第三章 第四話 戻る時刻
翌朝、宿場の通りがまだ本格的に動き始める前から、ミレナは一階の食堂で地図を広げていた。窓の外では厩舎番が馬へ水を与え、パン屋の煙突から細い煙が上がり始めている。前夜のうちに共同費の大まかな扱いを決めた五人は、朝食を終えたあと、出発前にそれぞれ必要な用事を済ませることにしていた。アイリは薬袋の整理、ガリックは荷馬車の車輪と積荷の確認、エリリアは馬の状態と今日の街道の天候を見る。レンは午前中の歩行量を抑え、宿を出てから最初の区間をどれだけ自分の足で進むかを決める予定だった。その中で、ミレナだけは少し違う予定を持っていた。
「一人で会いたい人がいる」
地図から顔を上げて彼女が言うと、卓を囲んでいた四人の視線が集まった。
「誰?」
アイリが尋ねる。
「昔、何度か情報を買ったことがある人。この宿場を通る荷の出入りをよく見てる」
「情報屋?」
「違う。荷札を書いたり、商人の代わりに簡単な帳面をつけたりする人。正式な記録係じゃないし、役所の人間でもない」
ガリックが手元の紙から顔を上げる。
「この先の街道について聞くのか」
「それと、最近の通行状況。王都を出たばかりだから、少なくともこの先で何が普通なのかは知っておきたい」
「例の空荷や六年前の件?」
レンが尋ねると、ミレナはすぐに首を横へ振った。
「まだそこまで広げない。似た話があるか探し始めたら、何でも似て見えるから。今日は普通の街道情報だけ」
「誰かが荷車を探してるとか?」
「そういう具体的な話が向こうから出れば聞く。でも、こっちから答えを誘導する質問はしない」
アイリが頷いた。
「じゃあ、何時に戻る?」
ミレナが僅かに眉を上げた。
「そこから?」
「昨日決めたでしょう」
「覚えてる」
ミレナは地図上の宿場東側へ指を置いた。
「東の荷置き場の先に古い桶屋がある。その裏手。ここから歩いて十五分くらい。九時前に出て、遅くても十一時には戻る」
「二時間?」
「相手がすぐ来ればもっと早い。でも、待たされるかもしれない」
「十一時を過ぎたら?」
今度はレンが尋ねた。
「十五分は待って」
「何で十五分?」
「宿場の時計と相手の持ってる時計がずれてる可能性があるから。十一時ちょうどに戻らなかっただけで探しに来られたら困る」
「じゃあ十一時十五分」
アイリが確認する。
「そこまでに戻らなかったら?」
ミレナは少し考えた。
「まず宿で待って。十一時半になったら、私が行った場所を確認していい」
「一人で?」
「できれば二人。でも、ガリックは歩かせない。レンも今は長く歩かない。だからアイリとエリリア……」
「私が行きます」
エリリアが静かに答えた。
「アイリは?」
「宿でレンとガリックと待つ」
アイリは少し不満そうに見えたものの、自分の右肩と両手の状態を思い出したのか、すぐに頷いた。
「分かった」
「でも、そこまで遅れる可能性は低い」
「可能性が低いのと、何も決めないのは違う」
ガリックが言う。
ミレナが彼を見る。
「また便利な言葉増えた?」
「事実だ」
「それ、本当に好きね」
「間違ってるか?」
「間違ってない」
レンは地図を見ながら尋ねた。
「一緒に行く必要はない?」
「ない」
答えは即座だった。
「相手は私が一人で来る方が話しやすい。五人で囲んだら警戒されるし、知らない人間を連れていけば、次から会ってくれなくなるかもしれない」
「危険は?」
「低いと思う。でも、ないとは言わない」
「武器は?」
「短剣一本。いつも通り」
「誰かが追ってたら?」
「戻らない。宿へ直接連れてくる方が危ないから」
アイリの表情がすぐに変わった。
「その場合は?」
「予定の場所へ行かず、人が多いところへ移る。もし十一時半まで戻れなかったら、エリリアが桶屋を見に来ても私がいない可能性がある」
「それじゃ探せない」
「だから、二つ目を決める」
ミレナは地図を少し動かし、宿場中央の共同井戸を指した。
「もし予定を変えた時に安全なら、ここへ小さな白い紙を一枚置く。井戸の南側、石の継ぎ目。紙があれば『予定変更、追わなくていい』。何もなければ、最初の場所を確認して」
「文字は書かない?」
「書かない。誰かに拾われても意味が分からない方がいい」
ガリックが少し考える。
「白い紙が風で飛んだら?」
「石の継ぎ目へ挟む」
「雨は?」
エリリアが窓の外を見る。
「昼までは降らないと思います。魔力は使っていませんが、雲の流れを見る限り、大きく崩れる様子はありません」
「なら使える」
ミレナが頷く。
レンは卓の上の地図へ目を落とした。以前のミレナなら、「少し出てくる」とだけ言って、戻る時間も場所も曖昧なまま消えていただろう。今は行き先、目的、予定時間、遅れた場合の確認方法まで、自分から言葉にしている。だからといって、誰かを同行させるわけではないし、情報源の名前まで明かすわけでもない。
「それでいいと思う」
レンが言った。
「一人で行くの?」
アイリが確かめる。
「一人で行く」
「本当に?」
「一人で行くこと自体は禁止してないでしょう」
「うん」
「一人で消えるのが駄目」
「そう」
「じゃあ、私は消えない。一人で行って、一人で戻る」
ミレナはそう言って地図を畳んだ。
「十一時までに」
「十一時十五分までは待つ」
アイリが訂正する。
「細かい」
「大事」
「分かった。十一時十五分までに」
その返事を聞いてから、四人はそれ以上止めなかった。
◇
ミレナが宿を出たのは、宿場の鐘が九時を告げる少し前だった。濃い灰色の外套を羽織り、記録袋は最低限だけ。銀の羽飾りも目立たない位置へ寄せている。宿の入口で一度振り返ると、アイリが窓からこちらを見ているのに気づき、ミレナは眉を上げた。
「見送り?」
「確認」
「まだ一歩も行ってない」
「行ってらっしゃい」
「行ってくる」
それだけ言って、ミレナは東へ向かう人の流れへ紛れた。姿が見えなくなっても誰も追わず、アイリだけがしばらく窓際に立っていたが、やがて自分から離れて卓へ戻った。
「気になる?」
レンが聞く。
「少し」
「俺も」
「追わなくていいの?」
「行き先も戻る時間も分かってる」
「危なくなったら?」
「その時の手順も決めた」
「でも……」
アイリはそこまで言って口を閉じた。レンには何を言おうとしたのか分かった。危険かもしれないなら一緒に行けばいい。守れるなら守った方がいい。アイリ自身にも、レンにも、そう考える癖が長く残っている。
だが、ミレナは守られるために旅へ加わったわけではない。
「一人で行ける人まで、全部一緒に動いたら何もできなくなる」
ガリックが荷車の車輪を確認するため、宿の裏へ向かう準備をしながら言った。
「でも何かあったら?」
アイリが尋ねる。
「何かあった時に動けるよう、今決めたんだろ」
「そうだけど」
「自由にやることと、勝手に消えることは違う」
レンが言うと、ガリックが振り向いた。
「お前がそれ言えるようになったか」
「何だよ」
「少し前なら、アイリが一人でどこか行くって言ったら付いてっただろ」
「アイリとミレナは違う」
「どこが?」
「妹と情報屋」
「そうじゃなくて」
レンは返事に詰まった。
エリリアが横から静かに口を挟んだ。
「ミレナは、一人で動くことそのものが仕事の一部だった人です。そこまで奪えば、仲間になる前よりできることが減ってしまいます」
「でも約束は守る」
アイリが言う。
「はい。だから、自由をなくすのではなく、戻れる形を作るんだと思います」
アイリは窓の外へ一度だけ目を向けた。
「戻れる形」
「昨日のガリックと少し似ていますね」
「俺?」
「白環は、戻るために離れられない場所ではなくなったと言っていたでしょう」
ガリックが少し黙った。
「覚えてたのか」
「聞いていましたから」
「隣の部屋だったのに?」
「レンから朝聞きました」
「話したのか」
「秘密じゃないだろ」
「まあ、そうだが」
アイリが小さく笑う。
「ミレナも、離れられるけど戻ってくるってこと?」
「たぶん」
レンが答えた。
「本人に言ったら嫌がりそう」
「絶対嫌がる」
四人は笑い、それぞれの用事へ戻った。
レンは宿の裏庭で歩行の調子を確かめた。右上腕の痛みは朝の二から変わっておらず、左手は薬指と小指に鈍さが残るものの、軽い物なら短時間持てる。古い右脚の傷も、宿場の中を歩く程度なら問題なかった。それでも今日は無理に距離を伸ばさず、宿を発ったあと最初の短い区間だけ歩くことにする。黒銀剣は一階の部屋へ置いたままで、触れることも抜くこともなかった。
アイリは宿の食堂の端を借り、薬箱の中身をエリリアへ説明した。包帯、消毒用の酒、止血用の布、火傷へ使える軟膏。どれを最初に出せばいいのか、何を勝手に飲ませてはいけないのかを、全部ではなく緊急時に必要な範囲だけ共有する。
「これは?」
エリリアが小さな包みを指した。
「胃薬。昨日ミレナが取ってきた香草とは別」
「ガリックに必要そうですね」
「何で俺を見る」
少し離れた場所で荷物表を書いていたガリックが言う。
「食べすぎるから」
「まだ朝だぞ」
「昨日いっぱい食べてた」
「旅では食える時に食う」
「白環?」
「これは昔からだ」
ガリックはそう答えながら、自分の左脚を伸ばした。今日は宿場の中で必要以上に歩かず、荷車の確認も厩舎番に動かしてもらった状態で行う。痛みは朝から三、脇腹は二で、新しい滲みもない。
エリリアも風の流れを魔力で探らず、宿の軒先に掛けられた布や煙の向きから天候を読んでいた。風を使えることと、使う必要があることは違う。その判断を、彼女自身も少しずつ日常へ戻している。穏やかな時間が続いていたからこそ、アイリは何度も宿の時計を見た。十時になった時も、十時半になった時も、誰も何も言わなかったが、十一時が近づく頃にはレンも窓の外へ目を向けていた。
「まだ十分ある」
ガリックが言う。
「分かってる」
「顔が分かってない」
「それ昨日からみんな使いすぎ」
「便利だから」
やがて十一時の鐘が鳴ったが、ミレナは戻らなかった。アイリがすぐに立ち上がりかけると、レンが先に声をかける。
「十五分」
「分かってる」
アイリは座り直した。
十一時を五分ほど過ぎた頃には食堂へ新しい客が入り、さらに十分を過ぎる頃、宿の前を一台の荷車がゆっくり通り過ぎていった。アイリはもう時計を見ず、代わりにレンを見る。
「あと五分」
「うん」
エリリアはすでに外套を手元へ置いていたが、まだ立たなかった。
そして十一時十三分になったところで、宿の扉が開いた。
「ただいま」
ミレナが入ってきた瞬間、アイリが大きく息を吐いた。
「遅い」
「まだ十三分」
「十一時って言った」
「十一時十五分までは待つってあなたが訂正したでしょう」
「そうだけど」
「守った」
「ぎりぎり」
「二分ある」
「ぎりぎり」
ミレナは少し笑いながら外套を脱いだ。
「誰も追ってこなかった?」
「いない。予定変更もなし。だから白い紙も置いてない」
「何かあった?」
レンが尋ねる。
「相手が遅れた。それだけ」
「本当に?」
「本当。私が着いた時にはまだ来てなくて、十分くらい待った」
「だから遅れたのか」
「そう」
ガリックが彼女の歩き方を見る。
「怪我は」
「なし。疲れ二。走ってない」
「何か食べた?」
アイリが尋ねる。
「何でそこまで」
「朝から出てたから」
「向こうで茶だけ」
「じゃあパン残ってるよ」
「……ありがとう」
ミレナが卓へ腰を下ろすと、四人の空気から僅かな緊張が抜けたのが分かったのだろう。彼女は少しだけ眉を寄せた。
「そんなに心配した?」
「十五分は長い」
アイリが言う。
「十三分」
「同じ」
「違う」
「帰ってきたからいい」
レンが言った。
「で、話は?」
ミレナは差し出されたパンを一口食べてから、鞄の中から小さな紙を取り出した。
「大したものじゃない。だから大したものじゃないまま話す」
「五つ目」
ガリックが言う。
「あなたまでそれ言うの?」
「先に続けろ」
ミレナは紙を卓へ置いた。
「ここから先の東街道は、今のところ普通に動いてる。商人の数も特別減ってない。三日前に大雨があった地域もない。大きな山崩れも、橋の閉鎖もなし」
「治安局の検問は?」
レンが尋ねる。
「この宿場から東へ二つ先の継駅に通常の通行確認がある。でも、それ自体は以前からあるものらしい。王都から何か特別な命令が来たって話は、相手は知らない」
「知らないだけかもしれない」
アイリが言う。
「そう。だから『ない』じゃなくて『相手は知らない』」
「他には?」
エリリアが尋ねる。
「最近、荷札の書き直しが少し増えてるって」
ガリックの表情が変わった。
「何の荷だ」
「そこ」
ミレナがすぐに手を上げた。
「反応すると思った。でも、まだ意味は分からない」
「どういう書き直し?」
「荷主の名前や行き先じゃなくて、積み替えの順番を変えた時に貼り直す程度のもの。季節の変わり目には普通に増えるらしい」
「なら異常とは言えない」
「そういうこと」
ガリックは少し考え、それ以上追わなかった。
「空荷の話は?」
レンが聞く。
「こちらからは聞いてない。向こうからも出なかった」
「エドラスの名前も?」
「出してない」
「黒い鳥は?」
「出してない」
「六年前の護送も?」
「もちろん出してない」
ミレナは四人を見る。
「今日の目的は、今の東街道で何が普通なのか知ること。そこへ全部の謎を持ち込んだら、普通が分からなくなる」
アイリが頷いた。
「普通を先に知る」
「そう。異常を見つけるには、その方が早い」
レンは卓の上の紙を見る。そこに書かれているのは、橋が開いていること、継駅が通常どおり動いていること、商人の数が特別減っていないこと、荷札の書き直しが季節的な範囲で増えていること。どれも答えではないからこそ、この先で何かを見つけた時に比べられる基準になる。
「相手の名前は?」
アイリが尋ねた。
ミレナは少しだけ笑う。
「それは言わない」
「やっぱり?」
「必要ないでしょう」
「うん」
アイリは素直に頷いた。
「戻る時間と場所は必要。でも、誰と会ったか全部までは必要じゃない」
「学んだ?」
「昨日と今日で」
「早い」
「ミレナが教えてくれたから」
「私は何も教えてない」
「見てたら分かった」
「怖い妹ね」
「妹って誰の?」
「レンの」
「そこは合ってる」
レンが言い、卓を囲んだ空気に笑いが戻った。
◇
昼前、五人は宿を出る準備を始めた。荷馬車へ荷物を戻し、共同費から宿代を精算し、馬へ水を与える。ガリックは積荷の位置を確認したが、今回は朝ほど大がかりな積み直しを要求しなかった。
「珍しい」
ミレナが言う。
「崩れてないからな」
「成長?」
「お前ら本当にその言葉好きだな」
アイリは薬袋を自分で持てる軽さに調整し、右肩へ負担をかけない位置へ固定する。エリリアは馬の脚と蹄を確認し、今日も風は使わない。レンは移動椅子の横へ立ち、最初の短い区間だけ歩くつもりで右腕の状態を確かめた。黒銀剣は厚布に包まれたまま、荷台の中央側面へ固定されている。
最後にミレナが宿の入口から通りを振り返った。
「何?」
レンが尋ねる。
「別に」
「また誰かに会う?」
「今日はもうない」
「戻る時刻も?」
「今日はずっと一緒でしょう」
「たぶん」
「五つ目?」
「まだ宿場を出てもないから」
ミレナが笑う。
「そういう使い方なら許す」
五人は荷馬車とともに東街道へ戻った。宿場の建物が少しずつ背後へ遠ざかる中、アイリが歩きながらミレナを見る。
「一人で行っても、ちゃんと戻ってきたね」
「当然でしょう」
「前なら?」
ミレナはすぐには答えなかった。
「前なら、戻る時間なんて決めなかった」
「今は?」
「決めた方が楽だった」
「楽?」
「誰かが勝手に探し始めないって分かってたから」
その答えに、アイリが少し驚いたような顔をする。
「自由が減ったんじゃないの?」
「逆かも」
ミレナは前を向いた。
「戻る場所が分かってる方が、一人で遠くまで行けることもある」
エリリアが静かに笑った。
「それなら、良かったです」
「まだ慣れてないけどね」
「慣れなくてもいいんじゃない?」
レンが言う。
「守れれば」
「約束を?」
「戻る時刻を」
ミレナは少しだけ目を細めたあと、前を向いたまま答えた。
「次も言う」
それ以上の約束はしなかった。一人で動けることを捨てず、誰かに監視される旅にもせず、それでも自分がどこへ行き、いつ戻るのかだけは残しておく。五人で旅を始めてまだ日が浅い彼らには、それで十分だった。
東街道は朝より明るく伸びていた。その先に何があるのかは、まだ誰にも分からない。それでも、戻る時刻だけは、もう誰か一人の胸の中だけにしまわれるものではなかった。
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