第三章 第五話 剣を抜かない日
宿場を出て東街道へ戻ってから一刻ほど経った頃、レンは荷台の中央側面へ固定された黒銀剣を、もう何度目になるか分からないほど見ていた。厚布に包まれ、革紐で二か所を留められた剣は、王都を出た日から変わらずそこにある。治安局の封印はすでに外れ、誰かの管理下へ預けられているわけでもない。今は紛れもなくレン自身の手元へ戻っているのに、取り返してから一度も鞘から抜いてはいなかった。
「また見てる」
隣を歩いていたアイリが言った。
「昨日も言われた気がする」
「昨日は道。今日は剣」
「よく見てるな」
「お兄ちゃんを?」
「俺じゃなくて」
「剣もお兄ちゃんも見てる」
レンは返事をせず、視線だけを前へ戻した。午前中の歩行はまだ短い。右上腕の痛みは二から三の間を行き来しており、左前腕から薬指と小指へ残る鈍さも朝から変わっていない。無理をしている状態ではない。それでも、剣を振るうために必要な身体と、ただ街道を歩くために必要な身体が同じではないことくらい、もう分かっていた。
「抜きたい?」
アイリが聞いた。
今度はすぐに否定しなかった。
「……一回くらいは」
「振るの?」
「振らない。ただ、持ってみたい」
「重さを確かめるだけ?」
「ちゃんと握れるかも」
アイリの表情から笑みが消えたが、すぐに「駄目」とは言わなかった。
「右手で?」
「両手」
「左もまだ弱いよ」
「分かってる」
「右は痛い」
「それも分かってる」
「じゃあ何で?」
レンは少し考えた。
「分からない」
「五つ目」
「今それ使う?」
「分からないことを、分かったことにしない」
「そうだったな」
アイリはしばらく黙ってから、前を歩くエリリアを見る。淡い銀髪が弱い風に揺れていたが、その風は彼女が起こしたものではない。今日もエリリアは魔力を使っていなかった。
「休憩したら、みんなで考える?」
「剣を持つだけで会議するのか」
「今のお兄ちゃんが持つなら」
「大げさだろ」
「大げさじゃなくするために話すの」
レンは少しだけ口を歪めた。
「アイリ、ミレナに似てきたな」
「嫌?」
「いや」
「じゃあ休憩まで待って」
「分かった」
それだけで会話は終わった。
以前のレンなら、待つ理由を探すより、抜けるかどうか自分で試していただろう。誰かに止められてから考える方が早かった。だが今は、黒銀剣まで数歩の距離があっても、その数歩を埋める必要は感じなかった。
◇
昼前、五人は街道脇の低い草地で休憩を取った。緩やかな斜面の下には細い水路が流れ、少し離れたところに古い石の道標が立っている。旅人が野営するほど広くはないが、馬を休ませ、人も足を伸ばすには十分な場所だった。
ガリックは荷馬車から降りず、左脚を伸ばしたまま包帯の外側を確かめた。
「痛み三。脇腹二。滲みなし」
「今日は聞く前に早いね」
アイリが言う。
「もう習慣だ」
「良いこと」
「お前は?」
「手は二。肩も二。変わってない」
「レン」
今度はエリリアが呼んだ。
「右腕三。左手は朝と同じ。疲れ二」
「歩くのはここまでにしますか?」
「午後は最初から乗る」
「賢明です」
「褒められた」
「事実を言っただけです」
ガリックが笑う。
「それ俺の台詞だぞ」
「便利なので借りました」
「全員何でも共有しすぎじゃないか」
ミレナが水袋を持って戻ってきた。
「言葉は軽いからいいでしょう。荷物みたいに車軸へ負担もかからないし」
「誰が車軸の話してる」
「ガリックなら喜ぶと思って」
「別に喜ばん」
「顔は少し喜んでる」
「お前ら本当に顔で判断するの好きだな」
五人が笑う中、レンだけは荷台へ目を向けた。
アイリがすぐに気づいた。
「今?」
「ああ」
それだけで、何の話か全員に伝わった。
ガリックは黒銀剣の位置を見る。
「何を確認したい」
「握れるか。重さを受けられるか。それだけ」
「振らない?」
ミレナが尋ねる。
「振らない」
「抜く?」
「……抜いて、構えない程度」
「それ、抜く必要ある?」
その問いに、レンの言葉が止まった。
ミレナは責めるような調子ではなかった。
「剣の重さなら、鞘に入れたままでも分かるでしょう。握りだけなら布を外して柄を持てばいい。刃を出したい理由が別にあるなら、それを先に知りたい」
「情報屋っぽい」
アイリが言った。
「今はそこじゃない」
「ごめん」
レンは黒銀剣を見る。
刃を見たい。
それだけなのかもしれない。
母エレナから渡された剣。村が炎に包まれた夜から、ずっと自分のそばにあったもの。失いかけ、封印され、ようやく戻った。その剣が今も以前と同じなのか、自分の手が今も以前と同じように握れるのか、確かめたかった。
だが、どちらも本当は「刃を出す」ことでしか分からないことではなかった。
「エリリアは?」
レンが尋ねた。
「私なら、今日は抜きません」
迷いのない答えだった。
「やっぱり?」
「はい。でも、剣そのものを避け続ける必要もないと思います。触れるだけなら、身体の状態を確かめる一つの方法になります」
「右腕が三でも?」
「持ち上げないなら」
「柄を握るだけ?」
「それでも十分でしょう」
「何で十分なんだろうな」
レンが苦笑する。
「今日、剣士へ戻らなければいけない理由がないからです」
その一言に、レンは顔を上げた。
エリリアは彼ではなく、自分の細身の剣へ目を向けていた。彼女の剣は腰にある。それでも、この数日、一度も風をまとわせていない。
「私も、剣を持てます。歩けます。魔力も失っていません。それでも、今すぐ以前と同じ戦い方へ戻す必要はありません」
「怖い?」
アイリが静かに聞いた。
エリリアは少し考えた。
「怖さはあります。魔力が使えないからではなく、使えば以前と同じように動けると思い込んでしまいそうなのが」
「前みたいに?」
「身体の疲れを、風で補う癖がありますから。歩幅が足りなければ押す。剣が届かなければ伸ばす。身体が遅れれば、風で先に動く。便利ですが、自分がどこまで回復したのか分かりにくくなります」
レンは初めて、その理由を具体的に聞いた気がした。エリリアが風を使わないのは、ただ魔力を温存するためではない。今の身体が何をでき、何をまだできないのか、魔法で覆い隠さずに知るためでもあった。
「だから、今日は身体だけ?」
「はい」
エリリアは立ち上がると、剣を鞘に収めたまま、草地の開けた場所へ移動した。
「何するの?」
アイリが尋ねる。
「少しだけ動きます。剣は抜きません」
「一緒だな」
レンが言う。
「そうですね」
◇
エリリアが始めたのは、戦闘と呼べるほどのものではなかった。足を肩幅ほどに開き、重心を落とし、右足を一歩前へ出す。止まる。戻る。今度は左へ。腰の細身の剣には触れず、両腕も大きく振らない。前後左右へ動きながら、足裏が地面を捉える位置と、膝や腰へかかる負担を一つずつ確かめていく。
レンは草の上へ腰を下ろしたまま、その動きを見ていた。
以前のエリリアなら、一歩の中に風があった。地面を蹴る瞬間に空気を押し、普通の剣士では届かない位置へ身体を滑らせる。細身の剣へ風を沿わせれば、刃の軌道そのものが伸びて見えるほど鋭かった。
今は全部、自分の身体だけだった。
当然、遅い。
けれど、不安定ではない。
「右へ動く時だけ少し狭い」
ガリックが言った。
エリリアが止まる。
「分かりますか?」
「左へ出る時より一足分だけ慎重だ」
「痛みはありません。ただ、右へ踏み込む時に身体が先に止めようとします」
「疲労が残ってた時の癖かもな」
「そうかもしれません」
「無理に広げるな」
「はい」
ガリックは元街道警備であって剣術の師ではない。それでも、人が負傷したまま歩き、走り、倒れる場面を長く見てきた経験があるのだろう。エリリアもそれを分かっているから、素直に動きを小さくした。
アイリは少し離れたところから、エリリアの呼吸を見ていた。
「息は?」
「まだ余裕があります」
「疲れは?」
「三に上がりました」
「じゃあ、あと少し?」
「あと二往復だけにします」
「自分で決めた」
「はい」
エリリアは二度だけ左右へ動き、最後に元の位置へ戻った。風は一度も起きなかった。
「終わりです」
「もっとできそう」
レンが言う。
「できます」
「でもやらない?」
「今日はここまでと決めましたから」
「それ、難しいな」
「レンにも必要です」
「分かってる」
「なら良いです」
エリリアは笑い、再び草の上へ座った。
ミレナが水袋を渡す。
「魔力なしでも普通に動けるじゃない」
「普通より少し慎重です」
「それを普通って言うんじゃないの?」
「どうでしょう」
「五つ目」
「最近それを言えば何でも許されると思ってませんか?」
「思ってる」
「正直ですね」
エリリアが水を飲み、呼吸を整える。
レンはもう一度黒銀剣を見た。
「俺もやる」
「何を?」
アイリが尋ねる。
「触るだけ」
ガリックが荷台へ手を伸ばし、剣を固定している革紐の片方だけを外した。
「全部外すな」
「分かってる」
「布は?」
「柄のところだけ」
ミレナが厚布をずらし、黒銀の柄が少しずつ露わになる。
レンの胸の奥に、懐かしさとは違う感覚が生まれた。
ずっと知っているものなのに、ひどく久しぶりに見るような気がした。
剣は何も変わっていない。
柄の黒い革。金属の冷たい縁。握り慣れた太さ。
変わったのは自分の方だった。
レンは右手を伸ばした。
「痛みが上がったら言って」
アイリ。
「ああ」
「左も無理に握らないで」
「分かってる」
「持ち上げない」
ガリック。
「分かってるって」
「三人に言われてる」
ミレナが笑う。
「お前も何か言うのか」
「私は、嫌なら途中でやめてもいいって言う」
「一番普通だな」
「貴重でしょう」
レンは柄へ右手を置いた。
冷たかった。
そのまま指を閉じる。親指、人差し指、中指。次に薬指、小指。右手は握れる。傷のある上腕にも、柄を掴んでいるだけなら強い痛みは来ない。
左手も添えた。
親指と人差し指、中指はすぐに位置を取る。薬指と小指は遅れ、最後までしっかり閉じようとすると、前腕の奥に鈍い違和感が走った。
「左、三」
レンが言った。
「右は?」
「三のまま」
「疲れは?」
「二」
アイリが頷く。
「それで?」
ガリックが尋ねる。
「持ち上げられそう」
「聞いてない。今分かったことだ」
レンは手の中の柄を見る。
右手は握れる。
左手も、完全ではないが添えられる。
今の身体でも、剣そのものを持つことはできるだろう。
「抜きたいか?」
ガリックが尋ねた。
レンはすぐには答えなかった。
剣を数寸抜けば、自分がどこまで戻ったのかもっと分かる気がした。刃の重さが手へ乗れば、昔と比べられる。構えれば、足の状態も分かる。振れば、もっと分かる。
そうやって一つ進めば、次も試したくなる。
まだできる。
もう少しなら。
痛みが上がるまでは。
その考え方を、レンはよく知っていた。
「……抜かない」
自分から手を離した。
アイリは何も言わなかった。ただ、少しだけ表情を緩めた。
ガリックが革紐を戻す。
「理由は」
「今日知りたかったことは分かった」
「何が?」
「握れる。でも、左はまだ遅い。右も剣を振れる状態かは分からない」
「それだけ?」
「それ以上は、今日知らなくていい」
エリリアが静かに微笑んだ。
「十分です」
「さっきと同じこと言ったな」
「今度は意味が分かったでしょう?」
「少し」
ミレナが布を元へ戻しながら言う。
「剣って面倒ね」
「情報屋に言われたくない」
「私の紙は人を斬らない」
「場合によるだろ」
「それはそう」
短い笑いが草地へ広がった。
黒銀剣は再び厚布に包まれ、荷台へ固定された。
その日、レンは剣を抜かなかった。
だからといって、剣から逃げたわけでもなかった。
◇
午後はレンも最初から移動椅子を使い、五人は無理のない速度で東街道を進んだ。エリリアは休憩後も風を使わず、身体に残った疲労を自分の感覚だけで確かめている。歩行そのものに問題はなく、先ほどの動きで痛みが出た場所もない。ただ、普段なら無意識に風で補っていた細かな動作を一つずつ自分の身体へ戻すことには、思った以上の集中力が必要らしかった。
「疲れ四です」
午後の休憩でエリリアが言った。
「魔力は?」
レンが尋ねる。
「使っていないので、朝と変わりません」
「身体だけ疲れた?」
「はい。今はその方が分かりやすいです」
「変な感じ?」
「少し。でも悪くありません」
レンは自分の右腕を確認する。痛みは三。剣の柄を握ったことで悪化してはいない。左手も、薬指と小指の鈍さはあるが朝と同じだった。
「剣、握ったあとも変わってない」
自分から言うと、アイリが頷いた。
「じゃあ今日は成功?」
「抜いてないのに?」
「抜かなかったから成功なんじゃない?」
「そういう考え方ある?」
「今日できることを確かめる日だったんでしょう」
「たぶん」
「また五つ目」
ミレナが言った。
「今のはたぶんでいいだろ」
「私は責めてない」
ガリックが幌の中から顔を出す。
「今日は誰も余計に壊れてない。それで十分だ」
「言い方がひどい」
アイリが笑う。
「事実だ」
「またそれ」
「便利なんだよ」
街道には午後の長い影が落ち始めていた。行き交う荷車の車輪が乾いた土へ何本もの轍を刻み、それらは交わり、重なりながら東へ続いている。商人の車も、農家の荷車も、旅人の馬車も同じ道を通るのだから、それ自体に特別な意味はない。
五人はその日、何か大きな答えを得たわけではなかった。敵と遭遇したわけでも、過去へ繋がる記録を見つけたわけでもない。
レンは剣を抜かなかった。
エリリアも風を使わなかった。
それでも二人は、自分たちが止まっているのではなく、戻るために進んでいるのだと少しだけ理解していた。
夕方の東街道には、無数の車輪の跡が残っていた。
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