第三章 第三話 街道の宿
宿場へ着いた時にはまだ午後の明るさが残っていたが、五人が荷馬車とともに通りを一往復する頃には、軒先へ吊るされた灯りが一つずつ点き始めていた。大きな宿屋は厩舎こそ広いものの、荷運びの商人たちでほとんど埋まっている。二軒目は空室があったが、二階へ上がる階段が急で、左脚を痛めているガリックには向かなかった。結局、五人が選んだのは宿場の東寄りに建つ二階建ての宿で、一階の奥に客室があり、裏庭から厩舎へ回れる場所だった。王都の宿と比べれば古く、木の床には長年の荷靴が刻んだ細かな傷が残っている。それでも寝台は清潔で、井戸も近く、何よりガリックを階段へ上げずに済む。
「ここならいい」
入口から中を確かめたガリックが言うと、アイリがすぐ横から顔を覗き込んだ。
「左脚?」
「それもある。荷馬車を裏へ回せるし、朝になって積み直す時も楽だ」
「また積み直すの?」
「崩れてたらな」
「今日はもう見なくていい?」
「宿へ入れる前に一回見る」
「聞かなきゃよかった」
アイリが小さく肩を落とす。その右肩へ余計な力が入っていないことを確認してから、レンは自分の右上腕へ意識を向けた。宿場へ入ってからの短い徒歩だけでも、朝よりは疲労が溜まっている。痛みそのものは三のままだったが、荷馬車から何度も乗り降りしたせいか、傷の奥に重い感覚があった。
「俺は先に座る」
レンが言うと、アイリがすぐに振り向いた。
「痛み?」
「三。変わってない。でも重い」
「疲れは?」
「四」
「じゃあ座ってて」
「分かってる」
以前なら、その返事のあとに「まだ平気だ」と付け足していたかもしれない。今は宿の入口脇に置かれた長椅子へ素直に腰を下ろし、右腕を無理に動かさず、左手も膝へ置いた。
エリリアはその様子を確認してから受付へ向かった。ミレナも続き、ガリックは杖を使って短い距離だけ自分の足で進む。左脚へ荷重をかける時間は短く、歩幅も狭い。後ろから見ていたアイリが何か言いかけたが、ガリック自身が途中で立ち止まった。
「痛み四。疲れ三」
「聞いてない」
アイリが言う。
「言われる前に言った」
「みんな同じことするようになった」
「便利だからな」
ガリックは壁際の椅子へ腰を下ろした。
受付の向こうでは、中年の宿主が帳面を開きながら五人を見比べていた。旅人を見慣れているらしく、武器を持った者がいても、怪我人がいても特別な顔はしない。ただ、レンの移動椅子、ガリックの杖、荷物の多さを順番に確認してから、人数を書き込む手を止めた。
「五人で一緒かい?」
「はい」
エリリアが答える。
「部屋はどうする? 三人組と、そっちの二人は別でいいのか?」
一瞬、誰も返事をしなかった。
宿主に悪意があるわけではない。ただ、外から見ればそう見えるのだと、その短い問いで分かった。レンとアイリとエリリアには、長く一緒に旅をしてきた者同士の距離がある。荷物の扱いも、誰がどこに立つかも、互いに確認せず動ける部分が多い。一方でガリックとミレナは、王都を出てから正式に旅へ加わったばかりで、まだ三人と同じ呼吸になっているわけではなかった。
「別じゃない」
最初に答えたのはレンだった。
宿主がレンを見る。
「五人で一緒です」
今度はアイリが言った。
「そうか。一階に二人部屋が一つ、二階に三人まで入れる部屋が一つなら空いてる」
ガリックが眉を寄せた。
「俺は一階だな」
「当然」
ミレナが言う。
「レンも一階の方がいいでしょう。何度も階段を上がる必要ないし」
「俺は上がれる」
「上がれるのと、上がる必要があるのは別」
エリリアが静かに言った。
「それ昨日も聞いた」
「便利ですから」
「広まってるな」
レンは苦笑しながらも反論しなかった。
「じゃあ俺とガリックが一階?」
「それがいいと思う」
アイリが答える。
「私たち三人が二階?」
ミレナが自分とアイリ、エリリアを順番に指す。
「嫌?」
アイリが尋ねる。
「嫌じゃないけど、私、誰かと同じ部屋で寝るの久しぶり」
「鼾かく?」
「知らない」
「寝言は?」
「知らない」
「歯ぎしり」
「何で全部悪い方なの?」
「確認」
「そういう確認はいらない」
アイリが笑い、エリリアも小さく口元を緩めた。
「三人なら荷物も分けやすいです。私たちの部屋へ薬と軽い荷物を置きましょう」
「記録は全部持って上がらない」
ミレナがすぐに言った。
「朝決めたから。身につける分だけ私。荷台へ残す分は施錠できる内箱。もう一つは……」
彼女が周囲を見る。
「レンたちの部屋に置く?」
「俺とガリック?」
「同じ場所へ集めないため」
ガリックが頷いた。
「一袋くらいならいい。ただし寝台の下には入れるな。夜中に踏む」
「踏むほど歩かないでしょう」
「火事になったら歩く」
「そういう時だけ元警備兵になるのやめて」
「元じゃなくても火事なら逃げる」
「それはそう」
宿主は五人のやり取りを黙って聞いていたが、やがて帳面へ何かを書き込み、部屋の鍵を二つ出した。
「で、支払いはまとめるのか?」
再び五人が黙ったが、今度は前ほど長くなかった。
「まとめます」
レンが答えた。
「共同費から」
ミレナが付け足した。
「もう作ったの?」
アイリが驚く。
「さっき雑貨屋を出たあと、最低限だけ。宿へ入ってからちゃんと決めるって話だったでしょう」
「いつの間に」
「あなたたちが鍋を荷台へ固定してる時」
「言った?」
「ガリックに」
ガリックが頷く。
「聞いた」
「また一人だけ」
「近くだったからいいでしょう」
「うん。合格」
「何の合格なの」
宿主が少しだけ笑った。
「旅の初めか?」
五人がまた顔を見合わせた。
「三人なら長いです」
エリリアが答える。
「五人なら二日目」
「なるほど」
宿主はそれ以上聞かなかった。その言葉だけが、妙に五人の中へ残った。
◇
荷馬車を裏庭へ回し、馬を厩舎へ預けてから、五人は荷物を必要な分だけ部屋へ移した。ガリックの指示どおり、黒銀剣は荷台へ置いたままにはせず、レンとガリックが使う一階の部屋へ運ばれる。厚布は外さず、寝台と壁の間へ横向きに置き、すぐ手に取れるほど近くも、誰かが不用意に踏めるほど通路寄りでもない位置へ固定した。
レンは剣を運ぶ手伝いをせず、寝台へ腰を下ろしたまま、ミレナとエリリアが二人で黒銀剣を運び、ガリックの指示した場所へ置くのを見ていた。以前なら、自分の剣なのだから自分で運ぶと言っただろう。右腕が痛んでも、左手の指が思うように動かなくても、他人へ持たせる方を嫌がったかもしれない。
「変な顔」
ミレナが言う。
「どんな」
「取り返したのに触れない人の顔」
「触れるよ」
「じゃあ触る?」
レンは少し考えた。
「今はいい」
「成長」
「それアイリみたいに言うな」
「全員にうつってる」
ミレナが部屋を出ると、ガリックは杖を壁へ立てかけ、自分の寝台へ慎重に腰を下ろした。左脚を伸ばしてから包帯の位置を確かめる。
「滲みは?」
レンが聞く。
「ない。痛み四のまま」
「脇腹は?」
「二。馬車に乗ってる分には問題ない」
「ならいい」
「お前は?」
「右腕三。左手は変わらない。疲れ四」
「夕飯食ったら寝ろ」
「まだ早い」
「早く寝ろとは言ってない。寝られる時に寝ろって意味だ」
「それ白環?」
「半分」
「もう半分は?」
「警備時代」
「便利だな、その二つ」
「使えるものは使う」
レンは壁へ背を預けた。部屋は広くないが、二人で使うには十分だった。窓からは厩舎の屋根が見え、下から馬の鼻息や蹄が床を擦る音が聞こえてくる。王都の白環にいた時のような緊張した足音も、門の外へ集まる兵士の気配もない。
「ガリック」
「何だ」
「白環、気になる?」
唐突な問いに、ガリックの手が止まった。
「気になる」
「戻りたい?」
「今すぐ?」
「いや」
「それなら、戻りたい場所ではある」
ガリックは少しだけ考えてから続けた。
「でも、戻るためにここから離れられない場所じゃなくなった」
レンは少しのあいだ黙ってその言葉を受け止めた。
「変か?」
「いや」
「お前たちと来たこと、後悔してるように見えたか」
「見えない」
「なら聞くな」
「確認しただけ」
「アイリみたいになってきたな」
「兄妹だから」
「それ、お前も使うのか」
ガリックが呆れた顔をして、レンは笑った。
◇
二階の部屋では、別の問題が起きていた。
「そこ、私の寝台」
ミレナが言った。
「まだ決めてないよ」
アイリは窓際の寝台へ腰を下ろしたまま答える。
「窓際は私」
「どうして?」
「何かあった時、外を見るから」
「私も見る」
「情報屋だから?」
「そう」
「エリリアは?」
二人の視線を受けたエリリアは、部屋の中央に置かれた荷物を整理しながら少し困ったように瞬いた。
「私はどこでも構いません」
「一番ずるい答え」
ミレナが言う。
「では、アイリが窓際でいいのでは?」
「何で?」
「夜中に外の音がした時、あなたはどうせ最初に起きようとするでしょう」
「それならミレナも同じじゃない?」
「私は起きても黙って見る」
「そこが問題」
「今は黙って行かない」
「見るだけ?」
「見るだけなら」
「外に出る時は?」
「言う」
「戻る時間は?」
「夜中に宿の外へ行くなら言う」
「合格」
「だから何の試験なの」
結局、窓際はアイリ、扉に近い寝台をミレナ、中央をエリリアが使うことになった。誰かが命令したわけではない。アイリは夜中に目を覚ましても外へ出るには二人の前を通る必要があり、ミレナは扉の近くなら外の気配を確かめやすい。エリリアは二人のどちらかが無理をすればすぐ気づける位置だった。
荷物を置き終えると、アイリが自分の薬袋を開いた。宿場で買った包帯と消毒用の酒、虫刺され用の軟膏、それに馬用の傷薬を分ける。王都を出る前より少し増えた中身を、一つずつ場所を決めながら収めていく。
「それ全部覚えてるの?」
ミレナが尋ねた。
「何がどこに入ってるか?」
「うん」
「だいたい。薬草は匂いでも分かるし」
「私の記録と似てる」
「紙と薬が?」
「何がどこにあるか、自分の中だけで分かってるところ」
アイリの手が止まる。
「じゃあ、これも誰かに教えた方がいい?」
「全部じゃなくても」
エリリアが隣へ腰を下ろした。
「緊急時に必要なものだけでいいと思います。包帯、消毒、止血に使えるもの。細かな薬草まで全員が覚える必要はありません」
「じゃあ後でお兄ちゃんたちにも言う」
「良いと思います」
ミレナが自分の記録袋を開きながら笑う。
「五人になると、秘密が減るね」
「嫌?」
アイリが聞く。
「少し怖い」
答えは思ったより早かった。
アイリが顔を上げる。
「怖い?」
「一人で仕事してた時は、私が知ってることは私のものだった。誰に何を渡すかも、私だけで決められた。今は、自分だけで持たない方が安全なものが増えてる」
「それが嫌なんですか?」
エリリアが尋ねる。
「嫌じゃないから困ってる」
ミレナは手元の革袋を見た。
「慣れたら、前みたいに戻れなくなりそうでしょう」
アイリはしばらく考えたあと、薬袋を閉じた。
「戻らなくてもいいんじゃない?」
「簡単に言うわね」
「だって、一人に戻りたいなら来なかったでしょう?」
ミレナが言葉を失った。
「違った?」
「……違わない」
「じゃあ大丈夫」
「何が」
「まだ分からない。でも、たぶん大丈夫」
「五つ目は?」
「分からないって言ったから守ってる」
ミレナは数秒黙ったあと、吹き出すように笑った。
「あなた、本当に使い方うまいわね」
「白環で練習したから」
「そういうもの?」
「たぶん」
「また五つ目」
エリリアまで笑い、三人の部屋には、宿へ入った時よりずっと柔らかな空気が残った。
◇
夕食時になると、一階の食堂は旅人たちでほぼ埋まっていた。五人は壁際の長い卓を使い、宿代と一緒に頼んだ煮込み料理と黒パンを分ける。新しく買った鍋はまだ荷馬車の中で、ガリックは自分で料理できないことを少し残念そうにしていたが、目の前へ大きな肉の入った皿が置かれると不満は消えた。
「それ二人分じゃない?」
アイリが言う。
「俺のだ」
「朝の話、本当だった」
「何が」
「七人分の鍋」
「だから必要だっただろ」
「五人分じゃなくて、ガリック分が大きいだけじゃない?」
「黙って食え」
レンが笑いながらパンを千切る。右手は使わず、左手も薬指と小指へ強く力を入れないよう、親指と人差し指、中指を中心にして扱っていた。完全に自然な動きではないが、自分でできる範囲は少しずつ増えている。
そこへ、向かいの卓にいた商人らしい男が声を掛けてきた。
「王都から来たのか?」
「そうです」
エリリアが答える。
「ずいぶん変わった組み合わせだな。三人の旅に護衛を二人雇ったのか?」
まただった。
レンが顔を上げる。
「護衛じゃないです」
「じゃあ、そっちの大男は途中まで?」
「途中までじゃない」
ガリック自身が答えた。
「一緒に旅してる」
「へえ」
男はそれ以上詮索する様子もなく、自分の酒へ戻った。旅人同士なら、その程度の質問は珍しくないのだろう。
だが、五人の卓にはほんの少しだけ沈黙が残った。
「二回目」
アイリが言う。
「何が?」
ミレナが尋ねる。
「今日だけで、別だと思われたの」
「見た目なら仕方ない」
ガリックが肉を切りながら言う。
「三人は長く一緒にいた。俺とミレナはまだ二日目だ」
「気になる?」
レンが聞く。
「別に。十日もすれば変わるかもしれんし、一年経っても変わらないかもしれん」
「変わらなかったら?」
「俺たちが分かってればいい」
ガリックの返事に、ミレナが少し目を細めた。
「それ、意外といいこと言うわね」
「意外は余計だ」
「でも、私たちが分かってる?」
アイリが尋ねる。
「何を?」
「五人で一緒って」
今度は誰もすぐに冗談を返さなかった。
王都を出る前に、ガリックとミレナは旅へ加わると決めた。門の記録にも、五人の名前は一緒に残った。荷物を五人分へ組み直し、共同費まで作った。それでも、決めた事実と、その実感は同じ速度では追いついてこない。
レンは卓の上に並ぶ五つの器を見た。
「俺は分かってる」
「私も」
アイリが続く。
「私もです」
エリリア。
「俺もだ」
ガリック。
最後にミレナが四人を見る。
「……じゃあ私も」
「遅い」
レンが言う。
「一番新しいから考えただけ」
「ガリックも同じだぞ」
「私は一人だった期間が長いの」
「言い訳」
「事実」
「五つ目?」
「便利すぎるから、その使い方禁止にしない?」
笑いが卓を囲んだ。
周囲から見れば、その夜の五人はまだ、長く旅をしてきた三人と、途中から加わった二人に見えたかもしれない。歩く速度も、荷物の扱い方も、互いの癖を理解する深さも同じではない。だが、それは五人でないという意味ではなかった。誰かが遅ければ速度を合わせ、傷があればできることを分け、持っている情報や金や薬を必要なところだけ共有する。その面倒さごと引き受けることが、今の彼らにとって一緒に旅をするということだった。
◇
夜が深くなり、宿場の通りから人の声が消え始めた頃、レンは一階の部屋で目を覚ました。眠ってからまだそれほど経っていない。窓の外では風が弱く鳴り、厩舎から馬が身じろぎする音が聞こえていた。右上腕には休んだぶんだけ鈍い痛みが残り、左手の薬指と小指には、いつもの薄い痺れがある。隣の寝台からはガリックの寝息が聞こえていた。
レンはしばらく天井を見ていたが、やがて壁際の黒銀剣へ目を向けた。剣は厚布に包まれたまま、手を伸ばせば届くような場所には置かれていない。それでよかった。
王都へ来る前まで、旅の夜に最初に確かめるものは剣だった。アイリが眠っているか、外に危険がないか、それから剣が手元にあるか。いつ何が来ても動けることが安心だった。だが今夜は、二階にアイリとエリリアとミレナがいて、隣にはガリックがいる。厩舎には五人の荷物を積んだ馬車があり、記録は一か所へ集めずに分けてある。薬の場所も、明日の目的地も、誰か一人しか知らない状態ではない。
レンは起き上がらず、黒銀剣にも触れなかった。しばらくすると、隣の寝台から低い声がした。
「眠れないのか」
「起きてた?」
「今起きた」
「鼾かいてたぞ」
「嘘つけ」
「少し」
「お前も寝言言ってた」
「何て?」
「聞き取れんかった」
「じゃあ言ってないかもしれない」
「五つ目」
「それ今使う?」
暗い部屋の中で、ガリックが小さく笑った。
「明日も早い。寝ろ」
「ああ」
レンは目を閉じた。
旅に加わったと言葉で決めた二人が、本当に同じ旅の中へ入ったのはいつなのか。王都の東門を五人で抜けた時か、五人分の荷物を積み直した時か、それとも宿屋の帳面へ同じ一行として書かれた時なのか、レンには分からなかった。ただ、その夜、隣の寝台や上の階から伝わってくる仲間の気配を確かめながら眠りへ戻った時には、もう三人で旅をしている感覚は残っていなかった。
街道の小さな宿で迎えた最初の夜を、五人は同じ旅の途中で眠った。
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