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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
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第一章 第十五話 牙を断つ剣

黒銀の剣は深く入っていた。


 それでも、熊はまだ立っていた。


 右後脚は倒木に挟まれた影響でまともに体重を支えられず、左肩には古い矢が深く残っている。そのうえ前脚の後ろ、胸郭の下寄りへ黒銀の剣が斜めに突き刺さり、黒褐色の毛を伝って血が地面へ落ちていた。それだけ傷ついてなお、巨大な右前脚が湿った土を掻くたび、レンの身体は本能的に距離を取ろうとする。


 武器は熊の身体に刺さったまま。


 レンはアイリの前へ立ち、足元で拾った太い枝を右手に握っていた。剣の代わりになるとは思っていない。鼻先へ突き出して一瞬でも距離を作れればいい、その程度のものだ。


 背後でアイリが身体を起こす気配がした。


「立つな。まだいい」


「でも剣が――」


「今は剣より自分」


 自分で口にしてから、レンはほんの僅かに顔をしかめた。


 少し前までなら、真っ先に剣を取り戻そうとしていたのは自分だっただろう。


 アイリもそれに気づいたらしい。


「……ちゃんと覚えてる」


「今それ言うな」


 熊が低く唸った。


 二人の会話はそこで途切れた。


「右、動く!」


 リュネの声が飛ぶ。


 レンは考えるより先に身体を左へずらした。


 直後、熊の右前脚が地面を薙ぐ。爪そのものは届かなかったが、掻き飛ばされた土と小石が脚へ当たった。


「今の分かったのか?」


「右の爪が土を擦った!」


「次も頼む!」


「全部は無理!」


「分かる時だけでいい!」


 レンは熊を見た。


 巨体は明らかに不安定だった。


 右後脚を地面へつくたび腰が沈み、左前脚へ重心を移そうとすると肩が震える。胸へ刺さった剣の柄も、呼吸に合わせて小さく上下していた。


 ただし、それを「もう勝てる」という意味に受け取るほど、レンは楽観していなかった。


 弱っている。


 それだけだ。


 爪も牙も、まだ人間を殺すには十分過ぎる。


「レン」


 アイリの声が低くなる。


「剣、取れると思う?」


「今は無理だ」


 即答した。


「正面から近づいたら右前脚が来る。柄を掴んでも、身体ごと動かされたら俺の腕じゃ支えられない」


「左は?」


「論外」


 包帯に覆われた左前腕は、立っているだけでも鈍く熱を持っている。薬指と小指の感覚もまだ頼りない。こんな腕を黒銀の剣へ添えたところで、助けになるどころか次の怪我を増やすだけだ。


「じゃあ、熊が自分から動いた時は?」


 アイリが尋ねた。


 レンは熊を見る。


「……どういう意味だ?」


「剣を引っ張るんじゃなくて、熊が剣から離れる瞬間に取れない?」


 レンは答えず、刺さった刀身の角度を見た。


 アイリが根へ柄を固定し、熊自身が前進したことで入った剣だ。刃は前脚の後ろから斜めに入っている。無理に横へ捻れば抜けないどころか、こちらの手首が持っていかれる。


 だが。


 熊が後ろへ退くか、身体を反対へ捻った瞬間。


 入った軌道に沿って動かせるなら。


「できるかもしれない」


「かもしれない?」


「やってみないと分からない」


「それでいい」


 熊がまた鼻を鳴らした。


 倒れた枯れ木の枝に残る黒い鉤の匂いを探しているのか、それとも目の前の人間たちへ反応しているのか、もうはっきりとは分からなかった。傷と疲労のせいか、さっきまでのように一直線に布片へ向かうこともない。


 リュネの耳がぴくりと動く。


「頭、下がる」


「どっち?」


「……レンの方」


 熊の鼻先が下がった。


 右前脚が一歩出る。


 レンは枝を低く構えながら後退した。


「アイリ。石、まだ投げられるか?」


「左なら」


「熊の右後ろ。遠くへ」


「分かった」


 アイリはしゃがんだまま、左手で地面から小石を拾った。


「リュネ。音がしたら、熊の頭がどっちへ向いたか教えて」


「うん」


「俺は剣の左側へ回る」


「一人で?」


「剣を取るのは俺しかできない。でも、勝手にはやらない」


 アイリは一瞬だけ黙り、それから頷いた。


「分かった。わたしたちも見る」


 レンは右脚を確かめるように一度だけ踏み込んだ。


 痛みはある。


 だが、動けないほどではない。


「いくよ」


 アイリが石を投げる。


 乾いた音が、熊の右後方にある岩へ当たった。


 熊の頭が動く。


「右向いた!」


 リュネ。


 レンはすぐ熊の左側へ回った。


 二歩。


 三歩。


 黒銀の剣の柄が見える。


 まだ遠い。


 熊が音のした方へ身体を捻った。


 右後脚が十分に支えられず、腰が大きく沈む。


 刺さっている剣の角度が変わった。


「レン、今!」


 アイリの声。


 レンは右手を伸ばした。


 柄を掴む。


 熊の身体から伝わる振動が、そのまま掌へ来た。


 引かない。


 まだ。


 熊がもう一度身体を右へ捻る。


 剣の刺さった側が僅かに後ろへ引かれた。


 その瞬間。


 レンは腕力で抜こうとせず、刀身の角度を崩さないまま、自分の身体ごと一歩後ろへ退いた。


 ぬるりと重い抵抗。


 途中で止まりかける。


「頭戻る!」


 リュネが叫んだ。


「もう少し!」


 レンは右手首を捻らない。


 ただ真っ直ぐ。


 熊が反対側へ身体を戻そうとする。


 その動きに合わせる。


 刃が抜けた。


 血が地面へ飛ぶ。


「取った!」


 アイリの声と同時に、熊の頭がレンへ向いた。


 レンはすぐ離れた。


 黒銀の剣を右手だけで構え直す。


 軽い。


 ――はずがない。


 いつもと同じ重さだ。


 それでも、武器が手へ戻っただけで呼吸が一つ深くなる。


 熊は胸元から血を流しながら、なおも前へ出た。


「来る!」


 リュネが叫ぶ。


 レンは斬り込まない。


 右へ回る。


 熊も頭を向ける。


 右後脚が遅れる。


 左前脚へ体重を移そうとして、身体が沈む。


 そのたび、リュネの声が先に飛んだ。


「右!」


「頭下がる!」


「左、今ついた!」


 全部が正確なわけではない。


 一度はレンが予想した方向と違い、熊の頭が急に逆へ振られた。


「分からない!」


 リュネ自身が叫ぶ。


「いい!」


 レンは剣を振らずに下がった。


「分からない時は言わなくていい!」


「うん!」


 完璧な指示など必要なかった。


 ほんの一瞬早く分かるだけでいい。


 その一瞬が、今のレンには大きかった。


     ◇


 熊が突然、前へ出た。


 これまでより短い距離。


 だが速い。


「レン!」


 アイリの声。


 レンは左へ逃がす。


 熊の右前脚が横薙ぎに振られた。


 受けない。


 黒銀の刃を爪の外側へ添え、軌道だけを変えながら身体を引く。


 爪が地面へ落ちる。


 熊の頭が追ってくる。


 牙。


 近い。


 レンは半歩後ろへ。


 右脚が疼く。


 それでも間に合った。


 熊の口が空を噛む。


 噛み合った牙が鈍い音を立てた。


 その瞬間、レンの目が一番長い上顎の牙へ吸い寄せられる。


 黄色く太い牙。


 それが人間の腕や首へ入ればどうなるか、想像する必要もない。


 熊がもう一度頭を振った。


 レンは剣を水平にはしなかった。


 噛ませるつもりもない。


 口の正面へ残れば、腕ごと持っていかれる。


 身体を熊の右外側へ逃がしながら、黒銀の剣を斜め下から返した。


 狙ったのは喉ではない。


 開いた口の横。


 迫ってきた牙の根元。


 硬い衝撃が右手へ返る。


 刃が骨を完全に断った感触とは違った。


 次の瞬間。


 白いものが地面へ跳ねた。


「グァアアッ!」


 熊が頭を激しく振る。


 血が口元から飛ぶ。


 地面に転がったのは、太い牙だった。


「牙……!」


 リュネが息を呑む。


 レン自身も一瞬だけ見た。


 折れた。


 だが喜ぶ余裕はなかった。


 熊は痛みに頭を振りながら、むしろ前へ出ようとしている。


「レン、右!」


 リュネの叫び。


 熊の右前脚。


 レンは下がる。


 今度は間に合わない。


 爪の先が上着の脇を掠める。


 皮膚へ熱が走った。


「っ……!」


 深くはない。


 確認している暇もない。


 熊がさらに一歩踏み込む。


 右後脚が崩れた。


 巨体が傾く。


 左前脚を出して支えようとする。


 肩の古傷がその動きを拒むように震え、身体がさらに前へ落ちた。


「頭下がる!」


 リュネ。


 熊の喉元が、一瞬だけレンの視界へ入った。


 今までずっと、真正面から狙うことを避けてきた場所。


 今なら。


 熊自身が前へ崩れてくる。


 レンは踏み込んだ。


 左手は使わない。


 右手だけで黒銀の剣を突き出す。


 狙うのは正面から硬い骨を貫くことではない。顎の下、首の横へできた柔らかい隙間。


 黒い刃が入った。


 熊の巨体は止まらない。


 レンは押し返さなかった。柄を右手で支えたまま、自分の身体を右へ抜く。倒れ込んでくる巨体へ逆らわず、刃が入った角度だけを崩さない。


 熊自身の前進に押されるように、刀身がさらに深く沈んだ。


 十分に入ったと感じた瞬間、レンは柄から手を放した。


「グォ――ッ!」


 咆哮が途中で崩れた。


 巨大な身体がレンの横を通り過ぎる。


 一歩。


 二歩。


 右後脚が完全に崩れた。


 前脚も地面を捉え切れない。


 熊は数歩先で肩から倒れ込んだ。


 地面が震えた。


 黒銀の剣は首元へ刺さったまま。


 熊の右前脚が一度大きく動く。


 土を掻く。


 もう一度。


 それから、ゆっくり力が抜けていった。


「……レン」


 アイリが名前を呼ぶ。


「まだ近づくな」


 レンは荒い息のまま答えた。


 熊を見る。


 胸が動いているのか。


 呼吸しているのか。


 土煙と毛で分からない。


「リュネ」


「……うん」


「聞こえるか?」


 少女は答えず、長い耳を熊へ向けた。


 一歩も近づかない。


 ただ静かに聞く。


 数秒。


 さらに数秒。


「息……」


 リュネが眉を寄せる。


「すごく弱い」


 レンは近づかないまま待った。


 熊の前脚が僅かに痙攣する。


 やがて、それも止まった。


 森の音が戻ってくる。


 遠くの鳥。


 風。


 折れた枝から落ちる水滴。


 さっきまであれほど大きかった熊の呼吸だけが、聞こえない。


 リュネがもう一度耳を澄ませた。


「……もう、聞こえない」


 誰もすぐには動かなかった。


 勝った。


 そんな言葉を口にする気にはなれなかった。


 レンは地面へ手をつき、そのまま片膝を落とした。


「お兄ちゃん!」


「急に力抜けただけだ」


「そこ動かないで!」


「分かった」


「本当に?」


「今度は本当に分かった」


 アイリが近づいてくる。


 走らない。


 右肩を固定したまま、左脚を庇い、一歩ずつ。


 リュネも枝を杖にして後ろから続いた。


 レンはそれを見て、小さく息を吐いた。


「三人とも、ひどい歩き方だな」


「お兄ちゃんが一番ひどい」


「わたしじゃない?」


 リュネが尋ねる。


「リュネは競わなくていいよ」


 アイリが即答した。


 それを聞いて。


 リュネが、ほんの少し笑った。


     ◇


 熊が動かないことを十分に確かめてから、レンは黒銀の剣を回収した。


 首元へ入った刀身は簡単には抜けず、右手だけで無理に捻れば手首を痛める。レンは熊の身体を動かそうとはせず、柄の角度を少しずつ変えながら、入った方向へ沿わせるようにゆっくり引いた。


 刃が抜ける。


 濃い血が付着している。


 レンは少し離れたところまで戻り、草と残っていた水を最低限だけ使って刀身を拭った。


 その途中、地面に落ちた白いものが目へ入る。


 熊の牙。


 先ほど黒銀の剣とぶつかった際に折れた一本だ。


 レンはしばらくそれを見つめた。


「持っていくの?」


 アイリが尋ねる。


「……分からない」


「記念?」


「そんな感じじゃない」


 熊を振り返る。


 左肩には古い矢。


 首や前脚には、人の手が関わったのではないかと思わせる傷。


 リュネの上着には、血と獣脂らしきものを塗った黒い鉤。


 この獣が最初から人間を追っていたのか。


 それとも誰かに傷つけられ、何かを覚え込まされ、あの匂いを追うよう仕向けられたのか。


 分からない。


「俺たちが殺したのは事実だ」


 レンは静かに言った。


「でも、こいつがどうしてここまで来たのかは、まだ何も分かってない」


 アイリも熊を見る。


「……うん」


「だから持っていく」


 レンは折れた牙を布へ包んだ。


「忘れないために?」


「たぶん」


 それ以上、理由を言葉にはしなかった。


     ◇


「座って」


 アイリが言った。


「もう座ってる」


「ちゃんと座って」


「ちゃんとの定義は?」


「薬袋を取ろうとして逃げない姿勢」


「逃げない」


「さっきまで熊と戦ってた人の『逃げない』は信用低い」


 レンは反論を諦めた。


 倒木から十分離れた場所にある太い根へ背を預ける。


 アイリは右肩を動かさないよう身体を横へ向け、左手だけで薬袋を開いた。


「リュネ。お願いしてもいい?」


 少女の耳が立つ。


「何?」


「その布、取ってくれる? 一番上の白いやつ」


「これ?」


「うん。あと水筒」


 リュネは素直に動いた。


 数時間前なら、薬袋そのものへ触れることすら警戒していた。


 今はアイリの隣へ座り、言われた物を一つずつ渡している。


「まず左腕」


「脚じゃなくて?」


「腕。包帯に血が滲んでるから」


「少しだけだ」


「見てから決める」


 アイリは包帯を解く。


 リュネが横から覗き込み、すぐ顔をしかめた。


「……ひどい」


「狼に噛まれた」


「昨日?」


「ああ」


「これで熊と戦ったの?」


「この腕は使ってない」


「そういう問題じゃないと思う」


 アイリが真顔で頷いた。


「わたしもそう思う」


「二対一は卑怯だろ」


「怪我人に多数決の権利はないよ」


「それはおかしい」


 包帯が外れる。


 深い噛み傷の周囲はまだ赤く腫れ、激しく動いたせいで一部から少量の血が滲み直している。ただ、傷口全体が大きく裂けたわけではない。


 アイリは安堵を隠すように息を吐いた。


「昨日より急に悪くなった感じはしない。でも、腫れてる」


 傷の周囲へ触れ過ぎないようにしながら、左手の指先へ目を移す。


「動かせる?」


 レンは指を曲げた。


 親指。


 人差し指。


 中指。


 薬指は遅い。


 小指も十分には曲がらない。


「ここは?」


 アイリが小指の先へ軽く触れる。


「分かる」


「こっちは?」


「……少し鈍い」


 アイリの眉が寄る。


「何で?」


 リュネが尋ねた。


「分からない」


 アイリは迷わず答えた。


「傷が深いからかもしれないし、腫れてるからかもしれない。でも、わたしにはちゃんとは分からない」


「治せない?」


「ここでわたしができるのは、綺麗にして、包帯を替えて、なるべく動かさないようにするくらい。ちゃんと診てもらった方がいい」


 レンが自分の左手を見る。


「王都まで持つか?」


「それも分からない」


 アイリは兄を見る。


「だから無茶を減らす」


「善処する」


「約束」


「……無茶を減らす」


「よし」


 リュネが小さく首を傾げた。


「この人、約束って言われないと聞かないの?」


「最近ちょっと改善中」


「おい」


 アイリは残っている水で傷の汚れを落とし、清潔な布を当てた。リュネには布端を押さえてもらい、片手でも巻きやすいよう協力してもらう。


「もう少しこっち」


「ここ?」


「うん。強く引かなくて大丈夫」


「これくらい?」


「ちょうどいい」


 巻き終える。


 次に右脚。


 こちらも昨日の噛み傷そのものは残っている。激しい移動のせいで包帯に新しい薄い染みができていたが、靴の中へ血が溜まるような状態ではない。


「こっちも替える」


「水、足りるか?」


「全部は使わない。汚れてるところだけ」


 アイリは必要な範囲だけを洗い、布を巻き直した。


 そのあと自分の左脹脛。


 最後に、固定している右肩の布が緩んでいないかを左手で確かめる。


「肩、どう?」


 レンが尋ねる。


「動かすとまだ痛い」


「悪化した?」


「さっき転がったけど、右側はぶつけてない。だから……たぶん大きくは変わってないと思う」


「分からない?」


「うん」


 それでいい。


 分からないことを分からないと言える方が、今のレンには安心できた。


 リュネは二人を見ながら、自分の固定された左足首へ目を落とした。


「わたしのも……見る?」


「痛み増えた?」


「少し。でも走ってない」


「じゃあ布が緩んでないかだけ見よう。腫れが急にひどくなってたら教えて」


 リュネは素直に足を差し出した。


 数時間前の彼女なら、同じことを言われても絶対に許さなかっただろう。


     ◇


 休んでいる間に、レンは熊の左肩へ残っていた古い矢が気になった。


「……あれ、見ておきたい」


 アイリがすぐ睨む。


「また動くの?」


「熊はもう動かない。矢だけだ」


「何で?」


「リュネの鉤と関係あるかもしれない」


 その言葉に、リュネの表情が変わった。


「矢……」


「心当たりある?」


「分からない。見たい」


 レンは立ち上がる。


 今度は急がない。


 太い枝を右手に持ち、歩くための支えにする。黒銀の剣は一度鞘へ戻している。


 熊の左肩。


 折れた矢の軸は古く、途中から砕けている。


 レンは腰の小さな旅用ナイフを右手で抜いた。


「何するの?」


 リュネが尋ねる。


「傷を少しだけ広げる。先が残ってるなら見たい」


「剣じゃなくて?」


「あれでやるには大き過ぎる」


 古い傷口の周囲は既に長く傷んでいたらしく、毛も固まっている。レンは必要以上に肉へ刃を入れず、矢軸の周囲に絡んだ固い組織だけを少しずつ切り離した。


 やがて。


 金属が見えた。


「取れる」


 布越しに軸を掴み、ゆっくり引く。


 錆びた鉄の矢尻が出てきた。


 通常の狩猟用より幅が広い。


 そして側面。


「……印?」


 アイリが覗き込む。


 泥と黒ずみを布で拭う。


 三本の湾曲した線。


 互いに絡み合うように描かれ、その中央を短い刃の形が貫いている。


 見覚えはない。


 少なくともレンには。


「リュネ?」


 少女から返事がなかった。


 振り返る。


 リュネの顔から血の気が消えている。


「知ってるのか?」


「それ……」


 声が震えた。


「同じだった」


「何と?」


「村に来た人たち」


 レンとアイリの表情が変わった。


 リュネは矢尻を見たまま、両腕で自分の身体を抱く。


「あの人たちが持ってた物に……その印があった」


「武器?」


「うん……たぶん。袋にもあった。全部じゃないけど」


「村に来たって、最初から襲ってきたの?」


 アイリが静かに尋ねる。


 リュネは首を横へ振った。


「違う」


 言葉が少しずつ出る。


「最初は……森を通りたいって言った。怪我した人がいるから、水が欲しいって」


「それで村へ?」


「大人たちが入れた」


「そのあと?」


 リュネの指が服を握る。


「夜になって……」


 声が途切れた。


 アイリは続けさせなかった。


「今はいいよ」


「でも……」


「無理に全部言わなくていい」


 リュネは唇を噛んだ。


 それでも。


「手を縛られた」


 小さく言った。


「みんなじゃない。逃げた人もいると思う。でも……火が出て、家が燃えて……」


 あの手首の痣。


 人間を見ただけで石を向けた理由。


 森の中で一人、泣きながら隠れていた理由。


 少しずつ繋がっていく。


「リュネは逃げたんだな」


 レンが言う。


 少女は頷いた。


「途中で、後ろから何か当たって……たぶん、あの鉤」


「それで熊が追ってきた」


「……うん」


「村には、まだその人たちがいる?」


 リュネの顔が強張る。


「分からない」


「分からないでいい」


 レンは矢尻を布へ包んだ。


「でも、この印は覚えておく」


「追いかけるの?」


 リュネが不安そうに尋ねる。


「今すぐは無理だ」


 レンは自分たち三人を見た。


 片腕がまともに使えず、脚を噛まれた自分。


 右肩を固定し、左脚にも傷を持つアイリ。


 左足首を傷めたリュネ。


「この状態で追えば、次は本当に全員倒れる」


 アイリが僅かに笑った。


「ちゃんと分かってる」


「だから今それ言うな」


     ◇


 日が傾き始めていた。


 熊との戦いだけで、どれほど時間を失ったのか分からない。


 この場所で夜を迎えるのは危険だった。血の匂いが強過ぎる。熊の死体もある。別の獣を呼ぶ可能性もある。


「近くに隠れられるところある?」


 アイリがリュネへ尋ねた。


 リュネは少し考え、耳を森へ向けた。


「ここから……そんなに遠くないところに、大きな古い木がある」


「木?」


「中が空いてる。昔、森を見回る人たちが休む場所にしてた」


「人間?」


「知らない。ずっと昔」


「歩ける距離?」


「ゆっくりなら」


 レンは頷いた。


「そこへ行こう」


 立ち上がる前に、レンは黒銀の剣を腰へ戻した。鞘へ収めるところまでは右手だけでもできたが、戦いの間に剣帯そのものが大きくずれていた。右寄りに調整していたはずの位置も崩れ、留め具の一つが緩んでいる。


 レンが右手だけで直そうとしていると、リュネがじっと見ていた。


「……何だ?」


「できてない」


「できる」


「さっきから同じところ三回やってる」


「もう少しで――」


「貸して」


 小さな手が伸びる。


 レンは一瞬だけ黙った。


「嫌ならいい」


「嫌じゃない」


 剣帯の端をリュネへ渡す。


 少女は仕組みを確認しながら、腰の位置で革紐を通した。


「ここ?」


「もう少し右」


「こう?」


「ああ」


「アイリが昨日やったの?」


「今朝だよ」


 アイリが横から訂正する。


「お兄ちゃん、怪我してるのに無理して左へ寄せるから」


「重量の癖があるんだ」


「今はその癖を直す時」


「二人に増えた……」


 リュネは最後の留め具を締めた。


「これで落ちない?」


 レンが腰を少し動かす。


 黒銀の剣は右寄りの位置で安定している。


「大丈夫だ。ありがとう」


 リュネは目を逸らした。


「……別に」


「そこまで似なくていいよ」


 アイリが笑った。


「誰に?」


「お兄ちゃん」


「俺はそんな言い方しない」


「する」


「すると思う」


「リュネまで?」


 三人の間に、ほんの短い笑いが落ちた。


 熊との戦いが終わってから、初めてだった。


 歩くための枝を一本ずつ選ぶ。


 レンは右手。


 アイリは左手。


 リュネはこれまで使っていた枝。


 三人とも、まともな旅人には見えなかった。


 それでも歩き始めた。


     ◇


 古い大木へ着いた頃には、森の光がかなり薄くなっていた。


 幹は大人が数人並んでも抱え切れないほど太く、地面近くに縦長の裂け目がある。その奥は自然に朽ちて空洞となり、三人が身体を寄せればどうにか入れるだけの空間が残っていた。


 中には古い枯れ葉。


 朽ちた木片。


 ずっと昔に誰かが置いたらしい平たい石。


 雨風を完全に防げるわけではないが、外で夜を越すよりははるかにましだった。


「ここ」


 リュネが言う。


「昔はもっと綺麗だった」


「来たことあるの?」


「小さい時に一回」


「今も小さいだろ」


 レンが言うと、リュネが睨んだ。


「人間より長く生きるから」


「何歳?」


「言わない」


「聞かない方がよかったか?」


「一回しか言わないもの増やす」


「名前と年齢?」


「年齢は一回も言わない」


 アイリが吹き出した。


 そのまま肩が揺れ、右肩の痛みで顔をしかめる。


「笑って痛めるなよ」


「お兄ちゃんのせい」


「俺?」


 三人は空洞の奥へ座った。


 レンは入口に近い側。


 アイリはその隣。


 リュネは少し距離を残して座る。


 数時間前より近い。


 それでも、ぴったり隣ではない。


 それくらいが今はちょうどよかった。


 少しの干し肉と残った硬いパンを分ける。


 リュネは最初遠慮したが、腹が鳴って全員に聞こえたため、結局受け取った。


「……聞かなかったことにして」


「俺は聞いてない」


「わたしも」


 アイリが答える。


「二人とも嘘」


「そういう嘘はいいんだよ」


「人間、難しい」


「俺もたまに分からない」


 食べ終える頃には、全身の疲労が一気に押し寄せてきた。


 レンの瞼が重い。


 それでも入口の外へ視線を向ける。


「俺が最初に――」


「寝る」


 アイリが即座に言った。


「まだ最後まで言ってない」


「最初に見張るって言うつもりだったでしょ」


「少し休んでから交代でも――」


「昨日もそれで寝なかった」


「今日は寝る」


「今寝る」


「命令?」


「約束の確認」


 レンは言葉に詰まる。


 リュネが二人を交互に見る。


「昨日も?」


「お兄ちゃん、一晩中起きてたの」


「アイリを休ませようと思っただけだ」


「勝手に決めて、約束破った」


「反省してる」


「なら寝る」


 リュネが耳を入口へ向けた。


「わたし、音聞く」


 レンの顔が変わる。


「一人で見張るって意味なら駄目だ」


「何で?」


「リュネも怪我してる。今日はずっと逃げて、熊にも追われた」


「でも耳は使える」


「使うなとは言ってない」


 アイリが柔らかく続けた。


「もし何か聞こえたら、すぐ起こして。一人で確かめに行ったり、一人で何とかしようとしたりしない。それならお願いしたい」


 リュネは少し考える。


「起こすだけ?」


「うん」


「レンも?」


「当然」


 レンが答える。


「俺だけ寝かせたまま戦うのは禁止」


「それ、お兄ちゃんが言うと面白い」


「分かってる」


 リュネの口元がほんの少し緩んだ。


「……分かった」


 しばらく静かになった。


 外は夕暮れから夜へ変わり始めている。


 リュネが膝を抱いたまま、ぽつりと口を開いた。


「まだ……少し怖い」


 アイリが少女を見る。


「わたしたち?」


 頷く。


「うん」


「そっか」


「怒らない?」


「何で?」


「助けてもらったのに」


「助けたら信じなきゃいけない、なんて約束してないよ」


 リュネは黙る。


「でも」


 少しして続けた。


「最初よりは……怖くない」


 アイリが笑う。


「それなら十分」


 レンも何も足さなかった。


 信じろ。


 仲間になれ。


 案内しろ。


 そんな言葉は必要なかった。


「村に戻りたい?」


 アイリが尋ねた。


 リュネの表情が硬くなる。


「……分からない」


「じゃあ、今決めなくていい」


「でも、村の人が……」


「助けが必要かもしれない」


 レンが言った。


「それは確かめたい。でもリュネを無理に連れていくつもりはない」


「二人だけで行くの?」


「今の状態じゃ行かない」


 レンが答えるより先に、アイリが言った。


「まず生き延びる」


 レンが妹を見る。


 アイリもこちらを見る。


「最初から、一人を捨てる形にしない」


 数日前なら、それは兄妹二人だけの約束だった。


 今、アイリはリュネも見ている。


「だから今度は――三人で生きる方法を探さないとね」


 リュネの耳が小さく動いた。


「三人……?」


「嫌なら嫌って言っていいよ」


「……嫌じゃない」


 即答したあと。


 リュネは自分でも驚いたように口を閉じた。


 アイリは何もからかわなかった。


「そっか」


 それだけ言った。


 外の森がさらに暗くなる。


 レンはようやく背を幹へ預けた。


 今度こそ、目を閉じようとした。


 その時。


 リュネの耳が立った。


 さっきまでとは違う。


 眠気が一瞬で消える。


「どうした?」


 レンは声を落とした。


 リュネは口元へ指を当てる。


 聞いている。


 遠く。


 まだかなり離れている。


 風でもない。


 獣でもない。


 何かが森の中を進んでくる。


「人」


 リュネが囁いた。


 アイリの表情が変わる。


「何人?」


「一人じゃない」


「方向は?」


 リュネが大木の入口、その向こうの暗い森へ耳を向ける。


「こっち……」


 レンは入口へ手をつき、身体を起こした。


 黒銀の剣へ右手を伸ばす。


 今度は抜かない。


 音を立てないよう、柄へ触れるだけ。


 やがてレンの耳にも、微かな声が届いた。


 人間の声。


 複数。


 内容までは聞き取れない。


 ただ何かを探しながら歩いている。


 その間に。


 別の音。


 金属が触れ合うような、小さな音。


 リュネの顔が青ざめた。


「……犬」


「犬?」


「いる」


 長い耳が震える。


「二頭……違う。もっと」


 森の奥から。


 低い鳴き声がした。


 一度。


 続けて、別の方向からもう一度。


 アイリが息を呑む。


 リュネは膝を抱く手へ力を込めた。


「あの人たち……」


 声が掠れる。


「たぶん、わたしを探してる」


 熊との戦いを終えたばかりの三人は、誰一人まともに走れない。


 そして外から近づいてくる者たちは――犬を連れていた。

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