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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第三章 東街道の残響
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第三章 第一話 王都から離れる道

王都の城壁が背後の地平へ沈み始めた頃には、東街道を進む五人のあいだに、出発した直後の軽さはもう残っていなかった。朝、東門を抜けた時には確かに感じていた解放感も、数時間も街道を進めば、馬車の車輪が拾う石の振動や、秋へ向かう乾いた風、休息のたびに確かめなければならない傷の具合といった現実へ置き換わっていく。王都を出たからといって、負傷が治るわけでも、追ってきた疑問が消えるわけでもない。それでも、城壁の内側で誰かの許可を待っていた昨日までとは違い、今はどこで止まり、どこまで進むのかを自分たちで決められる。その違いだけは、街道が伸びるほどはっきりしていった。


 先頭を進むのは荷物を積んだ小型の馬車だった。黒銀剣は厚布に包まれ、荷台の内側へ横向きに固定されている。レンが右腕へ負担をかけずとも手の届く場所ではあるが、すぐに抜ける位置には置かれていない。銀縁のロケットだけは、いつもどおり彼の胸元にあった。レン自身は午前中こそ移動椅子を使っていたものの、街道へ出てからは短い区間だけ自分の足で歩き、疲労や腕の痛みが増える前に馬車へ乗るようにしている。歩けるから歩き続けるのではなく、歩ける状態を翌日へ残す。その考え方にまだ慣れていないらしく、休憩を告げられるたびに一度だけ道の先を見る癖は残っていた。


「また見てる」


 隣を歩いていたアイリが言った。


「何を?」


「道の先」


「道なんだから見るだろ」


「もう少し歩けるって顔してる」


「顔で分かるのか」


「お兄ちゃんだから」


 レンは反論しかけ、右上腕へ僅かな重さが溜まっていることに気づいて口を閉じた。剣を振るどころか、長く腕を下げたまま歩いているだけでも傷の奥に鈍い痛みが残る。左前腕も、指先まで完全に力が戻ったわけではない。


「……痛みは三」


「聞く前に言った」


「言われると思ったから」


「疲れは?」


「四。脚は平気。右腕が少し重い」


「じゃあ次の休憩で乗る?」


「ああ」


 素直に返事をすると、アイリが少し驚いたような顔をした。


「何だよ」


「いや。ちゃんと言うようになったなって」


「王都で毎日言われたからな」


「忘れないでね」


「お前も」


 レンが視線を落とすと、アイリは傷の残る両手を胸の前へ上げて見せた。重い荷物は持っておらず、右肩にも鞄の帯を掛けていない。


「手は二。肩は三。朝から変わってない」


「本当に?」


「本当。だから荷物持とうかって言わないで」


「言ってない」


「顔が言ってた」


「それ俺の真似だろ」


「兄妹だから」


 少し先を歩いていたミレナが振り返った。


「その理屈、便利ね」


「使う?」


「遠慮する。血の繋がってない人間が使ったら怖いでしょう」


「ガリックなら言いそう」


 アイリが後方を見る。


 幌馬車の中では、ガリックが荷台の端へ紙を広げていた。左脚を無理なく伸ばし、杖を横へ置いた状態で、食料袋、水袋、予備布、薬箱、修理道具の数を書き直している。王都を出てまだ半日も経っていないのに、すでに三度目の確認だった。


「聞こえてるぞ」


「何が?」


「俺なら言いそうってところだ」


「言う?」


「言わん」


「じゃあ大丈夫」


「何が大丈夫なんだ」


 ガリックは紙から目を上げた。


「それより水の配分を決める。今の量なら、次の宿場まで十分だ。ただし途中で馬へ余分に使えば少し減る」


「余分って?」


 アイリが尋ねる。


「暑さで飲む量が増えた時だ。人間だけ数えても意味がない」


「馬も仲間?」


「荷車を引いてる間は、俺たちより働いてる」


「ガリックより?」


「今はな」


「認めた」


「事実だ」


 ミレナが荷馬車の横へ寄り、紙を覗き込む。


「干し肉が一袋多い」


「俺が買った」


「いつ?」


「東門を出た直後」


「聞いてない」


「食料を買うのに報告がいるのか」


「共同荷物に入れるなら」


「俺の金だ」


「誰の金かじゃなくて、誰が何を持ってるか分からなくなる」


 ガリックが眉を寄せる。


「一袋増えただけだぞ」


「だから今分かった。次に増やす時は言って」


「……分かった」


「早い」


 レンが言う。


「何が」


「もっと言い合うと思った」


「正しいことまで拒むほど頑固じゃない」


「そこまで言う?」


 ミレナが聞く。


「自覚はある」


「それならいい」


 エリリアはその少し前を歩きながら、何度か街道脇の木々と空を見ていた。風は北東から弱く吹き、淡い銀髪を時折頬へかける。王都を出る朝に感じたものと同じ、ただの風だった。彼女はそれを魔力で探ろうとはせず、葉の揺れ、雲の流れ、頬へ当たる冷たさだけで確かめている。


「エリリア」


 レンが呼ぶと、彼女が振り返った。


「何ですか?」


「疲れは?」


「二です。脚は問題ありません。魔力は使っていません」


「聞いてないけど」


「聞くと思いました」


「みんな先に言うようになったな」


「あなたが聞かれる前に答えるようになったからでしょう」


「俺のせい?」


「良い意味です」


 エリリアはそう言って微笑んだが、すぐに地図へ視線を戻した。現在地は王都から東へ伸びる主要街道の途中で、次の大きな宿場まではまだ距離がある。今日中に無理をすれば到着できるかもしれないが、五人の状態を考えればその必要はなかった。


「この先に古い街道休憩所があります。地図では水場と屋根だけですが、王都から来る商人も使う場所のはずです。今日はそこまでにしませんか」


「宿場まで行けない?」


 アイリが聞く。


「行けるかもしれません。でも、行けることと行くべきことは別です」


「また増えた」


 レンが言う。


「何が?」


「ミレナみたいな言い方」


「良い影響でしょう」


「昨日も聞いた」


 ミレナが肩をすくめる。


「私だけ責任が増えてない?」


「仲間だから」


 アイリが答えた。


「そこに使うのは正しい」


 ガリックが言う。


「鍋の時と違ってな」


「まだ根に持ってる」


「鍋は大事だ」


「白環に置いてきたでしょう」


「だから次の町で買う」


「本当に買うの?」


「五人分を作れる大きさ」


「旅の最初の買い物が鍋」


「悪いか」


「ちょっと安心した」


 アイリの言葉に、ガリックが怪訝そうな顔をした。


「何がだ」


「王都を出てもガリックだなって」


「俺は王都に置いてきてない」


「知ってる」


 笑い声が街道へ小さく流れた。


 **王都を出るまでのあいだ、五人が同じ場所にいる時間は長かった。**それでも治療院の中では、それぞれに役割があった。レンとアイリとエリリアは元から一緒に旅をしてきた三人であり、ガリックは白環を守る側、ミレナは必要な情報を持ち込む側だった。今はもう、その境目がない。食料も水も、休む場所も、危険を見つけた時に誰が前へ出るかも、全部を五人で考えなければならない。


 その変化を最も分かりやすく感じたのは、午後の休憩だった。


 街道脇に大きな樹が一本あり、その根元には昔の旅人が積んだらしい平たい石がいくつか並んでいた。馬を止め、レンが移動椅子へ戻り、ガリックの左脚を院長から渡された手順どおり確認する。包帯の外側に新しい滲みはなく、脇腹も問題ない。アイリは手を洗った後、自分の包帯の端が擦れていないかエリリアに見てもらった。


 その間にミレナの姿が見えなくなった。


 レンが気づいたのは、彼女が街道から少し離れた草地の向こうへ消えてからだった。


「ミレナは?」


「さっきまでそこに」


 アイリが周囲を見る。


 ガリックがすぐに顔を上げた。


「何も言ってないぞ」


「荷物はある」


 エリリアがミレナの鞄を見る。


「遠くへ行ったとは思いませんが」


「一人で消えない」


 アイリが呟いた。


 レンが立ち上がろうとすると、エリリアが視線だけで止めた。


「待ってください。まだ一分も経っていません」


「でも」


「戻るかもしれません」


 ガリックも杖へ手を伸ばしかけ、途中で止める。


「俺が行っても足手まといだ」


「私が見てくる」


 エリリアが言ったところで、草地の向こうからミレナが戻ってきた。片手には小さな革袋を持っている。


「何?」


 彼女は四人の視線を受けて足を止めた。


「どこ行ってたの」


 アイリが尋ねる。


「向こうに野生の香草が見えたから確認しただけ」


「言ってない」


「すぐそこよ」


「見えなくなった」


 ミレナは一度、振り返った。確かに街道から十数歩しか離れていないが、背の高い草と緩い斜面のせいで姿は完全に隠れる。


「……なるほど」


「なるほどじゃない」


「ごめん」


 あまりにも素直な謝罪に、今度はレンたちが黙った。


「何?」


「いや」


 レンが言う。


「もっと反論すると思った」


「私も」


 アイリが続く。


「あなたたち、私を何だと思ってるの」


「情報屋」


「頑固」


「一人で何でもやる人」


「最後は否定できない」


 ミレナは革袋を地面へ置いた。


「王都の中なら、十歩離れることまで報告してなかった。姿が見えなくなるって考えなかった」


「次から?」


 アイリが尋ねる。


「『香草見てくる』って言う」


「戻る時間は?」


「十歩ならいらないでしょう」


「それはそう」


「でも草の向こうへ行くなら言う」


「それでいい」


 ガリックが頷いた。


「誰かが急に消えると、探す側は距離が分からん」


 ミレナが彼を見る。


「経験ある言い方」


「ある」


 それ以上は続けなかった。


 ミレナも聞かなかった。


 代わりに革袋を開き、中へ入れた細い葉を見せる。


「これ、胃に効く香草。旅で使える」


「取ってきたの?」


「少しだけ。群生を全部抜くほど馬鹿じゃない」


「健康な人が役に立った」


 レンが言う。


「さっき役に立たない男が二人って言った仕返し?」


「少し」


「覚えてたのね」


「仲間だから」


「その言葉、便利になりすぎてない?」


 また笑いが起きた。


 ◇


 休憩を終えてからは、無理に速度を上げなかった。街道の交通量は王都近郊より少なくなり、時折、反対方向から商人の荷馬車や農具を積んだ車が通る程度になる。五人は追われている気配を探しながらも、すべての旅人を疑うことはしなかった。治安局の包囲を抜けた直後だからこそ、普通の馬車が普通に通り過ぎていくことが、奇妙なほど新鮮に感じられた。


 夕方が近づくにつれて空は薄い橙色へ変わり、道の両側に広がる畑も途切れ始めた。遠くに低い林が見え、その手前に古い石造りの休憩所がある。屋根は片側が少し傾いていたが、壁は残り、隣の共同井戸も枯れてはいない。


「今日はここ」


 エリリアが言った。


「宿場までまだ行ける」


 レンが答える。


「あなたの疲れは?」


「五」


「右腕は?」


「四」


「朝より上がっています」


「……分かった」


「早い」


 ミレナが言う。


「もうその反応やめろ」


「成長を観察してる」


「俺は調査対象じゃない」


「旅の仲間は全員観察対象」


「怖いな」


「傷を隠す人よりまし」


 ガリックが馬車から降ろされる準備をしながら口を挟んだ。


「俺はここに賛成だ。宿場まで行っても、着く頃には暗い。暗くなってから馬の脚を確認する方が面倒だ」


「飯もここで作れる?」


 アイリが聞く。


「鍋があるなら」


「小さいのが一つ」


「王都で買えばよかった」


「白環のを持ってくる気だったでしょう」


「借りるだけだ」


「返す日が決まってないのに?」


「……買えばよかった」


「明日ね」


 アイリが笑った。


 五人は休憩所の中を確認し、壁の割れ、屋根の状態、井戸の水、古い灰の残る炉を一つずつ見た。誰かが最近使った形跡はあるが、今夜ほかの旅人が来てもおかしくない場所だった。秘密の避難所でも、追手から隠れるための穴でもない。ただ、街道を進む人間が夜を越すための場所。それだけで十分だった。


 荷物を下ろす際、黒銀剣だけはレンの寝る位置から見える壁際へ置かれた。厚布は外さない。


「抜かない?」


 アイリが聞く。


「抜かない」


「触る?」


「たぶん触る」


「そこは正直」


「見るだけならいいだろ」


「見るだけなら」


 エリリアが付け加えた。


「腕に痛みが増えていなければ」


「厳しい」


「仲間ですから」


「全員それ使うようになったな」


 ミレナが炉へ火を入れながら振り返った。


「便利だから」


 夕食は干し肉と豆、それに昼間ミレナが採った香草を少しだけ加えた薄いスープになった。ガリックは鍋が小さいせいで二回に分けて作る必要があることに文句を言い、結局自分で火加減まで指示した。アイリは器を運ぼうとして右肩へ負担をかける前に止められ、代わりに食器を並べる。レンは薪を持とうとして、左手の指先が思ったより頼りないことを認めて一束だけにした。エリリアは風を起こさず、息と細い木片だけで火を整えた。


 効率は悪かった。


 王都にいた時より、できないことも多かった。


 それでも、誰か一人が全部をやる必要はなかった。


「明日は?」


 食事を終えた頃、アイリが尋ねた。


 エリリアが地図を広げる。


「無理をしなければ、昼過ぎには次の宿場へ着けます。そこで馬を休ませて、必要な物を補充しましょう」


「鍋」


 ガリックが即座に言った。


「最優先?」


 ミレナが聞く。


「五人分を一度に作れるもの」


「旅の目的じゃない?」


 レン。


「目的と必要品は違う」


「そこだけ賢い」


「そこだけとは何だ」


 アイリが地図の東側へ指を置いた。


「その後は?」


 少しだけ、空気が静かになった。


 王都を出ること自体が、昨日までは大きな目的だった。その先へ何を追うのかは、まだ一つに決めていない。六年前の護送事件も、エドラス・フィンの空荷も、黒い鳥も、救難信を残した誰かも、すべてが途中のまま残っている。だが、どれか一つを都合よく旅の中心へ置くことはしないと、五人はすでに決めていた。


「まずは東街道を進む」


 レンが言った。


「理由は?」


 ミレナが尋ねる。


「王都で分かったことの中に、東へ続く線がいくつかある。でも、同じ線とは決めない」


「合格」


「何の試験だよ」


「五つ目」


「本当に便利だな」


 ガリックが地図へ手を伸ばす。


「次の宿場までは旅を整える。その先で、持ってる記録をもう一度並べる。王都の中で見た地図と、外から見る街道は違う」


「ガリックが一番旅っぽいこと言った」


 アイリが言う。


「元は街道警備だ」


「忘れてた」


「忘れるな」


 エリリアが地図を畳んだ。


「では、明日の目的は次の宿場まで安全に着くこと。それ以上は、着いてから決めましょう」


「それでいい」


 レンが頷いた。


 日が完全に沈む頃、遠く西の空だけがまだ薄く明るかった。その向こうに、もう見えない王都がある。白環も東門も、六年前の記録も、まだ答えの出ていない多くのものも、すべて背後に残っている。


 けれど、五人はそれらから逃げたわけではなかった。


 王都から離れる道を、自分たちで選んだだけだった。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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