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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第二章 王都の闇
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第二章 第四十四話 地図から消えた整備場

北市場第三保管庫を一時使用停止とした翌朝、白環治療院の包囲には目立った変化がなかった。割れた正門の外には治安局の大盾が並び、鉄帯を巻いた破城槌も撤去されず、高所の弓兵もそれぞれの位置に残っている。夜のあいだに新たな射撃や門への打撃は確認されなかったが、だからといって包囲が緩んだと判断する者はいない。前日に届いた『東地区一時保全区域拡張通知』によって北市場第三保管庫を含む複数の市有施設が新たな保全対象となり、白環がようやく得た地上側の観測点は、自分たちの判断で閉じられていた。黒銀剣は武器保管庫で四者の封印を受けたまま動かされず、銀縁のロケットもレンの首から離れていない。


 中央回復室の机には、前夜のうちに整理された三枚の図面が並べられていた。一枚目は現在の王都東区、二枚目は旧対外使節区がまだ使われていた時代の地下設備図、三枚目はそこからさらに後年に作られた市営設備の改修図である。北市場第三保管庫へ続く線にはすでに二本の斜線が引かれており、その少し東には、古い図面にだけ『東側旧整備場』という文字が残されていた。


「今日はここから先へ行かない」


 院長が最初に言った。


 レンは図面を見たまま頷く。


「まず紙」


「昨日覚えたばかりだからな」


 ガリックが椅子に座ったまま言う。


「今度は言われる前に分かった」


「成長が早い」


 ミレナが木炭筆を持ち上げた。


「褒めてる?」


「かなり」


「その言い方、昨日から便利に使ってないか?」


「便利な言葉は何度でも使うの」


 アイリが小さく笑う。


「でも、お兄ちゃんが『行けば分かる』って言わなかったのは、本当に進歩だと思う」


「お前まで」


「褒めてるよ」


「なら受け取っておく」


 軽いやり取りが収まると、エリリアが古い地下設備図を現在の街路図の横へ置いた。風の魔力は使わず、交差点の形、旧水路、現在も位置の変わっていない石造建物、道路幅といった変化の少ない基準だけを頼りに、二つの時代の地図を照らし合わせていく。


「まず確認したいのは、地下へ行けるかどうかではありません」


「地上が今どうなってるか」


 アイリが答える。


「はい。旧整備場そのものが残っているのか、別の施設になっているのか。人がいる場所なら、下から開けられる構造だったとしても勝手には触れられません」


「北市場第三保管庫と同じだな」


 レンが言う。


「同じ失敗はしない」


「まだ失敗とは言わない方がいい」


 ミレナが訂正した。


「保管庫は使えたし、必要な情報も取れた。今は危険が上がったから止めた。それだけ」


「じゃあ、同じ危険を繰り返さない」


「それならいい」


 ◇


 旧整備場に関する記録は、一つの棚へまとめられてはいなかった。古い道路台帳には土地の名称があり、市営設備一覧には建物の用途があり、後年の造成記録には敷地の一部だけが別番号で記されている。地下設備図に残る名称と現在の地上施設を直接結びつける資料は見つからず、ミレナたちはまず年代順に紙を並べるところから始めた。


 最も古い記録では、東側整備場は東部旧溢水幹線や周辺道路の補修に使う資材を保管し、作業員が工具や交換用の鉄具を置くための場所だった。地下には点検階段が設けられ、旧水路の東側設備へ降りられたことも記されている。


「ここまでは問題なし」


 ミレナが言う。


「整備場があった。地下階段もあった」


 その次に見つかったのは十一年前の記録だった。


『東側整備場 常設運用終了』


 理由として記されているのは、東市場周辺の道路拡幅と市営設備再編。資材保管の大部分を別の倉庫へ移し、旧整備場の敷地を段階的に縮小するという内容だった。


「消えたのはこの頃?」


 アイリが尋ねる。


「名称としては、まだ残ってる」


 ミレナが次の紙を出した。


 九年前の道路改修計画には『旧東側整備場跡』という名称が残されている。ところが、七年前に作られた新しい街区図からは、その文字が完全に消えていた。


「土地そのものがなくなったわけじゃない」


 エリリアが図面を見比べる。


「道路が広がって、敷地の西側が削られています。残った東側は、別の市有地へまとめられているようです」


「今の何になる?」


 レンが尋ねた。


「まだ分かりません」


「またそれか」


「嫌?」


 ミレナが尋ねる。


「もう慣れた」


「いい傾向」


 さらに記録を探すと、道路拡幅工事の完了報告に、旧整備場の地下について短い記述が見つかった。


『旧地下点検階段 上部撤去及び埋戻し完了』


「埋めた」


 ガリックが言う。


「これだけ見れば」


 ミレナがすぐに続ける。


「これだけなら、地上から地下へ降りる階段は使えなくなったと読むのが自然」


「上部撤去って書いてある」


 アイリが紙を覗き込む。


「全部じゃない?」


「そこが少し気になる」


 エリリアが答えた。


「『地下点検階段を埋戻し』ではなく、『上部撤去及び埋戻し』です。どこまで埋めたのかは、この一文だけでは分かりません」


「階段全部を埋めた可能性もある」


「あります」


「上だけの可能性も?」


「あります」


「どっち?」


「まだ決めません」


 ミレナが言った。


「工事図面を探す」


 ◇


 工事図面そのものは見つからなかった。代わりに残されていたのは、七年前の道路改修に使われた資材数量表と、完成後の市有地管理台帳だった。埋戻しに使われた土砂量は記されているものの、地下階段全体を塞ぐのに十分だったかを判断するには、元の階段容積や埋戻し範囲が分からない。


「ここで数字を都合よく使うのは禁止」


 ミレナが先に言った。


「まだ何も言ってない」


 レンが返す。


「顔が計算し始めてる」


「また顔?」


「分かりやすいのよ」


 エリリアは別の資料を開いた。


「ただ、階段が完全に使えなくなった可能性が高いという扱いは変えない方がいいと思います。今ある記録だけを見るなら、それが一番自然です」


「じゃあ候補から外す?」


 アイリが尋ねた。


「まだ」


 ミレナが答え、別の薄い点検簿を差し出した。


「理由はこれ」


 道路拡幅工事が終わってから二年後、市修繕班が残した点検簿。その中に一行だけ、現在の記録とは噛み合わない記述があった。


『旧東側地下点検部 湿気増加確認。換気口周辺清掃』


 レンは二度読み返した。


「地下点検部」


「うん」


「埋めた後?」


「道路拡幅工事完了から二年後」


「なら残ってた?」


「何かは」


 ミレナは慎重に答えた。


「でも、『旧東側地下点検部』がさっきの階段と同じ地下空間だとはまだ決めない」


「名前が同じ場所っぽいけど」


 アイリが言う。


「古い設備名は広い範囲を指すことがある。階段が塞がれていても、その下の水路や別の点検室が同じ呼び方で残っていた可能性もある」


「後から掘り直した可能性は?」


 レンが尋ねる。


「ある。でも、それを示す工事記録は今のところない」


「書類が間違ってる可能性」


「ある」


「埋戻しが上だけだった可能性」


「ある」


「別の地下室」


「ある」


 レンが溜息をついた。


「可能性ばっかりだな」


「選べるだけ増えたってこと」


「それを前進って呼ぶんだろ」


「覚えたじゃない」


 ◇


 その後に見つかった一枚の記録が、調査をもう少しだけ前へ進めた。それは五年前の資材交換記録で、『東地区市営設備 地下換気格子一基交換』と記されていた。場所欄には現在の街区番号が記され、備考欄には『旧整備場跡東側』とある。


 エリリアが現在の街路図へ番号を落とした。


「位置はこの辺りです」


 指先が示したのは、古い整備場の東端より僅かにずれた場所だった。


「地下階段があった位置と同じ?」


 レンが尋ねる。


「完全には重なりません。古い道路幅を現在の地図へ合わせると、どうしても誤差が出ます」


「どれくらい?」


「建物一軒分まではいかないと思います。でも、数歩で済むとも言えません。道路拡幅で基準線そのものがずれています」


「換気格子があるなら、地下空間は残ってる」


 ガリックが言った。


「少なくとも五年前には、空気を通す必要のある何かが地下にあった」


 ミレナが頷く。


「そこまでは言える」


「人が通れる?」


「言えない」


「白環からの水路と繋がる?」


「言えない」


「今もある?」


「言えない」


「換気格子が残ってる?」


「言えない」


 レンは片手を上げた。


「はいはい。もう分かった」


「本当に?」


 アイリが楽しそうに聞く。


「お前まで確認するな」


「確認大事」


 ガリックは五年前という年代を見て、僅かに表情を変えた。


「俺の件と近いな」


 ミレナの目が彼へ向く。


「六年前」


「ああ。道路工事が終わった翌年くらいか」


「それだけ?」


 ガリックは少し黙った後、頷いた。


「それだけだ。六年前に俺が東街道で護送車を止めた。その少し後、この辺りで地下換気格子の交換があった。今はそれ以上じゃない」


「うん」


 ミレナは別の欄へ短く書いた。


『六年前の東街道護送事案と時期的近接あり。関連未確認。』


「並べるだけ」


「重ねない」


 ガリックが答えた。


 ◇


 次に確かめる必要があったのは、旧整備場跡の地上が現在どう使われているかだった。


 古い街区番号を現在の市有地台帳へ置き換えると、旧整備場跡の東側は、今では『東地区道路修繕詰所及び資材置場』として登録されていた。


「現役?」


 アイリが尋ねる。


「登録上は」


 ミレナが答えた。


「ただし常駐人数までは書いてない」


「誰か住んでる?」


「住居ではないみたい」


「働いてる人は?」


「いる可能性は高い」


 その話を聞いたラウルが、少し離れた治療区画から声を掛けた。


「東市場の裏手にある修繕詰所なら、見たことはある」


「今の場所と同じ?」


 ミレナが現在地図を見せる。


 ラウルはしばらく位置を確認した。


「たぶんここだ。石造りの小さい建物と、柵で囲われた資材置場がある」


「治安局の施設?」


「違う。俺が知る限りは市修繕班だ」


「治安局が常駐する?」


「少なくとも、俺が巡回してた時は見たことがない」


「今回の包囲で使われてる可能性は?」


「知らない」


「保全区域に入ってる?」


「通知を見せて」


 施設一覧を確認したが、『東地区道路修繕詰所』という名称は記載されていなかった。


「入ってない?」


 アイリが尋ねる。


「名前では」


 ミレナが答えた。


「でも通知には、周辺移動を現地判断で制限する場合があると書かれてる。施設そのものが対象外でも、安全とは言えない」


「人が働いてるなら、下から急に床を開けるのも駄目」


 アイリが言った。


「もちろん」


 エリリアが頷く。


「もし地下から繋がっていたとしても、現在の地上利用と内部の位置関係が分かるまでは開けません」


「夜なら人がいないかも――」


 レンはそこまで言いかけ、自分で言葉を止めた。


「……いや。『行けば分かる』は無しだった」


 ミレナが僅かに笑う。


「覚えるの早くなった」


「昨日、散々言われたからな」


「夜だから無人とも限らないし」


 アイリが続ける。


「そう。確認してないことを勝手に安全へ変えない」


「分かってる」


 レンは地図へ目を戻した。


「まず、地上の使用時間と出入りする人を紙で探す」


「その前に、もう一つ」


 エリリアが古い地下図を指した。


「白環側の経路と、本当に接続する可能性がある位置を絞る必要があります」


 ◇


 旧水路の図面を改めて重ねると、東側旧整備場へ続いていた点検階段は、白環から直接伸びる一本の通路ではなかった。旧水門の先、壁面人名記録を確認した区画よりさらに東へ進み、旧対外使節区の地下設備と交わる可能性がある地点から、一度北東へ枝分かれする形になっている。


「前に行ってない場所?」


 アイリが尋ねた。


「はい」


 エリリアが答える。


「壁の名前を確認した時も、旧対外使節区の地図を重ねた時も、現地ではそこまで進んでいません」


「分岐が本当に残ってるかも分からない」


「そうです」


「塞がれてる可能性は?」


「高いと思います。古い改修図では、この周辺でも何度か配管が変更されています」


「じゃあ、地上だけ調べても意味ない?」


「両方必要です」


 エリリアは現在地図と古図の間へ指を置いた。


「上が安全でも下が繋がっていなければ使えない。下が繋がっていても上に人がいるなら勝手には開けない。だから、どちらか一方だけ分かっても足りません」


「それなら次に現地へ行くとしても、地上出口を探すためじゃない」


 レンが言った。


「まず分岐が残っているかを見る」


「そこまでです」


「見つかっても開けない」


「はい」


「また手前で止まる」


 ガリックが言った。


「慣れてきたな」


「俺たち、進むより止まる方が多くないか?」


「止まれるようになったから、ここまで来れてるんだろ」


 レンは返す言葉を探したが、結局何も言わず、図面へ視線を戻した。


 ◇


 昼を過ぎた頃、書類整理を手伝っていた白環の事務職員が、もう一枚の通知を持って中央回復室へ入ってきた。


「市有設備関連の記録について、治安局から追加の保全要請が来ています」


 ミレナが顔を上げる。


「押収?」


「まだ違います。該当する市有設備資料について、所在と保管責任者を提出するように、という内容です。必要があれば後で原本確認を行うと」


「対象は?」


「東地区の道路、水路、旧市場設備。かなり広いです」


 机に並べられている資料の多くが該当していた。


「持っていかれる?」


 アイリが尋ねる。


「今すぐではない」


 院長が通知を確認する。


「だが原本確認を求められれば、こちらが自由に見られなくなる可能性はある」


「隠す?」


 レンが尋ねた。


「しない」


 ミレナが即答した。


「隠したら、それこそ監査妨害の材料を渡す」


「じゃあ今のうちに覚える?」


「覚えるだけじゃ足りない。合法的に見られる間に、必要な箇所を整理して控える」


「全部写す?」


「全部はしない。必要な事実だけ」


 ミレナは新しい紙を出した。


「資料名、年代、該当箇所、何が書いてあったか。推測は別欄。原本を動かさない。書き込みもしない」


「前の記録と同じ」


「そう。見られなくなってから『何か大事なことが書いてあった気がする』じゃ困るから」


 作業は急いだが、慌てなかった。『東側整備場 常設運用終了』『旧地下点検階段 上部撤去及び埋戻し完了』『旧東側地下点検部 湿気増加確認。換気口周辺清掃』『東地区市営設備 地下換気格子一基交換』という四つの記録を、それぞれ別の資料から得られた事実として写し、年代を並べたうえで、最後にミレナが現在まで確実に言える範囲だけを一つの記録へまとめた。


『東側旧整備場――地上施設は廃止後、道路拡幅及び市有地再編により旧名称消失。旧地下点検階段には上部撤去・埋戻し記録あり。ただし後年、旧整備場跡東側付近における地下点検部及び地下換気設備の維持記録を確認。少なくとも後年まで何らかの地下空間が残存していた可能性あり。人員通行可否、白環側旧水路との現存接続、現在の地上施設との位置関係、現時点での利用状況はいずれも未確認。』


 アイリが最後まで読み終えた。


「長い」


「昨日も聞いた」


「でも、これは短くしない方がいいね」


「成長したわね」


「褒めてる?」


「かなり」


「それ、私も使おうかな」


「使用料を取る」


「高そう」


 レンが二人を見て苦笑した。


「そこ、仲良くなってないか?」


「なってない」


 二人の声が重なり、ガリックが小さく笑った。


 ◇


 夕方までに、東側旧整備場についてその日にできる調査は終わった。誰も地下へ入らず、地上へ様子を見に行く者もいなかった。白環の周囲では治安局の大盾も破城槌も高所の弓兵も残り、包囲は続いている。北市場第三保管庫も使用停止のままで、そこが治安局に実際に確認されたのかどうかさえ分かっていない。


 それでも、朝まで地図の上に名前だけ残っていた場所は、少しずつ形を持ち始めていた。十一年前に常設運用を終え、道路拡幅で敷地を失い、七年前には現在の地図から名称そのものが消えた整備場。地下階段は埋め戻されたと記録されている一方、その後も湿気を確認され、換気格子を交換する必要のある何らかの地下空間が残っていた。


 それが白環へ続く道なのか、人が通れるだけの大きさを持つのか、現在も残っているのか、地上から開けられるのか。そのどれもまだ分からない。ただ、「埋められて消えた」という一枚の記録だけでは終わらないことだけは確かになった。


 エリリアは古い地下設備図と現在の街路図を並べたまま、二つの位置へ小さな印を置いた。一つは白環側からまだ確認していない東寄りの分岐候補。もう一つは現在の東地区道路修繕詰所付近に残る、五年前の地下換気格子の位置である。


「次に必要なのは四つです」


 エリリアが言う。


「地上の詰所が今どの時間に使われているか。今回の保全区域拡張で周辺警戒がどう変わっているか。白環側の地下に古い分岐が本当に残っているか。そして、換気設備の記録がその分岐と同じ地下空間を指しているか」


「全部分かるまで出口にはしない」


 レンが言った。


「出口どころか、道とも呼ばない」


 ミレナが訂正する。


「まだ候補」


「分かってる」


「確認しただけ」


 アイリが笑った。


「お兄ちゃん、今度は先に言われた」


「もう好きにしてくれ」


 院長は机の資料を閉じ、原本を元の保管場所へ戻すよう事務職員へ指示した。必要な事実は控えたが、資料そのものを隠したり持ち出したりはしない。


 レンは最後に現在の街路図へ目を落とした。そこには『東側旧整備場』という文字はどこにもなく、道路修繕詰所と資材置場、新しく広げられた街路だけが記されている。かつて地下へ下りる階段があったことなど、現在の地図だけを見ている者には想像することもできない。


 それでも古い紙を隣へ置けば、消えた名前の下に、まだ確かめられていない空間が残っている可能性だけは見えてくる。地図から消えたことと、そこに何も残っていないことは、同じではなかった。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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