第二章 第四十六話 旅に加わる二人
東側旧整備場へ向かっていた地下点検路を確認した日の夕方になっても、白環治療院を囲む治安局の配置には大きな変化がなかった。割れた正門の外には大盾が残り、鉄帯を巻いた破城槌も動かず、高所の弓兵もそれぞれの位置を保っている。新しい矢も飛んでこなければ、門を打つ音も聞こえない。それでも、静かな時間が続いているというだけで包囲が終わったとは誰も考えていなかった。北市場第三保管庫の観測経路は引き続き使用停止。東側旧整備場へ向かっていた点検路は存在こそ確認されたものの、後年の煉瓦で閉塞され、その上部を通る細い鉄管だけがどこかへ空気を通している。黒銀剣は武器保管庫で四者の封印を受けたまま、銀縁のロケットもレンの首から離れていなかった。
中央回復室の机には、地下から持ち帰った調査記録と古い市営設備図が置かれている。『東側整備場 地下点検路』と刻まれた標識、閉塞された煉瓦壁、その上を斜めに伸びていた鉄管、二度確認された弱い空気の流れ。確認できた事実は増えたが、いまだに出口と呼べるものはない。白環を包囲の外へ繋ぐ方法も、治安局の監視を避けて人を移動させる方法も、まだ確立されてはいなかった。それでも、その日の調査を終えた後、院長が最初に口にしたのは地下道の話ではなかった。
「そろそろ、決めておく必要がある」
レンが移動椅子から顔を上げる。
「何を?」
「この王都を出られる状況になった時、誰が一緒に行くのかだ」
その言葉に、中央回復室の空気が僅かに変わった。レン、アイリ、エリリアの三人にとって、王都は旅の終着点ではない。エイレンを焼いた赤髪の男と、あの夜にいた外套の人物。母エレナが最後に託した黒銀剣と銀縁のロケット。写真の中にいる、長い黒髪と青みを帯びた琥珀色の瞳を持つ少女。ヴァレクたちが三人を生け捕りにしようとしていた理由。レンの血へ反応した天坑の遺跡。崩壊する遺跡から三人を運び出した名のない誰かと、暗闇の中で見えた赤い瞳。あり得ない速さで白環へ届いた救難信。そして、眠りの底でレンだけが見る名もなき都と、妹ではない女。どの謎もまだ答えへ届いておらず、その答えが王都の中だけにあるという保証さえなかった。三人がここで旅を終える理由はない。だが、ガリックとミレナは違った。
ガリックはこれまで何度も、自分は王都に残る人間だというように話してきた。六年前に東街道で止めた荷車、荷として縛られていた十二人、矢を浴びた避難民、死んだセイン・バルカ、姿を消したマラとリコ。そして、自分を命令違反として切り捨てたヘルマン・ロウ。王都には、彼が六年間抱え続けてきた傷が多すぎた。
ミレナもまた、誰かの旅へ加わるという言葉を使ったことがない。情報屋として、鴉として、一つの組織にも一つの場所にも長く属さず、必要な情報を掴み、売り、残し、次へ移る。それが彼女の生き方だった。レンたちと行動を共にしたのも、目的が重なったからに過ぎない――少なくとも、本人はこれまでそう言い続けてきた。
「今すぐ王都を出るって話じゃないよね?」
アイリが確認した。
「もちろん違う」
院長が答える。
「出口も決まっていない。全員の傷も、まだ旅に耐えられる状態ではない。ただ、逃げ道が見つかってから『お前はどこへ行く』と聞いていたのでは遅い」
「白環に残る人もいる」
「当然だ」
「患者も全員同じ道では動かさない」
「それも変わらない」
ガリックは椅子に深く座ったまま、杖へ手を添えた。
「俺は残る」
あまりに早く返ってきた答えに、アイリが彼を見る。
「もう決めてたの?」
「決めるほどの話でもない」
「どうして?」
「俺の話は王都にある」
「セインさんたち?」
「ああ」
「ロウも?」
ガリックは少しだけ黙った。
「それもある」
ミレナが机越しに彼を見る。
「『それも』?」
「何だ」
「今の答え、本当の理由を少し後ろへ隠したでしょう」
「情報屋は人の言葉を掘るのが趣味か」
「仕事」
「聞かれてないところまで掘るな」
「五つの約束の二つ目」
ガリックの眉が動いた。
「傷や痛みや疲労、恐怖を隠さない」
「怖いとは言ってない」
「だから聞いてる」
「俺を王都から追い出したいのか」
「まだ何も決めてない。あなたが本当に残りたいのかを知りたいだけ」
ガリックは返事をせず、少し離れた正門方向へ視線を向けた。厚い壁の向こうにあるはずの大盾も破城槌も、ここからは見えない。それでも、彼にはそこに立つ人間の姿まで見えているようだった。
「六年前」
やがてガリックが言った。
「俺が荷車を止めた時、全部を一人でどうにかできると思ってたわけじゃない。ただ、あそこで俺が止めなければ、誰も止めないと思った」
その言葉を遮る者はいなかった。ガリックは杖を握ったまま、六年前の出来事をもう一度自分の前へ並べるように続ける。
「四人を外へ出した。避難民を守った。結果は知ってるだろ。十二人のうち残りは連れていかれ、セインは死んだ。マラとリコも消えた。俺は免職されて、何年も何も変えられなかった」
「だから王都に残る?」
レンが尋ねた。
「ああ」
「今度は何を止めるんだ?」
ガリックがレンを見る。
「白環がまた襲われるかもしれない」
「かもしれない」
「ロウが戻るかもしれない」
「それもそうだ」
「別の荷車が通るかもしれない」
「うん」
「なら――」
「全部ここで待つのか?」
レンの言葉に、ガリックが黙った。
「六年前の荷車は動いてた。エドラス・フィンの空荷の記録も道を使ってる。七件の消えた貨物も、夜にまとめて精算された通行記録も、どこかからどこかへ動いてる。セインさんの家族が王都に残ってる証拠もない」
「同じ話だとは決まってない」
「分かってる」
「エドラスと俺の六年前を重ねるな」
「重ねてない」
レンは静かに答えた。
「だから言ってる。どの線も王都の中だけで終わってるとは分かってない」
ミレナが僅かに頷く。
「それは事実」
「俺が外へ出てる間に、またここで何か起きたらどうする」
ガリックの声が低くなる。
「俺がいない時に――」
そこで続くはずだった言葉を飲み込んだガリックを、アイリがじっと見つめた。
「それが怖い?」
ガリックはしばらく答えなかった。やがて、杖を握っていた手を一度開き、もう一度握る。
「ああ。王都を離れた間に、また誰かが連れていかれるのが怖い。白環で何か起きるのも、東門で何か起きるのも怖い。戻ってきた時に、『お前がいなかったから間に合わなかった』って自分で思うのが、一番嫌だ」
「今度はちゃんと言った」
アイリが言った。
「言わせたんだろ」
「二つ目」
「分かってる」
院長は少し離れたところから二人のやり取りを聞いていたが、そこで初めて口を挟んだ。
「ガリック」
「何だ」
「白環を守るために、お前が白環へ縛られる必要はない」
「正門は壊れてる」
「直す」
「包囲は終わってない」
「知っている」
「また撃たれたら」
「護衛がいる。治療師がいる。東門の者たちもいる。ここにいる全員が、自分で何を守るかを考えている」
「俺が残れば一人増える」
「残りたいなら止めない。ただし、『俺がいなければ白環は守れない』という理由なら認めない」
ガリックは院長を睨むように見た。
「厳しいな」
「患者へはいつもそうだ」
「俺は患者じゃない」
「杖を置いて十歩歩いてから言え」
返す言葉を失ったガリックの横で、アイリが小さく笑う。
「負けたね」
「笑うな」
「正しい方の味方だから」
「それも最近よく聞く」
◇
ガリックの答えをその場で求めることはしなかった。代わりに、院長はミレナへ向き直る。
「お前は?」
「何が?」
「聞こえていたでしょう」
「残るとも行くとも言ってない」
「だから聞いている」
ミレナは机の上の記録へ目を落とした。
「私は鴉よ」
「知ってる」
「誰かの一行へ所属して動く情報屋じゃない」
「それも知ってる」
「王都にはまだ調べるものが多い。救難信を盗んだ人間、七件の消えた貨物、黒封蝋、レヴィン・ハルトの受領確認が残る監査部向け資材、エドラスの荷車、六年前の黒い鳥の記録、旧使節区の名前、壁に刻まれた人たち。全部、まだ途中」
「全部王都だけの問題だと思ってる?」
レンが尋ねた。
「思ってない」
「じゃあ?」
「だからこそ、一人の方が動きやすい」
「一人で消えない」
アイリが言った。
「出た。最初の約束」
「王都を出たら終わるの?」
その問いに、ミレナは一瞬だけ言葉を失った。
「何が?」
「五つの約束」
「……白環にいる間の協力として決めたものよ」
「そんな言い方してた?」
「状況がそうだった」
「じゃあ、白環を出たら一人で消えていいの?」
「戻る場所と時刻と印を決めれば――」
「それ、約束を守るためじゃなくて、一人で動くための抜け道に使ってない?」
ミレナの目が細くなる。
「あなた、最近本当に面倒になったわね」
「褒めてる?」
「全然」
「じゃあ続ける」
「強い」
「五つの約束、終わらせたい?」
今度はミレナが答えなかった。アイリは急かさず、傷の残る両手を膝の上へ置いた。右肩もまだ完全には戻っていない。それでも、その表情に迷いはなかった。
「私は終わらせたくない」
「理由は?」
「便利だから」
「私の言葉を使った」
「便利な言葉は何度でも使うんでしょう?」
「覚えてたのね」
「それだけじゃないよ」
アイリはミレナを真っ直ぐ見た。
「一人で消えないって言われて、私は助かった。怖いって言っていいって分かったのも、人を数字にしないって決めたのも、分からないことを勝手に答えにしないって何回も止めてもらったのも。白環を出たら全部終わりって言われるのは嫌」
「約束が好きなの?」
「一緒に守る人がいるのが好き」
ミレナの表情から、いつもの薄い笑みが少し消えた。
「それ、私じゃなくてもいいでしょう」
「ミレナがいい」
「どうして」
「一番、分からないことを分からないって言えるから」
「それは褒められてる?」
「かなり」
「……その言葉まで返ってきた」
レンが小さく笑った。
「自業自得だな」
「あなたは黙ってて」
「何で俺だけ」
エリリアも僅かに微笑んだが、すぐにミレナへ視線を戻した。
「一つだけ、私も聞いていいですか」
「何?」
「あなたは、本当に一人の方が動きやすいから一人でいたいんですか。それとも、誰かと一緒にいることに慣れていないから?」
ミレナが目を瞬かせた。
「エリリアまで」
「嫌なら答えなくてもいいです。ただ、二つ目の約束に関わるなら、聞いておきたい」
「恐怖?」
「はい」
長い沈黙のあと、ミレナは椅子の背へ少し身体を預けた。
「……慣れてない。誰かと長く行動するのも、情報を共有したまま離れないのも。鴉は、一か所に巣を作らない方が安全だった」
「今も?」
「分からない」
「それでいいです」
「答えになってないのに?」
「今は」
ミレナはエリリアを見てから、少しだけ息を吐いた。
「あなたたち、本当に面倒」
「知ってる」
アイリが即答した。
◇
話はいったんそこで途切れた。書類整理を続けていた白環の事務職員が、資料室から新しい記録を持って中央回復室へ入ってきたからだった。
「昨日探していた換気格子の件です。修繕記録の別綴りに、施工位置の追記がありました」
それまで仲間になるかどうかを話していた中央回復室の意識は、すぐに調査へ戻った。ミレナが受け取る前に、職員は原本を机の中央へ置く。追加の保全要請が出ている以上、誰か一人だけが持ち歩かないという扱いは変わらない。
「年代は?」
「五年前。昨日確認した交換記録と同じ月です」
「記録番号は?」
「一致しています」
エリリアが現在の地図を近くへ寄せた。原本の追記欄には、昨日より少し詳しい位置が記されている。
『旧東側地下換気格子――東地区道路修繕詰所 資材置場東縁、旧排水設備境界』
レンが文字を追った。
「資材置場の東端」
「昨日の計算範囲には?」
ミレナが尋ねる。
「入っています」
エリリアが即答し、古図と現在地図を並べ、前日に地下で確認した分岐の位置と鉄管のおおよその方向を再び置いていく。
「かなり近いです」
「今度はどれくらい?」
ガリックが尋ねる。
「昨日より絞れます。地下で見つけた鉄管がこの換気格子と同じものなら、地上側は資材置場東縁か、そのすぐ近くに出ている可能性が高いです」
「同じものなら」
アイリが繰り返した。
「はい。位置と年代は合いますが、まだ直接繋がりを確認したわけではありません」
「今も格子が残ってるかも分からない」
「その通りです」
ミレナが記録の下へ視線を移した。
「ほかに何かある」
職員が頷いた。
「翌年の定期点検です」
『換気状態良好。格子固定具異常なし。資材置場側から清掃可能』
ガリックが顎へ手をやる。
「少なくとも四年前には、地上側から触れられる格子だった」
「そこまでは言える」
ミレナが答えた。
「今も同じ状態とは限らない」
「詰所の使用時間は?」
「通常は朝刻から夕刻前まで」
「それは昨日確認した」
「はい。ただ、今回の包囲中については記録なし」
「治安局が使ってる可能性も残る」
「残ります」
レンが地図を見つめる。
「じゃあ、地下から音を返すのはまだ駄目だな」
「自分で言えた」
ミレナが言う。
「もう四回目だからな」
「期待どおり」
「ただ――」
レンは鉄管の位置を示す印へ指を向けた。
「もし地上側が資材置場の東端なら、建物の中じゃない可能性は上がった」
「はい」
エリリアが頷く。
「でも、資材置場そのものに人がいる可能性はあります」
「分かってる」
「治安局が保全区域周辺の警戒に使っている可能性もあります」
「それも」
「だから、まだ接触しない」
「うん」
ガリックが記録へ目を落とした。
「出口にはならなくても、小さいものなら通せるかもしれんな」
「鉄管の太さなら」
「紙一枚」
レンが言う。
「丸めれば」
「それも地上側に誰がいるか確認してから」
ミレナが釘を刺す。
「分かってるって」
「最近先回りされるから、仕事が減って困る」
「いいことだろ」
「少し寂しい」
「嘘つけ」
「分かった?」
「顔で」
アイリが吹き出した。
◇
確認された内容は、推測と事実を混ぜないようその場で一つの記録へ整理された。
『東側旧整備場換気設備――五年前の交換記録及び翌年点検記録により、地上側設備位置は東地区道路修繕詰所資材置場東縁付近と記録。地下で確認した鉄製経路との位置・方向上の整合性あり。ただし同一設備であることは未確認。少なくとも四年前までは地上側から清掃可能な換気格子として維持。現在の残存状態、詰所利用状況、治安局配置はいずれも未確認。接触、音響試験、紙片等の挿入は実施せず。』
北市場第三保管庫とは異なる形で、白環は地上側へ何かを届けられるかもしれない場所を一つ得たことになる。ただし、こちらは人間が通れる経路ですらない。地下から上へ伸びる細い鉄管と、四年前までは地上から清掃できた換気格子。その二つが同一の設備である可能性が高まっただけで、地上側の現状については依然として何も見えていなかった。
院長が記録を閉じる。
「今日はここまでだ」
「地下へ行かない?」
レンが尋ねた。
「行かない」
「聞いただけ」
「それも最近多いな」
「確認大事だから」
アイリが横から言う。
レンは妹を見た。
「全部お前のせいだぞ」
「いい影響でしょ」
「たぶんな」
夕方が深くなるにつれ、正門側から入る報告も整理された。大盾の数に大きな変化はなく、破城槌も動かない。新しい矢も来ていない。北市場方面については直接観測を再開しておらず、前日の保全区域拡張がどこまで実施されたのかも分からないため、白環がまだ出られる状況にないことにも変わりはなかった。一方で、出口とは別に、この先を誰と歩くのかという問いだけは、これ以上答えを待たせる理由がなくなっていた。
ガリックが院長へ視線を向ける。
「さっきの話だ」
「残るか?」
「……いや」
アイリがすぐに顔を上げると、ガリックはそれを見て眉を寄せた。
「まだ何も言ってない」
「でも『いや』って」
「最後まで聞け」
「はい」
「俺は王都を出る」
その言葉を口にすると、ガリック自身が一番重く受け止めたようだった。
「六年前のことを捨てるわけじゃない。セインも、マラも、リコも諦めない。ロウのことも忘れん。ただ、ここに立って待つことだけが追う方法じゃないってのは……たぶん、その通りだ」
「たぶん?」
ミレナが尋ねる。
「うるさい」
「五つ目」
「分からないことを都合のいい答えで埋めない、だろ」
「覚えてる」
「だから『たぶん』でいい」
ガリックはレンを見る。
「条件がある」
「何?」
「この脚が戻るまで、前衛として数えるな」
「最初からそのつもりだ」
「盾を持てない時もある」
「分かってる」
「槌も振れん」
「戦えるから来てほしいんじゃない」
その言葉にガリックが黙ると、レンは相手の戦力ではなく、これまで一緒にいた時間を確かめるように続けた。
「俺たちが無茶しそうな時に止める人がいる。食料がなくなりそうなら先に気づく。道を見て、荷物を見て、誰を先に動かすか考えられる。六年前のことをずっと抱えてるのに、それでも知らない人を助ける」
「褒めすぎだ」
「本当のことだけ」
「五つ目を便利に使うな」
「便利だから」
ガリックが鼻で笑った。
「それに、俺も一人で何とかしようとする。アイリのことも、剣のことも」
「ああ。知ってる」
「その時、怒ってくれるだろ」
「面倒でもな」
「だから来てほしい」
ガリックは長く息を吐き、しばらくレンの顔を見た後、ようやく答えた。
「旅に加わる」
アイリの顔が明るくなる。
「正式に?」
「正式にだ」
「仲間?」
「それ以上言わせるな」
「仲間?」
「……仲間でいい」
「やった」
「騒ぐな。まだ歩けん」
「歩けるようになるまで一緒にいる」
「そういうところが重いんだよ、お前は」
「嫌?」
「少しな」
「でも来る」
「来る」
最後には、ガリックも僅かに笑っていた。
◇
ガリックの答えが決まれば、残るのはミレナだった。四人から一斉に視線を向けられた彼女は、露骨に嫌そうな顔をする。
「見ないで」
「まだ何も言ってないよ」
アイリが答える。
「全員が同じ顔してる」
「顔で決めるなって、お兄ちゃんもよく言ってる」
「今は決めてる」
「じゃあ聞く」
アイリは少し身を前へ傾けた。
「五つの約束って、王都を出たら終わる?」
ミレナは机の上に置かれた記録へ視線を落とした。七件の消えた貨物、黒封蝋の受領記録、六年前の荷車、『外・七』と書かれた黒い鳥の記録、旧対外使節区の十二本の公用連絡線、地下の壁へ並べられた意味の分からない人名。どれも繋がったとは言えない。だが、どれも王都だけを見ていれば終わるとも言えなかった。
「……旅の間も有効?」
ミレナが尋ねた。
アイリは迷わなかった。
「もちろん」
「一人で情報を取りに行く必要がある時は?」
「戻る場所、時間、印を決める」
「その場で予定が変わったら?」
「変わったって分かる印を残す」
「それも無理なら?」
「無理になる前に、一人で行くか決める」
「重大な取引が必要なら?」
「一人でしない」
「私しか相手と話せない場合」
「決める前に相談する」
「情報を全部話せない時は?」
「危険になることだけは隠さない」
「私が間違ってたら?」
「言う」
「信用できなくなったら?」
「それも言う」
「それでも一緒にいる?」
「それはその時、みんなで決める」
ミレナの口元に僅かな笑みが戻った。
「そこは『ずっと一緒』って言わないのね」
「五つ目があるから」
「分からない未来を、都合のいい答えで埋めない」
「うん」
「本当に面倒」
「知ってる」
ミレナは今度はレンとエリリア、ガリックを順番に見た。
「私は鴉をやめない」
「やめろとは言わない」
レンが答える。
「一人で動いた方がいい場面もある」
「あると思います」
エリリアも頷く。
「ただし、一人で消えることと、一人で仕事をすることは同じではありません」
「あなたまで上手くなった」
「何がです?」
「言葉で逃げ道を塞ぐのが」
ガリックが笑う。
「諦めろ。もう包囲されてる」
「治安局より厄介」
「比較するな」
ミレナは最後にアイリを見た。
「私が旅に加わったら、あとで後悔するかもしれない」
「するかも」
「否定しないんだ」
「ミレナも後悔するかもしれない」
「それはかなり高い」
「でも今は?」
すぐには答えが返らなかった。ミレナは四人の顔を一度ずつ見て、いつものように曖昧な笑みで逃げることも、別の話へ変えることもしないまま、やがて小さく息を吐いた。
「……旅に加わる」
アイリが目を丸くする。
「もう一回」
「聞こえたでしょう」
「ちゃんと聞きたい」
「面倒」
「知ってる」
「レン、アイリ、エリリア、ガリックと一緒に王都を出る。目的が重なる間だけ、とは言わない。今は旅に加わる」
「正式に?」
「正式に」
「仲間?」
「そこまで言わせるの?」
「ガリックも言った」
「巻き込むな」
「仲間?」
ミレナは片手で額を押さえた。
「……仲間になる」
アイリが笑った。
「よし」
「何が『よし』なの」
「逃げなかった」
「今からでも考え直せる?」
「重大な決定だから、一人で変えないで」
「もう使いこなしてる」
「便利だから」
レンとガリックが同時に笑った。
◇
その夜、五人は新しい約束を作らなかった。五つのままでよかった。一人で消えない。行動へ影響する傷、痛み、疲労、魔力の消耗、恐怖を隠さない。命、身柄、自由、大事なものを差し出すような重大な決断を一人でしない。人を数字だけに戻さない。そして、分からないことを都合のいい答えで埋めない。白環を守るために作った約束を、今度は旅の途中でも守る。ただそれだけを、五人で確認した。誰も手を重ねず、名前を書いた誓約書も作らない。血も使わなければ、魔力も必要なかった。
「じゃあ、五人だね」
アイリが言った。
「前から五人だったでしょう」
ミレナが返す。
「違うよ。前は、王都にいる間だけだった」
その言葉には誰もすぐに答えなかったが、少ししてガリックが先に口を開いた。
「……もう違うな」
レンは左手で首元のロケットへ軽く触れた。黒銀剣はまだ四つの封印の向こうにあり、正門の外には治安局がいる。北市場第三保管庫は使えず、東側旧整備場への点検路も煉瓦で閉ざされている。どこかへ続く細い鉄管についても、地上側にあった換気格子の位置がようやく絞れただけだった。
王都を出る道は、まだ見つかっておらず、いつ出られるのかも分からない。それでも、その道を見つけた時に誰と歩くのかだけは、もう決まっていた。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
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