第一章 第十五話 牙を断つ剣
黒銀の剣は深く入っていた。
それでも、熊はまだ立っていた。
右後脚は倒木に挟まれた影響でまともに体重を支えられず、左肩には古い矢が深く残っている。そのうえ前脚の後ろ、胸郭の下寄りへ黒銀の剣が斜めに突き刺さり、黒褐色の毛を伝って血が地面へ落ちていた。それだけ傷ついてなお、巨大な右前脚が湿った土を掻くたび、レンの身体は本能的に距離を取ろうとする。
武器は熊の身体に刺さったまま。
レンはアイリの前へ立ち、足元で拾った太い枝を右手に握っていた。剣の代わりになるとは思っていない。鼻先へ突き出して一瞬でも距離を作れればいい、その程度のものだ。
背後でアイリが身体を起こす気配がした。
「立つな。まだいい」
「でも剣が――」
「今は剣より自分」
自分で口にしてから、レンはほんの僅かに顔をしかめた。
少し前までなら、真っ先に剣を取り戻そうとしていたのは自分だっただろう。
アイリもそれに気づいたらしい。
「……ちゃんと覚えてる」
「今それ言うな」
熊が低く唸った。
二人の会話はそこで途切れた。
「右、動く!」
リュネの声が飛ぶ。
レンは考えるより先に身体を左へずらした。
直後、熊の右前脚が地面を薙ぐ。爪そのものは届かなかったが、掻き飛ばされた土と小石が脚へ当たった。
「今の分かったのか?」
「右の爪が土を擦った!」
「次も頼む!」
「全部は無理!」
「分かる時だけでいい!」
レンは熊を見た。
巨体は明らかに不安定だった。
右後脚を地面へつくたび腰が沈み、左前脚へ重心を移そうとすると肩が震える。胸へ刺さった剣の柄も、呼吸に合わせて小さく上下していた。
ただし、それを「もう勝てる」という意味に受け取るほど、レンは楽観していなかった。
弱っている。
それだけだ。
爪も牙も、まだ人間を殺すには十分過ぎる。
「レン」
アイリの声が低くなる。
「剣、取れると思う?」
「今は無理だ」
即答した。
「正面から近づいたら右前脚が来る。柄を掴んでも、身体ごと動かされたら俺の腕じゃ支えられない」
「左は?」
「論外」
包帯に覆われた左前腕は、立っているだけでも鈍く熱を持っている。薬指と小指の感覚もまだ頼りない。こんな腕を黒銀の剣へ添えたところで、助けになるどころか次の怪我を増やすだけだ。
「じゃあ、熊が自分から動いた時は?」
アイリが尋ねた。
レンは熊を見る。
「……どういう意味だ?」
「剣を引っ張るんじゃなくて、熊が剣から離れる瞬間に取れない?」
レンは答えず、刺さった刀身の角度を見た。
アイリが根へ柄を固定し、熊自身が前進したことで入った剣だ。刃は前脚の後ろから斜めに入っている。無理に横へ捻れば抜けないどころか、こちらの手首が持っていかれる。
だが。
熊が後ろへ退くか、身体を反対へ捻った瞬間。
入った軌道に沿って動かせるなら。
「できるかもしれない」
「かもしれない?」
「やってみないと分からない」
「それでいい」
熊がまた鼻を鳴らした。
倒れた枯れ木の枝に残る黒い鉤の匂いを探しているのか、それとも目の前の人間たちへ反応しているのか、もうはっきりとは分からなかった。傷と疲労のせいか、さっきまでのように一直線に布片へ向かうこともない。
リュネの耳がぴくりと動く。
「頭、下がる」
「どっち?」
「……レンの方」
熊の鼻先が下がった。
右前脚が一歩出る。
レンは枝を低く構えながら後退した。
「アイリ。石、まだ投げられるか?」
「左なら」
「熊の右後ろ。遠くへ」
「分かった」
アイリはしゃがんだまま、左手で地面から小石を拾った。
「リュネ。音がしたら、熊の頭がどっちへ向いたか教えて」
「うん」
「俺は剣の左側へ回る」
「一人で?」
「剣を取るのは俺しかできない。でも、勝手にはやらない」
アイリは一瞬だけ黙り、それから頷いた。
「分かった。わたしたちも見る」
レンは右脚を確かめるように一度だけ踏み込んだ。
痛みはある。
だが、動けないほどではない。
「いくよ」
アイリが石を投げる。
乾いた音が、熊の右後方にある岩へ当たった。
熊の頭が動く。
「右向いた!」
リュネ。
レンはすぐ熊の左側へ回った。
二歩。
三歩。
黒銀の剣の柄が見える。
まだ遠い。
熊が音のした方へ身体を捻った。
右後脚が十分に支えられず、腰が大きく沈む。
刺さっている剣の角度が変わった。
「レン、今!」
アイリの声。
レンは右手を伸ばした。
柄を掴む。
熊の身体から伝わる振動が、そのまま掌へ来た。
引かない。
まだ。
熊がもう一度身体を右へ捻る。
剣の刺さった側が僅かに後ろへ引かれた。
その瞬間。
レンは腕力で抜こうとせず、刀身の角度を崩さないまま、自分の身体ごと一歩後ろへ退いた。
ぬるりと重い抵抗。
途中で止まりかける。
「頭戻る!」
リュネが叫んだ。
「もう少し!」
レンは右手首を捻らない。
ただ真っ直ぐ。
熊が反対側へ身体を戻そうとする。
その動きに合わせる。
刃が抜けた。
血が地面へ飛ぶ。
「取った!」
アイリの声と同時に、熊の頭がレンへ向いた。
レンはすぐ離れた。
黒銀の剣を右手だけで構え直す。
軽い。
――はずがない。
いつもと同じ重さだ。
それでも、武器が手へ戻っただけで呼吸が一つ深くなる。
熊は胸元から血を流しながら、なおも前へ出た。
「来る!」
リュネが叫ぶ。
レンは斬り込まない。
右へ回る。
熊も頭を向ける。
右後脚が遅れる。
左前脚へ体重を移そうとして、身体が沈む。
そのたび、リュネの声が先に飛んだ。
「右!」
「頭下がる!」
「左、今ついた!」
全部が正確なわけではない。
一度はレンが予想した方向と違い、熊の頭が急に逆へ振られた。
「分からない!」
リュネ自身が叫ぶ。
「いい!」
レンは剣を振らずに下がった。
「分からない時は言わなくていい!」
「うん!」
完璧な指示など必要なかった。
ほんの一瞬早く分かるだけでいい。
その一瞬が、今のレンには大きかった。
◇
熊が突然、前へ出た。
これまでより短い距離。
だが速い。
「レン!」
アイリの声。
レンは左へ逃がす。
熊の右前脚が横薙ぎに振られた。
受けない。
黒銀の刃を爪の外側へ添え、軌道だけを変えながら身体を引く。
爪が地面へ落ちる。
熊の頭が追ってくる。
牙。
近い。
レンは半歩後ろへ。
右脚が疼く。
それでも間に合った。
熊の口が空を噛む。
噛み合った牙が鈍い音を立てた。
その瞬間、レンの目が一番長い上顎の牙へ吸い寄せられる。
黄色く太い牙。
それが人間の腕や首へ入ればどうなるか、想像する必要もない。
熊がもう一度頭を振った。
レンは剣を水平にはしなかった。
噛ませるつもりもない。
口の正面へ残れば、腕ごと持っていかれる。
身体を熊の右外側へ逃がしながら、黒銀の剣を斜め下から返した。
狙ったのは喉ではない。
開いた口の横。
迫ってきた牙の根元。
硬い衝撃が右手へ返る。
刃が骨を完全に断った感触とは違った。
次の瞬間。
白いものが地面へ跳ねた。
「グァアアッ!」
熊が頭を激しく振る。
血が口元から飛ぶ。
地面に転がったのは、太い牙だった。
「牙……!」
リュネが息を呑む。
レン自身も一瞬だけ見た。
折れた。
だが喜ぶ余裕はなかった。
熊は痛みに頭を振りながら、むしろ前へ出ようとしている。
「レン、右!」
リュネの叫び。
熊の右前脚。
レンは下がる。
今度は間に合わない。
爪の先が上着の脇を掠める。
皮膚へ熱が走った。
「っ……!」
深くはない。
確認している暇もない。
熊がさらに一歩踏み込む。
右後脚が崩れた。
巨体が傾く。
左前脚を出して支えようとする。
肩の古傷がその動きを拒むように震え、身体がさらに前へ落ちた。
「頭下がる!」
リュネ。
熊の喉元が、一瞬だけレンの視界へ入った。
今までずっと、真正面から狙うことを避けてきた場所。
今なら。
熊自身が前へ崩れてくる。
レンは踏み込んだ。
左手は使わない。
右手だけで黒銀の剣を突き出す。
狙うのは正面から硬い骨を貫くことではない。顎の下、首の横へできた柔らかい隙間。
黒い刃が入った。
熊の巨体は止まらない。
レンは押し返さなかった。柄を右手で支えたまま、自分の身体を右へ抜く。倒れ込んでくる巨体へ逆らわず、刃が入った角度だけを崩さない。
熊自身の前進に押されるように、刀身がさらに深く沈んだ。
十分に入ったと感じた瞬間、レンは柄から手を放した。
「グォ――ッ!」
咆哮が途中で崩れた。
巨大な身体がレンの横を通り過ぎる。
一歩。
二歩。
右後脚が完全に崩れた。
前脚も地面を捉え切れない。
熊は数歩先で肩から倒れ込んだ。
地面が震えた。
黒銀の剣は首元へ刺さったまま。
熊の右前脚が一度大きく動く。
土を掻く。
もう一度。
それから、ゆっくり力が抜けていった。
「……レン」
アイリが名前を呼ぶ。
「まだ近づくな」
レンは荒い息のまま答えた。
熊を見る。
胸が動いているのか。
呼吸しているのか。
土煙と毛で分からない。
「リュネ」
「……うん」
「聞こえるか?」
少女は答えず、長い耳を熊へ向けた。
一歩も近づかない。
ただ静かに聞く。
数秒。
さらに数秒。
「息……」
リュネが眉を寄せる。
「すごく弱い」
レンは近づかないまま待った。
熊の前脚が僅かに痙攣する。
やがて、それも止まった。
森の音が戻ってくる。
遠くの鳥。
風。
折れた枝から落ちる水滴。
さっきまであれほど大きかった熊の呼吸だけが、聞こえない。
リュネがもう一度耳を澄ませた。
「……もう、聞こえない」
誰もすぐには動かなかった。
勝った。
そんな言葉を口にする気にはなれなかった。
レンは地面へ手をつき、そのまま片膝を落とした。
「お兄ちゃん!」
「急に力抜けただけだ」
「そこ動かないで!」
「分かった」
「本当に?」
「今度は本当に分かった」
アイリが近づいてくる。
走らない。
右肩を固定したまま、左脚を庇い、一歩ずつ。
リュネも枝を杖にして後ろから続いた。
レンはそれを見て、小さく息を吐いた。
「三人とも、ひどい歩き方だな」
「お兄ちゃんが一番ひどい」
「わたしじゃない?」
リュネが尋ねる。
「リュネは競わなくていいよ」
アイリが即答した。
それを聞いて。
リュネが、ほんの少し笑った。
◇
熊が動かないことを十分に確かめてから、レンは黒銀の剣を回収した。
首元へ入った刀身は簡単には抜けず、右手だけで無理に捻れば手首を痛める。レンは熊の身体を動かそうとはせず、柄の角度を少しずつ変えながら、入った方向へ沿わせるようにゆっくり引いた。
刃が抜ける。
濃い血が付着している。
レンは少し離れたところまで戻り、草と残っていた水を最低限だけ使って刀身を拭った。
その途中、地面に落ちた白いものが目へ入る。
熊の牙。
先ほど黒銀の剣とぶつかった際に折れた一本だ。
レンはしばらくそれを見つめた。
「持っていくの?」
アイリが尋ねる。
「……分からない」
「記念?」
「そんな感じじゃない」
熊を振り返る。
左肩には古い矢。
首や前脚には、人の手が関わったのではないかと思わせる傷。
リュネの上着には、血と獣脂らしきものを塗った黒い鉤。
この獣が最初から人間を追っていたのか。
それとも誰かに傷つけられ、何かを覚え込まされ、あの匂いを追うよう仕向けられたのか。
分からない。
「俺たちが殺したのは事実だ」
レンは静かに言った。
「でも、こいつがどうしてここまで来たのかは、まだ何も分かってない」
アイリも熊を見る。
「……うん」
「だから持っていく」
レンは折れた牙を布へ包んだ。
「忘れないために?」
「たぶん」
それ以上、理由を言葉にはしなかった。
◇
「座って」
アイリが言った。
「もう座ってる」
「ちゃんと座って」
「ちゃんとの定義は?」
「薬袋を取ろうとして逃げない姿勢」
「逃げない」
「さっきまで熊と戦ってた人の『逃げない』は信用低い」
レンは反論を諦めた。
倒木から十分離れた場所にある太い根へ背を預ける。
アイリは右肩を動かさないよう身体を横へ向け、左手だけで薬袋を開いた。
「リュネ。お願いしてもいい?」
少女の耳が立つ。
「何?」
「その布、取ってくれる? 一番上の白いやつ」
「これ?」
「うん。あと水筒」
リュネは素直に動いた。
数時間前なら、薬袋そのものへ触れることすら警戒していた。
今はアイリの隣へ座り、言われた物を一つずつ渡している。
「まず左腕」
「脚じゃなくて?」
「腕。包帯に血が滲んでるから」
「少しだけだ」
「見てから決める」
アイリは包帯を解く。
リュネが横から覗き込み、すぐ顔をしかめた。
「……ひどい」
「狼に噛まれた」
「昨日?」
「ああ」
「これで熊と戦ったの?」
「この腕は使ってない」
「そういう問題じゃないと思う」
アイリが真顔で頷いた。
「わたしもそう思う」
「二対一は卑怯だろ」
「怪我人に多数決の権利はないよ」
「それはおかしい」
包帯が外れる。
深い噛み傷の周囲はまだ赤く腫れ、激しく動いたせいで一部から少量の血が滲み直している。ただ、傷口全体が大きく裂けたわけではない。
アイリは安堵を隠すように息を吐いた。
「昨日より急に悪くなった感じはしない。でも、腫れてる」
傷の周囲へ触れ過ぎないようにしながら、左手の指先へ目を移す。
「動かせる?」
レンは指を曲げた。
親指。
人差し指。
中指。
薬指は遅い。
小指も十分には曲がらない。
「ここは?」
アイリが小指の先へ軽く触れる。
「分かる」
「こっちは?」
「……少し鈍い」
アイリの眉が寄る。
「何で?」
リュネが尋ねた。
「分からない」
アイリは迷わず答えた。
「傷が深いからかもしれないし、腫れてるからかもしれない。でも、わたしにはちゃんとは分からない」
「治せない?」
「ここでわたしができるのは、綺麗にして、包帯を替えて、なるべく動かさないようにするくらい。ちゃんと診てもらった方がいい」
レンが自分の左手を見る。
「王都まで持つか?」
「それも分からない」
アイリは兄を見る。
「だから無茶を減らす」
「善処する」
「約束」
「……無茶を減らす」
「よし」
リュネが小さく首を傾げた。
「この人、約束って言われないと聞かないの?」
「最近ちょっと改善中」
「おい」
アイリは残っている水で傷の汚れを落とし、清潔な布を当てた。リュネには布端を押さえてもらい、片手でも巻きやすいよう協力してもらう。
「もう少しこっち」
「ここ?」
「うん。強く引かなくて大丈夫」
「これくらい?」
「ちょうどいい」
巻き終える。
次に右脚。
こちらも昨日の噛み傷そのものは残っている。激しい移動のせいで包帯に新しい薄い染みができていたが、靴の中へ血が溜まるような状態ではない。
「こっちも替える」
「水、足りるか?」
「全部は使わない。汚れてるところだけ」
アイリは必要な範囲だけを洗い、布を巻き直した。
そのあと自分の左脹脛。
最後に、固定している右肩の布が緩んでいないかを左手で確かめる。
「肩、どう?」
レンが尋ねる。
「動かすとまだ痛い」
「悪化した?」
「さっき転がったけど、右側はぶつけてない。だから……たぶん大きくは変わってないと思う」
「分からない?」
「うん」
それでいい。
分からないことを分からないと言える方が、今のレンには安心できた。
リュネは二人を見ながら、自分の固定された左足首へ目を落とした。
「わたしのも……見る?」
「痛み増えた?」
「少し。でも走ってない」
「じゃあ布が緩んでないかだけ見よう。腫れが急にひどくなってたら教えて」
リュネは素直に足を差し出した。
数時間前の彼女なら、同じことを言われても絶対に許さなかっただろう。
◇
休んでいる間に、レンは熊の左肩へ残っていた古い矢が気になった。
「……あれ、見ておきたい」
アイリがすぐ睨む。
「また動くの?」
「熊はもう動かない。矢だけだ」
「何で?」
「リュネの鉤と関係あるかもしれない」
その言葉に、リュネの表情が変わった。
「矢……」
「心当たりある?」
「分からない。見たい」
レンは立ち上がる。
今度は急がない。
太い枝を右手に持ち、歩くための支えにする。黒銀の剣は一度鞘へ戻している。
熊の左肩。
折れた矢の軸は古く、途中から砕けている。
レンは腰の小さな旅用ナイフを右手で抜いた。
「何するの?」
リュネが尋ねる。
「傷を少しだけ広げる。先が残ってるなら見たい」
「剣じゃなくて?」
「あれでやるには大き過ぎる」
古い傷口の周囲は既に長く傷んでいたらしく、毛も固まっている。レンは必要以上に肉へ刃を入れず、矢軸の周囲に絡んだ固い組織だけを少しずつ切り離した。
やがて。
金属が見えた。
「取れる」
布越しに軸を掴み、ゆっくり引く。
錆びた鉄の矢尻が出てきた。
通常の狩猟用より幅が広い。
そして側面。
「……印?」
アイリが覗き込む。
泥と黒ずみを布で拭う。
三本の湾曲した線。
互いに絡み合うように描かれ、その中央を短い刃の形が貫いている。
見覚えはない。
少なくともレンには。
「リュネ?」
少女から返事がなかった。
振り返る。
リュネの顔から血の気が消えている。
「知ってるのか?」
「それ……」
声が震えた。
「同じだった」
「何と?」
「村に来た人たち」
レンとアイリの表情が変わった。
リュネは矢尻を見たまま、両腕で自分の身体を抱く。
「あの人たちが持ってた物に……その印があった」
「武器?」
「うん……たぶん。袋にもあった。全部じゃないけど」
「村に来たって、最初から襲ってきたの?」
アイリが静かに尋ねる。
リュネは首を横へ振った。
「違う」
言葉が少しずつ出る。
「最初は……森を通りたいって言った。怪我した人がいるから、水が欲しいって」
「それで村へ?」
「大人たちが入れた」
「そのあと?」
リュネの指が服を握る。
「夜になって……」
声が途切れた。
アイリは続けさせなかった。
「今はいいよ」
「でも……」
「無理に全部言わなくていい」
リュネは唇を噛んだ。
それでも。
「手を縛られた」
小さく言った。
「みんなじゃない。逃げた人もいると思う。でも……火が出て、家が燃えて……」
あの手首の痣。
人間を見ただけで石を向けた理由。
森の中で一人、泣きながら隠れていた理由。
少しずつ繋がっていく。
「リュネは逃げたんだな」
レンが言う。
少女は頷いた。
「途中で、後ろから何か当たって……たぶん、あの鉤」
「それで熊が追ってきた」
「……うん」
「村には、まだその人たちがいる?」
リュネの顔が強張る。
「分からない」
「分からないでいい」
レンは矢尻を布へ包んだ。
「でも、この印は覚えておく」
「追いかけるの?」
リュネが不安そうに尋ねる。
「今すぐは無理だ」
レンは自分たち三人を見た。
片腕がまともに使えず、脚を噛まれた自分。
右肩を固定し、左脚にも傷を持つアイリ。
左足首を傷めたリュネ。
「この状態で追えば、次は本当に全員倒れる」
アイリが僅かに笑った。
「ちゃんと分かってる」
「だから今それ言うな」
◇
日が傾き始めていた。
熊との戦いだけで、どれほど時間を失ったのか分からない。
この場所で夜を迎えるのは危険だった。血の匂いが強過ぎる。熊の死体もある。別の獣を呼ぶ可能性もある。
「近くに隠れられるところある?」
アイリがリュネへ尋ねた。
リュネは少し考え、耳を森へ向けた。
「ここから……そんなに遠くないところに、大きな古い木がある」
「木?」
「中が空いてる。昔、森を見回る人たちが休む場所にしてた」
「人間?」
「知らない。ずっと昔」
「歩ける距離?」
「ゆっくりなら」
レンは頷いた。
「そこへ行こう」
立ち上がる前に、レンは黒銀の剣を腰へ戻した。鞘へ収めるところまでは右手だけでもできたが、戦いの間に剣帯そのものが大きくずれていた。右寄りに調整していたはずの位置も崩れ、留め具の一つが緩んでいる。
レンが右手だけで直そうとしていると、リュネがじっと見ていた。
「……何だ?」
「できてない」
「できる」
「さっきから同じところ三回やってる」
「もう少しで――」
「貸して」
小さな手が伸びる。
レンは一瞬だけ黙った。
「嫌ならいい」
「嫌じゃない」
剣帯の端をリュネへ渡す。
少女は仕組みを確認しながら、腰の位置で革紐を通した。
「ここ?」
「もう少し右」
「こう?」
「ああ」
「アイリが昨日やったの?」
「今朝だよ」
アイリが横から訂正する。
「お兄ちゃん、怪我してるのに無理して左へ寄せるから」
「重量の癖があるんだ」
「今はその癖を直す時」
「二人に増えた……」
リュネは最後の留め具を締めた。
「これで落ちない?」
レンが腰を少し動かす。
黒銀の剣は右寄りの位置で安定している。
「大丈夫だ。ありがとう」
リュネは目を逸らした。
「……別に」
「そこまで似なくていいよ」
アイリが笑った。
「誰に?」
「お兄ちゃん」
「俺はそんな言い方しない」
「する」
「すると思う」
「リュネまで?」
三人の間に、ほんの短い笑いが落ちた。
熊との戦いが終わってから、初めてだった。
歩くための枝を一本ずつ選ぶ。
レンは右手。
アイリは左手。
リュネはこれまで使っていた枝。
三人とも、まともな旅人には見えなかった。
それでも歩き始めた。
◇
古い大木へ着いた頃には、森の光がかなり薄くなっていた。
幹は大人が数人並んでも抱え切れないほど太く、地面近くに縦長の裂け目がある。その奥は自然に朽ちて空洞となり、三人が身体を寄せればどうにか入れるだけの空間が残っていた。
中には古い枯れ葉。
朽ちた木片。
ずっと昔に誰かが置いたらしい平たい石。
雨風を完全に防げるわけではないが、外で夜を越すよりははるかにましだった。
「ここ」
リュネが言う。
「昔はもっと綺麗だった」
「来たことあるの?」
「小さい時に一回」
「今も小さいだろ」
レンが言うと、リュネが睨んだ。
「人間より長く生きるから」
「何歳?」
「言わない」
「聞かない方がよかったか?」
「一回しか言わないもの増やす」
「名前と年齢?」
「年齢は一回も言わない」
アイリが吹き出した。
そのまま肩が揺れ、右肩の痛みで顔をしかめる。
「笑って痛めるなよ」
「お兄ちゃんのせい」
「俺?」
三人は空洞の奥へ座った。
レンは入口に近い側。
アイリはその隣。
リュネは少し距離を残して座る。
数時間前より近い。
それでも、ぴったり隣ではない。
それくらいが今はちょうどよかった。
少しの干し肉と残った硬いパンを分ける。
リュネは最初遠慮したが、腹が鳴って全員に聞こえたため、結局受け取った。
「……聞かなかったことにして」
「俺は聞いてない」
「わたしも」
アイリが答える。
「二人とも嘘」
「そういう嘘はいいんだよ」
「人間、難しい」
「俺もたまに分からない」
食べ終える頃には、全身の疲労が一気に押し寄せてきた。
レンの瞼が重い。
それでも入口の外へ視線を向ける。
「俺が最初に――」
「寝る」
アイリが即座に言った。
「まだ最後まで言ってない」
「最初に見張るって言うつもりだったでしょ」
「少し休んでから交代でも――」
「昨日もそれで寝なかった」
「今日は寝る」
「今寝る」
「命令?」
「約束の確認」
レンは言葉に詰まる。
リュネが二人を交互に見る。
「昨日も?」
「お兄ちゃん、一晩中起きてたの」
「アイリを休ませようと思っただけだ」
「勝手に決めて、約束破った」
「反省してる」
「なら寝る」
リュネが耳を入口へ向けた。
「わたし、音聞く」
レンの顔が変わる。
「一人で見張るって意味なら駄目だ」
「何で?」
「リュネも怪我してる。今日はずっと逃げて、熊にも追われた」
「でも耳は使える」
「使うなとは言ってない」
アイリが柔らかく続けた。
「もし何か聞こえたら、すぐ起こして。一人で確かめに行ったり、一人で何とかしようとしたりしない。それならお願いしたい」
リュネは少し考える。
「起こすだけ?」
「うん」
「レンも?」
「当然」
レンが答える。
「俺だけ寝かせたまま戦うのは禁止」
「それ、お兄ちゃんが言うと面白い」
「分かってる」
リュネの口元がほんの少し緩んだ。
「……分かった」
しばらく静かになった。
外は夕暮れから夜へ変わり始めている。
リュネが膝を抱いたまま、ぽつりと口を開いた。
「まだ……少し怖い」
アイリが少女を見る。
「わたしたち?」
頷く。
「うん」
「そっか」
「怒らない?」
「何で?」
「助けてもらったのに」
「助けたら信じなきゃいけない、なんて約束してないよ」
リュネは黙る。
「でも」
少しして続けた。
「最初よりは……怖くない」
アイリが笑う。
「それなら十分」
レンも何も足さなかった。
信じろ。
仲間になれ。
案内しろ。
そんな言葉は必要なかった。
「村に戻りたい?」
アイリが尋ねた。
リュネの表情が硬くなる。
「……分からない」
「じゃあ、今決めなくていい」
「でも、村の人が……」
「助けが必要かもしれない」
レンが言った。
「それは確かめたい。でもリュネを無理に連れていくつもりはない」
「二人だけで行くの?」
「今の状態じゃ行かない」
レンが答えるより先に、アイリが言った。
「まず生き延びる」
レンが妹を見る。
アイリもこちらを見る。
「最初から、一人を捨てる形にしない」
数日前なら、それは兄妹二人だけの約束だった。
今、アイリはリュネも見ている。
「だから今度は――三人で生きる方法を探さないとね」
リュネの耳が小さく動いた。
「三人……?」
「嫌なら嫌って言っていいよ」
「……嫌じゃない」
即答したあと。
リュネは自分でも驚いたように口を閉じた。
アイリは何もからかわなかった。
「そっか」
それだけ言った。
外の森がさらに暗くなる。
レンはようやく背を幹へ預けた。
今度こそ、目を閉じようとした。
その時。
リュネの耳が立った。
さっきまでとは違う。
眠気が一瞬で消える。
「どうした?」
レンは声を落とした。
リュネは口元へ指を当てる。
聞いている。
遠く。
まだかなり離れている。
風でもない。
獣でもない。
何かが森の中を進んでくる。
「人」
リュネが囁いた。
アイリの表情が変わる。
「何人?」
「一人じゃない」
「方向は?」
リュネが大木の入口、その向こうの暗い森へ耳を向ける。
「こっち……」
レンは入口へ手をつき、身体を起こした。
黒銀の剣へ右手を伸ばす。
今度は抜かない。
音を立てないよう、柄へ触れるだけ。
やがてレンの耳にも、微かな声が届いた。
人間の声。
複数。
内容までは聞き取れない。
ただ何かを探しながら歩いている。
その間に。
別の音。
金属が触れ合うような、小さな音。
リュネの顔が青ざめた。
「……犬」
「犬?」
「いる」
長い耳が震える。
「二頭……違う。もっと」
森の奥から。
低い鳴き声がした。
一度。
続けて、別の方向からもう一度。
アイリが息を呑む。
リュネは膝を抱く手へ力を込めた。
「あの人たち……」
声が掠れる。
「たぶん、わたしを探してる」
熊との戦いを終えたばかりの三人は、誰一人まともに走れない。
そして外から近づいてくる者たちは――犬を連れていた。
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