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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第二章 王都の闇
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第二章 第四十八話 王都を出る朝

第二章が終わりました。第三章は9月8日から始まります。

東側旧整備場の換気設備を通じて、誰とも分からない相手から短い返書が届いた翌朝も、白環治療院の正門前には治安局の大盾が並んでいた。鉄帯を巻いた破城槌も撤去されず、高所の弓兵も配置を保っている。夜のあいだに新たな矢は飛ばず、門への打撃も再開されなかったが、それだけを理由に包囲が緩んだとも、終わりへ向かっているとも判断できない。北市場第三保管庫の観測経路は引き続き使用停止のまま。地下で見つけた東側旧整備場への点検路も後年の煉瓦に塞がれ、人が通れる道にはなっていない。ただ一つ、前日までと明確に違っていることがあるとすれば、人間一人も通れない細い鉄管を、一枚の紙が地上側へ渡った可能性があり、そこから別の一枚が地下へ戻ってきたことだった。


 中央回復室の机には、その二枚の紙と、これまで白環が治安局へ提出してきた照会の控えが並べられている。最初の紙には『白環治療院。東側通りの通行状況を確認中。返信は求めない』。戻ってきた生成りの紙には『東側通り 人の往来あり。詰所南交差路 二名』。誰が最初の紙を読んだのか、誰が返書を書いたのか、そこに記された二名が誰なのかは分からない。それでも、白環から地上側へ小さな文書を渡せる可能性が生まれた以上、その経路を逃走のためではなく、すでに正式な手続きを踏んで提出した照会を外へ届けるために使うことは検討できた。


「もう一度だけ使う」


 院長が机の上の書類を指した。


「今度は外の状況を聞くためじゃない。これまで治安局へ出した照会の控えを、東門へ届けてもらえるか試す」


 レンは移動椅子に座ったまま、束ねられた書類へ目を落とした。


「東門副長に?」


「宛名は東門副長。ただし、拾った人間へ届けることを強制する文面にはしない。危険だと思えば、その場で破棄していいと明記する」


「治安局を告発する文書にも、しない?」


 アイリが尋ねる。


「しない」


 ミレナが答えた。


「もう白環が正式に聞いていることだけ。聞いた内容と、まだ十分な回答がないこと。それ以外は足さない」


 書面へ並べられたのは、包囲が始まってから白環が一つずつ問い続けてきた事項だった。監査対象物の無断移動を疑わせる行為とは具体的に何を指していたのか。負傷者を抱えた治療施設へ投射武器による制止措置を行う法的根拠は何か。医学的に必要な施設内移動が監査妨害へ含まれるのか。翌朝以降も対象となる位置変更が続いていると判断した根拠は何か。そして、外壁付近へ撃ち込まれた火矢について、誰が、どのような根拠で使用を認めたのか。治安局から届いた回答には、緊急の証拠保全措置、監査妨害への対応、現場判断という言葉が並んでいたが、具体的な対象物も、火矢に関する説明も、いまだ示されていなかった。


「これを運んだ人が捕まったら?」


 アイリが尋ねた。


「白環の書類を拾った。それ以上のことは知らなくて済むようにします」


 エリリアが答えた。彼女の前には現在の地図が広げられているが、今日も風の魔力に頼るつもりはない。


「換気設備の場所は書きません。受取人を東門副長とするだけです。届けるかどうかも、その人自身が決められるようにします」


「返事は?」


「求めない」


 ガリックが言った。


「昨日と同じだ。外にいる奴を、俺たちの都合で連絡役にするな」


 ミレナは短い添え書きを作った。


『白環治療院より東門副長へ。既提出照会の控え。安全に届けられる場合のみ受領を求む。危険がある場合は破棄可。返信不要。』


 レンが最後まで読み、少し考えてから頷いた。


「これならいい」


「あなたが余計な一文を足す前に、最後に見せた」


「信用ないな」


「信用してるから確認させてる」


「それ、便利だな」


「便利な言葉は何度でも使う」


 アイリが笑いかけたが、すぐに表情を戻した。


「地下へ行くのは?」


「私と、前回までと同じ修繕職員。それから白環の護衛一人」


 ミレナが答える。


「それ以外は行かない。紙を置いたら戻る」


「怖さは?」


「四」


「疲れは?」


「一」


「隠してない?」


「仲間になってまだ二日も経ってないのに、監視が厳しすぎる」


「監視じゃないよ」


「何?」


「確認」


「言い換えただけでしょう」


「でも戻ってきて」


「戻る」


 ミレナはそう答え、用意された紙を持って立ち上がった。


 ◇


 照会の控えをそのまま鉄管へ入れられる厚さではないため、要点だけを一枚へまとめ、正式な照会番号を併記した紙が用意された。原本と正式な控えは白環に残し、東門側が必要と判断した場合には番号から内容を照合できるようにする。ミレナたちは地下へ降りると、前回までと同じ経路だけを進み、旧水門にも壁面の人名にも触れず、東側旧整備場へ向かっていた点検路の閉塞部まで移動した。


 鉄管の奥から人声は聞こえず、明確な作業音もない。しばらく待っても状況が変わらないことを確認した後、ミレナは細く巻いた紙を前日と同じ下端へ置いた。奥へ押し込まず、こちらから音も返さない。拾われるかどうかさえ分からない状態のまま、三人は予定どおり引き返した。


 中央回復室へ戻った後も、白環の日常は止まらなかった。負傷者の包帯を替え、薬を煮出し、壊れた門の内側へ新しい補強材を運ぶ。包囲が続いている以上、今日出られると決めて荷物をまとめる者はいない。ガリックだけは前日から旅用の食料量を計算していたが、院長から「出発日も決まっていない患者が先に干し肉を数えるな」と叱られ、渋々紙を伏せた。


「干し肉は腐りにくい」


「お前の脚はまだ治ってない」


「別の話だ」


「治療院では同じ話だ」


「横暴だな」


「嫌なら早く治せ」


「それを昨日も言われた」


「治ってないから今日も言う」


 アイリが笑い、ガリックは何か言い返そうとして諦めた。


 レンは黒銀剣の保管記録を左手で慎重にめくっていた。母エレナから託された剣は、今も武器保管庫にある。治安局、白環、東門、ガリックの四者が封を置き、誰か一人の判断だけでは持ち出せない状態が維持されている。失われたわけではないと分かっていても、同じ建物の中にありながら手元へ戻せない時間は、レンにとって思っていた以上に長かった。


「見過ぎ」


 アイリが言った。


「紙しか見てない」


「その紙、朝から何回見てると思ってるの」


「二回くらい」


「もっと」


「そうか?」


「剣のことが気になる?」


「気になる」


 レンは素直に答えた。


「でも勝手に取りに行かない」


「言う前に言った」


「成長しただろ」


「少し」


「少しか」


「かなりって言うと調子に乗るから」


 そのやり取りを聞いていたエリリアが、僅かに微笑んだ。


「剣が戻っても、すぐに使おうとしてはいけませんよ」


「分かってる」


「右腕は?」


「軽く握るくらいならできる。強く力を入れるとまだ痛む」


「左手も、細かい動きは完全ではありません」


「ああ」


「なら、旅では荷へ固定しましょう」


「俺の剣だけど」


「だからこそ、あなたがまた安全に使える状態になるまで守るんです」


 ガリックが頷く。


「重い物は、持てる奴が持てばいい」


「お前も脚が治るまで持つなよ」


「分かってる」


「旅に出る前から、役に立たない男が二人」


 ミレナが言った。


「健康なお前に荷物を増やすぞ」


「情報以外は専門外」


「なら鍋」


「拒否」


「仲間だろ」


「そこに使う言葉じゃない」


 ◇


 昼を少し過ぎた頃、最初の変化は正門側から届いた。


 治安局の大盾が一列だけ後ろへ下がったという報告だった。誰も、それだけで包囲解除とは考えない。白環の護衛は配置を変えず、患者も窓へ近づけない。続いて破城槌の周囲にいた人員が動き、高所の弓兵の一部が弓弦を外したとの報告が入ったが、命令の内容が分からない以上、単なる配置転換である可能性も残っていた。


「何か来る」


 ガリックが低く言った。


 院長が正門へ確認を回した直後、今度は外から正式な呼びかけが届いた。


「白環治療院へ! 東門副長、ならびに王都治安局のヴァルト・セイン! 文書確認のため入場を求める!」


 中央回復室の空気が変わった。


「届いた」


 アイリが呟く。


「誰が届けたかは、まだ分からない」


 ミレナがすぐに答える。


「でも東門には届いた」


「そこまでは言える」


 院長は正門を完全には開けず、壊れた扉の内側から入場者を確認した。東門副長、ヴァルト・セイン、そして証拠保全部の記録官一名。それ以外の治安局員は正門から離れた位置に残り、武器を施設内へ持ち込まないという条件も受け入れられた。


 三人が中央回復室へ入ると、東門副長はまずガリックを見た。六年前の東街道で、まだ若い記録係だった頃に事件を知った男と、その記録から消えた事実を六年間抱え続けた男。二人のあいだには長い時間が置かれたが、ガリックはその場で六年前の問いを始めなかった。


「届いたのか」


「ああ」


 副長は一枚の紙を取り出した。


「朝、東地区の修繕詰所近くで、市の作業着を着た男から渡された。名を聞く前に去った」


「市職員?」


「服装だけだ。所属は確認していない」


 ミレナが頷いた。


「昨日の返書を書いた人かな」


 アイリが言う。


「分からない」


 レンが答えた。


「同じような服を着てたからって、同じ人とは限らない」


「うん」


 ヴァルトは机へ封書を置いた。


「白環から提出されていた照会は、こちらでも再確認した。今回届いた控えによって、新しい事実が増えたわけではない。ただ、現場から回答されていない項目が複数残っていること、特に火矢の使用について根拠となる記録が確認できないことは、継続中の措置を再審査する理由になった」


「誰が火矢を命じた」


 レンが尋ねる。


「まだ確認できていない」


「ヘルマン・ロウ?」


 ガリックが聞いた。


「その名を、確認できていない答えへ置くことはできない」


 ヴァルトの声は変わらなかった。


「現場へ関与した人物と、個々の武器使用を命じた人物が同一かどうかも未確認だ。確認できていない部分を埋めるつもりはない」


 ガリックは一度だけ目を閉じた。


「それでいい」


 封書には王都治安局証拠保全部の正式な印があった。院長が封の状態を確認してから開き、全員の前で内容を読み上げる。


『白環治療院に対する現行保全措置について、対象物の特定、継続必要性及び身体危険を伴う制止措置の根拠記録に不足を認める。再審査完了まで、投射武器、破城器具その他重大な身体危険を伴う強制的制止措置を停止する。施設出入口における個人の通行制限は、当該人物または所持物に対する個別の法的拘束根拠を提示できる場合に限る。既存の共同封印物については現状を維持し、個別に再審査する。』


 読み終えても、誰もすぐには喜ばなかった。


「包囲そのものを違法と認定した文書ではない」


 ミレナが確認する。


「そうだ」


 ヴァルトが答える。


「火矢の使用を違法と認定したものでもない」


「まだ審査していない」


「誰かを免職する文書でもない」


「違う」


「今行われている強制措置を止める」


「現時点では、それだけだ」


 アイリが尋ねる。


「大盾は?」


「出入口を物理的に塞ぐ個別根拠が示せない以上、正門前から外す」


「弓兵は?」


「射撃位置を解除する」


「破城槌」


「撤収」


「白環の患者は?」


「個別の拘束根拠がなければ、治療上必要な移動を妨げない」


「ラウルは?」


「医療判断を優先する。移動可能になった段階で、本人の意思と必要な手続きを確認する」


 東門についても、個別の通行制限根拠がない者まで一律に止める運用は解除され、通常の通行確認へ戻ることになった。それは六年前の記録改変や東門そのものに残る疑問が解決したことを意味しない。ただ、現在の五人を門の内側へ留め続ける根拠がない以上、通常の手続きに従って出門できる状態へ戻るということだった。


 少し離れた治療区画から、ラウル本人が声を上げた。


「俺はまだ歩けないぞ」


 ヴァルトがそちらを見る。


「見れば分かる」


「なら急がせるな」


「急がせない」


「治安局に戻れと言われても、今は行かん」


「その意思も記録する」


 ラウルは不満そうな顔をした後、僅かに肩の力を抜いた。


 ガリックが封書へ目を落とす。


「これで全部終わったわけじゃない」


「何も終わっていない」


 ヴァルトが答えた。


「だから、今の段階で根拠を示せないことだけを止める」


「気に入った」


 ミレナが言う。


「何が」


「その答え方」


「褒められたと思っていいのか」


「そこまでは決めてない」


 ◇


 正門前の変化は、ゆっくりと、しかし目に見える形で進んだ。大盾が一枚ずつ運び去られ、門へ向けられていた破城槌は後方へ引かれる。屋根や高所にいた弓兵も射撃位置を離れ、弓を携えたまま通常の警戒配置へ戻っていった。治安局の人員そのものが王都東区から消えたわけではなく、白環周辺にも記録担当と数名の警戒員が残ったが、少なくとも正門を破り、矢を撃ち込み、内部の人間を力ずくで動かさないための包囲線ではなくなった。


 院長はそれでもすぐに正門を開け放つことはせず、治安局側の移動が終わるまで護衛を残した。最後の大盾が正門前から消え、破城槌が角を曲がって見えなくなった後、ようやく壊れた扉のあいだから外の通りが見える。


「人が歩いてる」


 アイリが言った。


 数日前まで盾と武器で埋め尽くされていた場所を、市民が遠巻きに様子を見ながら通り過ぎていく。治安局へ罵声を浴びせる者もいなければ、白環側も勝利を宣言しない。ただ、道が再び人の通る道へ戻っていた。


「終わった?」


 アイリが尋ねる。


「包囲は」


 レンが答えた。


「少なくとも、今までの形では」


「それなら正しい」


 ミレナが言う。


「少し嫌な言い方だけど」


「五つ目」


「便利すぎる」


 院長は正門前の確認を終えると、中央回復室へ戻ってきた。


「今から全員を外へ出すつもりはない」


「白環は残る?」


 ガリックが尋ねる。


「当たり前だ」


「正門は壊れてる」


「直す」


「壁も」


「直す」


「また来るかもしれん」


「その時は、その時ここにいる人間で守る」


 ガリックは何も言わず、院長を見た。


「何だ」


「いや」


「残ると言い出すなら、昨日の話を最初からやり直すぞ」


「言わん」


「ならいい」


 ガリックは杖へ手を置き、少しだけ俯いた。


「……白環は、俺がいなくても残るんだな」


「お前がいたから残れた部分もある。だが、これから残るためにお前一人を柱へ縛るつもりはない」


 しばらく黙っていたガリックが、ようやく顔を上げる。


「戻ってきてもいいか」


「患者としては勘弁してくれ」


「怪我しなければいいんだろ」


「できればな」


「飯は」


「働け」


「大鍋は」


「持っていくな」


 アイリが吹き出し、ガリックもようやく笑った。


 ◇


 黒銀剣については、強制措置の停止だけで共同封印を解くことはできなかった。先ほどの文書にも、既存の共同封印物は個別審査まで現状を維持すると明記されている。そのため午後には、剣そのものについて別の確認が行われた。


 保管開始時の記録、母エレナからレンへ渡された経緯についての既存聴取、外観と寸法、保管中に四つの封が一度も破られていないこと、そして治安局側から現物を白環で保持し続けなければならない具体的な理由が現時点で示されていないことが、一つずつ確認された。再審査が必要になった場合には記録と照合できる状態を残したうえで、現物の共同保管だけを解除し、レンの管理へ戻すという判断が出た。


 武器保管庫へ入ったのは必要な者だけだった。治安局側の封はヴァルト、白環側は院長、東門側は副長、そして四つ目を置いたガリック本人が確認する。封印紙の番号、結び目、保管箱の傷、鍵穴の状態を順番に記録し、誰か一人の記憶だけには頼らない。


「治安局封、異常なし」


 ヴァルトが言う。


「白環封、異常なし」


 院長が続ける。


「東門封、異常なし」


 副長が確認する。


 ガリックは最後の封へ手を伸ばし、指先で自分の印を確かめた。


「俺のも、そのままだ」


 四者の確認が揃った後、初めて箱が開かれた。


 黒銀の剣は、預けた時と同じ布の上に横たわっていた。黒に近い刀身と、光を受けるたび銀を返す縁。母エレナから受け取って以来、レンが何度も握ってきた重い剣に、新しい傷も柄の損傷も見当たらない。


 レンは移動椅子の上で、それを見つめたまましばらく動かなかった。


「持つか?」


 ガリックが尋ねる。


「……いや」


 アイリがレンを見る。


「珍しい」


「今持ったら、たぶん無理する」


「自分で言えた」


「今日はそればっかりだな」


 レンは左手を伸ばしたが、柄を握ることはせず、鞘の上から一度だけ触れた。


「戻ってきた」


「最初からここにあったけどね」


「分かってる」


「怖かった?」


「ああ」


「何が?」


「このまま手元へ戻らないことも。戻ったら戻ったで、また俺が一人で何とかしようとすることも」


「二つとも?」


「二つとも」


 アイリは傷の残る両手を膝の上に置いたまま、兄を見た。


「じゃあ、ちゃんと使えるようになるまで荷物」


「ああ」


「勝手に抜かない」


「抜かない」


「私が寝てても」


「抜かない」


「よし」


 エリリアは剣の重量と、旅用荷車へ固定する位置を確認した。


「右腕へ負担をかけないよう、横向きに固定しましょう。左手もまだ細かな動きに弱さがあります。必要なら私たちが扱います」


「俺の剣だけど」


「だから、あなたがまた安全に使える状態まで守るんです」


 ガリックが頷いた。


「持てる奴が持てばいい」


「お前も脚が治るまで持つなよ」


「分かってる」


「旅に出る前から役に立たない男が二人」


 ミレナが言う。


「健康なお前に荷物を増やすぞ」


「情報以外は専門外」


「なら鍋」


「拒否」


「仲間だろ」


「そこに使う言葉じゃない」


 小さな笑いの中で、黒銀剣は厚い布に包まれ、旅の間は荷台へ固定することになった。四つの封についての記録は残されたが、共同保管はそこで終了した。


 銀縁のロケットだけは、最初から最後までレンの首元を離れていなかった。


 ◇


 その日の夕方までに、五人が王都を出るために必要な最低限の準備が整った。


 白環そのものは避難しない。患者も治療師も護衛も残り、壊れた正門を直しながら治療を続ける。北市場第三保管庫の観測経路も、保全区域が正式にどのように扱われるか確認できるまでは再開しない。地下の旧水路も同じだった。換気設備を使った細い連絡経路についても、誰が返書をくれたのか分からない以上、常設の通信手段として扱わないことが決められた。


 院長は五人の状態も改めて確認した。レンには長時間の徒歩と剣の使用を禁じ、移動中も右上腕と左前腕へ負担をかけないこと。アイリには両手と右肩を使う荷運びをさせないこと。エリリアには回復が十分と判断されるまで風の魔力を使わせないこと。ガリックには長距離歩行を認めず、左脚と脇腹に痛みや滲出が増えた時点で移動を止めること。ミレナには、健康だからといって他の四人の分まで無制限に働かないこと。それぞれ条件つきではあったが、馬車と休息を使う移動そのものを止める状態ではないと判断された。


「最後だけ私だけ雑じゃない?」


 ミレナが言う。


「健康な人間は自分で調整しろ」


「急に自己責任」


「四人分を背負おうとするなら止める」


「……それなら医療指示っぽい」


「最初からそう言ってる」


 ミレナは王都を離れる前に、自分が整理してきた記録の控えを白環へ残した。エドラス・フィンの空荷。帳簿から欠けた七件。夜間のまとめ払い。黒封蝋。レヴィン・ハルトの受領確認が残る監査部向け資材。六年前の黒い鳥と『外・七』。ガリックの東街道護送事案。そして、東側旧整備場へ至る一連の記録。それぞれを同じ事件だとは扱わず、別々の封筒へ分けていく。


「全部置いていくの?」


 アイリが尋ねた。


「原本じゃない。私も控えを持つ」


「同じ情報が二か所に残る」


「前なら嫌だった」


「今は?」


「片方を失っても、もう片方が残る」


「誰かに任せるの、怖くない?」


「怖い」


 ミレナは迷わず答えた。


「でも今は、私一人が全部持ってる方が怖い」


「どうして?」


「私が消えたら、全部終わるから」


 アイリは少しだけ目を見開き、それから笑った。


「それ、かなり変わったね」


「褒めてる?」


「かなり」


「その言葉も返された」


 ミレナは最後の封筒を院長へ渡す。


「読んだものを、勝手に一つの答えへしないで」


「分かっている」


「黒封蝋と黒い糸は別」


「別」


「六年前の荷車とエドラスは」


「関連未確認」


「監査部向け資材と、実際に誰が何へ使ったかは」


「別」


「東側旧整備場と、六年前の護送事案は」


「時期が近いだけ」


「よし」


「お前より覚えているかもしれん」


「それは困る」


 院長は封筒を受け取り、白環の記録庫へ保管するよう職員へ渡した。


 ガリックも、六年前の件について自分が整理し直した記録の控えを一部残した。東門副長はそれを見ても何も言わなかったが、ガリックの方から声をかける。


「六年前のことは、今日はまだ聞かん」


「いいのか」


「今聞いて、お前が知らないところまで俺が答えにしたら困る」


「俺が知っていることもある」


「次に戻った時でいい」


「戻るつもりなのか」


「王都に置いていくものが多すぎる」


「そうか」


「今度は、記録を消すなよ」


 副長の表情が僅かに硬くなった。


「消させない」


「その言葉も記録しておけ」


「もうしている」


 ガリックは初めて、少しだけ笑った。


 ◇


 翌朝。


 王都を出る日は、夜明け前ではなく、門が完全に開き、人の行き来が始まってから選ばれた。


 暗闇へ紛れて逃げる必要はない。誰かの荷物へ隠れる必要もない。東門へ向かう通りには商人の荷車があり、朝市へ向かう者が歩き、門衛が一人ずつ通行記録を取っている。治安局の警戒員らしき者も遠くに数人いたが、誰も白環から出た五人を止めるために道へ出てこなかった。


 レンは白環から東門まで移動椅子を使った。歩けないからではなく、旅の初日から右上腕と左前腕へ余計な負担を積み重ねないためだ。黒銀剣は厚布に包み、旅用の荷車へ横向きに固定している。銀縁のロケットは首元。アイリは自分の足で歩けるものの、傷の残る手には荷物を持たず、回復途中の右肩にも負担をかけない。エリリアも歩いているが、風の魔力は使わない。ガリックは杖で短い距離なら移動できるものの、長距離の歩行にはまだ耐えられないため、小型の幌馬車へ乗る。五人の中で唯一、大きな身体的制限なく歩いているのはミレナだった。


「一人だけ元気」


 アイリが言う。


「健康ってそういうこと」


 ミレナが答えた。


「荷物持てるね」


「嫌な流れ」


「ガリックの鍋」


「持ってきてない」


 ガリックが馬車の中から言った。


「院長に没収された」


「正確には白環の備品」


 レンが返す。


「いつか買う」


「旅の目的が増えた」


「鍋を目的にするな」


 五人の後ろには院長と数人の治療師、白環の護衛が見送りに来ていた。ラウルは右足を固定したまま治療院に残っている。東門副長は先に門へ戻り、通行手続きを整えていた。


 白環の前で、ガリックが馬車から身を乗り出しかける。


「動くな」


 院長が即座に言った。


「まだ何もしてない」


「する顔だった」


「最後くらい立とうと思っただけだ」


「脚が治ってから立て」


「厳しいな」


「何回目だ」


 ガリックは諦めて背を戻した。


 アイリが馬車の横へ近づく。


「寂しい?」


「ああ」


 今度も、ガリックは隠さなかった。


「戻るの?」


「ああ」


「いつ?」


「分からん」


「それでも?」


 ガリックは一度、白環の欠けた正門を見た。新しい木材が渡され、昨日から修繕が始まっている。その向こうでは、すでに朝の患者を受け入れていた。


「戻る場所ってのは、次に来る日が決まってなくてもいいだろ」


「うん」


「それまで残ってろ」


 院長が鼻で笑う。


「命令するな」


「頼んでる」


「なら、残る努力はする」


「それでいい」


 ミレナも白環を振り返り、少しだけ目を細めた。


「私の記録、勝手に一つへ繋げないで」


「別れの言葉がそれか」


「大事でしょう」


「分かっている」


「戻ったら確認する」


「なら戻ってこい」


「……そのつもり」


 エリリアは白環の建物ではなく、朝の空気の中を静かに見ていた。淡い銀髪が弱い風に揺れている。


「風、分かる?」


 アイリが尋ねる。


「感じていますよ」


「魔力じゃなくて?」


「ええ。普通の風です」


 エリリアは少し笑った。


「今は、それで十分です」


 レンは最後に院長を見る。


「ありがとう」


「何に」


「いっぱいある」


「全部まとめるな」


「じゃあ、俺たち三人を治したこと」


「まだ治ってない」


「正確だな」


「治療師だからな」


「じゃあ、治し続けたこと」


 院長は少しだけ黙った。


「次に来る時は、今よりましな状態で来い」


「努力する」


「約束じゃなく?」


「約束すると破りそうだから」


「自覚があるなら上等だ」


 ◇


 東門では、朝の通行記録が始まっていた。


 六年前、ガリックの事件に関わる記録が書き換えられた場所。その門を、今度は五人が自分たちの意思で通る。


 副長は通常の通行簿とは別に一枚の控えを用意していた。


「今回の記録は三部作る」


 ミレナがすぐに反応する。


「どうして?」


「門で一部。白環へ一部。本人たちへ一部」


「後から食い違わないように?」


「ああ」


「六年前みたいに」


 ガリックが言った。


 副長は視線を逸らさなかった。


「そうだ」


「それならいい」


 門衛が筆を取る。


「代表者だけではなく、同行者全員を記録します。名前を」


 最初にレンが答えた。


「レン」


 筆が紙を走る。


「アイリ」


「エリリア」


「ガリック・ヴェイン」


「ミレナ・クロウ」


 五つの名前が、一つずつ同じ欄へ並んでいく。番号ではなく、監査対象でもなく、荷物でもない。誰かに与えられた役割でもない。ただ、自分たちが自分の意思で名乗った名前だった。


「同行目的」


 門衛が尋ねる。


 レンは一度、ほかの四人を見る。


「旅」


「詳しい目的地は?」


「まだ一つには決めていない」


 門衛の筆が止まった。


「記録上、方面だけ必要です」


 エリリアが地図を確認する。


「東街道方面、としてください」


「東街道方面」


 門衛が記す。


 ミレナが紙を覗き込む。


「勝手に『調査』とか足してない?」


「足していない」


「王都への帰還予定」


「未定」


 ガリックが言った。


「それで通るか?」


「帰還予定が未定でも、個別の拘束命令がなければ通行できます」


 副長が答える。


「今の五人に、出門を禁じる個別命令はない」


「黒銀剣は?」


 レンが尋ねた。


「共同保管解除の記録を確認済み。現時点で持ち出しを禁じる個別命令なし」


「ロケット」


「もともと本人保管の条件だ」


 アイリが息を吐いた。


「それなら……本当に出られる」


 門衛が最後に記録内容を読み上げる。


「レン。アイリ。エリリア。ガリック・ヴェイン。ミレナ・クロウ。同行五名。東街道方面。帰還予定未定」


「合ってる」


 レンが答える。


「異議ありません」


 エリリアが続く。


「同じ」


 ミレナ。


「ああ」


 ガリック。


「うん」


 アイリ。


 三部の記録へ同じ内容が写され、一部は白環の護衛へ渡され、一部はミレナが預かることになった。


「私?」


「情報屋だから」


 ガリックが言う。


「失くさないだろ」


「レンじゃなく?」


「俺だと雨で濡らしそう」


「自覚あるのね」


「ある」


 副長は門の向こうへ視線を向けた。


「行ける」


 ガリックが彼を見る。


「次に戻るまで、死ぬなよ」


「それはこっちの台詞だ」


「六年前の答え」


「残しておく」


「消すな」


「消さない」


 それ以上、二人は言わなかった。


 門が開いた。


 ◇


 最初に外へ出たのは、荷物を積んだ小さな馬車だった。黒銀剣は厚布の中にあり、揺れないよう横へ固定されている。その後ろをミレナとエリリアが歩き、レンの移動椅子を白環の護衛が門の外まで押す。アイリは兄の隣を歩き、ガリックの幌馬車が最後に続いた。


 城壁の影を抜けた瞬間、朝の日差しが五人の上へ落ちた。


 誰もすぐには声を上げなかった。王都へ入った時とは違う。追われて運び込まれたわけでも、負傷して意識を失っていたわけでもない。すべての傷が治ったわけではないが、今度は自分たちで外へ向かうことを決め、自分たちの名前を記録へ残し、門を通った。


 アイリが振り返る。


「出た」


「ああ」


 レンも城壁を見る。


「思ったより普通だな」


「何を期待してたの?」


「もっと何かあるかと」


「鐘とか?」


「それは嫌だ」


「門が光るとか」


「もっと嫌だ」


 エリリアが小さく笑った。


「何も起きない方がいい日もあります」


「今日はそれだね」


 ガリックの馬車が門を抜けると、彼は開いた幌の隙間から王都を見たまま、しばらく動かなかった。


「見過ぎ」


 ミレナが言う。


「お前に言われたくない」


「私は追手を確認してる」


「俺もだ」


「嘘」


「白環が見えなくなるまで見てるだけだ」


「それを寂しいって言うんじゃない?」


「もう言った」


「ならいい」


 ミレナも結局、一度だけ王都を振り返った。


「何を見てる?」


 アイリが尋ねる。


「別に」


「二つ目」


「……置いてきた記録」


「心配?」


「少し」


「戻る?」


「必要なら。でも今度は、一人で消えない」


「ちゃんと覚えてる」


「忘れる方が難しいくらい言われたから」


 エリリアの髪を朝の風が揺らした。


「風は?」


 アイリが尋ねる。


「東から少し」


「使える?」


「使わない」


「治るまで?」


「必要だと判断できる状態になるまで」


「その言い方、ミレナみたい」


「良い影響です」


「本当に?」


「たぶん」


「五つ目」


 三人が笑った。


 王都には、いくつもの答えが残ったままだった。六年前の荷車が、あの十二人を誰の命令で、どこへ運ぼうとしていたのか。セイン・バルカが死んだ後、マラとリコがどこへ消えたのか。エドラス・フィンの空荷と、帳簿から欠けた七件が何を運んでいたのか。黒封蝋を実際に使った者は誰なのか。『外・七』と記された黒い鳥が何を意味するのか。治安局の現在の措置へ誰がどこまで関与したのか。そして、三人を旧東街道の石小屋へ運び、あり得ない速さで救難信を届けた誰かが何者なのか。どれも、王都を離れたからといって終わるわけではない。


 レンの黒銀剣にも、まだ答えはない。銀縁のロケットの中にいる、長い黒髪と青みを帯びた琥珀色の瞳を持つ少女が誰なのかも分からない。天坑の遺跡がレンの血へ反応した理由も、眠りの底で見る名もなき都も、そこに立つ妹ではない女も、まだ名前を持たないままだった。それでも、答えが出るまで同じ場所へ立ち続けることだけが、追うということではない。


「お兄ちゃん」


 アイリが呼んだ。


「何?」


「前、向いて」


 レンはもう一度だけ王都を振り返った。灰色の城壁。開いた東門。その向こうには、壊れた正門を直しながら今日も患者を受け入れている白環治療院がある。六年前の記録も、解けていない調査も、名前のない返書をくれた誰かも、そこに残っている。


 戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。いつ戻るのかも、まだ誰にも分からない。それでもよかった。


 レンは前へ向き直った。


 街道は朝の光の中を遠くまで伸びている。荷台には母から託された黒銀剣があり、胸元には銀縁のロケットがある。隣にはアイリがいて、その少し先をエリリアとミレナが歩き、後ろにはガリックを乗せた馬車が続いていた。


 王都へ来た時には三人だった旅人は、五人になっていた。


 五人の名前が記された門を背に、彼らは自分たちで選んだ道へ進んでいった。

第二章を最後まで読んでくださり、ありがとうございます!


第二章が完結し、レンたちの旅はいよいよ第三章へ進みます。


第二章で一番好きだった場面や、特に印象に残ったシーンがあれば、ぜひ教えてください。


また、「面白かった」「続きが読みたい」と思っていただけましたら、ブックマークと★5評価で応援していただけると、とても励みになります。


ここまで物語を追いかけてくださり、本当にありがとうございました。


これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします。


それでは、第三章でお会いしましょう!

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