊が来た」
リュネは頷いた。
それから急に、顔を伏せた。
「でも、わたしだけ逃げた」
誰も答えない。
「ミレアは残った」
声が掠れる。
「みんなも」
「リュネ」
「もしミレアが死んでたら……わたしが逃げたから」
「違う」
アイリが反射的に言う。
だがリュネは首を振った。
「違わない」
「リュネが残ってたら――」
「死んでたかもしれないって言うんでしょ?」
アイリの言葉が止まる。
「それでも嫌なの」
リュネの目から涙が落ちた。
「生きてればいいって言われても、嫌なの。逃げて、わたしだけここにいて、ミレアが死んだら……そんなの、よくない」
レンはその言葉を聞いていた。
十年前。
炎。
母の背中。
アイリの手。
逃げろと言われた。
逃げた。
生き残った。
正しかったのかと、何度考えても答えは出なかった。
「分かる」
レンが言った。
リュネが顔を上げる。
「何が?」
「俺も逃げた」
アイリが兄を見る。
「故郷が燃えた時、母さんに逃げろって言われた」
喉の奥が少しだけ重くなる。
「俺はアイリを連れて逃げた。戻らなかった」
「……お母さんは?」
「死んだ」
リュネの瞳が揺れる。
「戻ってたら、助けられた?」
「たぶん無理だった」
「じゃあ……逃げてよかった?」
レンはすぐには答えなかった。
「頭では、そう思う」
「頭では?」
「戻ってたら俺もアイリも死んでたかもしれない。それは分かってる」
右手を軽く握る。
「でも、今でも思う時がある。あの時もう少し強かったらとか。別の道があったんじゃないかとか。母さんを置いて逃げたって」
「じゃあ、どうすればいいの?」
リュネの声は、泣いている子供のものだった。
レンは少女を見た。
「後悔したまま、次にできることをする」
「……後悔したまま?」
「ああ」
「なくならないの?」
「俺はまだなくなってない」
正しい答えではないかもしれない。
救いにもなっていない。
でも、嘘を言うよりはよかった。
「だから、リュネが逃げたことを今すぐ良かったと思えなくてもいい。でも、逃げたから今ここにいる。ここにいるなら、次にできることがある」
リュネは涙を拭った。
「村を助けられる?」
「分からない」
レンは言った。
「でも、何が起きてるのか確かめることはできる」
「お兄ちゃん」
アイリが低い声で呼ぶ。
「突っ込むとは言ってない」
「確認」
「まず見る。人数。捕まってる人の場所。見張り。逃げ道」
「見つかったら?」
「戻る」
「勝てそうでも?」
「今は戻る」
「……本当に成長してる」
「毎回それ言うな」
リュネが二人を見る。
「でも……急がないと」
「何かあるの?」
アイリが尋ねる。
「明日の朝」
リュネの顔が再び硬くなる。
「捕まえた人を運ぶって言ってた」
「どこへ?」
「分からない」
「何で聞いた?」
「閉じ込められてた時。外で話してた。朝になったら荷車を出すって」
レンとアイリが視線を交わした。
時間がない。
けれど今すぐ正面から村へ入れば、三人とも捕まる可能性が高い。
「村へ行く道は?」
レンが尋ねる。
リュネはしばらく黙った。
以前なら、道を教えることそのものを拒んだ。
今も怖いはずだった。
だが。
「知ってる」
「案内してほしい。でも――」
「行く」
リュネが言った。
「無理にとは――」
「わたしが行く」
今度ははっきりしていた。
「ミレアがいるか確かめたい」
レンはそれ以上止めなかった。
「分かった」
「でも、戦うのは最後」
アイリが付け足す。
「まず見る。助けられる方法を探す」
「うん」
「村に戦える人は残ってる?」
リュネは少し考えた。
「……エリリアが戻ってたら」
初めて聞く名前だった。
「エリリア?」
「村で一番強い人」
「男?」
「女の人」
「どんな人?」
「銀色の髪。剣を使う」
リュネの声に、初めて明確な信頼が混じった。
「みんな、エリリアがいると安心する」
「襲われた時は?」
「村にいなかった」
「どこへ?」
「分からない。森の外へ出てた」
リュネは外の闇を見る。
「でも、戻ってたら……」
希望を口にするのが怖いのか、そこで止まった。
レンは立ち上がろうとして、右脚の痛みに一度だけ眉を寄せた。
アイリが見る。
「大丈夫?」
「動ける。ただ、さっきより痛い」
「包帯見る?」
「ここを離れてから。戻ってくるって言ってた」
アイリも反論しなかった。
レンは黒銀の剣が腰の右寄りに安定していることだけを確認する。剣帯は先ほどリュネが直したまま、緩んでいない。
「行こう」
◇
大木を出る前に、リュネは何度も耳を澄ませた。
「近くには聞こえない」
「犬は?」
「遠い。まだ上着の方かも」
「絶対じゃない?」
「うん」
「それでいい」
レンが答える。
三人は外へ出た。
枝を杖にする。
レンは右手。
アイリは左手。
リュネも自分の枝を使う。
灰色の外套に包まれた少女が先頭へ立った。
「村まで普通に歩いたら?」
「今のわたしたちなら……かなりかかる」
「近道は?」
「ある。でも人が使う道じゃない」
「そっちで」
「犬も来られる」
「追えない道じゃなくていい。見つかりにくい方がいい」
リュネは頷いた。
森の奥へ入る。
最初は獣道すら見えない。
だがリュネは木の根や岩の形を確かめながら進んだ。時折立ち止まり、耳を澄ませ、遠くの犬や人間の声がどこにあるかを確認する。
右。
遠い。
後ろ。
少し近い。
そのたびに進路を僅かに変えた。
しばらく歩くと、水音が聞こえた。
「川?」
アイリが尋ねる。
「小さい流れ」
リュネが答えた。
「昔、見回りの人が使ってた道が水の横にある」
木々の間から細い浅瀬が見えた。
幅は広くない。
流れも強くない。
ただし三人とも脚を傷めている。
「水の中歩く?」
レンが尋ねた。
「ずっとは歩かない」
リュネは首を横へ振った。
「水の横に石がいっぱいある。そこなら足跡が少ない」
「犬は?」
「匂いは残ると思う」
リュネは迷いながら言った。
「でも、土の道みたいにはまっすぐ追えない。どこで水を渡ったか、どこで石から降りたか探すから……少し遅くなるかも」
「十分だ」
レンは答えた。
魔法のように匂いが消えるわけではない。
それでも数分。
十数分。
その遅れが必要になるかもしれない。
三人は浅瀬を横切る。
なるべく広く平らな石を選び、水へ足を入れるのは最小限にした。レンの右の靴底が一度だけ浅い流れへ沈み、冷たさが革越しに伝わったが、傷を巻いた部分まで完全に水へ浸かるほどではない。
対岸へ出ず、そのまま上流側へ。
水際に露出した岩を渡る。
アイリが一度足を滑らせた。
「っ」
レンが反射的に手を出そうとする。
左ではない。
右手。
だが先にリュネが声を上げた。
「そこ、滑る!」
アイリは近くの枝を掴み、どうにか踏みとどまった。
「大丈夫?」
「うん。肩もぶつけてない」
「脚は?」
「痛いけど変わってない」
「よし」
「お兄ちゃん、今自分の脚忘れてたでしょ」
「忘れてない」
「絶対忘れてた」
そのやり取りへ、リュネが小さく息を漏らした。
笑ったのかもしれない。
だがすぐ、耳が前へ向いた。
「待って」
三人が止まる。
「何か聞こえる?」
レンが尋ねる。
「まだ分からない」
リュネは目を閉じた。
風。
流れ。
遠くの鳥。
その向こう。
「……人は、今は近くない」
三人は再び歩き始めた。
◇
森を抜けるほどには進んでいない。
それなのに、途中から空の色がおかしくなった。
夜へ沈むはずの木々の隙間に、赤い光が滲んでいる。
「……何だ?」
レンが足を止める。
夕焼けではない。
太陽はもう低く、赤みの方向も違う。
リュネが前を見た。
身体が固まる。
「村……」
アイリが息を呑んだ。
木々の向こう。
最初は一つの灯りに見えた。
だが違う。
赤い光が横へ広がっている。
一軒ではない。
何本もの黒い煙が森の上へ昇り、暗くなり始めた空を汚していた。
焦げた匂いが風に乗ってくる。
木。
布。
何かが燃える匂い。
レンの身体が、一瞬だけ十年前へ引き戻された。
エイレン。
炎。
崩れる家。
煙の向こうに立つ母。
黒い剣。
赤い髪。
右手が無意識に剣の柄へ強く掛かる。
「お兄ちゃん」
アイリの声。
レンは目を閉じた。
一度だけ。
開く。
「大丈夫」
「本当に?」
「昔を思い出しただけだ」
「……わたしも」
二人ともそれ以上言わなかった。
「リュネ」
少女は返事をしない。
燃える方角を見ている。
「リュネ」
もう一度呼ぶ。
「……あそこ」
声が震える。
「わたしの村」
赤い光が、少女の緑色の瞳へ映っていた。
「ミレア……」
走り出そうとした右足が前へ出る。
左足もつこうとして、固定された足首へ痛みが走った。
「っ!」
身体が傾く。
レンは触れる前に声を出した。
「リュネ、待て!」
「でも!」
「分かってる!」
レン自身も急ぎたい。
目の前の炎が、理性を焼く。
だが。
「今走ったら村に着く前に動けなくなる」
「でも燃えてる!」
「ああ!」
「だったら――」
「だから行く!」
レンは少女を見る。
「でも三人で行く」
リュネの唇が震える。
アイリも隣へ並んだ。
「最初から、一人を捨てる形にしない」
さっき自分で言った言葉だった。
今度はリュネが頷く番だった。
「……うん」
その時。
長い耳が動いた。
「待って」
リュネが顔を上げる。
「何?」
「音」
赤い光の向こうへ耳を向ける。
遠い。
炎が木を爆ぜさせる音。
人の叫びらしきもの。
それに混じって。
甲高い金属音。
一度。
間を置いて、もう一度。
剣と剣がぶつかったような音。
「まだ、誰か戦ってる」
リュネの顔が上がった。
涙で濡れていた瞳に、ほんの僅かに別の光が戻る。
「誰か分かる?」
アイリが尋ねる。
リュネは首を横へ振った。
「分からない」
そして。
もう一度、遠くの金属音を聞いた。
少女は燃える村を見つめたまま、小さく名前を呼ぶ。
「……エリリア」
祈るような声だった。
「きっと、まだ戦ってる」
炎の向こうで。
誰かがまだ、村を諦めていなかった。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!




