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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第二章 王都の闇
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第二章 第四十七話 格子の向こう側

ガリックとミレナが正式に旅へ加わると決めた翌朝も、白環治療院を囲む状況そのものは変わっていなかった。割れた正門の外には治安局の大盾が並び、鉄帯を巻いた破城槌も半歩前へ出された位置に残っている。高所に配置された弓兵も撤収せず、夜のあいだに新たな矢が放たれなかったことも、門への打撃が再開されなかったことも、それだけでは包囲が緩んだ証拠にならない。北市場第三保管庫の観測経路は引き続き使用停止のまま。黒銀剣は武器保管庫で四者の封印を受け、銀縁のロケットはレンの首元にある。旅へ出る五人が決まったからといって、そこへ至る道まで決まったわけではなかった。


 中央回復室の机には、前日に確認した東側旧整備場の記録が重ねられている。地下で実際に見つけた『東側整備場 地下点検路』の標識。後年の煉瓦で塞がれた分岐。その上部から斜めに伸びる細い鉄管。そして、五年前の交換記録と翌年の点検記録に残る『東地区道路修繕詰所 資材置場東縁、旧排水設備境界』という地上側の位置。地下と地上の記録はかなり近づいたが、二つが同じ設備だと直接確かめたわけではない。まして、その格子の向こうに誰がいるのか、現在も地上から触れられる状態なのか、治安局が周辺を見張っているのかについては、何一つ分かっていなかった。


「今日は、そこを確かめる」


 院長が机の記録を指した。


 レンは移動椅子に座ったまま顔を上げる。


「換気格子と、地下の鉄管が同じか」


「そこまでだ」


「地上へは出ない」


「そもそも出られない」


 ミレナが言った。


「点検路は煉瓦で塞がれてる。鉄管の中を人間が通れるわけでもない」


「分かってる」


「分かってる顔にしては、楽しそう」


「昨日より一つ先へ進めるからな」


「進めるかどうかを確かめる日」


「その言い方、好きだな」


「あなたがすぐ答えにするから」


 二人の間へ、アイリが口を挟む。


「今日は何をしたら終わり?」


 エリリアが現在の地図へ指を置いた。風の魔力には頼らず、資材置場東縁と地下の閉塞部を結ぶように細い線を引く。


「第一目的は、地下で確認した鉄管と、地上記録にある換気格子が同じ設備かどうかを確かめることです。確認できても、その場で連絡には使いません。地上側の人員も状況も分かっていませんから」


「同じだとどうやって確かめる?」


 ガリックが尋ねた。左脚を無理なく伸ばせる位置へ椅子を置き、杖は膝の横へ立てている。


「叩けば分かりそうだけど」


 アイリが言う。


「こっちからは叩かない」


 ミレナが即座に答えた。


「昨日も言ったでしょう。上に誰がいるか分からない」


「じゃあ待つ?」


「待つだけなら、何も起きないかもしれない」


 ガリックは記録を見ながら少し考えた。


「地上側から清掃できた設備なんだろ」


「四年前までは」


「清掃方法の記録は残ってないのか」


 院長が事務職員を見ると、昨夜から資料を探していた職員が一冊の薄い綴りを机へ置いた。


「ありました。換気格子の定期整備手順です。ただし、東側旧整備場専用ではなく、市営地下換気設備の共通手順です」


「内容は?」


「表面の泥や枯葉を除去した後、細い清掃棒を格子の内側へ差し込み、縦管の入口付近に詰まりがないか確認する、とあります」


「棒はどれくらい入れる」


「規定では腕一本分ほど。それ以上は内部設備を傷めるので禁止されています」


 ガリックは地下断面図へ目を落とした。


「なら、向こうから清掃棒が入れば分かる」


「こっちで触るの?」


 アイリが尋ねる。


「触る必要はない。鉄管の下へ何か軽いものを置く。棒が同じ管を通ってくれば動く」


「紙?」


「残る」


 ミレナが答える。


「細い布?」


「引っ掛かったら、それも残る」


 旧水路を知る年配の修繕職員が、しばらく考えてから口を開いた。


「乾いた葦の薄皮ならどうだ。軽いし、落ちても水路のごみと区別がつかん。管の中へ入れず、下端のすぐ前へ立てるだけなら設備にも触れん」


「向こうから棒が来れば倒れる?」


「同じ管ならな」


「来なかったら?」


「分からないまま」


 レンが答えた。


「格子が使われてないだけかもしれないし、今日は清掃しないだけかもしれない」


「五つ目」


 アイリが言う。


「ああ。何も起きないことを、別の設備だった証拠にはしない」


 院長が頷いた。


「それでいく。ただし、地上から明確な人声、複数の足音、治安局を示す指示声が近くで聞こえた場合は確認を中止する。こちらから音を返さない。器具を鉄管へ入れない。予定時刻を過ぎれば、結果に関係なく戻る」


「地下へ行くのは?」


 アイリが尋ねた。


「私と、昨日と同じ修繕職員。それから白環の護衛一人」


 ミレナが答える。


「またミレナ?」


「健康だから」


「私も動ける」


「手と肩が治ってから言って」


「レンは?」


「移動椅子」


「エリリアは?」


「魔力を使わない」


「ガリックは?」


「杖を置いて十歩歩けない」


「昨日からそれ、便利に使われてるな」


 ガリックが不満そうに言うと、院長は表情も変えなかった。


「歩けるようになれば使わなくなる」


「早く治す」


「勝手に早めるな」


 ミレナが立ち上がりながら必要な道具を確認する。今回は地下入口と調査地点を合図縄で結ばない。距離が長く、途中の角で縄が引っ掛かる可能性が高いため、代わりに帰還時刻を短く定め、途中で異常があれば即座に引き返すことになった。


「行ってくる」


 アイリが彼女を見る。


「怖さは?」


「今は三」


「上から音がしたら?」


「たぶん六くらい」


「隠さないで」


「旅の仲間になった初日から厳しい」


「昨日から仲間」


「一晩しか経ってない」


「一晩でも仲間」


「はいはい」


「返事が軽い」


「戻ったら報告する」


 ミレナはそう言い残し、二人とともに地下薬草庫の奥へ向かった。


 ◇


 旧水路へ入ってから東側の閉塞部へ着くまで、三人はほとんど立ち止まらなかった。水位は前日と変わらず、旧水門の輪にも鎖にも触れない。壁面へ並ぶ人名も、後から削られたように見える箇所も、今日は調査対象から外している。ミレナは目に入ったものを記憶へ留めるだけにし、数十以上の名前が続く区画を抜けると、赤茶色の補修煉瓦が増えていく東側へ進んだ。


 やがて灯りの先に、前日確認した古い石枠が現れた。後年の煉瓦によって塞がれたその脇には、錆びた鉄板が変わらず残っている。


『東側整備場 地下点検路』


 標識の位置にも煉瓦の状態にも目立った変化はなく、その上方から斜めに伸びる鉄管も、見える範囲では前日と同じだった。


「音は?」


 護衛が声を落とした。


 三人でしばらく耳を澄ませたが、聞こえるのは水の細い流れと、自分たちの呼吸だけだった。


「今は何もない」


 ミレナが答える。


 修繕職員は乾いた葦の薄皮を取り出し、指先ほどの長さへ裂いた。鉄管の入口へ差し込むことはせず、その直下にある乾いた石面へ軽く立てる。わずかな空気でも揺れるほど薄いものの、前日に確認した弱い流れだけでは倒れない位置を探して三度置き直し、ようやく手を離した。


「これで棒が同じ管から来れば」


「落ちる」


「たぶんな」


「たぶん?」


「棒が短ければ届かん。曲がりがあれば途中で止まる。そもそも地上側で清掃されなければ何も起きん」


「何も起きなかったら?」


 護衛が尋ねる。


「今日は分からなかった、で帰る」


 ミレナは壁際へ下がり、三人は決めた距離を保ったまま待った。


 地下では外の明るさが分からず、何も起きない時間ほど長く感じられる。ミレナは何度か葦の薄皮へ視線を向けたが、弱い空気に僅かに震えるだけで位置は変わらない。修繕職員も鉄管へ耳を寄せようとはせず、決められた距離からじっと待っていた。


 やがて、鉄管の奥から小さな振動が伝わった。


 三人は同時に顔を上げたが、誰も声を出さない。前日に聞いた低い振動とは違い、今度の音は細く短かった。金属が金属の表面を擦るような音が一度だけ届き、護衛が口を開きかけたところで、ミレナが指を一本立てて制する。


 二度目の擦過音は、最初より少し長かった。鉄管の奥で、何か細いものが動いている。葦の薄皮はまだ倒れない。


 三度目の金属音は、明らかに近づいてきた。


 次の瞬間、鉄管の入口付近から小さな灰が落ち、立てていた葦の薄皮が僅かに揺れた。修繕職員が目を細める。さらに一度、管の内側を擦る音が続いた直後、葦は支えを失ったように石面へ倒れた。


 三人はその場から動かず、金属音が再び遠ざかって完全に聞こえなくなるまで待った。ミレナは心の中で十分に間を数えてから、ようやく息を吐く。


「今のは」


「同じ管へ何かが入った」


 修繕職員が答えた。


「地上から?」


「それもまだ断定はできん。だが、記録どおり地上側格子から清掃棒を入れたなら説明はつく」


「別の地下室側から入れた可能性」


「ある」


「でも方向は上から下」


「音の移動はそう聞こえた」


「聞こえただけ」


「そうだ」


 ミレナは倒れた葦へ視線を向けた。


「少なくとも、昨日見つけた鉄管の内部へ、向こう側から何かが届くことは確認できた」


「換気格子と同じだと言える?」


 護衛が尋ねる。


「まだ」


「厳しいですね」


「あとで間違えるよりいい」


 その時、鉄管の奥から再び金属音が届いた。一度、少し間を置いてもう一度、その後に長い擦過音が続いたが、今度は入口まで何かが届くことはなかった。


「清掃してるだけか」


「たぶん」


「人がいる」


「誰かが向こう側で作業している可能性は高い」


「治安局?」


「決めない」


 護衛が苦笑する。


「先に言われました」


「仕事だから」


 予定していた確認はすでに済んでいる。ここから先へ踏み込めば、こちらから音を返すか、何かを鉄管へ入れることになるため、ミレナは迷わず帰還を選んだ。


「戻る」


「もう?」


「目的は達成した」


「地上の人がまだいるかもしれない」


「だから戻る」


 修繕職員も満足そうに頷いた。


「それでいい」


 三人は倒れた葦の薄皮だけを回収し、鉄管にも煉瓦にも何も残さず、その場を離れた。


 ◇


 中央回復室へ戻ったミレナは、結果より先に人数と状態を報告した。


「三人。怪我なし。水位変化なし。怖さは途中で五、今は二」


「六じゃなかった」


 アイリが言う。


「思ったより普通の音だった」


「何があった?」


 レンが尋ねる。


 ミレナは椅子へ座り、修繕職員と護衛にも同席してもらってから、葦を置いた位置、最初の金属音、音が近づいた順序、灰が落ちたこと、葦が倒れたことを一つずつ説明した。


「じゃあ同じ格子だ」


 レンが言いかける。


「まだ」


 ミレナが即座に返した。


「やっぱり言うと思った」


「記録にある地上側清掃棒なら説明できる。でも、別の点検口から器具を入れた可能性も消えてない」


「上から下へ来たように聞こえたんでしょう?」


 エリリアが尋ねる。


「三人ともそう聞こえた。ただし音だけ」


「では、位置、方向、設備記録、清掃方法、実際の接触が一致したことで、同一設備である可能性がかなり高くなった、とするのが妥当です」


「それなら異論なし」


 ミレナが頷く。


 ガリックは回収された葦の薄皮を見た。


「こっちから何かを押し込まなくても、向こうから届くことは分かった」


「ああ」


 レンが言う。


「紙も?」


「丸めれば通る太さはある」


「だから送る?」


 アイリが尋ねると、ガリックはすぐには答えず、地下図面と地上図を見比べた。


「問題は、誰が上にいるかだ」


「市の修繕員なら」


「普通の仕事をしてるだけ」


「治安局なら」


「こっちの存在を知らせることになる」


「知らない人なら」


「もっと分からん」


 少し離れた治療区画から、ラウルが声をかけた。


「清掃棒の扱い方だけなら、市修繕班らしいとは思う」


 全員が彼を見る。


「理由は?」


 ミレナが尋ねる。


「東地区の巡回中、排水格子を掃除してるのを見たことがある。棒を何度も奥へ突くんじゃなく、浅く入れて引く。今聞いた回数と似てる。ただ、それだけだ。俺は実際の音を聞いてないし、同じ人間がやったとも言えない」


「治安局員が市の道具を使うこともできる」


「もちろん」


「じゃあ補助情報だけ」


「ああ」


 院長は机の上へ新しい紙を置いた。


「ここで一度、記録にする」


 ミレナが事実と推測を分けながら内容をまとめていく。


『東側旧整備場換気設備――地下側鉄製経路下端に接触させず配置した軽量葦片が、上方より接近した複数回の金属擦過音及び内部落下物に続き転倒。地上側清掃手順に記載された細棒点検との整合性あり。地下で確認した鉄製経路と、東地区道路修繕詰所資材置場東縁の換気格子が同一設備である可能性は高まった。ただし、接触器具の投入地点、作業者、所属、現在の地上側状況はいずれも未確認。地下側からの応答、音響試験、紙片等の挿入は実施せず。』


 アイリは最後まで読んでから顔を上げた。


「まだ連絡しない?」


「今のままなら」


 ミレナが答える。


「上に誰がいるか分からない」


「でも、地下からだと確認する方法がない」


「そうね」


 その言葉を受けて、エリリアが机の地図へ目を落とした。


「地上側の情報が一つでもあれば変わります。資材置場が現在誰の管理下にあるか。保全区域の拡張後も市職員が通常点検を続けているか。治安局が詰所へ常駐しているか。そのどれかです」


「紙で探せる?」


 レンが尋ねる。


「過去の勤務表ならある。でも、今日の状態は分からない」


 ミレナが答えた。


「白環へ入ってくる人から聞く?」


「包囲中に出入りしてる人間は限られてる」


「市場の住人」


 アイリが言う。


「北市場第三保管庫の周辺にも家や店があるって、前に記録したよね」


「ある」


「東側修繕詰所の近くにも?」


 エリリアが現在図を確認した。


「あります。資材置場の東には細い生活路、その先に小規模な住宅区画。南側には道具店と共同井戸があります」


「なら、白環に来た人の中に見た人がいるかもしれない」


「聞くなら、治安局の人数を知ってるかじゃなくて、普通に何を見たか」


 ミレナが言った。


「答えを誘導しない」


「それならできる」


 院長が事務職員へ指示を出し、午前中に治療院へ入った外部の人間へ、東側道路修繕詰所付近を通った者がいるかだけを確認することになった。その結果が出るまで、誰も地下へ戻らなかった。


 ◇


 昼を過ぎた頃、白環の受付を手伝っていた治療師が中央回復室へ入ってきた。


「一人、詰所の近くを通った人がいました。北東区の共同井戸から水を運んできた女性です。ここへ来る前に、修繕詰所の東側生活路を通っています」


「治安局について聞いた?」


 ミレナが尋ねる。


「いいえ。最初は、どこを通って来たかだけ。次に、道で見たものを覚えている範囲で話してもらいました」


「内容は?」


「資材置場の柵の近くに、市の作業着を着た男性が一人。格子周りの泥を落としていたそうです」


 一瞬、中央回復室が静かになった。


「治安局は?」


「本人から、少し離れた通りに二人いたと言いました。詰所の前ではなく、南側の交差路。大盾も弓も持っていなかったそうです」


「時刻」


「朝の中鐘より少し前」


「地下で音を聞いた頃と?」


 アイリが尋ねる。


 ミレナが記録を並べる。


「近い。完全には合わせられないけど、同じ時間帯」


「作業着の男の名前は?」


「知らないそうです」


「顔は?」


「帽子でよく見えなかった」


「治安局と話してた?」


「見ていない」


「格子に棒を入れていた?」


「そこまでは覚えていない。ただ、細い金属棒のようなものを持っていたそうです」


 レンが息を吐いた。


「かなり近づいたな」


「うん」


 今度はミレナも否定しなかった。


「地下で聞いた作業音と、地上で格子周辺を整備していた市職員らしき人物。その二つが同じ作業だった可能性は高い」


「市職員本人とは確定しない?」


「作業着だけなら、所属までは分からない」


「そこまで分ける?」


「疑うんじゃなくて、分ける」


「分かった」


 ガリックが地図へ身を寄せる。


「治安局らしき二人は交差路。格子の真横じゃない」


「朝の一時点では」


 エリリアが言う。


「今も同じ配置とは限りません」


「でも、普通の作業員らしき人が格子へ触れられる状態ではある」


「その可能性はかなり上がりました」


 院長が五人を見る。


「どうする?」


 すぐに答えた者はいなかった。ここで紙を送れば、初めて白環側から地上へ意図的な接触を行うことになる。相手が本当に市の作業員なら、外の状況を知る機会になるかもしれない。一方で、紙が治安局へ渡れば、白環が格子を使って何らかの連絡を試みたことへ気づかれる可能性もある。


「場所は書かない」


 ミレナが言った。


「地下とも書かない」


「名前も?」


 アイリが尋ねる。


「個人名はなし」


「白環って書く?」


「それがないと、何の問い合わせか分からない」


「でも治安局に拾われたら」


「白環が外の状況を知りたがっていること自体は、もう隠せない」


 ガリックが答えた。


「問題は、この経路を知られることだ」


「格子から来たって分からない文にする」


 レンが言う。


「どうやって?」


「普通の紙片。白環から出たとだけ分かる。拾った場所は、拾った人しか知らない」


「誰かが治安局へ渡せば、格子付近で拾ったことを話すかもしれない」


「それは止められません」


 エリリアが静かに言った。


「だから、知られても地下道の存在まで直接繋がらない内容にします」


 ミレナが少し考える。


「必要なのは東側の安全確認じゃない。今は地上状況の一片だけ」


「何を書く?」


 アイリが尋ねる。


 ガリックが答える。


「通れるか、と聞くな。逃げたいと分かる」


「治安局の人数も聞かない」


 ミレナが続けた。


「監視を避けたいと分かる」


「じゃあ……東側通りが今も普通に使われてるか」


 レンが言う。


「それなら、市の人間が知っていても不自然じゃない」


 エリリアが頷く。


「治療院への物資搬入を考えているようにも読めます」


「返事の方法は?」


「同じ格子へ紙を戻せるかもしれない。でも、それを書くと経路を教えることになる」


「返信不要にする?」


 アイリが言うと、ミレナは少し考えてから頷いた。


「最初はそれがいい」


「でも外のことが分からない」


「相手が返すかどうかは相手に任せる。こちらから要求しない」


 最終的に紙へ書かれたのは、それだけだった。


『白環治療院。東側通りの通行状況を確認中。返信は求めない。』


 治安局への非難も、包囲のことも、地下道も、剣も、患者数も書かない。


「短い」


 アイリが言った。


「短い方がいい」


 ミレナが答える。


「相手へ危険な判断を押しつけない」


「助けてとも書かない」


「助けるかどうかを相手が決められる」


 院長も文面を確認してから頷いた。


「誰が持っていく」


「私」


 ミレナが答える。


「今日二回目」


「体調問題なし」


「疲れは?」


「三」


「怖さ」


「今は五」


「上がった」


「今度はこっちから何かするから」


 アイリは少しだけ考え、それ以上止めずに頷いた。


「戻ってきて」


「戻る」


 ◇


 二度目の地下確認は、最初よりさらに短く設定された。閉塞部へ着いた時、鉄管の奥から音はしなかった。ミレナたちはしばらく待ち、少なくともその時点では地上側から明確な人声や作業音が届いていないことだけを確認する。それでも、安全だとは扱わなかった。


 紙は細く巻き、糸も封蝋も使わない。誰かの印もつけなかった。


「奥へ押し込まない」


 修繕職員が言う。


「分かってる」


「下端へ置くだけだ。次に棒が入れば、引っ掛かる可能性がある」


「引っ掛からなければ?」


「落ちるだけ」


「その時は回収する」


 ミレナは細い紙を鉄管の奥へ差し込まず、下端の縁へ軽く立てかけた。前日に確認した程度の空気では動かない位置を選び、三人で状態を確かめる。紙が拾われる保証も、読まれる保証も、まして返事が来る保証もない。その事実を変えないまま、三人は何も叩かず、呼びかけず、その場を離れた。


 ◇


 夕刻前になっても、紙について何の変化も分からなかった。正門の治安局は動かず、北市場第三保管庫も使っていない。白環の内部では治療が続き、負傷者の包帯が替えられ、食事が配られていく。ガリックは旅へ出るための荷物量を勝手に計算し始め、院長からまだ出発日も決まっていないと止められた。アイリは患者の移動記録を手伝い、エリリアは地図上で東側生活路と修繕詰所の位置を何度も照合する。レンは移動椅子から立ち上がろうとはせず、代わりに左手で記録をめくりながら待っていた。


「待つの苦手?」


 アイリが尋ねる。


「かなり」


「知ってる」


「でも行かない」


「偉い」


「子供みたいに褒めるな」


「前なら地下へ行ってた」


「それは否定できない」


 ミレナも椅子に座ったまま二人の会話を聞いていた。


「待つのも調査よ」


「それ、お前が言う?」


「私は待てる」


「黒封蝋の時、夜まで資料室にいた」


「座って待ってた」


「調べながらだろ」


「効率的」


「似た者同士ですね」


 エリリアが小さく言う。


「誰と誰が?」


 二人が同時に尋ねたため、アイリが笑った。


 夕刻の鐘が近づいた頃、地下入口を確認していた護衛が中央回復室へ入ってきた。


「換気設備の方から、音があったそうです」


 それまでの軽いやり取りが止まり、全員の表情が変わる。


「誰か入った?」


 院長が尋ねる。


「まだです。入口で待機しています」


「どんな音?」


「金属音が数回。その後、小さいものが落ちたような音」


 ミレナが立ち上がった。


「行く」


「三人で」


「分かってる」


 今度の確認は数分で終わった。鉄管の下、午前中に葦を置いた石面へ、小さく折られた紙片が落ちていたからだった。


 ミレナはすぐには拾わず、まずその場から確認する。


「元の紙?」


 護衛が尋ねる。


「大きさが違う」


「別の紙」


「たぶん」


 修繕職員が灯りを近づけた。


「こちらから送った紙は細長かった。これは四角い」


「触る前に周囲」


 三人で足元と壁を確認する。新しい足跡はなく、煉瓦にも鉄管にも変化はない。紙以外に新しく落ちているものも見つからなかった。


 ミレナは布越しに紙を拾う。


 薄い灰色でも、黒い筋の入った特殊な紙でもない。市役所や工房で普通に使われる、粗い生成りの紙だった。


 文字は二行だけだった。


『東側通り 人の往来あり。

 詰所南交差路 二名。』


 署名はない。


 ミレナは最後まで読み、紙を閉じた。


「帰る」


「これだけ?」


「これだけだからいい」


「誰が書いたか」


「分からない」


「二名が治安局?」


「書いてない」


「午前に見た二人と同じ?」


「分からない」


「時刻は?」


「書いてない」


「じゃあ使えない?」


 護衛の問いに、ミレナは首を横へ振った。


「使えないんじゃない。使える範囲が狭い」


 三人はそれ以上の確認を行わず、紙を持ち帰った。


 ◇


「『東側通り 人の往来あり。詰所南交差路 二名』」


 中央回復室でミレナが読み上げると、レンが最初に口を開いた。


「二名って治安局?」


「書いてない」


「さっきの女性が見た二人と同じ?」


「未確認」


「返事を書いたのは市の作業員?」


「未確認」


「紙を拾った場所は格子の上?」


「こちらへ同じ鉄管から落ちてきた可能性は高い。ただ、地上側の誰が入れたかは分からない」


「罠?」


 アイリが尋ねる。


「可能性はある」


「嘘?」


「それも」


「本当?」


「それも」


「全部ある」


「そういうこと」


 エリリアは返書を直接触らず、地図上の南交差路へ印を置いた。


「ただ、午前の証言と一部は一致しています。東側通りには人の往来があり、詰所南側の交差路付近には二人いた。二つの情報が同じ状況を示している可能性はあります」


「でも、同じ人から来た情報かもしれない」


 レンが言う。


「はい。井戸から来た女性が何らかの形で返書を書いた可能性も、完全には消せません」


「それなら独立した情報とは言えない」


「だから『一部が一致した』以上にはしません」


 ラウルが地図を見る。


「二人だけなら封鎖には少ない」


「二人しかいないとは書いてない」


 ミレナが返した。


「そうだった」


「見える範囲に二人、かもしれない。交差路担当が二人、かもしれない。交代中の二人、かもしれない」


「それでも、人が通ってるなら完全封鎖じゃない?」


 アイリが尋ねる。


「少なくとも返書を書いた時点で、書いた人が『人の往来あり』と認識していた」


 エリリアが答えた。


「それ以上はまだ言えません」


 ガリックが腕を組む。


「出られるか、と聞く段階じゃないな」


「うん」


 レンが答える。


「でも、外へ聞けるようにはなった」


 ミレナが彼を見る。


「今のところ一往復だけ」


「それでも」


「一往復できた可能性の高い経路、と記録するならいい」


「厳しい」


「仲間になってもそこは変わらない」


「変わらなくていい」


 その答えにミレナは一瞬だけ黙り、それから返書の横へ新しい記録を作った。


『東側旧整備場換気設備――白環側より個人名・経路情報を含まない短文を下端へ配置。夕刻前、同鉄製経路下部に別紙片が落下。返書と思われる文面は『東側通り 人の往来あり。詰所南交差路 二名』。筆者、所属、記載時刻、二名の所属、情報の正確性はいずれも未確認。午前に得た通行者証言と一部内容の整合あり。現時点では、安全な連絡経路、地上観測手段、避難路のいずれとも確定しない。』


 アイリが記録を最後まで読む。


「長い」


「今日は言うのね」


「大事だから読むけど、長い」


「成長が戻った」


「悪い意味?」


「かなり」


 ガリックが小さく笑った。


 レンは机の上に置かれた生成りの紙片を見つめた。名前はなく、誰が書いたのかも分からない。だが、そのことを理由に、かつて三人を救った名のない誰かと結びつける必要はなかった。


「名前がない」


 レンが呟く。


 アイリが彼を見る。


「救難信みたい?」


「少し思った」


「同じ人?」


「違う」


 そう答えた直後、レンは自分で眉を寄せた。


「……違うって決めるのも駄目か。分からない」


 ミレナが僅かに笑う。


「上出来」


「でも、名前がないからって同じ人にはならない」


「それでいい」


 エリリアも頷いた。


「匿名で誰かを助ける人が、一人しかいない理由はありません」


「ただの市の人かもしれない」


 アイリが言う。


「ただの、って言うな」


 ガリックが返した。


「危ない状況で紙を返したなら、それだけで十分だ」


「そうだね」


「まだ危険だったとも決められんがな」


「五つ目」


「便利すぎる」


 五人の間に、小さな笑いが生まれた。


 それでも院長は、その返書を根拠に患者の移動を始めることを認めなかった。誰も異論を唱えない。一枚の匿名の紙だけで、人間の命を乗せる道を安全だと決めることはできない。必要なのは、少なくとも地上側の状況をもう一度、時間を変えて確かめることだった。詰所南交差路の二人が動くのか、通行が夕刻にも続くのか、返書をくれた人物が次も同じ場所へ来るのか。そのどれかが分かれば、ようやく次の判断へ進める。


「明日?」


 アイリが尋ねる。


「状況が変わらなければ」


 院長が答える。


「夜まで待つ?」


「夕刻の人員交代があるか確認したい」


 ラウルが言った。


「普通の巡回なら、夕刻前後に担当が変わることはある。ただし、今の包囲で同じとは限らない」


「なら次は、交代を見る」


 レンが言う。


「見るんじゃない」


 ミレナが訂正する。


「聞けるか、返書で分かるかを確かめる」


「そうだった」


 エリリアは東側修繕詰所の印と、白環の地下側閉塞部を一本の細い線で結んだ。


「昨日までは、ここを繋いでいたのは推測だけでした。今日は、少なくとも小さな物が往復した可能性まで確認できました」


「道?」


 アイリが尋ねる。


「まだ」


 五人の答えがほとんど同時に重なった。


 人が通れない細い鉄管も、誰が書いたか分からない短い返書も、地上の交差路にいるらしい二人も、それだけでは白環を救う出口にはならない。それでも、昨日まで煉瓦の向こうから届いていたのは空気と、正体の分からない音だけだった。今日は同じ細い経路を一枚の紙が上へ渡った可能性が生まれ、別の一枚が地下へ戻ってきた。


 閉ざされた白環と地上のあいだに、まだ道とは呼べないほど細い繋がりが、初めて生まれていた。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


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