第三章 第六話 街道に残る車輪跡
夕方の東街道には、幾重にも重なった車輪の跡が続いていた。王都へ向かう荷車、東へ進む商人の馬車、近隣の農村から作物を運ぶ小さな荷台。乾いた土の上では新しい轍が古い轍を踏み潰し、どの車がどこから来て、どこへ向かったのかなど、少し見ただけでは分からない。宿場でミレナが聞いた話どおり、街道そのものは普通に動いていた。道を塞ぐ兵士もいなければ、橋の閉鎖を知らせる札もなく、旅人たちはそれぞれの目的地へ向かって何事もなく行き交っている。
だから、最初に違和感へ気づいたのはガリックだった。
「止めろ」
幌馬車の中から低い声が飛び、馬の手綱を取っていたエリリアがすぐに歩調を落とした。
「どうしました?」
「あそこだ」
ガリックが右手で街道の南側を指す。
道端には低い雑草が広がり、その先は緩い下り斜面になっていた。一見しただけなら何もない。だが、街道の端から草地へ向かって、二本の深い轍が斜めに外れている。土の道を走ってきた車輪がそのまま道端へ寄ったというより、一度強く方向を変え、草を押し潰しながら下へ進んだ跡だった。
「荷車?」
アイリが目を凝らす。
「たぶんな」
ガリックはすぐには降りようとせず、幌の縁へ身体を寄せた。
「エリリア、あと少し前へ。道の上から見えるところまで」
「分かりました」
馬車をゆっくり進めると、斜面の途中に木製の荷車が見えた。
大型ではない。二頭立てにも使える程度の中型貨物車で、幌は付いておらず、荷台の周囲だけが高い板で囲まれている。左側の車輪が深く土へ沈み、車体は斜面側へ傾いていた。馬は繋がれていない。荷台の上にも人影はなく、御者台にも誰も座っていなかった。
エリリアは街道上で馬車を止めた。
「近づきますか?」
「まずここから見る」
ミレナが言い、荷台の脇へ立ったまま目を細めた。
「人はいないように見える。馬もいない」
「倒れてる人は?」
アイリが尋ねる。
「見える範囲にはいない」
レンも移動椅子から上体を少し起こした。午後は歩かずにいたため、右上腕の痛みは三のまま増えていない。左手の薬指と小指にも朝から大きな変化はなかったが、斜面へ降りていくことを考えた時点で、今の自分が先頭に立つべきではないことは分かっていた。
「俺はここにいる」
自分から言うと、アイリが少しだけ驚いた顔をした。
「言う前に?」
「斜面で転んだら怒るだろ」
「怒る」
「だから行かない」
「成長」
「それ今日もう聞いた」
ミレナが振り返る。
「今日は多い日なのよ」
「何の日だよ」
軽いやり取りはあったが、誰もすぐには斜面へ下りなかった。
ガリックが轍へ目を向ける。
「街道から外れたのは、この車でほぼ間違いないと思う。ただし、いつ外れたかはまだ分からん」
「草が潰れてるから新しい?」
アイリが尋ねる。
「新しそうには見える。でも時間までは決めるな。昨日かもしれんし、今朝かもしれん。雨も降ってないなら跡は残る」
「ミレナが聞いた範囲では、三日前にも大雨はなし」
レンが言う。
「そう」
ミレナが頷いた。
「ただし、この場所だけ局地的に降った可能性まで消えたわけじゃない」
「そこまで言う?」
「五つ目」
「便利だな」
「便利だから使ってるの」
エリリアは街道の前後を確認した。ちょうど通行が途切れており、遠くから近づいてくる荷車も見えない。
「まず周囲に危険がないか見ます。風は使いません」
「一人で?」
アイリが聞く。
「街道から見える範囲だけです。斜面へ下りる前に、こちら側を確認します」
「私も行く」
ミレナが言った。
「ガリックは?」
「俺はここから車輪と轍を見る。左脚であの斜面は無理だ」
「私はお兄ちゃんと馬車」
アイリが自分で決めた。
「薬箱もここにあるし」
「助かる」
レンが答える。
役割が決まるまでに時間はかからなかった。
エリリアとミレナは街道の縁を左右へ少し歩き、草むらや低木の裏、人が隠れられそうな窪みを目で確かめる。エリリアは腰の剣へ手を置いていたが、抜かなかった。風も使わない。ミレナも短剣へ触れられる位置を保ったまま、足跡や折れた枝がないかを見ていた。
数分後、二人が戻る。
「街道側には誰もいません」
エリリアが言った。
「新しい焚き火もなし。人が隠れて待ってる感じもない」
ミレナが続ける。
「斜面の下までは見てない」
「なら、そこまでだ」
ガリックが言う。
「いきなり荷車へ触るな。まず外から見る」
「元街道警備らしい」
「今さらか」
◇
斜面へ下りたのはエリリアとミレナだけだった。
草は膝より低く、傾斜も急ではない。それでも車輪が通った場所では土が削れ、ところどころ石が露出している。エリリアは足元を確かめながら先へ進み、ミレナは少し横へ離れて轍と周囲の草を見た。
レンたちは街道上から二人を見ていた。
「荷車、壊れてる?」
アイリが尋ねる。
ガリックは目を細めた。
「左車輪が沈んでるだけじゃない。前側が少し落ちてる。軸か、前輪の取り付けが傷んでるかもしれん」
「事故?」
「あり得る」
「逃げた?」
「それもあり得る」
「襲われた?」
「それもゼロじゃない」
「全部あり得るじゃん」
「だからまだ何も決めるなってことだ」
アイリは納得したような、していないような顔をした。
レンは荷車そのものより、その周囲を見た。血が見えるか。荷物が散らばっているか。争った跡があるか。遠目では分からない。
「エドラスの荷車みたいに空だったら?」
口にした瞬間、ガリックがレンを見る。
「まだエドラスを持ってくるな」
「分かってる。似てたらって話」
「似てることと、同じことは違う」
「覚えてる」
アイリも続ける。
「並べる。でも重ねない」
「そうだ」
王都で何度も確かめた原則だった。
エドラス・フィンの空荷の件は、まだ終わっていない。だが、東街道で荷車が一台見つかったというだけで、そこへ結びつける理由はない。空荷であるかどうかさえ、まだ確認できていない。
やがて荷車の近くまで進んだエリリアが立ち止まった。
「誰もいません!」
街道へ向かって声を上げる。
「御者台も、荷台の周りも、人は倒れていません!」
「血は?」
アイリが両手を口元へ添える。
エリリアは荷車の周囲を見回した。
「ここから見える範囲にはありません!」
ミレナは荷台の後ろへ回らず、側面から中を覗いた。
「荷物も、ほとんどない!」
その言葉に、レンとガリックの視線が一瞬だけ交わった。
だが、どちらもエドラスの名を口にしなかった。
「ほとんど?」
ガリックが聞き返す。
ミレナが荷台をもう一度見る。
「空ではない。木箱が二つ。麻袋が一つ。あと布を丸めたもの。少なくともここからはそれだけ」
「触るな」
「触ってない」
「札は見えるか?」
ミレナは荷車の側面へ視線を移し、少し身を屈めた。
「ある」
「読める?」
「待って」
彼女は近づいたが、札そのものへは手を触れず、顔だけを寄せた。
「貨物札。紙じゃなくて薄い木札。紐で留めてある」
「何て書いてある?」
数秒、返事がなかった。
「ミレナ?」
レンが呼ぶ。
「読める。でも、ちょっと変」
その声から、冗談は消えていた。
「何が?」
「積荷」
ミレナは札を見たまま答えた。
「『乾燥麦、二十四袋』」
アイリが荷台を見る。
「二十四?」
「そう書いてある」
「でも袋一つ?」
「見えるのは一つだけ」
ガリックの顔から表情が消えた。
「荷主と行き先は」
「荷主は『東部穀物組合第三倉』。行き先は『ベルナ継駅倉庫』」
「ベルナ?」
エリリアが振り返る。
「この先ですか?」
ガリックが地図の革筒を開くようアイリへ頼み、彼女が地図を広げた。
「東へ二つ先の継駅だ」
「宿場でミレナが聞いた、通常の通行確認がある場所?」
レンが尋ねる。
「そう」
ミレナが街道上の四人を見る。
「でも、荷札だけで本当にそこへ行く途中だったとは決めないで」
「分かってる」
アイリが答える。
「札が古いかもしれない」
「そう。別の荷から付け替えた可能性もあるし、積み替え途中だったかもしれない。二十四袋をどこかで下ろした後かもしれない」
「その場合、札を書き直してないだけ?」
「あり得る」
レンは宿場で聞いた話を思い出した。
「荷札の書き直しが増えてるって言ってたな」
「増えてる。でも、季節の変わり目には普通の範囲だって話だった」
「これもその普通の一つ?」
「まだ分からない」
ミレナはそう答えた。
まさに先に基準を知っておいた意味がそこにあった。積荷と札が一致しない。ただそれだけなら、事故や積み替え、記録更新の遅れでも起こり得る。異常に見えるからといって、即座に犯罪や隠蔽へ結びつけることはできない。
「他に札は?」
ガリックが尋ねる。
「側面にはこれだけ」
「御者台の帳面は?」
「見えるけど、まだ触ってない」
「よし」
「よし?」
「今日は触るな」
ミレナが顔を上げた。
「調べないの?」
「日が落ちる」
ガリックは西へ傾いた太陽を見る。
「荷車が放置されてる理由も、持ち主が戻る可能性も分からん。薄暗くなってから触れば、俺たちが何か壊したのか、最初から壊れてたのか分からなくなる」
「ここに残す?」
アイリが尋ねる。
「まず周囲をもう少し見る。ただし、詳細は明るい時だ」
「誰かが夜に戻って持っていったら?」
レンが聞いた。
「それも記録になる」
「どういう意味?」
「今の状態を覚えて、できる範囲で書き留める。朝になって消えてたなら、『夜の間に消えた』が新しい事実になる。今ここで全部触って、自分たちで状態を変えるよりましだ」
ミレナが少し笑った。
「ガリック、記録係向いてる」
「向いてない。六年前に嫌ってほど学んだだけだ」
その言葉で、空気が僅かに変わった。
だがガリックは六年前の荷車と、目の前の荷車を重ねなかった。
「似てるからこそ、同じだと思いたくない」
彼は静かに続けた。
「俺が一番やりそうだからな」
レンが頷く。
「じゃあ、今分かってることだけ」
「そうだ」
◇
五人は街道上へ戻ってから、現在の状態を書き出した。
ミレナが紙を持ち、アイリが読み上げる。
「街道南側の斜面。中型の貨物荷車、一台」
「馬なし」
エリリアが付け加える。
「人影なし。荷車周辺に、見える範囲では倒れている人なし」
「血は?」
「確認できる範囲ではなし。ただし荷車の下、斜面の下側、周辺全部までは未確認」
「それで」
ミレナが書く。
「荷台は?」
ガリックが聞く。
「見える範囲で木箱二、麻袋一、丸めた布一。ほかは未確認」
「『ほとんど空』って書かないの?」
レンが尋ねる。
「書かない」
ミレナは即答した。
「見えてない場所もあるから」
「なるほど」
「貨物札」
アイリが続ける。
「『乾燥麦、二十四袋』。荷主『東部穀物組合第三倉』。行き先『ベルナ継駅倉庫』」
「札の真正性は?」
ガリックが言う。
「未確認」
「積荷との不一致」
「見える範囲では一致しない。ただし積み下ろし後、札の更新遅れ、付け替えなどの可能性あり」
ミレナが書き終えてから紙を見せる。
「これでいい?」
ガリックが一度読み、頷いた。
「いい」
「轍は?」
「街道から斜面へ逸れてる。荷車まで続いてるように見える。ただし、その轍がこの荷車のものかは明日、車輪幅を測ってから」
「そこまでやるの?」
アイリが言う。
「やるならな」
「事故かもしれないのに?」
「事故なら事故だと分かる方がいい」
「誰かが困ってる可能性もあるし」
レンが言う。
アイリの表情が変わった。
「御者が怪我して、助けを探しに行ったとか?」
「あり得ます」
エリリアが周囲を見渡す。
「この近くに集落は?」
「地図だと東へ少し行ったところに小さな農村がある」
ガリックが答える。
「西はさっきの宿場まで戻る方が遠い」
「じゃあ御者が東へ歩いた可能性」
「ある。でも決めるな」
「分かってる」
アイリはそう言いながらも、街道の東側を気にしていた。
「今日はどこまで進む?」
レンが尋ねた。
エリリアが地図を見る。
「この先、半刻ほどのところに街道用の小さな野営地があります。井戸の印もあります」
「荷車から離れる?」
「近すぎる場所で野営する方が危険かもしれない」
ミレナが言う。
「持ち主が戻ってきて、私たちが荷を盗んでるように見えたら面倒」
「触ってないけどな」
「相手がそう思うとは限らない」
「じゃあ野営地」
ガリックが決めた。
「明日の朝、明るくなってから戻る。もし持ち主が戻って荷車がなくなってたら、それも記録する」
「誰かが夜のうちに中身だけ持ってったら?」
アイリが尋ねる。
「それもだ」
「全部、明日にならないと分からないね」
「そういう日もある」
レンが言った。
◇
出発する前、ミレナは荷車の貨物札をもう一度遠くから見た。木札の角は少し欠けているが、文字そのものは読める。積荷の記載と、見えている荷物は一致していない。それ以上に意味を持たせようと思えば、いくらでも持たせられた。
エドラスの空荷。
王都で消えた七件の貨物記録。
六年前、ガリックが見つけた人間を積んだ荷車。
黒い鳥と「外・七」。
東へ伸びるいくつもの線。
どれかと同じだと決めてしまえば、話は簡単だった。
だが、簡単な答えを選ばないために、五人はここまで来た。
「行くよ」
アイリが呼ぶ。
「今行く」
ミレナは荷車へ背を向けた。
レンも移動椅子から斜面の下を見たが、黒銀剣へ手を伸ばすことはなかった。敵がいると決まったわけでもない場所で、剣を抜く理由はない。エリリアも風を使わず、ガリックも荷車を最後まで見ていたものの、六年前の記憶を現在へ重ねるようなことはしなかった。
五人の馬車が再び東へ進み始める。街道上には、さっきまでと同じように無数の轍が残っていた。その中の一本だけが道を外れ、草地の斜面へ続いている。
今の彼らに分かっているのは、それだけだった。だが、その一本の先には、人影のない荷車と、記された積荷に合わない貨物札が残されていた。
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